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Vol.67 , No.2(2019)086藤本 晃「縁起は同時でも異時でもなく無間」

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Academic year: 2021

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全文

(1)

縁起は同時でも異時でもなく無間

藤 本   晃

1

.縁起は同時か異時か

釈尊の縁起説は,無明から老死に至る十二因縁に示されるように,諸現象,特 に心身が生滅を繰り返す絶え間ない因果関係を説明している.その縁起が同時か 異時かについて,現代の学界でまだ結論が出ているとは言えない. 一方では,縁起を,時間的経過を前提とする「異時」の因果であると見る. 十二因縁が,生命,特に人間の認識過程の連続を,さらに生,老死,そして再生 という過去世から今世を経て来世に至るまでの生涯の変化を時間経過的に描写し ているからである.他方,現代の学界に,縁起説は現象相互の相依関係を説く 「同時」の相依性をも表すと見る見解がある1) しかし,縁起について,経典では同時とも異時とも言われていない.縁起は同 時/異時の尺度で語れるものなのであろうか. 本論では,まず,縁起を同時的相依関係と見る見解を排す.次いで,従来の, 三世にわたる縁起について,各支が「異時」に生滅しているのでもないことを明 らかにする.そして,同時でも異時でもなく,しかも瞬時も止まることのない生 滅因果の連続が,どのように表現されれば適切なのか提案する. 2

.縁起は同時ではない(縁でもない)

縁起を「同時」的相依関係と見る説の代表は,「相応部」の「蘆束経」に対す る現代学界の解釈であろう.「蘆束経」では,最初の無明と行を除く十支の因縁 を老死から って説く中で,最後に「名色は識に縁ってある」と示す一方,「識 は名色に縁ってある」とも説き,名色と識が相依関係にあるようにも読める.さ らにその意味が,二つの蘆の束が互いに相依って立つ状態に譬えられる. 友コッティタよ,名色は自作にあらず.名色は他作にあらず.名色は自作にして他作 なるにもあらず.名色は自作ならざるにも,他作ならざるにも,無因にして生じるにも

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あらず.識に縁って名色ありna kho āvuso Koṭṭhita sayaṃkataṃ nāmarūpaṃ na paraṃkataṃ nāmarūpaṃ na sayaṃkatañca paraṃkatañca nāmarūpaṃ na pi asayaṃkāram aparaṃkāraṃ adhicca samuppannaṃ nāmarūpam api ca viññāṇapaccayā nāmarūpan ti.……

友コッティタよ,識は自作にあらず.識は他作にあらず.識は自作にして他作なるにも あらず.識は自作ならざるにも,他作ならざるにも,無因にして生じるにもあらず.名色 に縁って識あり.……

たとえば,友よ,二つの蘆の束がお互いに他に縁って立つがごとし.まさにかくのごと く,友よ,名色に縁って識あり.識に縁って名色あり.名色に縁って六処あり.六処に よって触ありSeyyathāpi āvuso dve naḷakalāpiyo aññam aññam nissāya tiṭṭheyyuṃ. Evam eva kho āvuso nāmarūpapaccayā viññāṇam viññānapaccayā nāmarūpam. Nāmarūpapaccayā saḷāyatanaṃ. Saḷāyatanapaccayā phasso. (SN 2.114. 以下,原典はすべてPTS版) 蘆は束になっても単独では立てず,二つの蘆束が相依り合うことによって立 つ.それゆえ,その様子に譬えられる識と名色の縁起とは,二つの要素が「同 時」に「相互に依存」しつつ成り立つことを指すのではないかと考えられたので あろう.しかし,譬えのもとになっている識と名色を二つの別のものだと考えて しまうと,縁起を因果関係ではなくお互いに縁り合う「縁」の関係と捉えてしま うことになるのではないか. 現象が絶え間なく生滅する「因果」の連続は,パーリ聖典では「縁起」と表現 され,「因果hetu-phala」という表現はおよそ見られない(藤田1978: 85).また,果 phalaはほぼ沙門果の意味でのみ使われている(藤田1978: 120).沙門果は,一旦そ の果報に達すれば二度と退転しないので,果と呼ぶに相応しい.すなわち,聖典 では,一つ一つの因果関係を固定的に示すような誤解に堕しかねない「因果」と いう表現を避け,絶え間ない因果の連続を「縁起」と表現したと考えられる. 縁起とは,上の引用文に見られるように十二支を互いに繋ぐときは「Aに縁っ てpaccayā B」と示される.後のアビダルマ哲学では,果を生じる直接の因と別 に間接的な要因「縁paccaya」という外部の要素もさまざまに論じられるように なった.その場合も「縁起」とは,絶え間なく生滅する諸現象の因果の連続で ある.「縁起」の縁は,後に因から分立した「縁・条件paccaya」ではなく, 「縁ってpaṭicca(paccayā)」であり,因果関係を示す言葉なのである.「此縁性

idapaccayatā」の縁paccayaも,条件の縁ではなく副詞的奪格paccayāと見て,「こ れに縁ってあること」と理解すべきであろう.

さて,ここで譬えに出された二つの蘆束は,それぞれ別々の因果で成り立って いる別々の蘆束である.両者が相依って立つのは,因果関係によるものではなく

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お互いに他者の「縁・条件」になっているのである.しかし,縁起は「縁」の関 係ではなく因果関係である.二つの蘆束に譬えられた識と名色をお互いの「縁」 と見るならば,両者はたしかに同時に存在しているが,それは「同時の縁起」を 意味するのではなく,「同時に(他者同士がお互いに)縁になっている」と言うしか ない.これでは縁起の説明ではなく「お互いさま・おかげさま」などの「ご縁」 の説明になってしまうのではないだろうか. 原因が結果と同時に存在すると見ることは,龍樹が『中論』第二十「因果」第 七偈で「『生む者[因]と生まれる者[果]が同時に存在する』と主張する誤 に陥る」と断じているように,論理的に成り立たない.識と名色が「同時」に 「相依関係」にあるならば,それは縁起=因果ではなく,縁と言わざるを得ない. 3

.因と果の逆転が起こっているのでもない

「蘆束経」では,識と名色がお互いに「縁ってpaccayāあり」と示されていた. 両者が同時に存在するのではないならば,識と名色の因果関係が時に逆転すると いうことだろうか. 識と名色を合わせた「五蘊」という視点から考えてみたい.色と名(受,想, 行2))の四蘊からなる名色に,第五の識を合わせて「五蘊」である.五蘊は,縁 起支では識と名色の二支に分けられ,しかも先に識が説かれ,「識に縁って名色 あり」と言われている.しかし,五蘊の順番で説明するならば,識と名色の順番 は以下のように説かれる(下線は筆者). 四大を因とし四大を縁として色蘊が知られる.触を因とし触を縁として受蘊が知ら れる.触を因とし触を縁として想蘊が知られる.触を因とし触を縁として行蘊が知られ る. 名 色 を 因 と し 名 色 を 縁 と し て 識 蘊 が 知 ら れ る nāmarūpaṃ hetu nāmarūpam paccayo viññāṇakkhandhassa paññāpanāya. (SN 3.101) 色蘊(身体)は物質であるから四大によって知られる.一方,受,想,行の名 蘊は,物質ではなく心のはたらき(心所)であるから,すべて触れることによっ て知られる.そして,以上の名色=四蘊に縁って五蘊の第五番目の認識が生じる ので,ここでは「名色を因とし名色を縁として識蘊が知られる」と言われてい る.これは五蘊の説明の順番である.十二因縁の「識によって名色あり」と逆に 説かれるのである. 説明が矛盾しているのではない.五蘊は,永遠不滅のアートマンではなく,絶 えず生滅変化を続ける現象である.色,受,想,行,識の五蘊の中で,識が縁っ

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て起こる「因」は何かと言えば,名色(色,受,想,行)と言うべきであろう.一 方,識が,物質と感覚作用などから成る名色,いわゆる「生きている身体」を形 成するので,十二因縁の順番では,「識に縁って名色あり」と示すことになる. 名色と識は,相互に因となり果となり,目まぐるしく生滅を繰り返して,いわゆ る「私の心身」を保っているのである. 「蘆束経」で「識に縁って名色あり」と示され,さらに「名色に縁って識あり」 とも示されているのは,両者が同時に存在しているのではなく,因果関係が逆転 するという意味でもない.因果は固定されたものではなく,絶え間なく因となり 果となって生滅を繰り返す縁起である.識と名色が相互に因となり果となって五 蘊として成り立っている中で,十二因縁の仕方で説明する場合は「識に縁って名 色あり」と言われ,一方,五蘊の仕方に沿って説明する場合は「名色に縁って識 あり」と言われる.どちらにしても,識と名色から成る五蘊がそれぞれ因となり 果となり,絶え間なく生滅し続けているのである.「蘆束経」では,識と名色が 相互に縁って生じていることを,両方の仕方で説明したと考えられる. 4

.では,縁起は異時なのか

同時と異時の問題に戻ろう.識と名色がお互いに「縁って生じる」,あるいは 十二支が次々と縁って生じるその仕方は「異時」なのだろうか. 「蘆束経」で否定されていた二つ目の例を見よう.識も名色も「他者が作った paraṃkataṃ(他作)」のでもない.すなわち,同じ文脈で言われている「識に縁っ て名色あり」も「名色に縁って識あり」も,それぞれ「他者が作った」,言い換 えれば「他から生じ」ているのではないということである.識と名色が「他」か ら生じるのでもないとはどういうことであろうか. ここで,「縁起」は「異時」に生じるとも言えなくなるのである.時間的な同 時/異時の問題は,そのまま現象の生滅の問題でもあるが,論理的に説明しよう とすれば,時間が実在するのではないこと,そして,現象の生と滅が時間的に同 時/異時で語れるものではないことを認めざるを得ない. その最適な解説は,龍樹の『中論』であろう.第二十章「因果」と第二十一章 「成壊(生成と消滅)」の考察で,因と果が,さらには生と滅が,時間的に同時で あることも異時であることも成り立たないと,さまざまに論破されている.「同 時」では因の中にすでに果があることになり,生の中にすでに滅があることに なってしまうので成り立たない.一方,「異時」ならば,「すでに滅して[何の影

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響力もなくなって]しまったものがどうして他のものを生じさせることができよ うか」と龍樹は論破する.それゆえ,縁起を異時と言うこともできない.

釈尊は「他作」を「因果異時」ではなく「断見」と表現している.

「誰かがおこない,他者が感受する」と[苦]受に悩まされている人にとって,カッサパ よ,[その人は]「苦は他作である」と説いて,かの断滅[見]ucchedaṃに陥ってしまう. Añño karoti añño paṭisaṃvediyatīti kho Kassapa vedanābhitunnassa sato paraṃkataṃ dukkhanti iti vadam ucchedan etam pareti. (SN 2.20)

何かが生じて滅し,その後で別の何かが生じるというならば,直後であったと しても,先に生じて滅したものと後から生じたものとの因果関係は,途絶えてし まうのである.直後に見えても,「一旦こちらが滅してから次が生じる」と考え るならば,そこに因果関係はなく,前後の現象はそれぞれ無関係で,断滅してい るのである. 「異時」とも言えない縁起のこのような性質を,どう理解するべきだろうか. 5

.時間は存在するのか

縁起が同時でも異時でもなければ,現にありありと生滅変化し続けている現象 は,いったいどのように縁起しているのだろうか. むしろ,同時とか異時などと時間が存在するかのごとく想定していることが間 違いではないのだろうか. 西に目を転ずれば,紀元前四世紀,ギリシャのゼノンが「飛ぶ矢は飛ばない」 などのパラドックスによって「運動」を否定したと言われる.「運動」には時間 と空間(距離)を必要とするが,ゼノンのパラドックスは,時間とは何か,空間 とは何か,時間・空間が存在すると言えるのか,その矛盾を突いたと言えよう. 龍樹もまた,仏教の諸行無常,すなわち諸現象の刹那生滅の視点から,『中論』 第二章「去来」で運動を否定する.現象はすべて瞬時に生滅するのだから,実体 の継続的な空間・時間移動が必要な「運動」は成り立たない.これはそのまま, 過去現在未来の「時間」を,そして運動に必要な「空間」をも成り立たないと斥 けるものである.実際,龍樹は『中論』第十九章で,時間を実在しないと斥けて いる.過去はすでになく,将来は未だない.現在は,現在時にあるはずの現象自 体が,瞬時に生滅する性質で実体としてあるのではないのだから,現在時さえも 成り立たない.我々が同時とか異時などと想定している時間は,本当は存在しな いのである.

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諸行無常と言われる諸現象の「刹那」生滅を,「現象が『瞬時に』生滅してい る」ということも,正確ではない.刹那は,時間の単位ということはできない. 刹那という「時間の経過」をどれだけ小さく設定しようとしても,無限に小さい 単位を想定できる.デデキントが百四十年も前に数字の無限性を明らかにしたよ うに3).すなわち,実際には「現在時」の長さを計測することができないどころ か,このくらいだろうと想像することもできない.それを刹那という言葉で示し ていると言えよう. 6

.縁起は同時でも異時でもなく無間

「蘆束経」に戻ろう.三番目に,現象は自他の両者から生じるのでもないとさ れている.これは,先に自作も他作も共に否定されているので分かりやすい. 最後に,現象は自からでも他からでもない無因にして生じるのでもないとされ る.因果法則を認めない無因論は,仏教から見れば邪見の最たるものである. では,自から生まれるのでもなく他から生まれるのでもなく,両方から生まれ るのでもなく,無因にして生まれるのでもない現象は,どうやって生まれるので あろうか.前の現象「に縁ってpaccayā」生まれるのである.現象は刹那生滅を 性質とするから,どの現象も「自」から生まれるとも「他」から生まれるとも言 えない.「自」や「他」などという確固たる実体ではないからである.もちろん, 過去のものとか現在のものなどという実体を一瞬でも成り立たせる時間も,実体 として成り立たない.ゆえに,縁起を同時とも異時とも言うことはできない.そ のぎりぎりの刹那生滅の連続を,自作/他作,常住/断滅,あるいは同時/異時 という「これらの両極論に近づくことなく,中によってmajjhena如来は真理 (dhamma法)を語る」(SN 2.20)と表現するしかない. しかし,同時/異時に関連してあえて「時間的に」縁起の仕方を語るなら,同 時でも異時でもなく「無間にanantaraṃ」と表現するのが最適ではないだろうか.

悟る瞬間のことが「無間に諸漏を尽くすanantarā āsavānaṃ khayo hoti.」(SN 3.96)

などと表現される.

もちろん,「無間」は因ではない.後の上座部のアビダルマで因から分別して 提示された二十四縁の一つ,また説一切有部でも四縁の一つとして説かれる「無 間縁(等無間縁)」である.同時でも異時でもない縁起の絶え間ない連続を「時間 的に」表すには,「無間」が唯一可能な表現だと考えられる.

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.あるいは「触に縁って受」

もう一例を挙げよう.

友よ,苦は「縁って生じる」と世尊は言われた.何に縁ってか.触に縁ってである. Paṭiccasamuppannam kho āvuso dukkhaṃ vuttaṃ Bhagavatā. Kiṃ paṭicca. Phassam paṭicca. (SN 2.33) 感受は突き詰めればすべて苦であるが,その苦受は何に縁って生じるかと言え ば,触に縁ってである.十二支にも「触に縁って受あり」が含まれている. じつは十二支の他の縁起支も,それ以外のすべての現象も,触れてはじめて (認識が)生じる.しかも,「『何か』と『何か』が触れて」などというと,すでに 生じている二つの別の現象同士の接触を想定してしまうことになり,それではお 互いに縁=条件であって因果関係にならない.受は触に縁って生じるのである. では,触と受は,同時に生じると言えるだろうか.異時に生じると言えるだろ うか.この,同時とも異時とも言えない目まぐるしい生滅の連続が縁起であると 言うべきであろう. 1)Cf. 藤田1978.平川1988.松本1989. 2)名は受,想,思,触,作意の五つの心所を指す.思,触,作意の三心所を行と見て, 名は識に至るまでの受,想,行と理解される.所縁に向かって屈曲namanaするから名 nāmaと呼ばれる.SN 2.3. Spk 2.16. Cf. 片山2014. 3)Cf. リヒャルト・デデキント(1888, 2013). 〈参考文献〉 藤田宏達 1978「原始仏教における因果思想」仏教思想研究会『仏教思想3因果』平楽寺書 店,83–124. 平川彰 1988「縁起思想の源流」『平川彰著作集1法と縁起』春秋社,271–558. 松本史朗 1989「縁起について―私の如来蔵思想批判―」『縁起と空』大蔵出版,11–97. 片山一良 2014『パーリ仏典第三期3相応部 因縁編I』大蔵出版. リヒャルト・デデキント(1888)2013『数とは何か そして何であるべきか』ちくま学芸 文庫,筑摩書房. 〈キーワード〉 縁起,因果,同時,異時,無間 (浄土真宗誓教寺住職・博士[文学])

参照

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