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プレビッシュ再論(中) : 「周辺資本主義」論によせて

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プレビツシュ再論(中)

  一周辺資本主義」論によせて一

羽 鳥 敬 彦 工 はじめに 豆 「プレビヅシュ理論」について  1 対外的制約要因三一「プレビッシュ命題」一  (以上,第220号)  2 国内的制約要因論   特権実社会構造一  3 小 括 皿 「周辺資本主義」論  1 「周辺資本主義」の構造  (以_ヒ, 本号)

 2.国内的制約要因論 一特権的社会構造一

 既に多くの論者が指摘しているように,この頃のプレビッシュの見解には, 「周辺」国内の諸問題についての言及がなかったわけではない。むしろ,しだ いにそのウェイトが高まっているとみることすらできるのであるが,その際解 明されるべきは,議論の理論としての成熟度であると思われる。なぜならば, たんに問題点を提示することとそれに一定の理論的枠組みを与えることとは,       27) 別箇のものだからである。かつて,M. J.フランダース(M. J. Mlanders)は, 「プレビッシュ命題」について,それは1つではなく.いくつのものがある,       28)と把握したことがあったけれども,多分にこれはかなりの数にのぼるプレビッ シュの著作の間で,論点の若干の変化やズレがあることによるもので,全体的 27)以下では「周辺」の国内構造の問題とは,主としてラテン・アメリカの場合を対象   としているとみてよい。 28) M. J. Flanders, “Prebish on Protectienism; An Evaluation”, The Economic   Journal, June 1964, p. 305.

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 166   彦根下命叢  第224号 なまとまりを見失わせるほどではない,と好意的に解釈することもできよう。 しかし,この国内問題に関する彼の叙述まで含めるわけにはいかないようであ る。  ここでは彼の著作のなかでも,その点について比較的まとまっていると考え られるP.〔4〕を中心に検討するが,それでも議論は多岐にわたっている。 例えば,わが国におけるプレビッシュ研究の第一人者のひとりと目される大原 美範氏の要約をみてみよう。  「低開発国にみられた国内的制約としてプレビッシュが指摘する点は,(1)経 済成長率が低く,近代的産業部門に雇用しきれない過剰労働力がある,(2)自由 競争の作用が弱く,労働と資本の利用効率が低い,(3)住民とくに高所得階層の 消費i用向が高く,資本蓄積が不足している,(4)農業部門の生産性が低く,農業 生産の拡大が阻害されている,⑧特権的社会構造のため,社会的流動性に欠け ている,⑥行政の能率が悪い,(7)関税をはじめ諸税率が高く,価格にしめる税 の比重が大きい,(8>外国資本が国内の技術進歩を促進するという役割を果たし       う ていない,という諸問題である。」  ここに後述のインフレーションの問題を追加すれば,プレビッシュの提起し た諸点がほぼ網羅されている,といってよい。そこでこれらを眺めて,はなは だ羅列的であるという感想を抱いたとしても,必ずしも不当ではないであろ う。もちろん,それはプレビッシュの展開があまりに紆余曲折的であることに よるのであって,むしろここまでコンパクトにされた大原氏の貢献を多としな くてはならない。そして,これによってプレビッシュの国内構造論の欠陥を浮 び上らせてくれているように,私には思われるのである。すなわち,これら諸 要因には明らかに原因と結果が混在しており,全体を統一する視点を欠いてい る,ということである。また,背後には先の対外的制約要因が一定の影響力を 行使していることは,容易に推測されるところだが,それに対する言及は多く ない。  そこで,もっぱら国内構造の面に限定して考えるとき,次の叙述は重要で 29)大原,前掲『プレビッシュ理論とラテン・アメリカ経済』,pp.30−31。

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       プレビッシュ再論(中)  167 ある。  「ラテン・アメリカに広くゆきわたっている社会構造は,技術進歩,したが って経済的社会的発展の重大な障害となっている。この事実の主要な現われは 以下のとおりである。  (a)問題となっている構造は,社会的流動性を大きく妨げている。この社会 的流動性とは,社会における動態的要素の,つまり意欲と独創性をもち,技術 と経済の面において,さらに他の社会生活の面において,リスクと責任を引き 受ける能力をもった人々の,出現と興隆のことである。  (b)この社会構造とは,富の分配それゆえ所得の分配における特権の事情に よって,おおいに特徴づけられる。特権は経済活動のインセンティブを弱め, あるいは無効にして,人的資源・土地・機械の有効利用を損なう。  (c)分配に関わるこの特権の状態は,急速な割合での資本の正味の形成に反 映されるではなく,人口の大多数の不十分な生活状態とは対照的な,社会の上 流階層(upper strata)の浪費的な消費パターンに反映される。」(P.〔4〕, p.4)  しかも,この特権的社会構造は,多かれ少なかれ大原氏の挙げられた諸要因 のすべてに関連しているとみてよい。したがって,ここではこの問題に照準を 合せることにしてさしつかえないであろう。  上記引用中(b)からもわかるように,この社会構造とは,富と所得の不平等分 配に鮮明に表現されている。彼のデータ(同,p. 31−1960年代初頭のもの) によれば,まず上流階層は人口の5パーセントでしかないが,総個人消費中の 30パーセントを消費している。その対極にあって人口の50パーセントを占める 下流階層は,わずか20パーセントを消費しているにすぎない。そして,両者の 問に人口の45パーセントを占める中間階層があり,総消費の50パーセントを担 っている。このような不平等性は「個人所得と,その所得を受けとる人が経済 的社会的発展過程でなした実際の貢献との間には,何の密接な関係がない」も のであり,かくてこの特権的性格は,「すべての面で技術進歩のインセンティ ブを弱め,現代技術が要求する独創性と能力とをもった人々が,最良の地位を 見い出すのを妨げている」(同,pp.46,48)のである。

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 168 彦根論叢i第224号  例えば,農業において大土地所有が新しい技術の適応を妨げているのはよく 知られているし,工業部門においても過度の保護主義によって維持された特権 が,競争を制限し,技術進歩を抑制する役割を果している。また,上流階層の 浪費的な消費は過大であり,資本蓄積の阻害要因となっている。しかも,それ は「主として相対的に少ない労働しか吸収せず,大量の資本を要する工業製品 に向けられる」ため,雇用創出効果に乏しい性格のものである(同,pp.30F 32, 46−47)o  もちろん,かかる特権的構造は「歴史的に深い根をもって」おり,とりわけ, 「土地所有に関する特権を廃止」できなかった点が重要である。その後さらに 「過度の保護による特権が加わった」のであるが,その際「富の恣意的な取得 のための強力な手段としてインフレーションがあった」(同,p.45)という。  このように,ラテン・アメリカに蔓延している激しいインフレーションの原 因として,社会構造の問題を述べていた点は,後との関連においても注目して       う おいてよいことである。すなわち「所得分配に恣意的な影響力を及ぼしている ある種の社会層の力は,ラテン・アメリカのインフレーションの背景をな」し ており,特権的社会構造を温存したまま,とくに不況期において,投資を賄う ため,あるいは財政赤字を補填するために,単純に信用拡大に依拠するなら ば,インフレーションが発生する。加えて,過大な保護関税と,大土地所有に よって農業生産力の向上が阻止されていることなどは,強力なコスト・プッシ ュ要因を形成する。  また,このインフレーションに対して,労働者が労働組合の力などによっ て,賃金引き上げ,社会保障その他の国家サービスの拡大を求め,その損失を 補おうとする。他方,これらの圧力をかわすために,企業家は信用拡大をさら に促進しつつ,価格引き上げを図る。こうして周知のスパイラルへと導かれる 30) 周知のように.ラテン・アメリカのインフレーションをめぐって,当時いわゆる通  貨主義老と構造主義者との間で激しい論争が繰り広げられていたが,この点について  はさしあたり,大原,前掲書,pp・45−54,細野昭雄「ラテン・アメリカの『構造学  派』」『アジア経済』第6巻第1号,1965年1月,をみられたい。

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       プレビッシュ再論(中)  169 わけである。その過程で多大の犠牲を強いられるのは,強力な労働組合などを もたない農村の労働者あるいはその他微弱な社会層であるが,たとえ,彼らが この犠牲をカバーしうる力を得たとしても,今度はインフレーション・スパイ        ラ ラルの昂進を招くだけである(同,pp.49−51)。  これらのことから,「周辺」の地位に甘んじているラテン・アメリカの真の 発展のためには,社会構造の根本的変革が必要だとプレビッシュが主張するの は,けだし当然のことであろう。もちろん,求めるべきFものは「特権から解放 された社会秩序でなくてはならない。」(同,p.20)ところが,問題はそこから 先である。とうてい彼の叙述はまとまっているとは思えないのだが,それでも 私なり解釈すると,おおよそ次のようになるであろう。  まず,農地改革を含め,所得の再分配が不可欠である。そして,おそらくこ れは国による一定の強制を伴なわくてはならないだろう。また,高い経済成長 を達成し,雇用を促進する目的をもって,投資の増大もゆるがせにできないけ れども,このために国家は合理的な開発計画を樹立し,実行しなくてはならな い。このように,一方で国家機能が拡大することは避けがたいことである。  しかしながら,2つの点で留意しておくべきである。第1に,国家における 権力の集中によって,民主主義が破壊されないようにすることである。すなわ ち「ひとたび発展を阻止する構造的諸問題が克服されたならば,この権力は基 本的には強制によるのではなく,むしろ経済活動にインセンティブを与えると いうやり方で,行使されるべきである。というのは,体制の機能におる強制要 因は,国家の個人に対する恣意的支配への道を開くからである。」(同,p。59) 第2に,資本と労働の効率的利用を計るために,あるいは「多くの人々に自主 性の範囲を拡大する」ためにも市場メカニズムや競争をまったく排除してしま うわけにはいかないことである(P.〔6〕,pp。18,221)。こうして,「本質的 な目的は,個人の人格的行為に干渉することなく,体制の機能を通じて発展の 磁力をより規制しうる国家をつくり上げることでなくてはならない」(P.〔3〕, 31) プレビッシュのインフレーション論について詳しくは,P.〔3〕を参照のこと。そ   こでは,交易条件論との結合が図られている。

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 170 彦根論叢 第224号 p.64),というのである。  以上,「周辺」地域としてのラテン・アメリカの社会構造とその変革の展望 に関するプレビッシュの見解を概観してきた。そこでまず感ずることは,なる ほど特権的社会権造の分折については了解しうるものが少なくないにもかかわ らず,変革の問題となると不明確な点がいろいろあることであろう。いくらか ありうべき原則が示されているとはいえ,それを確定する新しい体制の具体像 が現われてこないのである。かかる状況では,たんなる道徳論に陥ってしまっ たり,せいぜい分配面での改良策を導き出すくらいのことしかできない危険性 さえあるといえよう(彼の主観的願望がそうでないことは明らかだが)。  では,どこに問題があるのか。思うに,特権的社会構造がいかに経済発展を 迎止しているか,という点の分析はあっても,その特権を成り立たせている基 盤の検出には成功しているとはいえないためではないだろうか。もちろん,農 地改革の必要性を説くなど所有間題等への配慮がないわけではないが,意識的 にそれらが姐上にのせられているとはいいがたい。問題の根本的把握なくして, ドラスティックな変革思想は生まれてこないし,体系的な政策論も期待されな い。彼の国内的制約要因論が,対外的制約要因論一「プレビッシュ命題」一       きヨ  に比してかなり見劣りがするゆえんは,まさにここにあるように思われる。  3.小   括  これまで,P.〔7〕までのプレビッシュの見解をいくつかの側面から検討し てきたのであるが,いちおうのまとめを試みておきたい。大別して,彼の議論 32) かつて,第1回UNCTADに提出された「プレビッシュ報告」に対して,故松井  清氏や辻忠夫氏は新植民地主義の範囲内のものとして厳しく批判されたことがある   (松井,前掲『低開発国経済論』.pp.82−108,辻忠夫「“社会政策”的貿易開発理  論の基本的性格一いわゆる『プレビッシ=報告』の評価によせて」『国際経済』第  16号,1965年,同「プレビッシュ報告は【南”の代弁か一低開発国開発理論の系  譜」『エコノミスト別冊増刊号』,1965年4月)が,もしそれがとりわけ国内的な政  策論の問題点に向けられていたとするならば,必ずしもこの批判に同意しえない筆者  としても,妥当する側面があったことは否定しがたいと考える。

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       プレビッシュ再論(中)  171 には交易条件論を中心とした対外面と,国内構造の問題を取り上げた部分とが 含まれていた。そして,それぞれに難点があったといえるようである。  まず,対外的制約要因論であるが,事態の進展とともに,交易条件論ではと てもカバーしきれない諸問題が噴出してきている。とくに,第3世界における 工業化の拡大にもかかわらず,貧困の解消セこは未だ前途遼遠としたものがある ということは,その政策論に多大の疑問を投げかけるものとなろう。この意味 で,「農産物を輸出し,工業製品を輸入する発展途上国とその逆を行なう先進 国というかたちの世界の分割はまさに終結の間際にある。」そして「この終結 は,その分割が工業にたいする農業の不利な交易条件に基づいているという信 念の誤りを明らかにするものである。もし,熱帯地方の労働力の60パーセン トが生産性の低い食糧部門に属しているのであれば,残りの労働力は農産物を 輸出しようが,工業製品を輸出しようが,低い価格しか得られないだろう。熱 帯地方からの輸入に対して先進国の市場を開放することは,たんにその低賃金       きヨラに基づく新たな輸出を開始させるだけのことである」というW.A.ルイス(W. A.Lewis)の批判は,多少の誇張はあるにしても,ほぼ妥当するものと考えら れる。  また,国内的制約要因論の方は,けっして理論的に深められ整理されている ほどのものではなかったし,変革の展望も不十分なままであった。そのうえ, これら2つ方面での議論が分離されたままで,それを統合する観点をついに提 起することはなかった,ということも指摘されなくてはならないであろう。  このように考えてくると,かなり精緻化されている交易条件論はともかくと して,彼の議論のいっさいを包括して,「プレビッシュの理論体系」とか,「プ レビッシュ理論」とするほどの完成度をもったものであったか,私にはいささ か疑問に思われる。そして,こうしたさまざまな欠点を克服する努力の成果が 次にみる「周辺資本主義」論であると位置づけることができるのである。 33)W.A・Lewis, The Evolution o∫地International uFconomic Order, P. 36.なお,  ルイスの開発理論全体については,西口清勝氏の労作,「W.A.ルイスの経済発展論  と現実」長崎大学『経営と経済』第60巻第3号,1980年12月,を参照せよ。

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172   彦根論叢  第224号 皿 「周辺資本主義」論  1976年国連ラテン・アメリカ経済委員会は,それまで20年にわたって公刊し てきたEconomic.Bulletin for Latin Anericα誌を廃し,新たにフ.レビッシュ の指導の下CEPAL Rerizu誌を創刊した。そして,この記念すべき第1号に, 彼は「周辺資本主義批判」と題する論文を寄せ,以下数号にわたる長大な「周 辺資本主義(Peripheral Capitalism)」論を展開した。そのタイトルを示すと次 のとおりである(いずれも,CEPAL Reviw誌である)。  R.Prebisih,“A Critique of Peripheral Capitalism”No.1, First half of 1976 (以下P.〔8〕と略記する)  一,‘‘Socio−Economic Structure and Crisis of Peripheral Capitalism”, No. 6,Second half of 1978(P.〔9〕)  一,“The Neoclassical Theories of Econolnic Liberalism,’, No.7, Apri1 1979 (P.〔10〕)  一,‘‘Towards a Theory of Change”, No.10, April 1980(P.〔11〕)  一,‘‘Biosphere and Development”, No.12, Dec。1980(P.〔12〕)  一,“The Latin American Periphery in the Global System of Capitalism”, No.13, April 1981(P.〔13〕)  一,‘‘Dialogue on Friedman and Hayek”, No.15, Dec.1981(P.〔14〕)  一,“Monetalism, Open−Economy Policies and ldeological Crisis”, No.17, Aug.1982(P.〔15〕)  一,“AHistorical Turning Point for the Latin American Periphery”, No.18, Dec.1982(P.〔16〕)  これらは,CEPAL Reviwに掲載されたものだけであり,その他の著作もな       き う いわけではない。また,健筆を誇る彼のことであるから,今後新たな研究発表 がなされることもありうるが,さしあたり基本的な考えは,以上の論稿で十分 34) とりわけブレビッシュは1981年に,Capitalismoρ6r影沈。. Crisis y transforma・  6ガ6η,Mexico city,という著作をものにしているが,遺憾ながら未見である。

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      プレビヅシュ再論(中)  173 うかがい知ることができるように思われる。そこでこれらの位置関係をみる と,P.〔11)において,それまでのP.〔8〕∼〔10〕の議論をいちおう完結させ ているため,1つのまとまりをなしているとみることができる。そして,続く 論稿は,基本的には前の議論の要約であったり,新たな応用を試みたものであ って,いわば補足的なものと考えてよい。とはいえ,ある程度の重複はあるに せよP.〔8〕∼〔11〕だけでも220ページ以上に及び,しかも豊富な内容をもっ ているため,小稿ですべてをカバーすることはできそうもない。それゆえ,こ こでは彼の「周辺資本主義」論のアウト・ラインを要約し,その含意について 考察することにしよう。  まず,このプレビッシュの新しい研究の最大の特徴を1つ挙げるとすれば, やはり「周辺」内部の構造と動態に,彼としては初めて体系的な分析のメスを 入れたことであろう。しかも,そのためにsurplus, articulation, heterogeneity, siphoning−off, dichotomy of technology, hegemony of centre, dependence, use of force等の,これまでの彼の著作にみられない用語を駆使しており,こ のことからも,彼の長い経済学者としての経歴に新たな1ページを画するもの であることが推測されるだろう。そのうえ,内容的には新古典派・マネタリス ト,新従属派,Basic Human Needsへの批判をも含み,今日的論争に一石を       ラ 投ずるものともなろう。  本稿では,まず「周辺資本主義」の構造に関する議論から検討を加えてゆく ことにする。 1. 「周辺資本主義」の構造

 a.一般的特徴

ここでも一貫して「中心」・「周辺」といういい方は維持されている。しか 35)本稿ではこれらの批判にいちいち触れていることができないが,まず新古典派・マ  ネタリス批判については,P.〔10〕,〔14〕が集約的に論じている。その他について  は,注6)の植松氏の論稿を参照されたい。ただ,同氏が,前掲「70年代のラゥル・  プレビッシュ」,p.113,においてプレビッシュの新従属理論批判はP.〔11〕, p.196,  一箇所のみと一される点は,誤りであろう(例えば,P.〔9〕, p.231以下をみよ)。

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 174 彦根論叢 第224号 し,工業製品輸出国を前者,一次産品輸出国を後者とする以前の規定はなくな り,次の新しい定義が与えられている。すなわち,「中心が革新的(innovative) 資本主義であるのと対照的に,周辺資本主義は本質的に模倣的(imitative)で ある。そして前者のヘゲモニーの下に,周辺は中心の資本,技術,消費パター γあるいはその他の文化的表規,考え方,思想,制度にますます広く門戸を開 放している」(P.〔9〕,p.173)というぐあいである。  このいわば能動としての「中心」,受動としての「周辺」というあり方は, いわゆる資本主義の求心的(centripetai)性格の現われであって,自動的にそ の相異が解消されるというようなものではない。なるほど確かに,「中心」諸 国が幾世紀にわたって達成した成果を得ることは「測りがたい価値をもつも の」である,とはいえ,「同時に,模倣は周辺の実際の環境と大きく矛盾し, 基本的欠陥を生み出している。」(P.〔8〕,p.13)  経済的側面におけるこの模倣性のもっとも重要な現われは,「中心」からの 先進技術の導入である。そしてこの技術導入の成果が, 「周辺」住民に均等に 配分されるのであれば,それなりに有益なものとしてさしつかえないけれど も,現実には「周辺資本主義」の模倣性あるいは資本主義の求心性が刻みこま       おの れた,社会構造の不均質性(heterogeneity)によって大きく歪められている, と主張する。  そこで,この社会構造の不均質性について,彼のいうところをみることにし よう。「周辺」の社会階層については,ここでも3つに区分されている。しか し,今やプレビッシュは,より明示的に対立的なものとして描き出している。  まず上流階層(upper strata)。 r大部分の生産手段を自らの手に集中してい る」人々を中心としたこの階層は,「企業において,その所有者に直接に奉仕 36)いうまでもなくheterogeneityとはhomogeneityと対をなす語であるが.「同質  性」に対する「異質性」と訳すと,ここでは誤解を招く解れがある。いわんとしてい  るところは,いくつかの異質な諸要素がそれぞれ一定の整序のなかで併存している,  といったようなことで,「異種混交性」としてもよいだろう。いちおう本稿では平易  に「不均質性」と訳すことにした。

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      プレビッシュ再論(中)  175 する,経営的,組織的,技術的熟練をもった労働力」や,金融家,高級官僚, さらには「政治組織,労働組織から現われて,上流階層に加入し,下の層から の圧力の緩和に役立つ動態的個人(dynamic individuals)」をも含んでいる。も ちろん,彼らは高い所得を得ているのであるが,その基盤は,生産手段の集中 が,彼らに「中心」国から導入された先進技術による利益を,後述のように 「余剰(surplus)」というかたちで第1次的に専有する(primary appropriation) 能力を与えているところにある。そのうえ,このことによって彼らは, 「特権 的消費社会(privileged−consumeir society)」を築き上げている。  続いて,中間階層(middie strata)も部分的にはいくらかの生産手段を所有 しているけれども,その所得は所有からではなく,むしろその保有している技 能からくるものである。また,この階層の主要部分は,強い力をもった組織労 働者たちであり,その「本質的な特徴は,上流階層の保持している生産性上昇 の利益を獲得しようと努力するところにある」。民主主義の前進とともに,こ の階層の闘争はますます激しくなり,「周辺資本主義」の対立的(conflictive) な:性格を刻印することになる。  最後に下流階層(10wer strata)であるが,技術進歩の利益の配分にほとん どあずからない彼らの力は,状況を打破するだけのものをもっていない。した がって,階層に含まれる人々の多さとその所得水準の低さから,経済開発の最 大の目標とすべき部分であるはずにもかかわらず,「周辺資本主義」の循環的 展開の頂点において,ようやく表舞台に登場してくるだけである(以上,P.           〔8〕, pp.21−23)。  ここで肝要なことは,技術進歩の利益がもっぱら上流階層に集中しているこ とであって,そこに「周辺資本主義」の排他的(eXClusive)な性格が示されて いる。そして,その利益の分配を求めて,中間階層を中心に下の層が闘争を繰 り返すのであるが,それはもう1つの性格,対立的性格を表現しているわけで 37)既に明らかのように,この区分の仕方は,生産手段との関係およびその所有形態か  ら説かれている階級のそれとは,基本的に異なっている。このために,例えば労働者  を3つの階層それぞれにふりわけるようなことも生じている(P,〔9〕,p.209)。

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176 彦根論叢 第224号 ある。これらをさらに深めるためには,まず,生産力増大の利益が「余剰」と して構造化されるメカニズムをみておかなくてはならない。   b。  「余乗日 (surplus)」  この「余剰」概念こそ,プレビヅシュのこれまでの著作にみられなかったも のであり,彼自身の言葉によれば,「周辺資本主義」論における「理論的説明 の中枢をなす」(P.〔11〕,p.185)タームである。 「余剰」という語から私た ちは,K.マルクス(K. Marx)の剰余価値やP.バラン(P. Baran)の経済       38) 余剰などを想起するかもしれない。けれども,その包括する部分はいささか狭 いようである。  一言でいって,この「余剰」とは,生産力増大の利益のうち上流階層が生産 手段の集中に基づいて留保する部分のことであって,彼の表現を借りると「生 産性上昇分のうち市場磁力の自発的な動きを通じては,労働力に移転されない       39) 部分からなる。」(P.〔9〕,p.156)。したがって,生産性の上昇によって生ず 38)時々プレビッシュがeconomic surplusといっていることは,バランのそれと同一  のものだとする誤解を招きがちになるであろう。例えば,P.〔11〕, p.200, P.〔12〕,  p.75,P,(16), p.16,などをみよ。 39) 「余剰」について,プレビッシュは別のところでこれとは異なる規定を与えてい  る。「経済全体としては,それ〔余剰一引用者〕は,前述の超過需要のために,企  業によって取得された最終財の総価格と既に支払われた所得によって表わされるそれ  と対応する生産コストとの差を示している。余剰は,企業の利潤,資本利子,固定資  本の減価償却費から成る。」(P.〔8〕,p.37)問題は第2のセンテンスであるが,これ  をもって植松氏は,バランの経済余剰概念をプレビッシュが導入したものと理解され  ておられるようである(前掲「70年越のラウル・プレビッシュ」,p.96)。しかし,こ  の規定と実際のプレビッシュの「余剰」の説明とはかなり異っているとみられるし,  また後述のように利子と「余剰」とを区別していることなどと考え合せると,本文で  引用した部分によって解釈しておいたほうが妥当であると思われる。なお,本文で引  用した部分と似たような箇所はほかにも散見するけれども,ここで問題としたセンチ  ンスのいい方はここだけのようである(さらに付言すれば,かりにこの第2のセンチ  ンスをもってしても,厳密にはバランの提起した3つの経済余剰のどれとも一致しな  いであろう。P. A. Barran, The Political Economy of Growth, first lg57(perican  Books,1973), pp.137−157,浅野栄一・高須賀義博訳『成長の経済学』東洋経済新報  社,1960年.pp.28−57,を参照せよ。)

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      プレビッシュ再論(中)  177 る,正統派経済学のいうところの,経営者の報酬や利子から区別された,組織 に帰属するものとしての利潤,あるいはマルクス経済学のいう特別剰余価値に       40) 近い内容をもっているといえるだろう。しかし,両者とも完全自由競争下で は,新たな生産性上昇のない限り,しだいに消失してゆくものと考えられてい たのに対して,「余剰概念は利潤概念と似ている。というのは,どちらもその 起源が生産性の向上にあるからである。しかし,新古典派の議論によれば利潤 は消失する傾向をもっているというけれども,余剰総体は存続するものであ る」(P。〔10〕,p. 171)と彼はいう。        41)  はじめに,「余剰」発生の論理を検討することにしよう。  ある最終消費財が市場に登場するまでには一定の期問が必要であって,その 間に原材料の獲得から始まり一連の加工:過程を経なくてはならない。そしてこ の期間中において,既に各生産要素への支払いがなされるのであれば,当該最 終財が市場に出される以前に所得が形成され,消費需要が喚起されることにな るだろう。つまり「ある時点の市場で販売される最終財の生産において発生し た所得は,その最終財に対する需要を形成するのではなく,それ以前に場に登 場している他の最終財への需要をつくり出す。」(P〔9〕,p.189)ここで一。  ①まず,生産性ののびがゼロで,しかも絶えず同規模の生産を繰り返して いる単純再生産の場合を考えてみよう。このときは,常に雇用量と生産量とが 一定であるため,他の条件に変化がなければ,支払われた所徹こより派生する 40)藤野正三郎『価格理論』東洋経済新報社,1975年,p. 228,では,「組織に対する報  酬は,企業がその企業活動を行なう以前では,予想し,期待されるものにすぎず,そ  の大きさは,企業活動の結果として,事後的にのみ決定される。その意味で,組織の  報酬は余剰である。この組織に対する報酬が利潤であるということができる。」(傍点  原文ゴチック)と述べられている。もちろんここでの利潤は,企業家報酬や利子とは  異なるものである。もしこういつたいい方が一般的であるならば,その説明の仕方は  ともかくとして「余剰」という規定自体はプレビッシ=の独創ではないかもしれな  い。 41) ここでは,P.〔9〕を中心にして説明することにしたい。 P.〔8〕にもほぼ同主旨  の叙述があるけれども,P.〔9〕ではかっての「不完全な説明を正そうと試み」られ  ているからである(P.〔9〕,p.185)。

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 178 彦根論叢 第224号 需要とそれに対する供給は一致しているであろう。しかしこれは,まだ市場に 現われていない最終財の生産過程で支払われた所得からの需要量と,現在市場 に存在している供給量とが一致しているためであって, 「セー法則で前提され ている理由によるものではない」(P.〔9〕,p.191)。  ② 続いて,雇用量不変とし,技術進歩によって生産性が上昇するときはど うなるか。そこでは,一定である需要に対し,供給が増大してゆくのであるか ら,生産力上昇分だけ価格は下落することになろう。すなわち,この形態で技 術進歩の利益が社会に還元されるわけである。  ③ しかし,「現実により近似した」仮定とは,他の条件は不変としても, 雇用量と生産性とがともに継続的に漸次増大していく場合である。ここでは, ②のような価格下落は生じない。現在市場にある最終財は,その生産過程にお いて支払われた所得からの需要よりも,生産i生上昇分だけ大量であるかもしれ ないが,今,市場に登場する需要とは,将来より多量の最終財の供給に結実す る,しかも雇用量の増えている生産過程で支払われたより大きな所得から由来 するものであって,さきの需要量を凌駕しているものだからである。「価格下 落を惹き起すことなく,より高い生産性によって増加した財を……吸収させる のはまさにこのより大きくなった需要である。」(同,p.192)  このことによって,企業家は通常の企業家としての報酬や支出された費用よ りも高い収入を得ることができる。いいかえれば,生産性上昇の利益の一定部 分(まったく当該財の価格下落が生じないで,しかも各生産要素の単位あたり 支出費用が不変のときはそのすべて)を,企業家は専有するに至る。これが, プレビッシュのいう「余剰」である。  ここで,企業家に「余剰」を専有させる直接の契機となった超過需要は,ほ かならぬ本人ないし他の企業家によって支払われたより大きな所得から発生し ているものである。そこで,この所得の増分をその企業家はどのような財源に よって賄うか,が問題となる。貯蓄部分の動員も可能であるとしても,不十分       イのである,とプレビッシュはいう。「周辺」では貯蓄率が低いからである。ここ 42)P.〔g〕,p.194.しかし,「余剰」が「資本主義発展における歴史的カテゴリーの

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       プレビッシュ再論(中)  179 で登場してくるのが,通貨当局による信用拡大(「貨幣的要因」)である。さら に,彼の主張に沿って述べることにしよう。  もし,ここにおいて通貨当局が通貨増発を行なわないならば,生産は伸び ず,経済の停滞は必至である,という。したがって,いやおうなく,当局は拡 張政策を採用せざるをえず,しかもそれは「生産の拡大に固有な通貨の増大」 であって,この「体制の正統な原理およびその反映である一定のルールと一致 している」ものなのである。かくて,この信用増大に依拠することによって, 企業家は拡大する生産過程における所得の増分への支払いが可能となり,そこ から前記の超過需要が生み出されることとなる。  なお,ここでは「少なくとも,この需要は生産性の上昇が価格の下落に反映 されなくても,この上昇によって増大した最終財を十分に吸収してしまうほど のものでなくてはならない。」どのようにして,かかる状態を維持するような 需要の管理がなされるのか。「確かに,そこには精密な調整機構はない」けれ ども,在庫が増加したり,価格が下ったりするなど需要不振を示す徴候が現わ れたならば拡張政策をとり,その逆の場合には緊縮政策をとるような,いわゆ る「ゲームのルール」を順守することによって,通貨当局がその役割を引き受 けることにな:る。  ただ,この「ゲームのルール」を通貨当局が維持しておれるのは,その力が 弱いために労働者など中・下層が分配面での不利な立場に甘んじているような 社会状態を前提としていることを,銘記しておかなくてはならない。もし,彼 らの力量が増大すると,「ゲームのルール」はもはや機能せず,いわゆる「社 会インフレーション(social Inflation)」が出現するのであるが,ともかくこう した背景があってこそ,企業家は生産力増大の利益を「余剰」として確保でき るわけである(以上,同,pp.192−193)。  上流階層による「余剰」の専有自体の説明は,およそこのようなものである が,いくつかの補足が必要である。 問題」(P.〔11〕,p。!85)であるならば,こういつた「周辺」の特殊的要因の導入は, むしろ説明を不十分なものとするであろう。

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 180 彦根論叢第224号  まず,「貨幣的要因」の役割について。彼によれば,それは「疑いもなく重 要だが,余剰の専有と保持に関わっているだけであって,余剃の発生自体には 関連をもたない。そして社会構造に起因する一つの過程から,余剰は生ずる」 (同,p.186)というように,「余i剰」を貨幣的現象とみなすことができない ことに留意すべきである。  また,「余剰」は企業間を流通しうるものであっ.て,例えば,最:初に最終回 生産者によって「余剰」が取得されたとしても,彼の生産財・消費財の需要拡 大によって,他の生産者は自己の生産物価格を引き上げることが可能となるか もしれない。このときは,前者から後者へ少なくとも「余剰」の一部は移転さ れるだろう。また,都市化の進行などによって,地代が上昇するようなときは, さらに地主へと「余剰」は流れるであろう。しかし,上流階層の範囲内にこの 動きが限定される限り,総体としての「余剰」は不変である。  さらに,信用拡大によって企業から支払われた所得の増分から発生する超過 需要のすべてが,最終財需要となるわけではなく,一部はサービスへ向うかも しれなない。けれども,そこから今度はサービス部門における所得増大とな り,一部は最終財への追加需要となって戻ってくるにちがいない。したがって 「ゲームのルール」を守ることは,こういつたサービス部門の問題をも勘案し て,生産性向上によって増大した最終財が,価格下落をもたらすことなく吸収 されるように,需要の管理を計ることとなるわけである。  さて,これまでサーヴェイしてきた「動態的過程」としてのプレビッシュの 「余剰」論については,いろいろな角度から難点を指摘することができるであ ろう。例えば,確かに貨幣の価値・流通速度および信用制度の諸条件を一丁目 して,生産量とともにその取引額が増大するのであれば,流通貨幣量は増加し なくてはならないだろうが,そのことと超過需要の発生とがただちに結びつく ものではない。また,もし「余剥」が「資本蓄積の主要な源泉」(P。〔10〕,p. 173)であり,「資本主義の発展にとってもっとも重要なもの」(P.〔9〕,p.186) というのであれば,資本主義の歴史において,たとえ労働者階級の闘争力が弱 い状況であっても,その展開は通貨当局の判断1つにかかっていた,という理

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       プレビッシュ再論(中)  181 解も生まれかねない。なぜならば,彼の議論では少くとも「余剰」の専有にと って通貨増発は不可欠だからである。また,問題を基本的に最終財に限定して いるのも一つの欠陥をなしているであろう。いずれにしても,彼の立論はきわ めて特殊なものであって,とうてい一般化しうるものではないと考えられる。 しかしここではそれ以上の深入りを避け,ただ次の3点だけを述べておきた い。  はじめに,生産力増大の利益を「余剰」の主たる源泉として,プレビヅシュ は位置づけているにもかかわらず,その叙述を詳しくみると必ずしもそれだけ に限定されていないことである。例えば,「次のことは注意しておくべきであ る。拡大局面において,生産性の上昇と価格の周期的上昇とによって,余剰は 増大する」(P.〔8〕,p.42,傍点引用者,以下ことわりのない場合同じ)ある いは「国内の価格運動は国際価格と関連している。もし,今日のように後者が インフレ的上昇傾向を示すならば,輸出入における名目的な高価格は,もはや まったく生産性の増大によらない国内的余剰の増加をもたらすような,より大 きな収益を与える」(P.〔9〕,p.193)などといっている。おそらく不況期に は逆のことが起こるだろうが,必ずしも生産力の上昇だけが「余剰」の原因と       きう していないことは明らかである。したがって,一般化すれば,何らかの理由で 超過需要が起こったときには,「余剰」が企業家の手に残るということになる だろう。ただ,プレビッシュのいわんとするところは,現実の過程では生産性 の上昇を伴っている場合が多い,ということであるように思われる。  第2に,経済発展に不可欠な資本蓄積の源泉として「余剰」を重視するのは よいとして,「余剰」以外の貯蓄にあまり注意をはらっていない点を指摘して おかなくてはならない。すなわち,貯蓄は利子率と不可分の関係にあるが,こ の「利子率の役割については多々論じられてきた。け’れどもこの問題を強調す 43)実際彼の「余剰」発生のメカニズムの説明からも,このことは予想されることで   ある。例えば,その他を彼の前提のとおりとして,生産性の上昇が生じていないにも   かわらず,生産拡大のためにより多くの雇用がなされるような場合には,いわゆる超   過需要が惹き起こされるであろう。

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 182 彦根論叢 第224号 る必要はないと思われる。というのは,企業の資本蓄積のより大きな部分に影 響するのは利子ではないからである。」それは「直接・間接に主として余剰か ら得られる」(P.〔10〕,p.173)というぐあいである。生産性上昇の利益を上 流階層が「余剰」として専有しうる背後には,彼らが生産手段の主要な所有者 であるということがあるにもかかわらず,同じ所有に由来する利子・配当など を軽視するのには疑問の生ずるところであるが,この点は後にあらためてふり 返ることにしよう。  最後に,生産力増大の利益がすべて「余剰」として企業家によって取得され る場合は,たとえ実質賃金が不変であっても,労働分配率は低下する。したが って,生産力が増大しているにもかかわらず,実質賃金の引き上げを獲得する だけの力を労働者がもっていないときは,「余剰」の増加率は生産量のそれを 上まわることになる。またもし,実質賃金がいくらか上昇したとしても,ある 点まではそうである。そして,これが「周辺資本主義」の通常の姿であると, プレビッシュは考えている(P.〔9〕,p.198)。  以上によって「余剰」の発生・取得の論理をほぼ説明しえたように思われ る。続いて,「周辺」に特有なダイナミズムの不足のために,「余剰」が構造 的に定置される議論をみることにしよう。   c.ダイナミズムの不足  これまでの「余剰」の説明では,生産力の上昇が全般的に行われるようなか たちでなされていたが,実際には,さしあたり他のもの先んじて特定の企業が より進歩した技術を採用することによって,独自に生産性を高めるのが通例で あろう。このとぎは,当然その企業のみが「余剰」を取得する。そして,その 際の技術の賦存状況は,ある企業にはより高い生産性を誇る最先端のものがあ り,他はこれまでの水準の技術を維持しているだけ,というものであろうが, とりわけ模倣資本主義としての「周辺」では「中心」から次々に新しい技術が 導入されているため,かなりの水準のものから前資本主義的なはなはだ低位の 技術まで,いわば階梯状をなしている場合が多い。つまり,このような「技術

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      プレビッシュ再論(中)  183 の不均質性(heterogeneity of technique)」(P.〔11), P.185)の存在は,「余 剰」の専有の継続の第1の条件といってよい。  競争の進展によって,漸次低生産性の企業とともに,そこで雇用されていた 労働力は駆逐され,一方で労働力の過剰化傾向が生ずるであろう。とはいえ, 他方で「余剰」を投資の拡大に振り向けることによって,排除された労働力を 吸収する動きも現われてくる。ただ,この吸収力がまだ十分に大きくならない うちは,過剰化された労働力による「退行的競争(regressive competition)」 (P.〔9〕,p。187)の圧力があるため,高生産性企業に雇用されている労働力 の賃金水準は,その生産性ののびに比して上昇せず,かくて同企業は「余剰」       44) を取得し続けることができるだろう。  したがって,「技術の不均質性」とならんで「退行的競争1のある限り,「余 剃」は存続するわけであるけれども,その「余剰」をさらに資本蓄積に向け続 けるならば,状況は変ってこざるをえない。すなわち「〔周辺において〕中心 諸国の技術が深く浸透し,余剰が可能とする資本蓄積の進展と,そのために低 生産性部門に従事していたより下の階層の労働力が吸収されることによって, 生産性の向上に比例して労賃を引き上げることを妨げていた退行的競争のシス テムは改善される。」「しだいに技術の不均質性が目立たなくなるにつれて,余 剰は減じはじ.め,ついには消失してしまうであろう。」(P.〔11〕,p.185)  だが,プレビッシュによれば,「周辺」ではこのような「余剰の安楽往生」          45) は起こらない,という。なぜならば,「周辺」内部の事情と「中心」による所 得の吸収(siphon−off)のため,そのダイナミズムが不足してしまうからであ る。ここでは,まず前者の問題に関する彼の見解を取り上げることにしよう。 44)以上の「技術の不均質性」・「退行的競争」による「余剰」の存続の論理は,前項で   みた通貨増発を不可欠とする「余剰」専有の説明といささか異なっているように思わ   れる。そして,ここでの議論はマルクスの特別剰余価値や正統派経済学での企業家報   酬・利子とは区別された利潤に関するものに,著しく接近しているといえよう。 45)既述のように,「余剰」が資本主義の発展にとってもっとも重要であるというなら   ば, 「中心資本主義」においても「余剰の安楽往生」は一般に存在しないことになる   だろう。例えば,P.〔11〕,p.186,をみよ。

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 184 彦根論叢 第224号  彼のいうに,資本蓄積の主たる源泉が「余剰」であり,まさにそれを上流階 層が専有しているのであれば,彼らがそれをどのような方面に使用するかが焦 点となる。そして,上流階層によって「特権的消費社会」が形成されていると いう叙述から,容易に想像できることは,彼らが「余剰」を十分に資本蓄積に 転じさせることなく,奢{量的消費に費しているということであろう。「周辺」 では「中心」からより進んだ技術を導入するが,それによる利益を「余剰」 というかたちで専有しうるという「上流階層に有利な所得の不平等分配は,こ の階層が中心の消費形態を模倣することを促し,しかもこの模倣は中間階層 にまで広がっている。こうして発展してきた特権的消費社会は,資本蓄積のポ テンシャルのかなりの浪費を象徴している」(P.〔13〕,p.145)というわけで ある。  しかも,問題はそれだけではない。ここで看過されてならないことは,その 資本構成に及ぼす作用である。この点を明らかにするために,プレビッシュは 技術を生産性を上昇させるもの,そして効能(efficiency)を向上させるものと の2種類に区劉している。まず前者であるが, 「生産性の概念は,物的生産設 備〔の改善〕および訓練された熟練労働のために,より多くの投資を行なうこ とによって,同量の財・サービスを生産するのに必要な人間的努力の安定的減 少に関連している。」そして「効能の向上は1人あたりの資本量の増大を伴う が,必要労働力を減少させないで,新しい商品や商品の新しい変種を生み出す ものである。これらの諸商品は以前のものより優れた質のものであったり,よ り優ったサービスを提供するか,あるいは虚栄ないし社会的に高い地位の人々 の需要に応ずることができるために,より効能の高いものである。」(P.〔8〕,p. 23)要するに,単位労働時間あたりの生産量の増大をもたらすものが生産性 の技術,生産量の増大を生み出さないけれども当該財やサービスの質を高めた り,より大きな:効用をもつ新製品を創出したりするものが効能性のそれだ,と いうわけである。もちろん,技術進歩において実際には両方の技術は,不可分 のものであり,しぼしば結合して存在しているが,所得水準の低い段階では生 産性向上的技術の展開が重要だろうし,また所得の増大とともに需要は多様化

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       プレビッシュ再論(中)  185 する傾向をもつため,それに応じて質向上的技術が大きな意義をもつようにな      う るであろう。  この2類型の技術に対応して,それぞれに投じられる資本も,生産力上昇的 技術に向けられたものを再生産的資本(reproductive capital),効能向上的な それに向けられたものを非再生産的あるいは消費的資本(non−reproductive or consumptive capital)というぐあいに分けることができる。ここで,両者の雇 用に及ぼす対照的な影響に目を向けておかなくてはならない。再生産的資本に おいてに,単位生産量あたりの必要労働力を減少させるけれども,その生産性 上昇の利益をさらに再生産的資本に投じることによって,雇用に対して補償的 (compensatory)に作用するばかりでなく,その継続は雇用を拡大する効果す       47) らもつ,という。ところが,生産性上昇の利益が消費的資本に投じられると, 「これらの消費財の生産も補償的雇用をもたらすだろうが,再生産的資本の場 合のような生産性の持続的な増大も,追加的資本と雇用をつくり出さないだろ う。つまり,そこには漸進的な蓄積はまったくないであろう。」(P.〔9〕,p・204)  「中心」諸国においてある程度達成されているように,両資本が均衡的に配 置されているのであれば,経済発展はかなり順調なものとなろう。継続的に生 産力を上昇させる再生産的資本の蓄積の進展は,財やサービスの質的な多様化 をもたらす消費的資本の増大をも可能とするし,しかも「同じ商品を一定量以 上生産することは不合理」だからである。こうして「ますます進歩せる技術と 結びついている諸商品の多様化は資本主義のダイナミックスにとって不可欠の ものであり,もし,このことが全体における消費的資本の比率を高めているの であれば,その理由は分配面の不平等性を正当に掛賑したうえで,そのことを 可能とするくらい十分に生産性が上昇したというところにあるわけである。」 46)なお,この技術の2類型は最終財に限定されるものではない,という(P.〔8〕,p。  24)0 47) 「生産性向上の利益が持続的に再生産的資本の増大に配分されることによって,よ  り高い生産性によって節約されたもの以上の労働を吸収するに十分なくらい雇用は増  えることになるであろう。」(P.〔9〕,p.204)。

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 186 彦根論叢 第224号 (同,pp.204−205)  ところが, 「周辺」においては,生産手段の主要な所有者である上流階層が 著しい所得の集中をベースに「中心」地域の消費パターンを模倣し,しかもそ れを自ら生産するために雇用拡張効果をもたない消費的資本により多くの「余 剰」を投じてしまう。したがって,両資本の組み合せにはなはだしい不均衡が 生じ,雇用拡大を可能とする再生産的資本の過少とともに,労働力の過剰化傾 向そして技術構造の不均質性はいっこうに解消されないことになる。  加えて,この現象は国家領域においてもみられることでもある。すなわち, たとえそれが上流階層の利害を全面的に反映した場合でも,後述のように中間 階層を「偽装吸収(spurious absorption)」している場合でも,国家の流出は軍 事費を含めて「素本質的な(non−essentia1)」消費的資本に向けられているこ とが多い。「周辺」における国家機能の重要さを考えるとき,このもつ意味は 大きいといわなくてはならないであろう。  以上のような上流階層および国家の行動によって,社会構造の不均質性は根 強い地盤をもつに至るのであるが,そのことはまたさらに「余剰」を上流階層 が専有することを可能にする。したがって,一種の悪循環であり,上・中・下 各層の所得の不平等分配はより大きくなり,とりわけ下流階層はますます経済 発展において疎外されるようになる。これがプレビッシュのいう「周辺資本主 義」の排他的性格である。  しかしながら, 「周辺」の工業化の進展によってとりわけ中間階層はその力 量を高め,「余剰」の配分をめぐって激しい闘争を開始する。このために,今 度は「周辺資本主義」の対立的な側面がクロ 一一ズ・アップされてくるわけだが, その検討の前に,「周辺」のダイナミズムの不十分性をさらに強めているもの としての, 「中心」との関係についての議論に目を通しておかなくてはならな い。       (つづく)

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