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<感覚の三つの段階> : デカルト『省察』第六答弁第九項

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(1)Title. <感覚の三つの段階> : デカルト『省察』第六答弁第九項. Author(s). 佐々木, 周. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. A, 人文科学編, 33(2): 1-15. Issue Date. 1983-03. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/4133. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . <感 覚 の 三 つ の 段 階> -- デカルト 『省察』 第六答弁第九項 --. 佐 々. 木. 周. 辛崎の松は花より鹿にて 芭蕉 「予が方寸の上に分別なし。 (……) ただ眼前なるは,」( 『雑談集』 ). く見て と る こ と ・ 認 め る こ と> と くわ か る こ と> とは, 異なっ た事柄だと 思われる 「書架の本の ,. 配置を見てとる」「フランス人のフランス語を聞きと る」 , あるいは 「庭を見て, バラが咲いている のを知る」 と語るときの「見てとること・聞きとること」は感覚的知識とよばれる. 「本当にそうだ とわかる」「なぜそうなるか知 っている」 , さらに 「そうあってそうでないことがありえないとわか る」 と語る場合の くわかること〉 は, 学知 o 学 問 的知 識 とい わ れる. こ の 二 つの く知 る こ と .知 り. 方〉 の間には, どのような違いがあり, どのような関係があるのか. デカルトは,『省察』 初版の最後に近い第六答弁第九項( 6eRきp 39 )で,「感覚s ensus .436 ,26一4 ,25 i d を三つのいわば段階に区別して」( 2 7 ) 説明している さきの問いに対して 私はこの論文 .436 , , . で, デカ ル ト の こ の テ キ ス ト に 則 して 考 え て い こ う と 思 う。. 1 }のほぼ最後に位置する このことは偶然ではない たしかに ガ サ この個所は, 『省察』 初版( 。 , ッ , 2 }が この初版をめくるデカルトの最後の仕事であり( 3 ) ンディ 哲学の 「援軍」 たる無名氏への答弁( , , ’Hype 「他のものと一緒に印刷 できるよう」 (a 〔 1 i t 〕Ju ) 急いで答弁を書き, 一時 rasp s e s ,422 ,6 4 ) この反論答弁は 単に「印刷されるには(パリへの) 期第二版にこの応接を加える考えさえあっ た( , 。 5 )(ロディ ス=レヴィ ス) ためにのみ 初版に付け加えられなか たのだろう だ ( 到着が遅すぎた」 っ , , が, 第六反論と答弁をパリに送った時点では, この 「援軍」 氏の反論を, 少なくともそのまま受け 6 } 第六反 とる気はなく, 答弁するとしても印刷するため ではなく彼に見せるだけの心づもりだっ た( . { 7 ) 論者たち以降の反論はすべ て 「別の巻にとっておく」 ( i d 4 2 2 3 4 1 1 1 - ) 気でいたのだ . , , . 第六答弁 は初版の最後を飾るものと, デカルトは考えていた. この第六答弁の位置が, よく知られている最後の第十項の〈告白>の説明になるだろう. 「卒直に. i ipsum」 (6e Rる 」 「自 分 自 身 を me 39 ngenue ) 語るその内容も意外なもの で, 思わず本 p .4 ,22-3. 8 )(ジルソン) あるいは 『省察』 の歩みの基盤・背景があらわにな た( )(グイエ) と 音がもれた( っ 9 , , , でもいえるような, いわば幕のおりたあとの舞台裏の話なのだ. また, 第十項は主として, ドoラo バ ルト神父の質問のために書かれたのだが, その問いは 「人間の魂の身体からの区別」 ( l i t t edu2e.

(3) . 佐々 木. 周. きd ) .de MM. , 『省察』 の主題そのものを問い直すものであり, 「省察本文がきわめてはっきりと答 1 0 ( )(アルキエ) 質問だ デカルトは 「ごく簡単に entroi 」 えを与えている」 何か 「場違いな」 smot s .. arabbedeLaunay, 皿,420,9et12) と り あ げ る. 素 朴 記されたこの疑問を 「第六反論の最後で」(. であるがゆえに根幹にかかわる問いを, 『省察』とは異なっ た語り口で答えることが, デカルトの意. 図 であ っ た.. 第十項のもつ特有性は, そのまま第九項にもあてはまる, と私は考える. おそらく, この位置の 1 ア ダン)が 第九項を読む者に { 特有性と, ガッサンディ に対する長い答弁のあとの「気やすさ」 , , 彼の立ち向かう問題の素顔をかいま見させるのだ.・第六反論は, 他の反論と違い複数の人々による. 反論をまとめたものである. 郵便事情もあって, 何回にも分かれて届いたこの反論のまとめ方には a Mersenne, デカルトの考えが反映している. ド・ラ・バルト神父の反論は, 「第六反論に付け加え」( m,385 ) られ, そののちに届いた論点は, 彼によって第六反論の第七, 第八項として, 第六反 ,20 i 2 ) 反論者の 「最後だがとりわけ問題だと思われる」「蹟きの 論の最後の論点の前に位置づけられた( . i d l 6eob 0 )を ) は, 「人間がその本性上もちうる最大の確実性」 ( 石s i 」( c rupu us .418 .418 ,21-2 ,1 感覚に帰す見解に基づいている. この見解に固執することが, どれほど 『省察』 を読む上で障害と. なるかデカ ルトはよく知っていた. 彼は 『省察』 本文が始まる前に四度, 献辞で, 序文で, 内容の i l t 要約の中で, その点に読者の注意を促した. 「精神を感覚との提携から引きぬくこと」(Ep s o a , ,4. i bus abducere io 29一30 ), 「精神 を 感 覚 か ら 引 き 離 す こ と mentem a sens 」 (Pr先fat ,9 ,25-7; Synops i ti d ) の難しさを, 最後にもう一度, ただし違う仕方で彼はとりあげ s ,12 ,7-8 ,e .14 ,21 る.. デカルトが感覚の 「三つの段階t re sgradus」 に つ い て 語 る の は, こ の個 所 だけ であ る. こ の こ と. は, 『省察』 の歩みの中では, 三つの 段階について語る場がないことを示している. まず, 「答えら れるべき問題が依拠している前提を, その問題に関して結論を出す前に, すべてあらかじめ書きお i 3 いておく」 (Synops ) べく心がける 『省察』 の秩序の中では, のちに触れるように, 不 s ,1 ,4-5. 当前提の誤りを犯さなくては, 三つの段階をまとめて語ることができないからである. 第二には, 三段階を語るために物体をひきあいに出すこと自 体が,「順序に基づいて哲学するために, 感覚的な. 2eRきp 34 7‐9 ものから思惟を遠 ざけようとする」( ) 人々に蹟きとなる. 『省察』 本文の中で, .1 ,1 彼が感覚の確実性について 語るのは, いわばゆっ たりと昔を思いおこすときである. すなわち, 第 8 一省 察冒頭 --「精神をすべての気づかいからとき放した今日」(IM. 17 ) 「これまで , 13-1 ,1. hac i d t 『省察』の歩みはここから始められねばな- らなかった)--, )( 」をふり返るとき( enus .18 ,15 0 3 2M.29 第二省察の 〈蜜蝋の分析〉 の個所 --「精神の手綱をすっ かり緩め」 ( ) 「普通は , -30 ,1 l i d 0 )どう考えていたかを考察するとき -- vu go」( .3 ,3 ,第六省察の実在的区別証明の前段 --「今 h 4 1 2 t 7 までan M 6 ) のことを回想するとき 」( . , e ac , つまりは 『省察』 という六幕劇が始まる 以前の出来事を報告する諸場面がそう である.(第三省察の外来観念に関する部分と, 第六省察の区. 別証明以降に含まれる感覚論については, のちに触れる. この二つの個所は 「省察の順序が要求す id 7 る」 (3M.36 ) に定位している.) .et6M.7 ,30) 「今 nunc」 ( ,28. i段階”こすぎない. この個所で『省察』の だが, デカルトが語るのは「感覚の三つのいわばqua s im」 歩み方をやめたからといって, 『省察』 に含まれる感覚論を集めて 「総合によ って pe rsynthes. 2e Rるp ( ) 語 る わ け では な い. こ こ で問 題 に な っ て い る の は 第 十 項 と 同 じ種 類 の 問 題, 「一 .155 ,22. つのものとして多くのものを一緒につかまえている」 こと, 「より事細かに吟味して区別する per. iusexamen d i ingere」 ( 6e Rるp t accurat ) 必 要 性 で あ る. 〈見 る〉 と いう 普 通 の こ と ば s .445 ,20-2. の内に, 通常は混同されている三 つの使われ方を区別することが, 彼の目的であった, と私は考え.

(4) . <感覚の三つの段階〉. て い る. こ の こ と は, 第 九 項 の 解 釈 に 二 つ の 点 で 難 しさ を与 え る. ま ず, sensus の 三 義 が, 今 こ こ. で, 日本語の中にもあること, すなわち, 何か奇妙に聞こえるかもしれないが, ある一つの事柄が 同じ一つのことばで三様の語り方で語られることが, 人間にとっ て何か必然的であること, を示さ ない限り, 問題はいわばラテン語圏にのみ属するものになってしまう. 次に, どの使われ方も普通 であるという点では, デカルト自身の使い方も例外 ではなく, デカルトの他のテキストを援用する. ことが, 一種の循環論法にならないよう, 細心の注意を必要とする. だがこのことは逆にいえば, 散在する感覚への言及を読みとくためには, 常にこの第九項が参照されねばならないことを示して い る.. 第九項は, 三つのパラグラフ でできている. 反論者は,「感覚の働きを信頼すべき でなく, 知性の 確実性は感覚の確実性よりはるかに大きい」( 6e obi .418 ,10-2) と いう デカ ル ト の こ と ば を 問題 にする. デカルトは, それには直接すく答えず,「感覚の確実性とは一体どのようなものかに正しく 6eRきp 注意を向けるために」( ) ,436 ,26 , まず第一 パラ グラフで, 感覚の三つの段階について語る. i 次に第二パラグラフ で, 「例として, 棒を見ているとき」( d 2 ) をとりあげ, 三段階を説明す .437 ,1 i d 4 3 1 2 4 3 8 1 7 5 - る( 「 ) これは反論者があげたもので ま すぐなのに っ . , , . , , 棒が水の中で屈折の 6eob 6-1 7 ため曲がって見える」( i ) という事例 である. この例は古代アカデメイア派に由 .418 ,1 1 3 ( ) 1 4 ) 以 上 の 準 備 の あ と 最 後の パ ラ グ 来すると 思わ れ , 第 五 反 論 者 ガ ッ サ ン ディ も 言 及 して い る( , . 6eRきp 39 ラフで答弁を行なう ( ) まず ( 今私が引用した二つの ) 反論者のことば .438 ,16-4 ,15 , . ign i6car i 6eRさp を引 い て, そ れら の こ と ば が 何 を「意 味 し s 」( .438 ,17) どう「言 っ た の と同 じidem. t acs id i i d t es ) 」( r e ur ce .438 ,25. かを確認する, 次に, 反論者がさきの例の場合, 「何がこの間違 いをただすのだろうか. 知性だろうか? 決してそう ではなく触覚なのだ」 (6e obi .418 ,17-9) と付け加える点をとらえて, この点を納得できないとしりぞける. そして,「感覚と名付けられてい る sensus v i d t 」( ) ものの区分け直しに基づいて, 反論者の引く 「ちょう どこの例に ur oca .439 ,6. i d 2-3 おいて, 感覚の誤りをただすのは, まさに知性である」( ) こと, つまり 「知性の確実 .439 ,1 性は感覚の確実性よりはるかに大きい」 ことを示して, デカルトはこの項をとじる.. 註 デカルトの著作からの引用は, すべてAT新版, すなわち, i l l eesparCh ion l 侶勿惚s d8 Descα“es,publ tP,Tannery i in t epresenta s s .Adam e . (Par ,Vr ,nouve ,1lvo ,J ,. 1964-74 ). より, 慣用に従って書名・章節を略し, ローマ数字で巻数を, アラビア数字で頁数および行数を付して, 本文中に 記す, ただし, 『省察』 からの引用に限って, 書名と巻数を省く. ( 1 ) 初版の成立事情については下記を参照, 所雄章 『デカルト1』(勤草書房, 校訂新版, 1 )p 4 9 6 9一5 5 7 .1. ’ G,Lod isLewi i i )p s sm“e ) s (Par s n e133 ,Vr ,208一11 .517-8 (not ,L 侶例 解s dB Dβ ,J ,1971 ,p Ch A d D i 打 i ldCe f s(Tome 通 dePanc sm 硲 ′ Sα 〆β 劣 s e s αzのせ )P enneed s r . am, e ,AT. . ,Par ,L邑opo ,1910 289-303 ’H pe ’H pe 1 i 1 i t tes ta 〔 te { 〕 aDes 1 1 1 1 2 ) …〔 s es ( 3 ) a Mer car 〕,1 s s senne y rasp y rasp ,397一412 .421一35 ,1 ,e , 1 4- 6 M 4 4 9 1 2-6 M G L d i L i # 1 1 1 4 a ( ) 1 1 1 a ( 5 ) r n ( 6 ) e s e n e r 0 5 1 8 e s enne s e w s ゅ ‘ p ,436 . , .. , ・ , , , 1 1 1 ( 7 ) a Huygens 1 1 ) .417 .772 ,5-22 ,(R.155 ,32-3 ,1. l i ( 8 ) グ E,Gi son z″ を 7副g d g 超 姥欄彰 粥a燐β粥を 叱れ s s 卿 尤粥?防ぎの2 加 野s館“ ⑦ 〃cのすゐ卿2 , ,Eカメβs , (Par ,J 4 Vr in .165-8 ,1975) p. i i i n ( 9 ) ザ H.Gouhier(1) sm打e s s q”e dB Dβ ,Vr .41-5 ,乙α 肝鋼s彰 “泊Zゆ 毎s , (Par ,j ,1978 p.

(5) . 佐々木. 周. i i i m e Tomel ( ) Dgsm打e l s′ @例解 ‘綴 るd )p s P珍物sop脳qz s er .parF,A1qu .858 ,Garn ,1967 , (Par ,notel ( 1 1 } Ch .Adam,oぬ . 〆乙 p .251-2. ( 1 2 ) a Mer =.415 senne ,. ,11-8. 1 3 ( ) 古代および当代の懐疑主義的文献とデカルトの関係については, 下記を参照.. H.Gouh i 1 ) e r( .34-5 ,p R.H.Popk in l iv f scゆZたな粥 ルリ伽 E“硲m“sZ l i forn i O SPば れo撚 (Berke ey ) a P. ,Z脳 圧禽わりo .ofCa ,Un ,1979 1 2一2 1 7 3 p .. ポプキンによれば, デカルトは「ピュロン主義的危機に現代の問題として強い関心をもっていた」( )が, 3 7 p .1. セ クス ト ゥ ス・エ ン ペ イ リ コ ス以 来の く十の 方式〉 の中 で, こ の 「新 ピ ュ ロ ン 派は 錯覚 sens l lus i ei onsに とりわ. け力をこめた」( ) という. 7 8 p .1 懐疑主義に関する古代の文献の中では, アウグスティ ヌスがとりわけ注目される, アウグスティヌスは, モー i 〆“ i i 1) アウ ゼとパウロの 〈幻視〉 を論じて, 〈v nus s oの三分類〉 に言及する (グ August . Ge〃 .αd/ .X工 ,DB ... グス テ ィ ヌ ス も〈水中 の椎〉の例 を, アカ デメイ ア 派への 反論 の 根 拠 と して( i d 1 1 Zあの血, Z .C .Amd.1 .24;SO , ch h 9 1 D T す 7 XV h 1 1 1 2 2 1 i i c ) 引 用す が の例 と 〈 類〉 B γ れ る こ の三分 を関 連 させ 論 者 c v s o た がある ; , ., , . , , . R.A. Markus eα 7 2di 粥昭”のZ o“ .SB〃s ,Az省婚”” , T脳 Cα伽る“〆ge 狂逸わ” ザ L防げ ,in A.H.Armstrong,ed. 3 G″豹 αれd B好か 粥頭彰加ZPためs idge op毎 (London . U.P.1980) ch .24 .374-9 ,Cambr ,p 5 o b 2 ( 1 4 ) e i .333 , 1一6. 1 1. 以下の議論のために, 第一 パラ グラフの三段階を語る個所を, 原文とともに引用しておこう. )つま 「第一の段階に属するのは, (1イ)外的対象が身体器官に直接的に触発する もののみ, (1イ′ 形と位置の変化そのもの である りその器官固有の運動そのもの, そしてこの運動のひきおこす , . i i t jec Ad pr l lud quoimmedi tur organum corporeum ab ob imum pertinettantam i s atea伍c d i i hi lal externi s udesse potestquam motusparticularum istiusorgani ,et丘guraeac ,quo quen. l lo motu procedens i ) tQs mutatio ex i s .436 .」 (6e Rきp ,2 ,27一437. 2 「第二段階が含むのは,( 2イ)精神がこのように触発さ れる身体器官と結合さ れているがゆえに,( 2ロ′ )たとえば痛みを知ること, ロ)この精神に直接的にはねかえってくるものすべて, であって,( 2イ′ ) くす ぐっ たさ, かわき, 色, 音, 味, 香り, 熱さ, 冷たさ, そんなものを知ることがそう で, ( 精神が身体と結合しいわば混合されているがゆえに, こういっ た知が生じるのだという点は, 第六 省察で述べた.. Secunduscont ineti ia d omnequodimmed teresultatin mente ex eo qu6d organo corporeo l ii fami ii l l i i s l dl i t ic a l s f fecto unita sit s s , sapor , , Co orum, sonl , ts , ,ta esque sunt o ors , t at on s i ist ione ment l ium quas orl f i i et s i is calori l per l r ] [ l s cum rni r・ ex unlone ac quas odor s , , , r gors ,. i d ione di t tat corporei ctum es n sexta Medi .437 .」 ( ,2-8). a )身体器官 )それは,( 「最後に第三段階は, (3イ)ある種の判断をひとまとめにしたもので, (3イ′ c )それ b )私たちの外のものについて幼い頃からそう 判断する,( が動かされるちょ う どそのときに,(. に私たちが慣れているような判断, のことだ.. Tert ius deniquecomprehendi iai l lajudicia,quae,occasione motuum organicorporei tomn ,.

(6) . く感覚の三つの段階>. id derebus extra nos abineunte aetate facere consuevimus ) .」 ( ,437 ,8-11. この個所の重要性を改めてとりあげ, 『省察』 本文の解釈と関連させたのは,ジャン・マリー・ベ 1 )である 彼は 蜜蝋の分析を <広義> ( 2M,2 9 イサッ ドの論文 「蜜蝋の分析」( ) と 〈狭 , ,19-34 ,9 . i d 8 義> ( ) に区分し, この区分に基づいて三つの問題を提示する. その第一間で, 感 .30 ,7-31 ,2 覚の第一段階と第二段階との, 第三問で, 第二段階と第三段階との違いを利用して解決し, ようとす 2 ( ) る. この示唆に富む論文は, 「いくつかの論点でおそらく決定的」 (マリオン)とさえ思われる吟味 を行なっ ているが, 感覚の三段階の解釈に関しては問題を残している. たとえば, 村上勝三は彼の 3 } 香川知晶は 彼の第一問題の解釈を問題とし むしろ第三段階の 第二.第三段階の解釈に反対し( , , , 感覚こそが 〈狭義の分析〉 の対象であることを論じながら, 第二・第三段階の違いに問題が残るこ 4 } と を認 め て い る( 。. 問題の困難さは, 第二段階と〈ことば〉との関係にある, と私は考える. 第九項の説明によれば, ingere と す る な ら」 (6e R t 6p 「知性から事細かに区別しよう accurate di s .437 ‐ ,24-5) こ の 第 二段. 階のみを感覚と呼ぶべき であり, 第一段階とともに 「ここには どんな誤謬もありえない」 ( i d 38 .4 ,. 23 ). ロ ディ ス = レ ヴィ ス は, 第 一 パ ラ グラ フ の 第 二 段 階 の 定 義 を 引 用 して, こう 述 べ る. 「す な わ. ち, 人間にあっては, 諸感覚はある言語体系になる. 、 害のあろうはずもない軽い接触は, くすぐっ 5 ( )村上勝三は たさという心地よい印象をひきおこし, それが強くなれば, ただちに痛みにかわる。」 , 6 ( ) この個所を念頭において, 次のように述べる . 「第二段階としての痛みは く痛いと想 ったけれど, それは撲っ たさの度のやや強いものに過ぎなかった〉の如く言及されるような痛みではない.〈痛さ> として言及されるような痛みは 『 失晋性の内にしかない』 のである.」 〈痛いという〉 ことは, 第三段. 階に属 し, 第二段階の 「痛みは く痛み〉 という名前で呼ばれるにしろ呼ばれないにしろ, 我々 の抱 く <感じ〉 と言っ てよい,」 (傍点筆者) ここでの議論は, とりわけ痛みについてのみあてはまるの では ない。 第二段階は, 「視覚を介して得られる感覚の場合ならば, 単なる〈見え〉に過 ぎないよう な く感じ〉 と言える.」 第九項の解釈の問題点は, この <見え・感じ> の位置づけにある。 おそらく. デカルトはこの第二段階で 〈見え・感じ〉 のことも考えていただろう (この点で村上氏は正しい) . だが, く第二段階見え・感じ説> を一度は追放しておかないと, 第九項の解釈にあたっ て, ただちに いくつかの問題をひきおこしてしまう.. まず, ことばで言い表わす前の 〈見え・感じ〉 について語ること, そのことそれ自身に含まれる 問題がある. デカ ルトの引くアカデメイア派以来の〈相反するあらわれ〉の例, 「遠くからは円く見 6M,7 6 3-4 えていた塔が, 近く では四角くあらわれる」( ) という例 で考えてみよう. ここでく円 ,2 い> とあとで名 付けられるある 〈見え〉 と, <四角い〉 と呼ばれることになる 〈見え〉 は, 異なっ た. 〈見 え〉 な の だ ろ う か。 語 ら れ る 以 前 の 〈見 え〉 に つ いて は, 〈同 じ であ る, 異 な っ て い る〉 と 語 る. ことの基準がない. だとすれば, 第二段階の感覚が 〈ある〉 と語ることは無意味にならないだろう か. 第六答弁第九項の答弁方針には, 実際第二段階が 〈きいてこない〉 ようにも思える. デカルト はこう語る. 「何の考察もなしに作りあげた」〈塔は円い〉という判断と, 「新しく何か気付いてなし 38 0 6eR6p ) 〈塔は四角い〉 という判断とのどちらがより確かであるか. 〈棒はま っす た」( .4 ,17一2 ぐだ〉 という 「触覚によって得られた判断」 と, く棒は曲がっ ている〉 という 「視覚によって得られ. た判断」 とのどちらを信じるべきか. それを私たちに教える論拠は, 「知性にのみ帰すべきものだ」. id ( ), この 答 弁 の どこに 〈見 え ・ 感 じ〉 が 必要 な の だろ う か. .439 ,7-11. 答弁のみ でなく, 反論にも目を向けてみよう. 第六反論者は, デカルトの感覚不信に驚く理由を こう語る.「というのもどう であろうか, あらかじめ適切に配置された感覚から手に入れるのでなけ.

(7) . 佐々木. 周. i l t tudinegaudere, apossitintellectuscer inul れば, どんな確実性も知性は享有できないとす ればs. i以 下 の 部 分 は, 6e ob i i i t i ). こ の s 」( l pr lus eam a sensibus bene d nls spos shabeat .418 ,12-4. l l estininte ‐ 「学校で格言となっ ている 〈あらか じめ感覚 の内にないものは理 生の 内 に な い〉 nihi io de me lectu quod non pr i thodo idsfuer tinsensu」 (Di ssertat .4 ,V1 ,561 ,18-9) を 思 い 出さ せ. る. たしかに 「感覚的認識は, 全面的な完全な意味における知性的認識の原因であるとはいえない h i b t が」 , 〈見 え . 感 じ〉 と い う 「感 覚 か ら 得 ら れ た 表 象 像 p antasmataasens usaccep a」 は 「あ る ( 7 ) iacausae であ る」 (ト マ ス) の では な い か. トマ ス 説 の 「問 題 点 の 手 軽 で 意 味 で 原 因 の 素 材 mater. 8 ( )(ジルソン) が志向的形象説だとしても この素材としての 〈見え〉 という点で いい加減な解決」 , は, デカルトは共通の前提にたりており, 第二段階に関する記述はそれを示 しているのだろうか. だが 〈見え・感じ〉 が知識の素材であるとは, そもそも どういうことなのか. 『省察』 本文との関連を考えてみよう. この反論答弁の 『省察』 の中での位置の決定は, 他の反論. と違って, さほど簡単 ではない. まず反論をみてみよう. 第六反論者は, 「あなたは, 感覚の働きを i ssensuum opera‐ 信頼すべき でなく, 知性の確実性は感覚の確実性よりはるかに大きい, という.a. i l l t tudinelonge ma jorem esse tascertitudinem sensuum cer 」 ioni busessedi伍dendum,etinte t ec .. 0-2 6eob )と書き出す. このとおりの句は『省察』本文およ び第五答弁までに出てこない. ( j .418 ,1 l o } 後半を第六省察の物体証 9 ( ) IM.18 ) のみに( AT版の註 は, 前半をただ第一省察の冒頭 ( ,15-8 , 明 の 直 後 (6M,82 ,27-30) に 参 照さ せ て い る. だ が, 最 も 近 い 句 は ア ル ノ ー の こ と ばの 中 に 見 出 さ. れる. 第四反論者は, 第一・第二省察に関する疑問を書きあげたあと, デカルトが 「身体的感覚によ. iも の よ り 理 性 に よ っ て わ れ わ れ が 理 解 す るratione i s sensibus obversar っ て 観 察 さ れ るcorpore 4e ob 4-6 ) について i comprehendere も の の 方 が, より大なる確実性を有していること」 ( ,205 ,1 1 1 ( ) 比較 そ らく ー グ と して い る お ア ルノ は 語 る こ と を 称 賛 し, ア ウ ス テ ィ ヌ ス の こ ば と , 第二答弁 .. 第一項を考えているのだろう. デカルトはそこでこう語る. メルセンヌの第二省察へのある疑問に ついて, この疑問が 〈精神と身体との実在的区別〉 に関するものであること, その解決が第六省察 ではかられることをまず述べる. そのあと, 実在的区別は感覚からは得られない, というのも 「感. l l iores tquam inte tas, 一 つ の t ec 覚 の 保 証 は 知 性 の 保 証 よ り も 不 確 実 で あ り sensuum 負desincer. 同じものがさまざまな姿であらわれる una et eadem. is f res sub vari ormi s apparere」 (2e Rきp .. 132 ,17-9) か ら だ, と 続 け る.. 第六反論者が第九項で問題にしたのは, 『省察』のこの場面, 第六省察の実在的区別の証明の直前 id ) 個 所 であ る, で「第二省察のおわりで蜜蝋について述べたことを 思い お こ して い る」( .132 ,20-2. 1 )第六反論は, 第七・第八項などを前述の成立の事 と私は推定する. 状況証拠を三点追加しよう.( 情を考えて除いても, 『省察』本文の順序に必ずしも従ってはいない. ではあるが, 第九項以降の部 6e ob 2 )AT版のあげている句は, 実 分( ) は実在的区別に関するものである.( j .418 ,25-419 ,16. 6M.77 )の言明のくり返しであり, この個所の方は前述の回想の 在的区別証明以前の個所( ,18-23 t i d 8 7 7 」 ea 」( . , )の場面 である. それ以前, しかもこの『省察』を「のちに pos 中でも「つい最近nupe r. i d ( ) は じめるよりも以前には, 「前もって感覚の内に私がもっていなか ったどんな観念も私 .76 ,21. lam plane me i l e mihipersuadebam nul が 知 性 の 内に も つ こ と は な い と 安 易 に 信 じこ ん でい た fac. i d iushabui 3 habereininte l l )第 六 反 論 者 か ssem insensu」 ( ectu ‐75 ,27-9) の だ. ( ,quam non pr. らみれば 〈相反するあらわれ〉 にあって感覚に 〈一つの同じもの〉 を示させるためには, 「よく配置. i i i t 」 が相 互 に助 け あ い, あ る 一 つ の 感 覚 のま ち がう と き, さ れた (五 つ の) 感 覚 sensusbened spos. i d )ようになっていればよい. 「よく bene 」とは「す 「他の感覚がその まちがいを直す」( .418 ,14-6 iare」( id べてが正しく配置さ れ, (五つの)感覚が常に同じものを告げ知らせるs ridemrenut empe ..

(8) . 〈感覚の三つの段階〉. 41 8 ) ことだ. 第六反論第九項は, 答弁者がメ ルセンヌの前提と考え批判したもの, ものが ,19-20 i 2eRさp 32 5 同じであるか区別されるかの 「しるしs ) こと, をもう一 gnum を感覚から得る」( .1 ,1. 度問うている。 デカルトはこの問いを, 『省察』 の歩みのどこに定位したのだろうか. 彼は, <省察の順序〉 をで 1 2 〉 だが この第 きる限りくずさないよう, 反論を 『省察』 のコンテキストに置き直すことを促す( , . 1 3 }( 九項には くあと書き〉 の自由さがある. 挿入された第七項( d i i i tnc to の再分類に端を発する 〈聖 s 1 4 )(永遠真理創造説)も 『省察』 体の秘蹟論>と, それにまつわる実在的偶有性の否定)も, 第八項( , では表立っていない <補註〉 である, 後述する第九項第二パラ グラフの 『三試論』 への言及もめず 1 5 ) 六 日 間に わ た る 『省 察』 の 歩 み の どこ で 〈見 え・ 感 じ> が 問 題 に な る と デ カ ルト は 考 ら しい( , 。. えたのか. ガッサンディ のいうように, 蜜蝋の分析の場面で析出されるのは, 蜜蝋の く見え〉 なの だろうか。「知性の内にあるものはどれも, 感覚の内に前もってあったのでなければならないことは. 5eob 7 否定するとしても」 ( i ) 「塔を近くからながめ触わってみたとき, それが四角いこ .26 ,21-2 d i とが私たちにとって確かなことは明白」 ( ) である. 〈見え〉 は, 「それぞれの人に あら ,333 ,2-4. i d われるとおり に あらわれる apparereid,quodcuiqueapparet」 ( .277 ,24). 「い わ ば 衝 撃 デ “αてα. id i tasてoも のαwo〆物 w は と り 除 ) 生 じる も の, そ の 「ア ラ ワ レ ノ 真 理 ver ガeplzてのび 乙γ」 ( .267 ,23. i d く こ と が でき な い」 ( ). 〈見て と る こ と〉,と くわ か る こ と〉 と の 関係 の, どこ で く見 え・ .334 ,2-3. 感じ> が登場するのだろうか. ひとまず 〈見え〉 を追放し, 道をもう一度た どり直してみよう.. 註 i 1 ( ) jean ‐Mar eBeys sade s如れ〆 (Bonn 7 . ,乙お””無gd“ 伽o冗如” 〆” のセin H.Wagner ,ed ,S物“産物慶ばれ‘”〆 ”e , Bouv i er .9-25 ,1976) p Z i 溺伽かs Z Z ( 2 ) lean ‐Luc Mar on B g dα 粥o冗m” 〆“ “焔“ in &‘ βおれ Cα“丞卿2W1(A冗腐り s d“ g Q“e d , c“Z P蹴/ 迄 h れ 4 1 1 9 8 C i 4 3 7 5 o sゆ . , , a er ) P. 1 2一22 ( 3 ) 村上勝三 デカルト哲学における 「感覚」の問題 日本哲学会 『哲学』3 0号 ( 1 )p 1 3 ) 9 80 r .1 .g . 注( ,ex , ) ( 1 4 ,122 ,p. 4 ) 香川知晶 精神の洞見と 「実体」 『理想』5 ( 19 )p 8 9号 ( 82 5 ) 7-2 8 8 r .1 .g .注Q ,2 , ex ,p Z 1 4 Z 3 1 H 1 -7 ( 5 ) G LodisLewis V o mm e ; .p .368 後段 の文 章は, デカ ル トの Diop .6 , の.c , , , ,紅,144 ,2-15 の い いか え である.. ( ) 村上 噂.α云 .117-8 6 85 ‐5 ,4-. M senne 『……』 の中 は, 動 物の 痛 み に 関す る デカ ルトのこ と ばの引 用 c 1 1 ,1 , . fa er. ( ) トマスの認識説については下記を参照, 7 Thomas Aqu inas z姻鞍 7%eo .la ,s ,84 ,6. 高田三郎・大鹿一正訳 『神学大全』 第六分冊 (創文社 1 96 2年) 稲垣良典 『トマス・アクィ ナス哲学の研究』(創文社 19 4 2-57 70年) p .1. Z . 云 { 8 ) E.Gi son ・p .24 , め.c. ’ 6d ( 9 ) not j ede1 .AT・a6e ob ・418 ,10. ( l o ) 類似の表現は, 前掲の 『省察』 献辞など以外にも多い, d H,Gouhier(1 )p .54-5 ,note66一73 P i C Z A 肋 知 S Z V i 筋 肉幻 XV額 化彰 の J ( 1 1 ) H,Gouhier(2) r )p 8 ) ( α ” s 伽 z れ e a s r n 8 娼 2 βα e( れ 壇 ,, .35 not , ,1978 “Med “ i ‘ ‘ ’ ’;5e 1 i i i d 1 4 7 5 1 8 i i t t t 7- t t t ( 1 2 ) ex.gr a o n e sα 1 e a ss e u u v a m a m e窟 1 o n m s e u u s r a a q ; q .134 ,2e R己P . , ,. ” iam red i Ri g s“ p ,386 ,8 ad v 1 6 o b 4 1 7 3-4 4 ( 1 3 ) e j j j re RきP ;← e Rきp , , .250 .217 ,120 .100 ,27;4e ob ,1~;← 1 ,24;← .re ob ,18;←6M.78 , 2~. ) 6e ob Q 4 j j ,417 .319 ,380 ,27-9;←5e R己p ,13;← 5e ob ,9-11;←5M・64 ,12~. ( 1 5 ) 『序説と三試論』へ言及する他の個所. イ. 〈まえがき〉的. 『序説』と『省察』の関係にふれた「序言」「要約」 d t2 にか か わる 個 所. 2e Rきp 3 0 7(魂の不死)i .149 .247 .229 ,13;4e Rきp ,13 ロ. く補 注〉 的. 4e Rきp . ,13e ,1.

(9) . 佐々木. 周. 2 48 2 (実在的偶有性) ,2. 1 1 1. 感覚の第一段階からはじめよう. 私たちはこの. 段階の感覚について, 一体どのような場面 で語る. ‐RIQUE L ^ D1opl. 二パラグラフは, その説明を 『屈折光学』 に差し 戻す.「光の放射が, 棒から反射して, 視神経の内 に, そしてまた, それを介して, 脳の内にある種 の運動をひきおこす, このことは十分長々と 『屈 6eRきp 折光学』 の中で説明した.」( 37 4-7 ) .4 ,1. . ・ ′. その 『屈折光学』 第五講で, 彼は当時よく知られ ていた実験を紹介する. まず壁に穴のあいた部屋. . 理を説明し, 次にその穴に 「死んだばかりの人の 眼, それがなければ何かほかの大型の動物の眼」. も ▼ . ・. . ◆ . ・ ・ . . ・ ・ .. を使 っ て, い わ ゆ る 〈ピ ン ホ ー ル・ カ メ ラ〉 の 原. (Di )を は め こ む. 右 の 図 が そ op .5 , V1 ,115 ,10-1. ・ . .. さ. れだ. 部屋の外のV, X, Yが眼底にはられた白 い紙RSTに映し出される. 図の下の観察者Pに. 注意してほしい. この観察者は, デカルトがくり 返し言及し, 否定しているたとえ,〈身体という舟 1 ( } そ の 水 夫に 他 な ら な い 第 に の っ て い る 水 夫〉 , ,. 一段階の感覚を語る者は, 他人の身体という舟に. .. ー ・ . ・ . ー . ・ . , . ・ ・ . ・ . . ・ . ,. のだろうか. 目の構造・視神経を走るパ ルスにつ いて語るのは, 他人の身体を記述する場面だ. 第. …: : ‘ : : き り き ,. のる水夫 である. この く素朴二元論〉 が成立しな い こ と は, こ こ でも 前 提 は さ れ て い る.「よ く 知 ら れて い る よ う に on sait d き a assez 感 覚 す る の は j. 魂 であ っ て 身 体 では な い 」 (Diop .4 .109 ,VI ,6- .. 7 ) ここではそれは問題 ではない. 「魂が脳にある. から, (……) 感覚することも知られている」 し, 「それが神経を介して, 脳のうちの魂に達するこ とも知られている.」考察せねばならないのはその. id 神 経 の み であ る ( .109 ,10-3 ,18一21 ,25-110 ,. . ’ Facs imi le del i i l( i i ed t 1637 ) onor na g ios imi le t (osnabrack,Edi .36 ,1973) p. 3 ) . この考察は, 「私たちのうちの一人」 の 「外形と内部構造」 (DM.5 6 V I ) に向けられる. .4 , ,1-3 人間とは, この私と他人に共通する身体 であるかのようだ. 『省察』 は, この「以前 an 2M. t 」( ehac 25 2 5 )の考え方をこうまとめる 人間は「 身体と名付けられ 死体と共通する h ある機構 m aci na , . , , i d 2 2 であり」 ( . 6 ) , -5 , その身体を 「私の部分で, あるいはそっくり私であるかのようにさえ思っ 6M.74 0 ていた」 ( ) ,19-2 . 第一段階の観点からみれば, 私は他人と, 人は死体と, さらに人間は.

(10) . 〈感覚の三つの段階〉. 動物と, 動物は自動機械 au toma t eとかわるところはない.「私たちと動 物に共通するこの脳の運動 6eRきp が, 感覚の第一段階 である.」( ) 猿をかたどっ た自動機械を作り, 「実生活の上 で .437 ,17-9 l mora ementでき る だ け(そ の)行 動 をま ねた」 な ら ば, 本 物 と 区 別 は つ か な い (DM.5 .56 ,VI ,11-. 18 ) . 人間と動物でさえ, その区別がつかなくなるのはせいぜい 「実生活ではありえない」 か, 「目 の前でいわれるだろうことすべての意味に答える」(傍点筆者)ことができないだろう, と いうにと i d 6 どまる( ) op ,5 ,23-57 ,2 , このような人体の記述だけで「視覚に属する多くの事柄をわかる」(Di . 5 .117 ,VI ,9-10) た めに は 十 分 で あ る.. 『屈折光学』 は, 眼鏡の製作に際して生ずる光学上の問題を論ずる その筋道はほぼ以下のように . なる. 視覚は五感の中で最も普遍的 であり, その視覚を増大させ るのに役立つ発明は最も有用 であ 2 ) だが 近年発明された望遠鏡の製作には 困難な問題がまだ残 ている その解決をめざし ろう( っ , . , . て, まず, 光を空気のような透明物体を介して私たちの眼に伝わるある運動ないし作用, と仮定す 3 }(第一講) この仮定から 〈屈折法則〉 が導かれる (第二講) 次に 「眼に入 た光線が どのよ る( っ . , 。 うにして視覚をひきおこすようになるのか理解してもらうために」 (Di ) op .2 ,105 ,V1 ,18一20 ,眼の. d 構造 (第三講) 0 9 2 ) について述べる. すなわち÷ , 一般的に神経系 (第四講前半,i .4 ,1 ,1-11 ,5 i i d 「眼 底で形づくられる形 象 mage i l 2-3 t 」 ( .5 ) は共通感覚の座たろ松果腺ま で運ばれ e ,t ,114 ,1 4 )(第五講) 伝達される運動が視覚を構成するの である{ 5 } 以上の準備を経て 「視覚を補強する る( . . , i i l 手段」 (d t 7 3-4 ) としてのレンズの働きを指摘し (第七講) e 必要な屈 折の仕方をす .7 ,t ,14 ,1 , るレン ズの形を調べあげる (第八講) 最後に具体的な眼鏡や望遠鏡の仕組 みを記述し (第九講) . , レン ズのカ ットの仕方, そのための工作機械の案を示して(第十講) この試論はおわ ている 『 っ , . 屈 折光学』 の目的である眼鏡や望遠鏡の設計・製造という点からいえば, そして弱まっ た視覚を補強 するこの 〈医学> という彼の望みからみても, この図の説明で視覚に関する議論はすん でしまいそ うである, だが, 第四講の後半と第六講は, 感覚についてもうひとつ別のことを語っている 第五講の冒頭 . の文章はこの点をよく示している. 第四講後半の議論によ って 「感覚するためには, 感覚されたも のに似た何らかの形象を魂が見つめる必要はない, ということがこれでよくわかったであろう だ 。 がこのことは, われわれの見る対象がわれわれの眼底にその形象をかなり完全に印象づけることを i d 5 妨 げる も の では な い.」 ( , .114 ,VI ,15-20) 第 五 講 の くピン ホ ー ル・ カ メ ラ〉 実 験 は, 後 半 の 議. 論をとばして第四講の前半の神経系の説明につながっている. そして第六講はこうはじまる 眼底 . 像という 「この絵はこのように私たちの頭の中ま ですすむが」 ,すなわち第五講で説明したように松. 果腺ま ですすむが,「それでもその絵の源 である対象といくらかは似ている. とはいえ, 私がすでに. 十分説明したとおり, この類似性をてだてとして, この絵が私たちに対象を感覚させるのだ, つま りまるでさらにもうひとつの別の眼が脳の中にあって, それでも って私たちがその絵を見てとるの. だ, と 思 い こん では い け な い.」 「そ の こ と を ここでも っ と詳 しく 説明 し よ う 」( .6 .130 ,VI . id ,3-11 ,. 1 5-6 ) ここでは第四講後半に続いて, 第五講の 〈舟にのる水夫> 説と感覚されるものと感覚的知識. との類縁性が, 否定される. 第二パラグラフは,第一段階に触れて 「何か志向的形象s i e sinten‐ pec iona l t es が棒 か ら 眼へ 飛 ん でく る と 思うべきでない」( 6eRきp 37 ) ことも 『屈折光学』 で説 .4 ,12-4 明した, という. その説明は, 第五講をはさんで, 二回に分けてなされている. 2 4 第四講後半(Di )の議論は次のようなものだ。 ここに茶色で四角い机があ op ,4 .11 ,VI ,5-11 ,1 る. この机の感覚 -- 第一段階の感覚 -- は, 視神経を介して脳に伝わる. この脳に運ばれるも のは, この机に似ている必要はない. 神経パ ルスは, 茶色でも四角 でも ない. 志向的形象説は, こ 6 ) だが の神経系の働きを無視するから, 対象との類似にこだわるのだ,まるで眼が見るかのように( , ..

(11) . 佐々 木. 周. よく知られているように, 脳の中で, 神経を介して, 見るの だから,「すっ かり似ている」 必要はな i 4 3 d ) だけ I く, 「ほんの少し似ている」 ( ,で十分なのだ. 銅版画や, 透視図法の絵が, . .11 ,3 ,6 ,V 8 }の ポイ 7 ( ) むしろ似せ ないこと でよく表現するように . この伝統的な志向的形象説に譲歩した議論( こあ る. ヴィ ト ゲ ン シ ュ タイ ン の こ と ば を 借 り て い え ば, 視 神 経 パ ルス は こ の 机 の ン ト は, 次 の 点も. 9 ) 記号やことばは その指し示すものと l d であって, その部分の構造を保存するのだ( やはり像 Bi , . 1 0 ) だ が 名 指 しの こ と ば 〈つく え〉 の 部 分 〈つ〉 は こ の 机 の 部 分 の名 では な お よ そ 似 て い な い( , , .. i 4 9 d l d であり, 眼底像は 「かなり完 全」( ) い. 「ほんの少 し似ている」 第一段階の感覚は Bi .5 ,11 ,1 なのだ. i io t ところで, 志向的形象説よりはむしろましだとデカルトのいうこの理論は, 何か根本的な pet i iを犯している この茶色い机が茶色い机であることから出発して, この机の感覚を説明し inc pi pr . ている, つまり, さきほどの図の観察者の観察結果を前提として, 説明しているのだ. これは他人 の感覚の説明 ではあっても, 私たちの感覚の説明 ではない. この観察者の観察を, また眼底像から 説明することは無意味だ. 第一段階風の感覚論は, 私たちの感覚の告げ知らせるものをまず対象に 投射して, そこから再び自然学的に感覚の成立を説明する. この不当前提がはっきりするのは, 観 察者の観察結果と, 眼底像がくい違うとき, この机が茶色でないときだ. そのとき, 問題は く似て い る か 似 て い な い か〉 では なく, 〈そ う で あ る, 同 じで あ る か, 違 っ て い る か〉 であ る.. 第六講は,この場面 で類似性の議論を否定する. 第九項が第三段階に触れてもう 一度 『屈折光学』 に差し戻しているのは, この第六講の議論へである. 黄色い眼鏡をかけると机が黄色く, 遠くのも u ) のは小さく,小さいものは遠く,遠くにあれば四角い塔も円く,円いものは斜めからは楕円に なる( . 「大きさと距離と形状とが, 他のものからその ある一つを推論によ ってのみ知ることができること ) 第 一 段 階 に は, こ の <間 違 っ て いる こ と に は、 『屈 折 光 学』 の 中 で 証 明 した.」 (6e Rきp .438 ,2-4. 気付く〉 場面がない. 第三段階の感覚が語られるのは, この 〈見誤り>〈聞き違い〉 の場面 である. もう少し正確にいい直すなら, 推論するのに慣 れて, 感覚ととり違えているよう な判断が感覚の第 三段階 である. くこの慣わしは間違いだ〉と気付いては じめて判断であるとわかるもの, あるいは間 違っているかもしれないと疑ってみてはじめて 語りうるもの, それが感覚の第三段階である.. 註 1 ) DM.5 ( ,1-5 ,12一18;6M.81 ,V1 ,59 4 in i たode 庇 お 酷 D禽 l プ セ s 粥 の”符 グ E.Gi son .430一1 . Vr , (Par ,j ,1967 ) p ,云例解 的 の粥粥8%ね〆 , 214-5 0.U,P, 1961 A物 L d A“ D D.Ros ) わ” ( 粥 α o n o n B p s s β′ , , , ,. ( 5 ) id ( 4 ) id d 3 ( ) i ( 2 ) Diop .6 .5 ,130 ,11-15 ,22 ,128 ,5-129 .84 .1 ,14-9 ,V1 ,82 ,3-7 0 i d 1 1 2 2 8一3 d 1 1 3 8-2 5 i ( 8 ) 4 ( 7 ) . , . , ,11-7 ,112 in t tgens t s o sop形α‘ s Logi co ‐P廟Z ( e z ‘ 9 ) ぴ R. Wi .13 .131 ,2 ,2 , Tmc加云 1 5;146 4 1 4 4 8一2 i d 1 4 2 1 9一2 V I 6 4 1 1 2 2 4一8 { l o ) Di 0 1 ) op ; ,7 ,31一147 ., , ., . , ,. ( 6 ) id .. 1 V そも間違うことが問題になら ・ない場面 第二段階の感覚は, 間違いが気付かれていないとき, そも・ に定位している. 第六答弁第九項は, この段 階を 『屈折光学』 に差し戻していない. 感覚するのは 魂であって身体 でないこと, それがよく知られているときには, 第二段階はことさらにとり あげら 10.

(12) . く感覚の三つの段階>. れない. これは, 『省察』 の歩みに固有の場面に登場する. その全体像が語りうるようになるのは, 物体の存在証明がおわってからのことである. 第二段階が,「精神が脳と緊密に結合していて, 脳の 内に生ずる運動によ って精神が触発される, ということに起因する」( 6eRきp 37 ) ことは, .4 ,21-3 1 } ようやく第六省察で語られる. 第六省察はすでに, 第二段階の感覚があることを前提に している( . 第二段階が登場するのは, 私たちのことばで, 「棒が曲がっている」 と語るそのときである. 「棒が 曲がっている」と語ることは判断ではない. 「棒は曲がっている」と判断すること, デカルト風にい i id え ば 「棒 が, 私 の 外 に あ っ て ext tus」 ( ) 本 当 に 曲 が っ て い る, と 語 る こ と と ra mepos .437 ,26. は別のことだ.「習慣によっていとも速かに推論し, 判断し, あるいはむしろす でに何度も似たもの について私たちがな した判 断 を思い出すの で, この (判 断) 作用を, 単純な感覚の知 識s imp l ex. io と 私 た ち は 区別 し な い」 ( id ) と デカ ルト は いう。 日 本 語 では こ の 区別 sensaspercept .438 ,10-5. が可能だと, 私は 思う. 以後の議論では, 単なる感覚的知得, 〈見てとる〉 ときには, ア. 棒ガ 曲がっ ている 判断のときには イ. 棒ノ・ 曲 が っ て いる. ということにしよう。 私は, デカルトが第二段階として説明したかったものは,本来はまずこの 「棒 ガ曲がっている」 と語る場面 であると考える。. この 「が」 と 「は」 の区別は, 日本語として, さほど不適切ではないと, 思う. 今の議論には, 多 少不都合な命名 だが, 田中章夫は, 「桜ガ咲いている」 の類を現象文, 「桜ノ・咲いている」 の類を判 2 ) 私 がこ の 区別 で 考 え て い る の は 次 の 点 であ る 断文 と 呼 ぶこ と が あ る, と いう( ,. , .. 1. ア の 場 合, 棒 の 存 在 は 前 提 presuppose さ れて い な い。 棒 がな い と き も, 偽 と は な ら な い 「は」 .. l f ion) に 対 応 の本義はとりたて であり, 変形英文法のいう分裂文変形 ( t sentence transformat e c 3 ) イ の 場 合 「曲 が っ て い る」 は こ の 文 の 焦 点 focus であ り こ の 部 分 を 変 項 でお き か えた 命 す る( , . ,. 4 ) (英語の場合は 焦点は名詞句 でなければならないが 日本語は必ずしもそ 題が前提されている( , . , ( 5 ) う でなくてもよい ,) 「が」 はこの点に関して 〈無記〉 である. 2, 「棒ガ曲がっ ている」 と 「棒ガ曲がっ ていない」 は矛盾しない. アの言明は, この点 で自然学の. hypothes i tonestrompu〉 と 不 定冠 詞 の sと し て の 事 実 命 題 と は な り え な い. ア は た と え ば 〈Unba つ い た名 詞 を 使 っ て 語りう る と は 思 わ な い. む しろ, ギリ シ ャ 語 の 不 定 命 題inde6ni tes tatementに 対 応 して い る. くるぴれ 入e蹴る &リ命の〃o > と, <oむ% とげれ 入e似 る ら な い◎。. リ命◎肋 > は矛盾命題をつく. 7 ) 全員の賛同が予想されるという意味での〈必然様相〉が付加さ 3. イの文は, 坂井秀寿によれば( , れて い る. 氏 の こ と ば を 借 り れ ば, 何か 〈本 質 的 な こ と〉 に つ いて の く思いいれ〉がイ全体にかかっ て いる。 こ の 点 でも, ア は 〈無 記〉 であ る.. 4. 北原保雄によれば 〈未知 ガ未知〉 型は用言文に 限られ, 〈体言十だ (です)〉 でおわる場合は,. 8 ) こ の こ と は ア が 「あ !」 → 「あ 〈未知 ガ 既知〉 型 に なる, と いう( っ っ, 曲 が っ て い る !」 , . , さら. に 〈主格の補充成分〉 を補なって 「あっ, 棒が曲がっている!」 へと, 展開されたことを, 示唆し ているように 思わ れる. 今, こ こ と い う 限 定 の つ い た 「曲 が っ て いる こ と」 へ の 驚 き が, ア の 原 初 9 )たりうる 「棒ノ・曲がっていない」と「今初めてnunc ( 形態である. <既知ノ・未知>型も「発見の歌」 . i R 6e さp ) ときが, そう である. このとき 「棒」 rmum 新しく何か気付いて判断する」 ( p .438 ,5-6 はすでに 「一つの同 じもの」 として把握されている。 「棒ノ・曲がっている」 と 「棒ノ・曲がっていない」 のどちらが真であるかを決定するのは, 自然学の 体系であり, 知性の仕事 であろう. だが 「棒ガ曲がっている」 と 「棒ガ曲がっ ていない」 という第. .

(13) . 佐々木. 周. 二段階の感覚は, この二つの言明が同 じ 「棒」 についての言明か どうかも明らかにはしない. そし l i io」 (2M.31 t ) 同 じ棒 だ と い て, 私 た ち は 「精 神 の み に よ る 洞 見に よ っ て so us mentisinspec ,25. つもすでに判断して しまっている. 第二省察の分析はこの点を問題にす る. さま ざまに変様する蜜 蝋を見つめて, デカルトはいう. 「それでもなお同じ蜜蝋eadem cera が 残 っ て いる の だろ う か. な. お残っていると認めねばならぬ.否定するものはなく,違っ たように考えるものはいないのだから.」 i de i d ) 「私たちはたい がい語り方そのものにだまされてしまう.蜜蝋そのものを見る v ( .30 ,19一20 id t と 私 た ち は い う.」 ( ) さ き の 例 でい え ば, 否 定 す る 者 の い な い こ の rece rami psamme .32 ,2-3. 〈同 じそのもの自体〉は, 「棒ノ・曲がっていない」 と語るとき前提されていた「棒」である. この「棒」 は, アの「棒」と同じもの, 「私が見, さわり, 思いえがき, はじめからそうだと思いこん でいたも i id thaec ) であ る. も っ と も, こ の 前 提 は 「こ の 蜜 蝋 の 何 であ る か quids の と同 じも の」( .31 ,20-2. i d ) という 〈本質〉 に関する 〈思いいれ〉 の表明にすぎず, 私たちの注意の程度が少 ce ra」( .31 ,17 i d ) であろう. 第九項第二パラグラフは, 知性の二つの働き なければ, 「不完全で不分明」 ( .31 ,25 をまとめてこういう, この棒の存在を前提し, さらに 「当のその棒の大きさ, 形, 距離について推 l 論する, これを普通はvu go 感覚に帰し, だからここで感覚の第三段階と関係づけたが, これが実 l l tu 依 存 す る の は 明 らか で あ る.」 (6e Rさp は失曹性に の み a solointe ec .437 ,28-438 ,2). では, 〈無記〉 の 「棒ガ曲がっている」 は, 一体何を前提し, 何を告げているのか. 「棒ガ曲がっ. tere と いう あ り 方 を して い る の では な い. デカ ル ト の い い 方 でい え ばin て い る」 は,ext s ra meexi me esse と い う あ り 方 を して い る. 「こ の 机 が 茶 色 い」 の は, 私 の 内 の こ と だ. 「こ の 机 が 茶 色 く,. 四角く, 固い」 と, よく知られていくのに従って, ますます私も広がる. もちろん, 私の外につい て何も知られていない限り では, 私の内と限ることは意味をなさ ないから, 逆に, この机, 本棚, 背景としての世界全部, が私である, といってもここ ではかまわない. このように 「抽いて選り出 2M.2 9 うのは思惟するということのほかの何もの でもない.」 ( すなら, 感覚するとい, ,17-8). ここ. l o ) 背 景 と して の 世 界 を 含 め て「こ の 机 が 茶 色 い」 ideo と cogi to mevidere は 区 別 さ れ な い( では, v .. と語ることは,「私がある」ことに他ならず, それは第二省察前半の懐疑の過程を経て, ただちに「私 はある」 という判断を正当化する. 水の中で 「棒ガ曲がっ ていて」 , 外に出すと, あるいは触わってみると 「棒ガ曲がっ ていない」 と. き, 私たちは間違いに気付く. この二つの言明は矛盾せず, どちらも 〈現われの真理〉 をそもそも 告げてくれない. 「私たちが誤るたびに,‘常に誤っていることに気が付く」 というのならば, <現わ 5eRきp 8-9 ) れの真理〉 と呼んでもよいだろう ( .354 ,1 . そのためには, 「私たちが虚偽を決して発. 見することのなかっ たものについては, どんな虚偽もないかどうかを私たちが疑わない」 ことが必 i d 要だ( ) .385 ,24-5 。 私たちはいつ でも疑うことができる. 「机が茶色い」とき, 「机が茶色でない」 と語ることが, いつ でもできるのだ. 二つの言明を並べることで, 私たちは 「机は茶色い」 が 〈思 いいれ〉 であることを発見する. 窓の外を通る帽子の下には人間がいる. 人間ではなく自動機械で はないか. それでも私は人間だと判断する. 判断であるからには, その私の判断に間違いはありう 1 1 ) 疑うとは否定の言明をつけ加えることである 翼のある馬は 私の内とデカルトの るとしても( , . , いうこの世界に, 立ち現われる. だが, 翼のない馬も立ち現われ, たちまち馬脚をあらわす. 自然 1 2 ) だ が 「私 が ない」こ と は 誰 に 学 の 中 で 馬 の 本 性 は こ の よ う に して 次 第 に 明 らか に な っ て いく{ , , . も しつ ら え る こ と が でき な い.. 「棒ガ曲がっている」は, 私の内にあるという限りでは, 「私がある」ことしか告げ知らせないが, l i しかしここには 「何か他の道 a aquaedam via」 (3M.39 ,31) が 開 け て い る. そ れ が 〈客 象 的 レア. iva〉 の 議 論 であ り, 「私 た ち の 外に あ る も の の 存 在に つ い て dererum ext i tasob t ra リ タ スreal jec. 12.

(14) . 〈感覚の三つの段階〉. ia」 (2e Rさp tent ) 私 た ち が 語 り う る の は, こ の 道 し s mentem nostram positarum exi .135 ,22-3. かない, と彼はいう。 第三省察は, その前に, 「私とは別のあるものが存在して resquasdam a me. 3M 40 2-4) と d iversasexi tere s , そ の 観 念と いう か 像 を, 感 覚 器 官 を 通 して, 私に 送り こ む」 ( . ,. いう事態を調 べておかねばならなかった. 類似性に基づく議論が批判されるのもここでである. 「棒ノ・曲がっていない」と判断しても,「棒ガ曲がっていない」わけではない.「棒ガ曲がっ ている!」. これを 「棒ノ・曲がっ ていない」 と重ね書きしたとき, 私たちは ハ. 棒が曲がっ てみえる. という, と私は考える。 第三パラグラフ でデカルトはこういう. 「〈棒が屈折作用によって水中で曲 がってみえる〉 と語るのは, 子どもがその棒は曲がっていると判 断してしまうみえ方, そして大人 でさえも, 幼い頃から慣れ親しんでいる先入見に従って, 同じくそう判断するみえ方, そのみえ方 6e Rきp でみ える, と で も 語 る の と 同 じな の だ.」 ( .438 ,1) 知 の 由 来を 語 る この 歴 史物 語 を ,23一439 パラ フ レイ ズ して み よ う。 「棒 ガ曲 が っ て い る !」 と幼い子どもは驚き叫び, 「棒ノ ・曲がっ ている」. と判断する. 大人は「棒ノ・曲がっ ていない」と判断し, 光の屈折作用という原因を示す. だが, 「棒 ガ曲がっている」 ことにかわりはなく, それを先入見に従って 「棒ノ、曲がっている」 と区別せず, とはいえ, そう言明することは前の言明と矛盾して しまう.「棒が曲がってみえる」 という語り方は, この複雑な構成のすかし模様なのだ, 疑いに由来するにせよ, 経験に由来するにせよ,〈相反するあ. らわれ〉がないところには, 第二段階と第三段階を区別するてだてがない. すべての準備をおえて, l iva が 私 と は は っ き り 別 の も の に 由 来 i tasob t jec デカ ル ト は 第 六 省 察 で,第 二 段 階 の 感覚 の も つ rea. し, その別のものはあるといいきる. 〈相反するあらわれ〉 は, 「所詮はそれが何であれ, 何かがあ i l d esse iqui t ) こ と を 告 げ知 ら せ る. 」 (6M.83 るa ,10-1 ,quodcumque demum s. 註 { 1 ) 6M,81 ,11-4 ,1-5. 9 0-1 工 』(岩波書店 19 7 7年) 所収 p 3 ) 」『岩波講座日本語 文法1 ( 2 ) 田中章夫 「助詞( .3 2 3 7 9 81年) p ( 3 ) 北原保雄 『日本語の文法』(日本語の世界 第六巻 中央公論社 1 . -8 2-5 97 7年) 所収 p ( 4 ) 田島節夫 「言語の内と外」『講座・現代の哲学 第三巻』(弘文堂 1 ,1 ( 5 ) 北原. 物. αZ ,277 ,p. i i l tat tot erpre onech 倦) ぴ Ar s e es De工nt .7 ione (London i d Delnt A k l l A i l ど C L i t tat t t )P r e n e rpre r r s o s a e o sa J g , .129 ,0.U.P ,1963 .. c , 1 9 3 2 0 0 一 9年) p ( 7 ) 坂井秀寿 『日本語の文法と論理』(勤草書房, 19 7 . Z Z ) 北 原 物. c ( 8 .p ,260 2 Rきp 1 6一 8 ,117 ,. d ) i ( 9 .p .278-80. 1 ) 2M.33 ( 0 , 11-4. d 1 ( 1 )i ,32 ,24-8 ,6-12. ( 1 2 ) lre. V 私の最も慣れ親しんでいるこの世界を離れて, 新たに物体の世界を, 私とは別に, 私の外に存在 させ, 自然学成立の 基盤を与えること, 『省察』 の歩みはそれを目的としていた. 「精神を感覚から. tnaturaduce」 引 き 離 す こ と mentem asensibusabducere」は, 「お の ず と自 然 に 導 か れ て spontee. 2M.25 ) くらすことの拒否に他ならず, それは自然にひかれている手を離し, 改めて一 ( ,1 ,31-26 緒に歩むためであっ た. すべての技術は自然に従う. 物体の存在証明は, 私たちの 「大いなる傾向. 13.

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