勝田俊輔・高神信一編『アイルランド大飢饉 - ジャガイモ・
「ジェノサイド」・ジョンブル』
(刀水書房,2016 年)
山根 徹也 はじめに 1840 年代なかば,北米,ヨーロッパの多くの地域で原生生物,ジャガイモ疫病菌 phytophthora infestans の病害(胴枯病)によるジャガイモの凶作が広がり,飢饉と食料価格高騰をもたらした。 その影響が最も甚大であったのがアイルランドであり,こでは特に多くの餓死者,病死者が出,ま たアメリカなどへの大量の移民が起きたために人口の著しい減少があったことはよく知られてい る。本書は,この有名ではあるが,意外にも日本においては今まで本格的な研究がほとんどなかっ たこのアイルランド大飢饉をテーマとした,8名の研究者による論考を集めることで多角的に検討 する意欲的な論集である。 本書は当然に,アイルランド史の研究,イギリスの近現代史研究全体にとって重要な貢献となる に違いない。また,本書は,アイルランド大飢饉がさし示すことがらが,近代世界の歴史に共通す る多様な,大きな問題群に関わることを明らかにしており,西洋史研究者だけではなく広く,世界 各地域を対象とし,あるいはグローバルな現象に関心を持つ近現代史研究者すべてにとって,示唆 的なものとなっていると思われる。同じ時期のプロイセン王国でジャガイモ凶作を背景に発生した 食糧暴動を研究した評者にとっても,本書はきわめて啓発的であり,また多くの問題をさらに考え させられるものである。また,いずれの論考も,それぞれの研究史把握を前提とした理論的な分析 であるとともに,史料の検討に基づく実証度の高い成果にもなっている。 本書の各章とそれぞれの著者は序言,あとがきを除くと以下のとおりである。 第1章「アイルランド大飢饉 - 概略と歴史認識」 勝田俊輔 第2章「大飢饉とアイルランド経済」 武井章弘 第3章「大飢饉とアイルランド政治」 勝田俊輔 第4章「古典派経済学とアイルランド大飢饉」 古屋弘幸 第5章「政府の救済策」 高神信一 第6章「チャリティと大飢饉」 金澤周作 第7章「大飢饉とアメリカ移民のナショナリズム」 高神信一書 評
第8章「インド一九世紀後半の飢饉の歴史像 - アイルランド大飢饉との関連で」 脇村孝平 第9章「一九~二〇世紀アイルランド文学と大飢饉」 ジェーン・オハロラン 第 10 章「大飢饉の歴史研究と二〇世紀アイルランド政治」 L・M・カレン 編者の一人,勝田が序章にあたる第1章においてことわっているように,筆者たちのあいだで「予 定調和なすり合わせも行っていない」(24 頁)とのことで,実際に微妙な,あるいは重要な見解の 差異が見受けられる。しかし,全体を通じて各論者が共有している論点と視角がある。 最も中心的な論点は,本書の副題に示されている「ジョンブル」と「ジェノサイド」の問題であ る。当時のイギリスは周知のように,ブリテンとアイルランドから成る連合王国であり,ブリテン がアイルランドを統治する体制となっていた。大飢饉について,アイルランド・ナショナリストの 側からは,それが「ジョンブル」すなわちブリテン政府が,アイルランド民族の根絶をねらって起 こしたものだとする「民族根絶」(ジェノサイド)説が語られてきた。このようなイメージに対し て本書は距離をとりつつ,あらためて大飢饉におけるブリテンとアイルランドの関係を検討するこ とを課題としている。 この問題に関係するのは,ブリテン政府の経済政策であり,また,ブリテン政府が実施する公的 扶助,ブリテン社会の側からの民間の扶助(チャリティ)であり,ブリテンが大飢饉において,は たしてアイルランド社会の救済に取り組んだのか,取り組みがあったとすればそれはどの程度かと いう問題が検討されている。 また,「民族根絶説」的な表象と言説は,19 世紀アメリカ合衆国におけるアイルランド人移民の あいだで広がり,またアイルランドにおけるナショナリズムと関わって今日に至るまで重要なもの でありつづけている。こうした歴史の記憶をめぐる表象,言説の問題を移民や運動の実態と関連さ せ,あるいは文学や史学史の場面での展開を見るという作業が行われている。 大飢饉の社会経済的実態の分析も当然に行われ,そこではあるいはアイルランド社会の階層や地 域の経済構造上の差異に留意した検討があり,また,アイルランドの例と比較してのインドの飢饉 の研究もあり,ローカルな次元からグローバルな次元に至るまでの幅広い視野からの検討が行われ ている。そしてここでも,ブリテン本国とイギリス帝国諸地域の経済的関係のありかた,すなわち 諸地域と「ジョンブル」の関係を問うという視点が共有されている。 このように「民族根絶説」という表象をめぐる問題が本書の焦点となって全体の凝集性を担保し ており,より本書を刺激的な,価値あるものとしている。ただそれだけに,筆者たちの見解と論理 にはさらに検討を要すると思われる面もまたある。以下,各章の概要を示してから,主要な論点に そった評価と問題点の指摘を行いたい。
1 各章の概要 第1章は「はじめに」とあわせて序章の役割を果たしており,アイルランド大飢饉の概要と,す でに見たように「民族根絶」言説を批判するところから出発して,上記のような本書の視角,そし て各章の論点を提示している。 第2章の著者武井は,社会経済史の観点から,大飢饉の背景となるアイルランド経済の構造と構 造変動を検討する。大飢饉の背景にまず,農村社会が食料供給をおもにジャガイモに依存していた が,これは小土地経営を前提として労働集約的な農業を可能としていたことが明らかにされ,大飢 饉におけるような病害に対しては弱点となっていたことが示される。次に,かつてはアイルランド ではリネン工業が農村に広がっていたのに対して,1830 年代以降,都市部,工業立地においてリ ネン工業の機械化による工業化が進行したのとうらはらに,広範な農村部では脱工業化が生じ,こ のことが大飢饉において大きな被害が生じたことの背景であったという結論が示されている。 第3章は社会運動史的な政治状況分析である。著者勝田は,大飢饉の時期にアイルランドのナショ ナリストの運動が貧農の動員と蜂起を試みたにもかかわらず,その行動がことごとく失敗に終わっ たのはなぜかという問いから出発し,運動の構造と実態を分析する。結論として著者は,かつての 定型的な説明,すなわち,飢餓状態によって民衆が蜂起に参加する活力を失っていたことを理由と する説明はあたっておらず,ナショナリストの運動が農村にはそもそも十分に浸透していなかった ことなどの要素から説明されるべきだとする。さらには,ナショナリズムの理念がブリテンからの 独立と民族の団結をめざすというナショナルな枠組みの中で構想されていたこと自体が,現実への 有効な対応を不可能にしていたというい問題を挙げている。ここにも著者の民族根絶説批判が含ま れている。 第4章は古典派経済学思想,第5章は,それと関連するブリテン政府の実際の経済政策を扱う。 第4章の著者古屋は,経済思想史研究の視角から,当時の古典派経済学者として N・W・シーニ ア,J・S・ミルの提示したアイルランド飢饉への対策案を検討している。シーニアは人口過剰論 に立って国外移民の推進を提案し,ミルもまた過剰人口論を前提とするものの解決策としては,自 作農創設をめざし,そのために政府介入をともなう荒地開墾政策を提案した。しかしながら,両者 の政府への影響力は無に等しく,これらの政策がとりあげられることはなかった。両者ともアイル ランドへの敵意はなく,小作人層などの状況改善をめざしていたことを指摘し,かつアイルランド にブリテン政府の自由放任政策が過酷な影響を与えたことは認めつつも,そこに古典派経済学者の 責任はほとんどないとしている。 そのブリテン政府のアイルランド救済政策を第5章において検討しているのが,編者でもある高 神である。大飢饉の時期にあったピールおよびラッセルの政権は,基本的には自由放任を政策基調 としていた。ジャガイモ凶作時にも,食料確保のためにアイルランドからの輸出を禁止することは
せず,臨時的に穀物輸入,公共事業拡大,スープ配給などの措置は行ったものの,このような措置 はすぐに中止され,アイルランド自身がアイルランドの救済を行うべしという原則から,救貧法に よる救済への切り替えが行われた。しかし,救貧法の規定が地主による農民追放を促すなどの副作 用もあった。全体として,ブリテン政府による公的支援はきわめて不十分であったことが結論にお いて示される。このようなブリテン側からの対策の評価については,本書著者のあいだでかなり重 要な齟齬があるように思われるが,この点はのちに論じる。 第6章では,ブリテンにおけるチャリティの歴史の研究で知られる金澤が,アイルランド大飢 饉にあたってのブリテンの民間社会の側からのチャリティの広がりを明らかにしつつ,ブリテンに とってのその意味を検討している。まず,この時期のチャリティの量の増大と内容上の成果から, 大飢饉にあたってブリテン側のチャリティは格段に増大したこと,また,実際に,ブリテン政府の 救済策の空白にあってチャリティは多くの困窮者を救う効果を持ったことが明らかにされる。ただ し,この「チャリティ熱」は臨時的なもので長続きせず,また,ブリテン側の過失を検討しようと しない,「与え手本位の傾向」があったことが示される。さらに,アイルランドのナショナリスト の側からチャリティ否定論が出されたことは,アイルランドは忘恩であるというブリテン側の認識 を生んだことが示され,20 世紀初めまでのブリテン側のイデオロギーに影響を与えた可能性を示 唆している。 第7章は,アメリカ合衆国におけるアイルランド系移民コミュニティにおけるナショナリスト組 織の運動を分析している。大飢饉以後のアイルランド系コミュニティでは,大飢饉を経験したアイ ルランド人が移民してきたことによって反英的な方向で急進化し,特に労働者階級のあいだでは, アイルランド独立を支持する運動がそれ以前よりも強まったことが,急進的な運動組織であるクラ ン・ナゲールなどの分析によって示される。1919 年から 1921 年にかけてのアイルランド独立戦 争の結果,アイルランド自由国が成立するのだが,高神は,「クラン・ナゲールすなわちアイルラ ンド系アメリカ人の活動がなければ,イースター蜂起とそれに続く独立戦争はなかったと断言でき る」(183 頁)と評価している。このことは,大飢饉の記憶がアメリカのアイルランド人コミュニティ において維持,増幅され,独立運動の支えとなったということを示唆している。 第8章では,インド史家脇村が,アイルランド大飢饉と 19 世紀後半のインドにおける飢饉を比 較することで 19 世紀の「グローバルなコンテキスト」における飢饉の問題を解明しようとしている。 二つの地域の飢饉の比較において確認されるのは,アイルランドではブリテン本国の比較優位によ る脱工業化が進んだことが飢饉の前提であり,インドでは農業経済と交通の発展がかえって低位の 階級が不利になる傾向を増していたことである。「環境史的コンテキスト」を見ると,アイルラン ドとインドには差異が認められるものの,「本国から周縁化された社会が被る不利益は共有するも のが」あるとする(202 頁)。次に飢饉対策から明らかになるのは,共通して,食糧市場への不介入・
レッセ・フェールの原則と,救済においては無償救済をなるべく少なくする「労働の対価としての 救済」の原則が取られたことであり,このような政策原則が飢饉の被害をより深刻化させたことで あった。ただし,公共事業の役割については 20 世紀への世紀転換期においては,現地の条件に即 したかたちで,違いが生じたことも確認されている。ともあれ,ここでは周縁と帝国本国の関係が 比較によって明らかにされているといえる。 第9章と第 10 章は,文学における表象および史学史のなかで大飢饉がどのように描かれ,とら えられてきたかを検討する,アイルランド人研究者の論考である。 第9章において著者オハロランは,19 世紀から 20 世紀にかけてのアイルランド文学において なにゆえ大飢饉を扱ったものが多くないのか,という問題に取り組んでいる。その最大の要因とし て著者が挙げるのは,文学者がたいていは英語を使用するプロテスタント中産階級の出身者であり, たいていがカトリックでアイルランド語話者であった大飢饉の被害者たちとは異なる人々であった ことである。しかし,この章において印象深いのは,例外的に大飢饉を扱いかつ成功した作品から の引用を通じて示される,生き生きとした表象である。 第 10 章は 2000 年に公刊された,ダブリン大学名誉教授カレンによる,アイルランド歴史学に おける大飢饉研究の史学史の論評である。カレンによれば,アイルランド歴史学においては 1860 年代以降,大飢饉は多く語られたが 20 世紀なかばには研究は少なく,同世紀末から再び多くなっ ている。そしてそのなかでは,ナショナリズムの立場からの「しばしば過度に単純化された見解」 (289 ~ 290 頁),他方ではこうした見解の単純さを正そうとする修正主義の双方とも,対英関係 とナショナリズム運動をどのように構想するかという政治の問題と結びついてきたのであった。 2 いくつかの論点について 以上のような本書諸論考は,いくつかの論点について焦点を結び,そのそれぞれについて重要な 視座を提供しており,読者にさらなる問題関心をかきたてている。以下それぞれの論点について所 感と疑問点を述べたい。 まず第一にブリテンと「周縁化された社会」(勝脇村)としてのアイルランドの関係のありかた である。帝国本国と従属地域,あるいは世界システムにおける中心と周縁の関係のありかたが,大 飢饉の惨事を深刻化させる要因であったという理解は,第8章において勝脇村が示しているが,第 2章の武井の論考も,アイルランドにおけるリネン産業の工業化の進行のなかでは,ブリテン産の 安価な亜麻糸がほぼもっぱら原料とされたために,在来の農村の亜麻紡績業が打撃を受け,かえっ て農村における広範な脱工業化が進んだことが示されている。また,第5章が検討するブリテン政 府の政策は,結局のところ自由放任を基軸としていたがために対策とはならなかった。こうした統 治のありかたも,アイルランドの周縁性をよく示すものといえよう。第6章の金澤によるチャリティ
に関する研究も,ブリテン側からのチャリティの「与え手本位」なありかたを示しており,チャリ ティの規模や与え手の主観的な真剣さは別として,関係の非対称性を別の角度からさし示すものと いえる。 この点で第1章における勝田の文章は,微妙にスタンスが異なるように感じられる。すでにふれ たように,勝田は,かつてナショナリストが唱えたような「民族根絶説」=「ジェノサイド」論的 の一面的な把握が成り立たないことを強調している。そのことと関連させて,たとえば,勝田は, アイルランドからの輸出禁止を行わなかったことが大飢饉の一要因であるとするアマルティヤ=セ ンを応用した飢饉についての先行研究についても,別の研究に依拠して否定的な評価を下してい る(23 頁)。しかし他方,同じく編者の高神はこの穀物禁輸の問題については逆方向の評価をして いる(129 頁)。民族根絶説に対して距離を取るという点では諸論考の立場は共通しているものの, ブリテンのアイルランドに対する政策のとらえかたには差異が見られるのである。もちろん各論考 が予定調和的に一致する必要はないのであるが,このあたりの交通整理をもう少し示すとより親切 だったのではないだろうか。 たしかにジェノサイド論的な見方は行き過ぎた偏見であろう。しかし,中心 - 周縁という関係か ら来る構造的な非対称性を問うことが重要であり続けるように思われる。ちなみに,穀物貿易につ いては,19 世紀前半のプロイセンにおける食料危機を研究したバスによれば,この時期のプロイ セン地方ではイギリスの穀物価格上昇に反応してこの地域からの穀物輸出が増大し,価格が上昇す る傾向がある(1)。19 世紀における世界諸地域とブリテンとの穀物貿易をめぐる関係を考えるさい には,こうした構造に十分に留意する必要がありそうに思われる。 なお,これに関連すると思われるが,第4章の古典派経済学の役割の評価のしかたについて結論 には納得しつつも,やや疑問が残るように感じた。古屋は,シーニアとミルという,いわば本格的 な経済学者の議論をとりあげ,ホイッグ政府に彼らの提案がとりあげられなかったことから,古典 派経済学が大飢饉に責任があるとする見解を退けようとしている。しかし,政府内の担当者のトレ ヴェリアンについてのハートの研究からのこの章における引用には,「彼の理論」が「こり固まっ てしまって」おり,彼の「分析と処方は単純でナイーヴに過ぎた」とある(118 頁)。これは,あ る経済学的イデオロギーの姿ではないだろうか。たしかに古屋の言うように,こうした当時の政治 家たちによる古典派経済学理解は正確ではないのかもしれない,しかし,これも広い意味での古典 派的なイデオロギーの一変種と見ることもできるのではないだろうか。19 世紀前半期,プロイセ ンの官僚のあいだでも経済政策を正当化するためにアダム・スミスへに言及がなされることが多 い(2)。そのような場合でも,たしかに歪んだかたちではあるかもしれないが,ある種の「古典派 経済学」の受容といえるのではないだろうか。 記憶と表象の問題もきわめて重要である。本書で示されたように,ナショナルなアイデンティティ
と,それをめぐる政治は,歴史の記憶・表象と密接に関わりあう。編者勝田が正しくも指摘するよ うに,歴史学もまたこの政治から自由ではありえない。この点で日本におけるアイルランド史研究 は,ナショナルな政治の呪縛から免れるという点で有利であるようであり,本書におけるバランス の取れた各論考もそのことを示しているように思われる。ただ,外国史研究者も別の次元の政治 - たとえばグローバルな経済連関をどのように評価するかといった - から免れ得ないし,自国におけ る記憶の問題 - カレンの論考には日本のケースへの言及がある(258 頁) - から逃れるわけにもい かない。もちろん史料への依拠,史料批判,論理整合性といった歴史学の共通のルールに基づきな がらも,どのような記憶を構築するのかという問題が必然的に歴史家の仕事にはまつわりつくので あろう。表象について,第9章の論考が示ているのは,少なくとも他者について理解しようとする 想像力が必要だろうということであるように思われる。歴史学の場合,それは犠牲者ばかりではな く,当時の為政者やその他のさまざまな同時代人についてもそうなのであろう。 最後に運動史の観点で学びえたことを挙げておこう。第3章の論考において勝田は,ナショナリ スト活動家と農村民衆の関係を分析し,両者の乖離に注目している。評者も運動分析においては, こうした複数性とズレ,差異に常に着目する必要があると感じている。すでにフランス革命史研究 では,ジョルジュ・ルフェーブル,柴田三千雄らによって「複合革命」論的な分析視角の有効性が 示されてきている。革命が起きた場合,そこでは異質な集団間の連携や対立が見られ,まさにそう した差異が運動の動態を規定する。第3章の場合は,なにゆえ集団間の連携が成立せず,いわば複 合革命がなにゆえ成立しなかったのかを明らかにするものと言えよう。この差異には社会経済的利 害や政治目標の違いがもちろん重要であるが,また,文化的な差異も大きな役割を果たすと思われ る。アイルランドの場合は使用言語の差異という問題もおそらくはあり,運動の局面においてそう した要因の意味を考えることも可能かもしれない。なお,論旨の核心には関わらないことではある が,この論考の中での食糧暴動の分析について小さな疑問が残った。勝田は,当時のアイルランド での食糧暴動の担い手が食糧購買者であるため,大飢饉の「直接の被害者」,すなわち農村の食糧 生産者ではない可能性が大きいとしている(67 頁)。しかし,食糧暴動参加者が購買者=都市住民 である場合には,彼らも食糧価格高騰の被害者ではある。彼らを「直接の被害者」から除外するこ とは適切なのであろうか。 第7章の高神の運動分析もたいへん興味深い。大飢饉が産んだ移民の波は,アメリカ合衆国とア イルランドのあいだの人的,財政的紐帯を生み出しており,それが大飢饉についてのナショナルな 記憶を増幅させ,また,アイルランド独立運動を強化する役割を果たしている。大量に移民があっ たアイルランド人のケースであればこそ明らかになる事態であろう。しかし,特に 19 世紀以降の 世界史は移民の時代であるといっても過言ではないのであるから,程度の差こそあれさまざまな局 面でこれと共通の問題が見つかる可能性がある。近年,グローバルな人の移動は以前よりも注目さ
れるようになってきているが,そうした研究の展開にも示唆に富む成果であろう。 むすび 以上,本書の歴史学,特に近現代史研究全体への貢献と思われることを数点にしぼって述べた。 また今後の研究の展開に役立てばと考え若干の疑問のようなことも申し添えたが,評者の理解不足 の面があるかもしれず,そのような点があれば読者と本書著者にはご容赦願いたい。 アイルランド大飢饉という一点に,歴史研究の重要な課題の多くが関わる問題を示しつつ,それ らの問題の解明を行っている本書はきわめて刺激的であり,その実証度の高さとあいまって高い価 値を有することはまちがいない。今後,さらなる著者たちの研究展開と,こうした視野の広い食糧 危機の歴史の研究がさまざまな地域についてなされることを期待したい。 註 (1) 彼の統計分析によれば,イギリスで小麦価格が1年で1%上昇すると,同価格がダンツィヒでは同じ年 に 1.86% 上 昇 し て い る。Hans-Henrich Bass, Hungerkrisen in Preußen während der ersten Hälfte des 19. Jahrhunderts, St. Katharinen 1991, S. 228.
(2) たとえば,拙著『パンと民衆―19 世紀プロイセンにおけるモラル・エコノミー』山川出版社,2003 年,21 頁, 29 頁。