• 検索結果がありません。

[巻頭論考]近世琉球の社会と家 : 法社会史のために: 沖縄地域学リポジトリ

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "[巻頭論考]近世琉球の社会と家 : 法社会史のために: 沖縄地域学リポジトリ"

Copied!
35
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

Title

[巻頭論考]近世琉球の社会と家 : 法社会史のために

Author(s)

田里, 修

Citation

琉球王国評定所文書, 15: 5-38

Issue Date

2000-03-25

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/19524

Rights

浦添市立図書館

(2)

近世琉球の社会と家

︿

修 はじめに 冠婚葬祭と祭りの意味 身売りと夫遣、地割 むすびにかえて 註

はじめに

考 尋& 同柵 評定所研究の先駆者は奥野彦六郎であろう 。 しかしその評価はあまりいいとは 言 えない 。 その原因のひとつは彼の 頭 研究が法制史であり、ほかならぬ彼自身が裁判官であったこと、人事法と 言 う特殊な問題を論じていること、またそ 巻 の内容に特殊な用語、例えば神治 ・ 徳治・法治など、が使われていることなどのせいかもしれない 。 ① 評定所は﹁内閉会議乃至は最高裁判所の組織が完 備した﹂ものであると奥野はいう 。 奥野は評定所の余議を中心に 五

(3)

ノ 、 使って論じているが 一 方で﹁羽地仕置﹂から﹁諸問切法式﹂そして﹁御教条﹂と言ういわば法令を近世琉球におけ る重要な流れとして位置付けたのも奥野が最初であろう 。 評定所日記すなわち浦添市の ﹃ 琉球王国評定所文書 ﹂ が 、 いわば内閣行政記録とすれば羽地仕置や御教条といった ものは立法機関としての評定所の政策を示すものであり、またそとから当時の社会が、見てとれるものである乙とは、 すでに奥野の論じているとおりである 。 本稿では奥野が使つてない史料や、論じてない乙とをなるべく中心にして奥 ② 野の論を整理しつつ近世琉球の社会と家について検討してみたい 。 冠婚葬祭と祭りの問題についてまず見てみたい 。

冠婚葬祭と祭りの意昧

一 の 1 羽地仕置における冠婚葬祭 覚 縁組祝 言 ニ付色々定 一 初市約束之刻可為酒壱対事 一 祝 言 之刻者花能飯壱対之事 一 酒 一 対之事 一 媒之振廻方大和膳肴茶之子さうめん男客間前之事 但祝物者軽ク相応ニ可有之事

(4)

考 論 E員 巻 ( 中 略 ) 寛文七年未 三 月十六日 葬礼之定 按司部親方部 一 壱階禽 5)5) 山 田 目守E , 摩文仁 伊野波 具志頭 一 天蓋壱本 位牌者世続之子可持若子共無之候ハ、名代可然事一 一 四流旗四ツ 一 炉燐壱対 一 鑓弐本 但女者可為無用事 一 差笠壱本 一 立笠壱本 祭文之飾 一 引導者檀那坊主伴四五人之問可然事此外引馬弁墓屋可為無用事 七

(5)

八 一 香櫨壱ツ 一 茶湯壱対 但茶台計女ハ下添可有之事 一 折壱対ニ色々菓子盛合 一 一 蝋燭炉塘之間壱対 一 草花壱対 一 祭文読坊主弐人 三 人之間可然事 祭礼定 一 法事之刻者檀那坊主壱人伴四五人之間勝手次第之事 一 振舞方御定之様可有事 二 周思よ里ハ衣裳何色ニ而茂可然事 一 七月施餓鬼之刻衣裳同断事 一 年回ニ付茶屋杯立候儀無用之事 一 座敷衆よ里下者段々其人体相応ニ葬礼可仕之事 右葬礼之儀此中孝行とて余華美過俗礼耳ニ御座候其上子孫疲罷成儀候得者自奉公方致疎意笑止之至候此旨可被 相守候若違背之人於有之者可及沙汰候可有其心得者也 。 党文七年未 三 月十六日 5J5J 曲 目 ・ 守 E , 摩文仁 伊野波

(6)

具志頭 党 一 田舎人縁組祝 言 之刻大粧之入目ニ而疲ニ罷成由候問如何ニ茂軽ク其人々相応可仕事 一 田舎葬祭礼之刻牛共殺大酒仕候儀前々よ里離為禁止頃日狼ニ有之由候問、弥欄敷可被申付候首里侍衆葬礼見合 相応可仕事 右祝儀愁之作法此中過奪成来不自由之者共身を売候而茂仕由不可然候若相背者於有之者其人ハ不及申所之さは くり与中迄桐敷可及沙汰候問峻中堅固可被申付者也 寛文七年未 三 月十六日 具志頭 伊野波 摩文仁 51;] 山 山 且 T t F 惣地頭衆 考 羽地仕置の中に右の覚が出て来るが、縁組つまり結納(結婚)、葬礼すなわち葬式、祭文の飾りが年忌というよう 論 に、ようするに冠婚葬祭にかんする規定である 。 これらは当時、首里・那覇の按司・親方すなわち両惣地頭といった 頭 士族を中心とした人々に対して出されたものである 。 それによれば、士族逮が華奪に冠婚葬祭を行い身売りにまでい 巻 たる様子がわかる 。 末尾には農民達が、すなわち田舎の間切役人や百姓が牛をつぶし大酒をのみ中には身売りにいた ることに対して注意をあたえている 。 東思納寛淳はこれらを質素倹約の視点のみで論じているが、まちがいであろう 。 JL

(7)

十 それは﹁諸間切法式﹂に﹁牛は耕作の佐(たす) ③ け﹂とあるのをみてもわかる、王府はべつの視点で冠婚葬祭をとら えていたのである 。 ひとつには歓農と 言 う問題であり、関連して人々の意識、 なかでも家の確立乙そが最大の課題だったのではなかっ たろうか 。 葬礼の定めの中に位牌のことがでてくるが、おそらく位牌に関する最初の規定といってよいだろう 。 まだ士族の身 分がはっきりしない時期にさだめられたものであり、今日の位牌(卜 l ト l メ l ) の問題を考えると興味深いものが ある 。 寛文七 ( 一 六六七)年の覚には 不浄定 一 祖父母父母夫婦兄弟ハ 三 拾日之事 一 継父母伯父母弟妹子孫ハ弐拾日之事 但弟よ里下者髪指不抜事 一 甥姪拾日之遠慮之事 従弟よ里下者五日遠慮之事 右此中父母よ里下親類中差合之刻不依遠近ニ 一 ヶ月之忌ニ而候付如此申渡候事 とある 。 これら不浄すなわち服忌、喪に服することに対する規制はどのような意味を王府はも っ ていたのであろうか 。 右の寛文七年の後にも延宝元年の覚が出されている 。

(8)

一 此中婚葬祭礼無高下之分過奪ニ成来諸人疲罷成候付近年 高 下之分ケ相定候処頃日騒発出候様ニ風間候先祖之法 事 とて坊 主 為馳走盛台共出候由不似合儀候先 王 法事之刻茂盛台無御座候 ( 以下略) 何故これほど細かいことを、羽地は定めたのであろうか 。 安良城は近位における 王 府 の 祭 りへの規制の意昧を ﹁ 祭 りにともなう迷 信 的リタブ

l

的な要 素 が沢山ある為に、農耕のさまたげになることを排除するのが 禁 止の第 一 の浬由 で ﹂ ﹁ 第 二 に、お祭りにひまど っ て農耕しない日が 一 年に沢山あること ﹂ ﹁ 第 三 に、お 祭 りは経費なしで出来るもので ④ は ﹂ なく ﹁ 王 府から見れば、費用がかかりすぎる ﹂ こ と ﹁ 第四に風俗上の 禁 止 ﹂ などのためなどしている 。 つ ま り ﹁ 歓 農﹂にその意義をもとめている 。 奥野は著 書 の中で﹁慶長十八年六月朔目覚(現在未確認)﹂と 言 う史料を紹介しているが、それによると ﹁ 此中耕作 ⑤ ニ専女を 差 出男者大形之由候自今以後者男女同前ニ可入精事 ﹂ とある 。 つまり女が農業に従事し男はおそらく漁業に 従事する姿が見てとれるのであるが、とれについて奥野は﹁古代女が農耕方面に活躍したと 云 うのは、男が狩猟方面 ⑥ に出動したに対比して寧ろ当然であろう﹂と 書 いていて、多少オーバーな気もするが、ようするに、 一 方で農業をす るのにはそれほどの耕地があるわけでもないし、また近世になるまでそれほどの消費なりの発達をみていたわけでも なかったわけで、古琉球の時代女が農耕に従事していたといえる 。 奇ι 阿冊 仕上世の割合は四七・六パーセント しかし薩摩侵略後の仕上世は羽地の頃から増え始め、御財制( 一 七 二 八年)によれば近世以来の王府財政に占める ⑦ である 。 (米のみの場合六九・五パーセント) 考 頭 巻 一 の

2

諸問切法式の冠婚葬祭 十

(9)

十 ﹁諸問切法式﹂はこれまでただ﹁法式﹂とか、あるいは﹁ 田舎法式 ﹂等とさ れ、奥野は当時県 立図書館にあった﹁ 中頭 法式と題するものの内容が全然右田舎法式と同 一 で、ただ田舎法式には名の記載がないのに、中頭法式には最後に宜野 湾問切、両惣 地頭なる宛名があるのである 。 ところが元来前示田舎法式は写本であるから後者の方が寧ろ本当の形式か ③ も知れない 。 少なくとも之により各間切毎に同様のものが頒布された事が窺われるのである 。 ﹂と述べている 。 ③ これは卓見である 。 すなわち ﹁ 団 地奉行規模帳﹂( 一 八

O

九年)に ﹁ 一 風俗ハ国土肝要成儀ニ而随分 善悪見合 イ タ シ 所俗不宜方ハ蛇ト引改候様勿論諸事取締向之儀康照 三 十六丁丑年被仰渡置候諸問切法式帳ニ基キ万反気ヲ付差引可申 波候﹂とあり﹁諸問切法式﹂として各間切毎に法式を出していた事がわかる 。 なお諮問切法式の出された年には久米島規模帳が出されたが、久米島、両先島の規模帳が間切法式同様それぞれの ⑬ 地域の風俗規制の役割を果たした 事は周知のとおりである 。 ⑪ 諸問切法式は官頭に冠婚葬祭が出てくる 。 一 諸問切之儀公儀之提者不及申不可背地頭庄屋之下知守常々君忠孝親ニ夫婦兄弟諸親類等睦敷召仕者加憐慰四季 共農業無油断五穀各不違節年貢諸色定所之規模を以年々可皆済事 田舎衆中婚礼之事 一 中人能飯神酒壱之事 一 婚礼之時振舞不可過 二 汁 一 菜事 附致百姓中ニ者可為 一 汁 一 菜事 一 同時肴者可為豚以下事前々者依進退牛共殺祝儀為仕由候得共牛ハ耕作之佐ニ成者候間向後禁止可申付候 一 神酒 三 ツ過市四ツ可為事尤米粟黍麦蕃薯之間以見合可相調事

(10)

考 三& 同情 頭 巻 附致百姓中ニ者弐ツ可然事 一 手入物油銭米之間人々相談次第仕由候是茂当時首里江無之礼儀ニ而候得者 一 向禁止可申付候得共跡々よ里仕来 儀相止候ハ、難致儀も可有之与存此中之模申付候可成程者可致簡略事 田舎衆中葬礼之事 一 回流旗之事 一 炉塘 一 対之事 附致百姓中ニ者無用之事 一 天蓋壱ツ之事 一 命之事 一 坊主両 三 人之事尤前々よ里無坊主相済方ハ別条之事 隙致百姓中者可為壱人事 一 右馳走者可為 二 汁 一 菜之事 附致百姓中者可為 一 汁 一 菜之事 一 念仏 一 両人之事尤前々よ里無念仏相済方者弥其通可仕事 附致百姓中ニ者可為 一 人事 一 遠方よ里悔ニ参候人数江者塩粥馳走可仕事 附此外造佐ヶ間敷儀兼而無用之事 一 同時肴者可為豚以下事 十

(11)

十 四 但可成程者魚鳥ニ而相調候様可心得事 田舎衆中年回忌之事 一 盛物 一 対之事 一 盆五ツ組以下之事 附致百姓中ハ 三 ツ組可仕事 一 香花之事 一 神酒弐ツ之事 附致百姓中ニハ壱ツ之事 一 坊主 一 両人之事尤前々よ里無坊主相済来方ハ弥其通紙焼候方ハ軽肴共相調可然事 附致百姓中ハ坊主相頼候ハ、壱人之事 右婚礼葬礼年回忌之儀不顧身之分限を失墜ケ問敷有之故進退難成家財妻子等売払終其身迄人内罷成者多々有之由 笑 止之儀候向後右定置候趣衆中百姓迄堅固可相守候違背之者於有之者早速可申出候事 羽地仕置が首里 ・ 那覇の士族を中心とした人々に対する冠婚葬祭の規定であ っ たのにたいし、諸問切法式は田舎の 間切役人や農民に対するそれである 。 右の諸問切法式にある、最初の条文には道徳の理念として君忠孝親を掲げている 。 ところで ﹁ 忠﹂や ﹁ 孝﹂とは何を ⑫ 意 味するのか、あるいは王府は何を農民に教えたかったのか 。 ここであらためて孔子の ﹃ 論語 ﹂ から引用してみたい 。 引用の基準は文庫本の索引からである 。 先生がいわれた、﹁君子はおもおもしくなければ威厳がない 。 学 問すれば頑固でなくなる 。 ︹まごころの徳である︺

(12)

⑬ 忠と信とを第 一 にして、自分より劣ったものを友達にはするな 。 あやまちがあれば、ぐずぐずせずに改めよ 。 ﹂ ここでは、誤りがあればぐずぐずせずに旧慣を改めよと 言 うことが、関連するのであろうか 。 先生は彼に話された 。 ﹁ 孟孫さんがわたくしに孝のことを問われたので、わたくしは ﹃ まちがえないように、 ﹄ と 答えた﹂焚遅が ﹁ どういう意味ですか 。 ﹂ というと先生はいわれた、 ﹁ ︹親が︺生きているときには礼のきまりによ っ てお仕えし、なくな っ たら礼のきまりによって葬り、礼のきまりによ っ てお祭りする 。 ︹万事礼のきまりをまち ⑬ がえないということだ 。 ︺ ﹂ ことでは﹁礼﹂に従 っ て親への ﹁ 孝 ﹂ と 言 うものを考えることが大事であるという乙とになろうか 。 子 批 仰 が 孝 の こ と を お た ず ね し た 。 先 生 は い わ れ た 、 ﹁ 近ごろの孝というのは ︹ただ物質的に︺十分に養うことをさ ⑬ しているが、犬や馬でさえみな十分に養うということはある 。 尊敬するのでなければどこに区別があろう 。 ﹂ これには普から解釈の遣いがあって ﹁ 犬馬でも人を養う﹂という説と﹁犬馬でも親と同様に養 っ ているではない か﹂という説がある 。 また喪については 三 年の喪 親が死んで 二 十五ヶ月(王粛説)あるいは 二 十 七 ヶ 月 ( 鄭 玄 説 ) 、 つまり足かけ 三 年、喪に服する ⑬ で生活をする 。 る こ と 。 一 切の公務を退いて平常とは違った衣食住(礼の規定がある) 考 三 年の喪というが、沖縄では親戚中が四十五日間何もしなかったり、 はなはだしい所では家族が 一 年間﹁仕事﹂を 毒ι 問 問 しない所もあったという 。 喪に服する意昧が問題であろう 。 E頁 李康子が﹁人民が敬慶忠実になって仕事にはげむようにするには、どうしたものでしょう 。 ﹂とたずねたので、先生 巻 はいわれた、﹁荘重な態度で臨んでいけば︹人民は︺敬慶になります 。 親に孝行、下下に慈愛深くしていけば︹人 ⑫ 民は︺忠実になります 。 善人をひきたてて才能の無い者を教えていけば︹人民は︺仕事にはげむようになります 。 ﹂ 十 五

(13)

十六 乙こで重要に思われるのは人民すなわち農民が仕事にはげむことが親に孝行と言うことを教えることであり忠につ ながるということであろう 。 冠婚葬祭にとって重要なものである服忌の意味する乙ととは、公務を離れ普段と違った生活をするとある 。 当時の 琉球では親戚中が四十五日仕事をしないと 言 う例があったが﹁公務﹂とは関係のない農民である 。 礼にの っとり喪に 服すので無ければ意味が遣うと 言 うことであろう 。 の

3

御教条における冠婚葬祭 こうした冠婚葬祭への規制の意味が明確になるのは御教条であ倒 。 夫婦之儀人間万事ニ付市之根本候此心得を以如何ニ茂睦敷取合何錆義理正道致熟談万事可入念候若各存分相構 候ハ﹀夫婦之道不相立誠以家道之妨甚不宜事候此訳得与致落着万事之計得入念首尾能相勤候儀可為専 一 事 一 見現在の私達の目でみてしまうと、当たり前である男女平等の心構えのようにみえるが、封建的、儒教的道徳を 教えるべき王府が何故男女平等なのかが問題なのである 。 奥野は古琉球以来の女性の存在の強さを家制度の時代の当 時既に指摘している 。 ﹁当時未だ女の正当な位置が探 聞されず 、特に夫権を認めたり、親権を父にのみ帰せようとしな ⑬ いのは無論の事、所謂支那道徳そのままを沖縄にあてはめなか っ たところが重大である﹂つまり女性が強か っ たのであ り、今日とは逆なのである 。 一 出嫁之女子者奥姑之為 三 年之忌有之直親之為ニ者十 三 ヶ月之忌仕迄候然者男姑を直親与存其親類迄睦敷取合可 有之処致勘違自分之親類題目存男姑方之親類致疎遠候儀

E

文具姑茂嫁を直女子与存其取合可仕之処右之了簡無

(14)

之常々以隔心致取合候儀皆共人倫之妨家法之支甚不宜事候件之訳得与致落着奥姑者嫁を直女子与存嫁者男姑を 直親与存互実心を以致取 A 口候儀可為肝要事 ことに来て王府はようやく男性上位の教えを説いたといってもよい 。 羽地以来の服忌の総仕上げといえる 。 女性に とって結婚は﹁根引き﹂から﹁嫁ぐ﹂ものへ変化し、嫁いだら奥小姑につくせと説く 。 逆に 言 えば当時の女性にとっ ては実家と嫁ぎ先は対等なものに過ぎなかったのである、と 言 え る 。 今日の沖縄社会でも離婚の後に実家に身を寄せ る女性の話をよく耳にするのは偶然とは き 口 え ま い 。 一 茶毘之時家内人数者悲嘆甚敷前後忘却候 。 親族縁者其外取合親敷方ハ米銭塩粥杯各心次第可遺之候不如意之方 ニ者別市其見合可有之候此儀人情題目之事候跡々者茶毘之後菓子盛合杯持参墓所為致見舞儀候得共慰事之様有 之孝情之妨不宜付市禁制申付置候亭主方よ里茂薬毘之時赤飯杯を以祝儀之様馳走為有之儀不宜付市是茂差留置 候向後働人迄塩粥杯致馳走尤遠方よ里差越候見舞人之内馳走不仕候市不叶人数者休迄ニ致馳走可然候上下共件 之心得を以茶毘之情礼正敷相勤候儀可為肝要事 これも今日の沖縄社会に見られる光景と 言 っ てよい 。 葬式に大勢の人が 言 わば助け合いのように見舞にかけつける のはよい習慣なのかもしれない 。 しかし、その後の振舞いは惑い習慣なのかもしれない 。 考 一 人間之道与申者孝行題目ニ候孝行与申者諸士百姓とも其身之行跡題目にして家中人数其外親類縁者ニ至迄睦敷 論 取合尤御奉公人ハ国家之為何篇入精文百姓等者家業無油断相働各件之勤を以父母安心させ候儀孝行与申事候若 頭 行跡不宜或家中親類縁者之取合不睦或御奉公付而忠義之心立無之或家業之働致油断ケ様之不届共有之候而者何 巻 程父母江衣食之類結構相備候共父母安心無之積候此心得を以諸土百姓共孝行之勤可致執行事 御教条の人倫之勤めにでる最初の条文であるが、ここで ﹁ 孝 行 ﹂ と﹁忠義﹂がでてくるが孝行とは士族農民とも家 十 七

(15)

十 八 業にはげむことであることが強調されている 。 羽地仕置には ﹁ 右、葬礼之儀此中孝行とて余華 美 過俗礼耳ニ御座候 。 其上子孫疲罷成儀候得者自奉公方致疎意、笑 止之至候﹂とあ っ て当時琉球の士族達がいかに論語を読み違えていたかがわかる 。 論語の学而には先に見たように、 右の御教条と同様の文言があるからである 。 もっとも伊波普猷によれば士族はグチョ 1 ジ ュ l グワーより四番が良い ③ とコパカにしていたとのととである 。 一 元服婚礼之儀上下共分限次第如何ニ茂重厚可相行候就中婚礼之儀ハ夫婦之縁組ニ市人問題目之勤候此儀致疎略 候得者女人之節義軽々敷筋相成甚不宜事候女人節義之儀者常々正敷相勤候所よ里父子之道茂正敷罷成事候右之 訳往古之聖人別市肝要ニ被申置候如何成難為下輩女人節義之慎者就中入念候儀可為題目事 ﹁ 羽地仕置﹂や﹁間切法式﹂で、あれほど華 美 にならないようにと 言 っ ていた王府がと乙へきて 一 転して重厚にと い っ ているが、その意図は父子の道、すなわち男性中心の家系の確立にあり、また女性に対する再婚の禁止にあ っ た 、 といってよい 。 何故なら近世琉球において少なからず女性の再婚がみられるからであり、それは奥野が指摘するよう に﹁女性の正当な位置﹂があったからと言えよう 。 王府の記録﹃球陽 ﹂ には、列女の記事、たとえば 一 人で夫亡き後何人もの子や夫の親の面倒をみた女性の話や、そ して貞女の話がでてくるのである 。 も っ と も今日でも結婚式や葬式が盛大なのも ﹃ 御教条 ﹄ のせいかもしれない 。 奥 野は﹁羽地仕置や田合法式の倹約方針を改変したもので、 一 面女の節操を高調して親子関係の中心を父子に置こうと したのは、古代社会の母系的事情に対比して、蓋し画期的の法則であ 拘﹂と述べてい る 。 ﹁ 球陽 ﹄ 尚敬王 三 十 一 年の条に崎 那覇泉崎村の崎山筑 登之親雲上 の姑、蒲 戸 は、嫁して子無く、 二 十七歳にして寡と為る 。 乃ち婚を求むる者衆し 。

(16)

節を守りて嫁せず 。 今七十 一 歳なり 。 として寡婦の貞女ぶりをたたえ、さらに同じ年の条には 座喜味村照屋の妻は、名を比余と臼ひ、 二 十七歳にして寡す 。 其 れ 、 二 男 一 女有り 。 倶に嬰児に係る 。 更に兼ぬ るに家貧にして 一 人の助くる無し 。 日は践し、夜織るも、猶機寒の苦を免れず 。 時に嘉手納なる者有り 。 是れ 読谷山第 一 の富人なり 。 比余を要らんと欲し、其の親戚を以て媒と為し、具に告ぐるに、其の男女を養ひて其の 所を得しむるの意を以てす 。 親戚皆喜びて更に百計を加へて之れを誘ふ 。 比余、堅く辞して日く、女畳再嫁の理 有らんや 。 吾寧ろ死すとも従はず 。 況や男女有り、養長して数年なれば、復頼る所有るをや 。 何ぞ吾を不義に陥 れんと欲するやと 。 果して十年ならずして男女漸く長じ、協力して家を興す 。 後長男は人の義子と為り、女は医 を備へて以て人に嫁す 。 次男は性孝にして富む 。 又土地地頭職に任じ、膝ミ餓 李 を済ひ、座敷位を拝す 。 其の孝 養を享けて天年を終ふ 。 として貞女・烈女ぶりを強調する 。 ところで実際にはどうであったか、必ずしも良い例ではないが、 ﹃ 沖縄の犯科

@

帳 ﹂ の事例をみてみると ﹁首里に近い真和志間切識名村境内居住のうし比嘉の妻おたは、男女 二 人の子持ちであるが、夫の死後、夫の兄で 考 それまで独身生活をしていた次郎比嘉を家に入れて、家系上の相談相手としていた 。 その中 二 人は情を通じ、夫婦の 論 ような仲となった 。 ﹂ ( 中 略 ) ﹁ 一 年半ぐらいたって、子供のしつけかたについてのちょっとしたことから口争いにな

E

頁 り、おたは次郎に追い出されて里方の大城に帰った 。 その内おたは、子供を次郎比嘉に預けたまま、 かま嘉数という 巻 者に再縁した 。 ﹂と 言 う 。 事件の経過は省くが、判決は清律では死刑だが田舎育ちで無智下賎の者であるとして 一 世 流罪をいいわたしている 。 この事件で興味深いのは内縁関係になった女性がおいだされて実家にもどり再婚している 十 九

(17)

ことである 。 御教条の教えを守らず夫婦喧嘩をしているわけであるが、その結果女性が追い出されたのは、男の暴力 であろうか、 それとも本人の意思で飛び出したのか 。 し か も 、 その後彼女は再婚したのである 。 乙の事件は安政元 ( 一 八五四)年のことである 。 一 年回差当候時霊前を題目存何篇入精其次ニ客対之勤可有之候処致勘違霊前よ里客対之勤重立剰焼香人迄結構構 致馳走候付事煩敷有之霊前之取持存偉不罷成孝心之妨不宜事候向後霊前を専 一 致尊恭其次客人之取持入念其外 焼香人之儀ハ知何ニ茂軽致馳走亭主方ハ孝心之勤入念候儀可為専要事 年 忌 、 三 年忌、七年忌、十 三 年忌、そして 二 十五年忌、神様になる 三 十 三 年忌までと言われるが、今日でも亡き人 のためというより、お客の接待に馳走を準備する女性は気の毒である 。 今日の沖縄の社会でも魂はまだ生きていることは、交通事故の現場でマブイグミをする人や、お盆のウンケ l ・ ウ ークイに門で祖先を送迎する姿にみるとおりであろう 。 要するに古琉球から近世にかけての沖縄の社会において人々は、女性中心の生活を送っていたのであるが、それは いわば迷信にみちていたのである 。 奥野はそれを神治といっているのである 。 奥野は士族の婚姻について ﹁女中心の承継が普通であったのが、やがて女の内に入った男が婿養子として表面居に立つようになり、次いで十 七世紀末から十八世紀始頃に至って婿養子自体も第 二 次的のものとされ、之と同時に漸次 二 男 三 男等の相続が特殊 されるようになり、系図座規模帳の制定によって弥長子相続の原則を確定し且長子を立てる事や 二三 男相続にも公 許を要する事と定め、 やがては家に女子があっても之を他に嫁して 一 門血統の男子を迎える風習に導き、又兄が死 亡した際の 二三 男相続にさへ特別の公許を要する事となったのである 。 そして年齢強弱賢愚職業の如何に拘わらず

(18)

@

長男が直接父の跡目となる事と確定したのである 。 ﹂ とのべているが、系図座規模帳は 一 七 三

O

年に制定されたのであるから、察温の時代である 。 奥野によれば士族においては察温代にようやく﹁家﹂ の確立をみたという 。 しかし 一 般の士族は﹁名﹂ばかりで収 入がなければなおさらである 。 他方地頭はそれまでの領地との関係が 薄くなり作得米の収入がいわば相続の対象とな っ たという 。 なおこの領地との関係は取納奉行の設置( 一 七 二 八 年 ) と間切公事帳の制定( 一 七 三 五年)によ っ て 決 定的なものとな っ た 。 農村ではどうなるか 。 家譜の成立によって位持の間 切 役 人 は 、 基本的に士族ではなくなった 。 比 嘉政夫氏は、奥野 の農村家族の特徴をつぎのようにまとめる 。

( 1

)

イエ内部のすべての権力を 一 身にあつめる家父長の不存在(家の代表者としての家主は男とはかぎらず女の家 主 もあ っ て、結婚などの人事関係は女の家主に主導権があ っ た ) 。

( 2

)

性と結婚に対する村落統 制を 若者たちが担っていた乙と (結婚については親の権力が及ばないことがあ っ た こ と ) 。

( 3

)

村落社 会における男性支配の傾向を 阻む女性の地位の 一 般的な高さ (ノロなど女神宮の力が村の日常の生活で 考 も大きか っ た ) 。 手 企 同制 ( 4 ) 婚姻における娘の自由意思を担保する女性労働の意義(女性の織布などの労働力の家計における価値が高く、 F員 生活の安定のために打算的に、あるいは親のいいなりで結婚することはなか っ た ) 。 巻

( 5

)

公私にわたる村落の協同互助機構(土地の割り替え制度により私有財産の構築が阻まれるなかで、村落の共有

@

イエ本位でなくムラ本位の婚姻を保持させた) 。 財産や協同互助の慣習が、

(19)

冠婚葬祭について王府の規制の意味するものとは 一 つには、﹁孝﹂とは農民にかぎらず士族をふくめ勤勉である こと、そして祖先への崇拝は﹁礼﹂にのっとって行うべきものであるということである 。 第 二 にそれをとおして王 府の目指したこととは、父系中心の家の確立にあった 。 身 売 り と 夫 遣 、 地 割 の l 身売りと夫遣(羽地仕置) 寛文七年の覚 一 此中者国司蔵入給人高押入同前ニ百姓壱人ニ而 一 ヶ月ニ付夫遺五度完遣候付疲之由候間未之四月之比給人高拾 石ニ夫壱人ツ﹀入切 一 ヶ月ニ付四度ツ﹀遺候様相定候事 一 知行夫高拾石ニ付夫壱人ツ﹀夫遣之儀ハ 一 ヶ月名四度夫銭ハ 三 貫文之事 寛文九年の覚 一 前々者按司惣地頭領内よ里枠者五六拾人脇地頭者拾人弐拾人公儀無拘候ニ市百姓疲罷成候間巳之春比按司衆者 枠者拾 三 人親方部ハ拾 二 人取次役物奉行役者九人其下ハ応位五人 三 人相定候事 農民は王府や地頭に夫遣させられた 。 そのため羽地仕置に﹁諸問切百姓公役仕儀いやかり首里那覇戸泊之衆並出家 衆江内証を以内之者札取候故百姓少公役仕者疲ニ罷成由候﹂という乙とで、農民を土地に緊縛することとなった 。 羽地仕置にある身売りした者はどうなるのであろうか 。 借金の形(かた)に取られる者は何故生じたのか 。 その理

(20)

由は簡単である 。 土地や財産が無いからである 。 つまり後述のように土地は模合持ちであり個人(家) のものではな いのであり、したがって借金のかたになるのは人間自身しかないのである 。 だから妻子を売り本人を売るのである 。 羽地仕置には﹁葬礼之儀此中孝行とて余華美過俗礼耳ニ御座候 。 其上子孫疲罷成儀候得者自奉公方致疎意、笑止之 至候 。 此旨可被相守候 。 若違背之人於有之者可及沙汰候 。 可有其心得者也﹂とあり、士族の子孫の疲れを案じている が、百姓も同じで﹁田舎人縁組祝 言 之刻大粧之入目ニ而疲ニ罷成由候間入如何ニ茂軽ク其人々相応可仕事﹂とありさ らに百姓は﹁祝儀愁之作法此中過奪成来不自由之者共、身を売候而茂仕由、不可然候 。 若相背者、於有之者、其人ハ 不及申、所之さはくり与中迄桐敷可及沙汰候間﹂とあり百姓が身売りをしてまで祭りをする様子がしるされている 。 ところで羽地仕置には﹁傾城﹂がよく出るのであるが、傾城とはなんであろうか 。 おそらく身売りと考えるべきである 。 の

2

身売りと夫遺﹁諸問切法式﹂ 諮問切法式にも﹁右婚礼葬礼年回忌之儀不顧身之分限を失墜ケ問敷有之故進退難成家財妻子等売払終其身迄人内罷 成者多々有之由笑止之儀候 。 向後右定置候趣衆中百姓迄堅固可相守候違背之者於有之者早速可申出候事﹂とあり相変 考 わらず百姓の身売りの状況が記されている 。 さらに諸問切法式には﹁ 一 間切中之儀常々失墜無之様ニ与兼々難申渡身 論 売之訴曾而絶不申笑止千万に存候故、向後新米不苅以前所之さはくり耕作当ニ而出米見立上納方致差引毎年各承届以 目 頁 書付首尾可被申出候 。 右通候ハ﹀縦令不作ニ而上納方引入候共、前廉よ里能、致差引候ハ﹀百姓中も其考仕大分之不 巻 足ハ有間敷事 。 ﹂とあって、これまた相変わらず、上納にも支障をきたす状況が記されているのである 。 一 百姓中江すかま銭渡し置き夫遺申す儀並び庭鳥壱ツ完相渡し置き年年鳥玉子請け取申す儀跡々よ里禁止被申し

(21)

四 付け置き趣猶以って可相守る事 ﹃ 羽地仕置 ﹄ にも同様に鶏の話があり禁止されていたが、なおらないばかりか、すかま銭なるものを渡して労働を 強制するものがあらわれたのである 。 諸地頭衆、領分男女之百姓召し遣わし申す儀跡々よ里然与例無之ニ付而康照五午年よ里両地頭ハ間切之百姓年 ニ 一 度自分暖村ハ年ニ両度完 。 知行夫ハ五度完可召し遣い旨被相定め置き候 。 弥右模之様可相守り候 。 此外公 義御免候得共村中ニ市能能吟味仕御蔵夫並ニ公役可仕事 地頭の中にはきまり以上に百姓をつかおうとするものがいた 。 一 間切中之百姓男女拾五歳よ里五拾歳迄、正頭夫銭請け取申す方ハ男壱貫文ツ﹀片輪者見合い次第、女正頭男老 童ハ七百五拾文完女老童ハ五百文完知行夫ハ所之遠近依模被相定め置き候弥其の例可相守り事 男女老幼の労働に差別がもたらされた(後述) 。 一 位衆之子供、正頭可相立事 一 方で位衆つまり間切の役人の子供達は正頭には入れられてはいなかった 。 の

3

身売りと夫遺(御教条) ところで身売りすると﹁身分﹂はどうなるのか 。 傾城か下人であろう 。 その下人について御教条は 下人を召使うことは如何にも憐愛が題目で教訓を相加えてやりなさい 。 其の 内 、念を入れ奉公する者には其の心 付けを持って彼を良き様に計らいを持ってやる事が主人の職分であり、この事を了解せず自分の自由だとして無理に

(22)

召使いを使う事は、欲心の行い出、甚だよろしくない 。 いかなる愚痴な下輩の者も主人の志を察しているのであり、 よくよくそれを心得るよう 。 しかし、燐感をも っ て召使いさせても 主 人と疎意の者は早々さしかえるほうがよい 。 怒 りに任せて度々打郷をくわえてもかえ っ て愚痴の恨みをおこすだけである 。 その心がけが大事である 。 また下人とい う者は無理な主人とあっても下人の働きに精を入れれば如何なる邪欲の主人も感心してその憐れみをもつものであ り、その了見なくかえ っ て恨みをも っ てわざと働かないで打榔にあ っ た りあるいは百し放たれたりするのはつまると ころ、下人の愚痴のせいである 。 このことをよくよく理解し主人も下人もたがいに正道の働きをするのが肝要である 。 下女も同様である 。 ( 訳 文 、 著 者 ) つまり働かない下人がいたのである 。 下人が働かねば下人は下人のままであり、それでは自立した農民は育たない のであり王府にとってそれは深刻な問題である 。 下人が近代にな っ て小作人になるわけであるが、その小作人が働か ない話がったわ っ ている 。 かつて沖縄のある旧家に嫁いだ女性は、ヒョウ(すなわち近代の小作人)の見張りのため、 一 緒に畑仕事をしなければならなくなり、教員の仕事を辞めなければならなか っ たという 。 そこで王府は ﹃ 球陽 ﹂ のなかに再興な っ た農民 ・ 下人の記事をたくさん載せている 。 も っ ともそれらが当時直接農 考 民に伝わったとは思えないが、士族の下人には右の ③ 球陽尚敬 三 十 一 年に ﹁教訓﹂として伝わった可能性はあるだろう 。 尋ゐ 同情 那覇泉崎村の島袋、甫めて七歳の時、父に売られて人の奴と為る 。 年長じて励精以 っ て桶匠に力め、兼ねて綿 自 民 花を弾く 。 家主、毎月 三 日の暇を賞賜す 。 其の銭を蓄積して身を買う照ひ、能く孝行を勤め、親族に和睦す 。 巻 諸問切公事帳には、毎年間切が報告すべき事項として ﹁ 諸 土 百 姓 善 行 之 類 ﹂ の項目があげられているが、下人の話 はそうした 善 行の 一 つとしであったと思われる 。 五

(23)

ー キ ノ 、 二 の

4

@ ﹁ 御当国御高並諸上納 里積記﹂にある 日用銭に つ い て ところで夫遣について整理しておきたい 。 日用銭之事 拾五歳より五拾歳迄正頭夫ニて候 。 跡々ハ病者片輪等之差引有之候得とも、中比より押入 一 統ニ夫銭被仰付、延 宝 七 日 未 年 よ り 、 一 人ニ付 一 貫文ツツニ被召定由候 。 前代ハ百姓現夫遺有之、疲ニ罷成由ニテ、寛文七丁来年より日用遺ニ被召定、両先嶋高相除ヶ、御当地中高 一 石 ニ付、役米とて米 一 升五合ツツ相懸、都合米千四拾 三 石七斗壱升五合ツツ御取納有之候処、延宝八庚申年より正 頭夫取立、遠近之定有之、嶋尻方・中頭方拾分夫 一 ヶ月ニ五日遣、中頭之内、越来・ 美里 ・勝連・与那城・具志 川 ・ 読谷 山六ケ間切ハ、五里以上之所ニて九分 夫四日半遣、国頭方 八分夫四日遺ニ被定置、夫銭上納被仰付置候 。 天和 三 奨亥年、正頭懸ニてハ親疎ニ有之 由ニて、年々日用銭雑物代分 量 御 究 、 一 統男女ニ相懸、文貞亨四・元禄 元両年ハ男頭計二相掛被置候処、夫銭上納ハ百姓不勝手之由ニて、現夫遺ニ被召成、夫銭ハ望次第二被仰付置候 。 元禄五壬・申年より、正頭掛ニ被召定、夫銭御取納有之候 。 同年久米方五分夫 二 日半遣、伊江・伊平屋七分夫 三 日 半泣ニ被定置候処、元禄十 二 庚辰年、依訴訟、伊平屋島も久米方同前ニ被仰付置由候 。 ( 以 下 略 ) ﹁跡々は病者片輸を差し引き﹂すなわち以前は、病気の者や障害者は﹁すかま﹂﹁夫遺﹂﹁正頭﹂から除けていた 。 しかし﹁中頃﹂この前から﹁押し入れ 一 統﹂全員 一 様に正頭数に入れた 。 以前は﹁現夫遣﹂つまり実際に労役に就い ていたが、康照五年( 二 ハ六六)両地頭は間切は年に 一 度、唆村は 二 度と定められた 。 寛文七 ( 一 六六七)年日用 遣いとして役米 一 石につき 一 升五合にさだめられた 。 延 宝 七 ( 一 六七九)年からは 一 人 に 一 貰文ずっと定まった 。 延

(24)

宝 八 ( 一 六七八)年には正頭夫取り立てで遠近の定めがあり、 一 ヶ月に五日となった 。 天和 三 ( 一 六 八 三 )年には日 用銭雑物代として年々きめるごととなった 。 貞 亨 四 ( 一 六八七)年と元禄元( 一 六八八)年の両年は男頭のみに負荷 されて夫銭上納は自由であった 。 ここまでを整理すると元禄十( 一 九六七)年の ﹁諮問切法式﹂には男 一 貫文に対し女は七五

O

文等と男女老幼に差 がついた 。 仮に月八日の夫遣とすれば 一 年十 二 ヶ月で九十六日となる 。 祭りが年に六十回とすると、遊び 二 日で百 二 十日となり、合わせて年に 二 百十六日で、残りはわずか百五十日となる 。 請地は﹁百姓地の内持ち過ぎの地跡々は百姓地同前﹂ であったが、士族が多く持っていたせいか天和 二 年 ( 一 六 八 二 )より公役御免となった と乙ろで夫遣と関係の深いユイマ l ルについて、安良城盛昭は﹁十五歳から五

O

歳までが成人とみなされ、年齢区 分にもとずいて、 さまざまな労働換算がおこなわれており﹂﹁そのような慣行から考えると、やはり、沖縄のユイの 本来のあり方では、労働の交換は、等質・等量の労働交換であったと考えられ﹂ ⑧ 労働を交換するということはありえない﹂とする 。 ﹁ 男 一 人の労働にたいして女 一 人 の し か し ﹁ 日 用 銭 ﹂ を 見 て も解るように男と女の労働に 差が設けら れたのは新しいのである 。 考 里積記には﹁慶長御検地以前御当地御支配之次第、田は稲之かやを付、畠ハ粟之ぬきを付、上納何分と被召定、支 ③ 配方有之、右上納を 三 かないと為号由候﹂とある 。 論 日貢 古琉球の﹁すかま﹂は近世において、﹁夫遣(日用銭)﹂と言う言葉にかわり﹁日用(ヒョウ)﹂﹁入切(イリチリ!と 巻 という言葉は近代においては小作の意味に変化した 。 古琉球の ﹁ み か な い (御叶・御貢)﹂は﹁(代の)上納﹂に近世において変化し、﹁叶い﹂と言う言葉はジ l ガネ l 七

(25)

八 ( 地 叶 い ) の形でのこっている 。 ジ l ガ ネ l は﹁地金(じ l か ね ご と 思 っている人が多いが、﹁金(かねこの方言 はジンすなわち銭なのである 。 奥野は﹁諸地頭に対して直接労力を捧げて来た所謂夫は、僅少の主従関係あるものを除いて、 一 般に統べて金品を 以って代納されるようになり、従来地頭の為に働かねばならなかった者も、 一 ヶ年に男は 一 貫文、女は五百文を提供 すればすむ事となって、蕗に地頭の部落民に対する直接的人的支配関係は原則としてその跡を絶ったのである 。 文 地 頭の作得米 を生ずべき地頭地も実際の取り扱い上大体漸次部落の共有地と同様となり(中略)沖縄本島の各部落は古 代 の 土 地共用の遺 習 と全国 王土の観念並に納税に対する共同責任が因果合 一 して、旧藩時代の最後迄大体数年毎に部 ③ 落内で各耕作地を割替配分して居た﹂とのべている 。 の 5 地割について 奥野は﹁法則の基礎を家に置かないもの (中略)最も普遍的にして特色あるものは地割の制度と家屋建築の共助と であり、之に付加するに ﹁ わたくし ﹂ と称する家族特有財産の償習を以ってせねばならないであろう 。 前 二 者は古来 の部落中心 義時代の情勢が家の分 化に適合して出来た団体的法別 であり、後者は古来の部落的な風潮に対して家を 中心とする流が注いで出来た崎形的な個人主義的法別である﹂また地割の﹁始めは人為的に此の制度を促進統制した @ 跡も窺われるが、椴本的には部落の土地共用時代の風習と家の分化独立とが衝突して折衷されたものに相違ない 。 ﹂ とのべている ③ 田村浩の ﹃ 琉球共産村落の研究 ﹂ には大きな誤植があって、今日まで混乱をもたらしている 。 それは同書の 一 九 七

(26)

頁で第 二 回検地(元文年間) の資料としながら、﹁嘗藩団地奉行規模帳(摘録ことして次ぎのように記している 。 一 御嵩園御検地程久敷罷成、良夫共地面致忘却龍在候付而、此節検地之儀、慶長御検地帳面ヲ以テ 一 々地面(引) 宮(相)札候(様) ニハ辿モ摺成間敷候問、官時間置候現地面之表竿入、百姓地並地頭地 ・ オエカ地 ・ 詰 地 ・ 仕明地・平等ニ配首可仕事 。 但、原名付ハ笛時唱候通相記、検地名茂何村、何地頭、何オエカ地卜相記、詰地仕明(地)ハ嘗時主之名可 相記事 。 ( 中 略 ) 乾隆 二 年丁巴閏九月 評定所 大御支配奉行 しかし 一 七四頁には、乾隆 二 年(西紀 一 七 二 ( 三 )七年)第 二 回琉球検地のさいに出された ﹁ 大 支 配方申渡条々 ﹂ として ﹁御嘗園検地程久敷罷成、農夫共地面致忘却罷在候ニ付市、此節検地之儀、慶長御検地帳面ヲ以テ 一 々地面引嘗 考 相札候様ニハ油モ罷成問敷候問、嘗時開置候現地面之表竿入、百姓地並地頭地 ・ オエカ地・請地 ・ 仕明地 ・ 平等 論 ニ 配 嘗 可 仕 事 ﹂ 頭 として同じ文をあげている 。 さらに団地奉行が 一 七六六年に設置された事を考えれば後者が正しい事が解る 。 ③ なお、続けて乾隆四年の﹁御支配奉行申渡条々﹂として 一 つだけ上げているが、残りは ﹁ 近世地方経済史料 ﹂ に 載 っ 巻 て い る 。 JL

(27)

ここで問題は何故農民が土地を忘却するのか、ということである 。 さまざまなことが考えられるが、 一 番大きな理 由として耕地の移動と耕地をはじめとする模合持ちということであろう 。 耕地の移動はすでに百年ほど前から谷あいの小さな涌き水を 利 用した迫田(作田)から、沖積部の天水田への移動 である 。 さらに仕明けは 一 六六九年羽地の時代にはじまったが、 一 六八九年には、山林原野の仕明けが禁じられてお ⑧ つまり開発が進んでいたということを意味する 。 り、そのことは仕明けがそれだけ進んでいた、 諸問切法式には 康照八酉年仕明之訴申上相達其以来漸々開来候然共本高ニ抜群不足候得共野山大粧仕明仕候ハ﹀採薪木牛馬飼 之不如意罷成畢覚諸人之為不罷成儀候間康照 二 十八日年よ里召留候猶以可被得其意候尤海辺ニ市不障所者百姓 引合之上致免許来候得共其辺あたんす h き之類生茂別而重宝(中略) 仕明は 一 六八九年以後、海辺すなわち子潟へ移っていった 。 ③ 模合持ちとは、有名な農務帳の次の 一 節にでてくるが 一 方、まだ 一 部では焼畑が行われていた 。 一 回畠之儀時々割直為指究主付無之模合持之筋に付而地方之格謹致大形地位漸々薄相成不宜候依之地割申付 永々授置候上堅得其意此心得専大切ニ存格諮可有之事 難正拾弐年甲寅八月( 一 七 三 四 ) 一 七 三 七年の山奉行所規模帳には模合は次のように出て来る 。 ( 以 下 略 ) 一 此中大材木御用之瑚は、恩納・名護 ・ 羽地 三 ケ間切、金武 ・ 久志 ・ 本部 三 ケ間切、今帰仁・大宜味 ・ 国頭 三 ケ間切宛組合にて、取調候故、何れも模合山之筋に相心得

(28)

柚山(山林原野)において他の間切の人間もいわば自由に出入りできる模合持(もあいもち) とは何か 。 そ れ は 、 総有である 。 総有と、共有との遣いは共有は個人の持分がいわばは っ きりしているのにたいして、総有は持分がは っ きりしないのである 。 本土では山林原野や用水利用に 一 般に残 っ ていた (ただしブラウン氏はも っ と本土でも残 っ て いたとみている) のに対して琉球は山林原野のみならず田畠でも総有なのである 。 奥野のいう部落共用とはこれをさ す 。 今日でも久高島では畠やおそらく宅地も総有と考えてよい 。 何故なら今でも島に移り住むと島(部落) から百坪 の宅地が与えられる 一 方で、過去に宅地が売買された形跡がないのである 。 ブラウン氏は最近の論文で﹁江戸時代に、藩の命令で割地を実施した地域の石高を合計すれば、全国石高のおよそ 四分の 一 か ら 三 分の 一 を占める 。 これと村レベルで実施した地域(たとえば、越後国) ⑧ の石高のうちの 三 分 の 一 以上の土地になるであろう 。 ﹂とのべている 。 とを加えるならば、江戸時代 家人数(ヤアニンジユ)これは私たちが、家族を表す方 言 として小さい頃から使 っ てきた 。 古文書の中にこの文字 を見つけ方 言 だと解ったときから、気にな っ た 言 葉である 。 こ の 言 葉が意味するものは何か、それが問題である 。 私 の考えでは近代まで、家族というものは、琉球では特に 一 定したものではなかった 。 つまり、次男 三 男も 一 緒であ っ たり、特に農民にとっては﹁仮屋﹂とよばれた粗末な家に 一 緒に住む者は﹁家人数﹂なのである 。 考 しかし 一 方、安良城氏は南風原文書の分析において明治の中頃には勝連間切の南風原村は単婚小家族であったとし

@

ている 。 るふ 同欄 ⑧ 従来地割のタイプは人頭割←貧富割←持ち地割へと整理されてきた 。 さらに詳しく見てみると 自員 巻 人頭割 年齢により歩合(部合)を設けずして平分す 年齢により歩合をもうける

(29)

年齢により歩合をもうけず男女により区別をなす 折衷法半分は総人口、半分は年齢 田はある年齢以上の男女、畠は男女全員 年齢に関せず 貧富割 貧富および耕転力割 貧富および人頭割 貧富お よび勤功割 地割により持地数に異動をきたさざるもの さきほど見たように、年齢に差を設けるのはここでは新しいと考えてみる 。 何故なら日用銭を検討した際に年齢・ 男女に差を設けるのは新らしいものであったからである 。 そうすると人頭割は男女老幼 一 律となる 。 すると人頭割は 一 見平等に思われているが、はたしてそうであろうか 。 これを﹁家族﹂単位に考えるとどうなるか 。 男 一 人、女 一 人 に赤ん坊 三 人の﹁家族﹂と、男 三 人女 一 人とでは労働力に大きな差があるのは当然であろう 。 そうすると、年齢に関 係なく人頭割というのは、 ﹁ 家族﹂や﹁家﹂単位では具合がわるい 。 グ ル ー プ単位でないと不平等である 。 そこで右 のタイプを整理すると以下のようになろうか 。 年齢に関せず 年齢により歩合を設けずして平分す 男女 差 をもうける 。

(30)

年齢により歩合を設けず男女により区別をなす 年齢制が入る 田はある年齢以上の男女、畠は男女全員 半分は総人口、半分は年齢 年齢により歩合を設ける 貧富が生じる 。 ある意味で家単位になる 。 貧富および人頭割 貧富および耕転力割 貧笛および勤功剖 貧富割 持ち地割 むすびにかえて 考 ⑧ 中学生の教科書﹁農民の暮らし﹂には 尋ふ 問 欄 E員 ﹁ 江 戸 時代の村は数十戸から成り、耕地を持ち、年 貢 を納める本百姓と、耕地を持たない水呑百姓がいた 。 村 巻 の生活はほとんど自給自足で、肥料や燃料をとる林野や、田畑に必要な用水は村じゅうで利用し、田植えや祭り なども助け合って行った 。

(31)

四 幕府や藩は、村の有力者を名主(庄屋) -組頭・百姓代などの村役人にして、 年貢の納入に責任をもたせ、村 民の生活を監督させた 。 村役人は、初めは任命だったが、後には選挙で選ぶところも現れた 。 また、五

i

六戸を 一 組とする五人組をつくらせ、 たがいに助け合い、監視させるようにした 。 農民は田畑の売買を禁じられ、新田を開発すると厳しく検地された 。 日常生活についても、衣類や食事などの 規制を受けた 。 幕府や藩の財政を支える年貢は、米納が原則で、 4 公

6

民とか

5

5

民などの高い率で取り立て られ、そのほか助郷役など、さまざまな負担があった 。 ﹂ とあるが、沖縄にはそのままではあてはまらないのである 。 沖縄はようやく十九世紀にな っ て士族の 一 部が知行(地) の家督相続がなされたが、大部分の士族や地方の間切役 人や、農民にいたっては相続すべき財産はなかった 。 それはせいぜい祖先を祭る仏壇(ト 1 ト 1 メ l ) やお墓にすぎ な か っ たとい っ てよい 。 ⑩ そうした沖縄は、明治 三 十 一 年の旧民法が施行された 。 つ ま り 家 制 度 、 戸主 制度が適用されたのである 。 しかし当 時土地整理事業は始ま っ ておらず、民法は物権つまり土地や家屋とい っ た財産には適用されないという変則的な状 態で始ま っ たのである 。 それが完全に施行されたのは明治 三 十九年であ っ た 。 奥野が沖縄にや っ て来たのはそれから約 二 十年後のことであ っ た 。 その奥野にとっていわば家の成立の遅い沖縄 ・ 琉球は珍しくもあり、また法 学者 としての興味はっきないものであ っ たと思われる 。 また裁判 官 としての奥野にと っ て絶対的ともいえる、家制度・ 戸主 制度を批判的に検討する材料を提供する場所でもあ っ た 。 奥野が著書の原題を ﹃ 沖縄の人事法制史と現行人事法制史管見 ﹂ としたのは、そうした当時の 家 制度批判が 末尾にのっているからである 。 奥野は余議その 他の 文献史料をはじめ多くの聞き取りをも加味した、 い わ ば ﹁ 法社会史 学 ﹂ とでもいうべき業績を

(32)

論 考 ⑬ ⑨ E員 巻 打立てたのである 。 註 ① 奥野彦六郎 ﹃ 沖縄の人事法制史 ﹂ 一 九七七年 至 言 社 三 二 頁 ② 前近代

l

﹄ 一 九 八 一 年沖縄県教育委員会 。 以下、引用は同史料より 。 ﹁ 羽 地 仕 置 ﹂ ﹃ 沖縄県史料 首里王 府仕 置 ⑤ ④ ① ﹁ 法 式 ﹂ ﹁ 沖縄県史料 首里王府仕置 前近代 1 ﹂ 後に引用の史料に出る 。 安良城盛昭 ﹃ 新沖縄史論 ﹂ 一 九 八

O

年沖縄タイムス社 。 八 三 頁 奥野前掲 。 五 頁 ⑥ 奥野前掲 。 註 5 に 同 じ 。 ⑦ 那覇市史歴史資料 室 の島尻克 美 氏の整理による 。 ちなみに仕上世米が 一 万 一 千七百四十 三 石四四八七四にたいし、 上納米は 一 万六千八百九十五石 一 九 六 三

O

と な っ ている 。 仮に薩摩侵略前に同じ 王 府への米 ﹁ 上 納 ﹂ だ と す れ ば 、 米だけの負担は 二 倍以上とな っ たことになる 。 ③ 奥野前掲五五頁 ﹁ 団 地 奉 行 規 模 帳 ﹂ ﹁沖縄県史料 首里王府仕置

2

前近代 6 ﹂ 一 四七頁 久米島規模帳は現存しないが、毛姓家譜﹁伊野波家﹂( ﹃ 那覇市史 資料編 第 一 巻 7 ﹂ 八

O

四頁、参考文献の里 井論文参照)にその内容がしるされている 。 そ れ に よ る と 、 覚 一 久米島風俗之事 五

(33)

ム ノ、 一 岡田畠入組之事 一 向上納方見合之事 一 高 夫 遣 引 ム 口 之 事 一 唐船併異国船立火之事 とあって、風俗がいわば祭り冠婚葬祭にたいする規制であったと考えられる 。

﹁ 法 式 ﹂ ﹁ 沖縄県史料 首里王府仕置 前近代 1 ﹂ 沖縄県教育委員会 ⑫ 金 谷 治 訳 注 ﹃ 詳 細 語 ﹄ 岩波書店 一 九 七 六 年 ⑬ 前掲 二 一 頁 ⑭ 前掲 二 九頁 ⑮ 前掲 三 十頁 ⑬ 前掲 二 四八頁 ⑪ 前掲 三 六頁 ⑬ ﹁ 御 教 条 ﹂ ﹁ 沖縄県史料 前近代 l ﹂ 首里王府仕置 ⑬ 奥野前掲四六頁

@

伊波普猷﹁琉球の五偉人﹂ ﹃ 伊波普猷選集 上 巻 ﹂ 二

OO

@ @ @

奥野前掲四五頁

i

四六頁 ﹁ 球陽 読み下し編 ﹂ 角 川 書店 一 九七四年 三 三 四頁 比嘉春潮・崎浜秀明 翻 訳 ﹃ 沖縄の犯科帳 ﹄ 平凡社 一 九 七 一 年 、 三 二 頁

(34)

論 考 @ @ @ 百 貨 巻 @ @ @ @ 奥野前掲四五七頁 比嘉政夫 ﹁ 女性優位と男性原理 ﹄ 凱風社 一 九八七年 六

O

頁 前掲 ﹃ 球陽 ﹄ 同 頁 ﹁ 御 当 国 御 高 並 諸 上 納 里 積 記 ﹂ ﹃ 那覇市史 資料編 第 一 巻 の 2 ﹄ 那覇市役所 一 九 七

O

年 一

OO

頁 @ 安良城前掲九七頁 @ 註二七 前掲 一 一 六頁 @ @ @ 奥野前掲 二 五五頁 奥野前掲五

O

四 頁

i

O

五頁 本稿を執筆し始める直前の九九年十 二 月に行われた沖縄歴史情報研究会にて同じ趣旨の発表を行 っ た際に、豊見 山和行氏から﹁王府の仕明政策と久護家文 書 ﹂ ﹃ 屋 部久護家文書 ﹄ ( 名 護 市 教 育 委 員 会 一 九九九年 三 月)を見せて いただいた 。 同論文で豊見山氏も同じ趣旨の事を 書 いておられるが、田村の誤植を必ずしも指摘している訳でもな いので敢えてそのまま執筆した 。 ﹃ 近世地方経済史料 第九巻 ﹄ 五 二 頁 仕明けについても前掲、豊見山論文に詳しい分析がなされている 。 との問題について豊見山氏は前掲論文で﹁ ﹁ 地面忘却 ﹂ というのは、定期的な割り替え

(

H

地 割 制 ) の 下 に あ っ て 、 耕地に対する百姓の所持意識の希薄性を示していると思われる﹂とのべている 。 農務帳の最初の割り直しと地割申 し付けの文 言 をどのように考えるかは、以前に書いたが (﹁近世琉球における土地制度に関する 一 考 察 ﹂ ﹃ 時代を拓 く 儀間真常 ﹂ 那覇出版 一 九九四年)、永々授け置きと 言 う趣旨からいわゆる本土の本百姓の ﹁ 所持権﹂を王府は 七

(35)

八 めざしていたと筆者は考える 。 本稿はその前提を論じたかったため、本文よりこれをのぞいた 。 @ フイリップ・ C ・ブラウン﹁序文 地割制度外から見た面白さ、中から見た複雑さ ﹂ ﹁ 史料館研究紀要第 三

O

号 ﹂ 国文学研究資料館 一 九九九年 @ 安良城前掲 一 六 三 頁 @ ﹁ 地割基準 一 覧 ﹂ ﹃ 津堅島地割調査報告書 ﹂ 沖縄県教育委員会壱 一 九七七年四 六頁

i

O

頁 @ ﹃社会科(教育出版) ﹂ 四 頁 @ 旧民法施行後、現在九四年経つことになるが表面的には長子相続が話題、問題になるが十年程前の調査で次男 三 男にも相続されているのが現実である (仲地宗俊﹁農地の相続慣行﹂ ﹃ 農業法研究 お ﹄ ) この問題は本稿にそぐ わないので本文よりのぞいた 。 参考文献 里井洋 ﹁ ﹁ 田舎法式 ﹂ に関する研究ノ l 卜 ﹂ ﹃ 察温とその時 代 ﹂ 離宇宙舎 一 九八四年 高良倉吉﹁向象賢の論理﹂ ﹁ 新琉球史 近世編上 ﹄ 琉球新報社 一 九八九年 梅木哲人﹁近世琉球の成立﹂ ﹃ 新琉球史 近世編上 ﹂ 黒島為 ﹁ 人 頭 税 ﹂ ﹃ 新琉球史 近世編下 ﹂ 琉球新報社 一 九九

O

年 仲間 勇栄﹁ 柚山と村 落 共 同 体 ﹂ 山本弘文 ﹃ 南島経済史の研究 ﹄ 法政大学出版局 一 九九九年

参照

関連したドキュメント

関係会社の投融資の評価の際には、会社は業績が悪化

社会調査論 調査企画演習 調査統計演習 フィールドワーク演習 統計解析演習A~C 社会統計学Ⅰ 社会統計学Ⅱ 社会統計学Ⅲ.

[r]

地域の RECO 環境循環システム.. 小松電子株式会社

重点経営方針は、働く環境づくり 地域福祉 家族支援 財務の安定 を掲げ、社会福

社会学研究科は、社会学および社会心理学の先端的研究を推進するとともに、博士課

これに対し,わが国における会社法規部の歴史は,社内弁護士抜きの歴史

社内弁護士の会社内部の立場と役割, 社内弁護 士の外的役割』