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アメリカ合衆国憲法修正箇条とアメリカの民主主義の発展

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アメリカ合衆国憲法修正箇条と

アメリカの民主主義の発展

本 城 精 二

アメリカが独立宣言をしたのが1776年 7 月 4 日である。それ以後白人の大統 領が合衆国を統治してきた。アメリカは17世紀初頭に植民地として建国以来 WASPと呼ばれる人々が社会の主流派であった。WASPのWは白人を表すWhite のWであり、ASはアングロサクソン民族を指し、Pはプロテスタントを指す。 このようなカテゴリーに該当する人々がアメリカ社会の主流派であった。だか らこのような条件を合わせ持つ者が独立後もアメリカの主流派であり、大統領 に選出されてきたというのは容易に理解できるだろう。しかし第35代大統領の ジョン・F・ケネディ(John F. Kennedy)大統領は例外的にカトリックである。 彼はアメリカ史上初めてのカトリックの大統領である。プロテスタントが多数 派をしめるアメリカでカトリック教徒が大統領になるのは困難であり、多大な 障害があることは予測されていた。しかし現実に、アメリカにカトリックの大 統領が実現した。アメリカのカトリックの大統領は、彼の前にも後にも、アメ リカ史上彼ひとりだけである。どんな状況であれ、彼が大統領に選出されたこ とは歴史上の事実である。これはWASPという主流派以外のバックグラウンド でも大統領になれるということを意味している。 2009年 1 月20日にアフリカ系(黒人)の大統領が就任式をする。イリノイ州 選出のバラク・オバマ(Barack Obama)上院議員が2009年 1 月20日にアメリカ 合衆国の大統領に就任することが決定している。ケネディ大統領は初めてのカ トリックの大統領として、アメリカ大統領史上新しいページを開いたと言われ てきた。しかしアフリカ系(黒人)大統領が出現するということはアメリカの 歴史のさらなる新しい 1 ページを作ることになると言えるだろう。オバマ氏の

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前途は平坦な道のりではないだろう。多難な険しい道であろうが、とにかく新 しいページの始まりが決定している。 イリノイ州選出のバラク・オバマ上院議員が合衆国大統領になることは2008 年11月 4 日に決定している。(オバマ氏は奴隷の子孫ではないが)アメリカに おける黒人の地位は奴隷から始まり、歴史の進展と共に徐々にではあるが変化 してきた。第16代大統領のエイブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln)が 奴隷解放宣言をしたのが1863年である。それから約100年後に公民権運動が 活発になり黒人の地位は徐々に向上してきた。マーチン・ルーサー・キング (Martin Luther King Jr.)牧師が有名な「私には夢がある」という演説をして 45年後に、アメリカ史上初めて白人以外の大統領が誕生することが決まった。 2008年11月 4 日、大統領の選挙人を選出する選挙で民主党候補のオバマ上院議 員が勝利した。それについて朝日新聞の夕刊(時差の関係で11月 5 日付)は 1 面で次のように報じている。 【ワシントン=小村田義之】08年米大統領選は 4 日、全米各州で投票、 即日開票され、米国の「変化」を掲げた民主党のバラク・オバマ上院議員 (47)、共和党政権の「継続」を図ったジョン・マケイン上院議員(72)を 破り、当選を決めた。米国史上初のアフリカ系(黒人)の大統領が誕生す る。副大統領には、民主党のジョセフ・バイデン上院議員(65)が就く1 アメリカにアフリカ系の大統領が出現することはキング牧師の夢が実現した ことを意味している。キング牧師は1963年 8 月28日、自分の息子が肌の色では なく能力で評価される日が来ることを望む、という有名な演説をしてから45年 のことである。アフリカ系の大統領が誕生するということは、人種的な平等化 が進んでいるということであり、確実に民主主義がより完全な方向に進展して いる証である。 アメリカは17世紀初頭の建国の当初から民主的な一面が見られる。ヨーロッ パや、その他の諸国と比して、当時としては破格の民主主義の国である。もち ろん今日の民主主義と比べれば、まだまだ未完のものではあるが、メイフラ ワー盟約(Mayflower Compact)はアメリカの民主主義の原型として高く評価 できるものである。このことは別の拙論で述べているので、この小論で詳細を

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繰り返し主張する必要はない2。ただその頃のアメリカの民主主義は当初から 完璧なものであったという訳ではない。17世紀という時代を考慮すれば破格の 民主主義であるが、決して完璧なものであったとは言えないのである。アメリ カの民主主義は歴史の発展とともに、より完全な方向に改善されていった形跡 が見られるのである。その足どりを憲法修正箇条に辿ってみたい。 憲法修正箇条は独立後のアメリカ史の発展そのものであり、激動の世相を重 ねて来たことが手に取るように理解できる。そのような重大な社会状勢の変化 を示す憲法修正箇条の中から、民主主義、特に個人の権利、地位身分そして選 挙権に関する条項を中心に考察してみよう。民主主義の発展と憲法修正箇条の 両者の間には非常に緊密な関係があり、しかもアメリカの歴史を大きく揺るが した出来事があったことを如実に示している。しかもそれはアメリカにおける 民主主義の発展の過程をも示している。

Ⅰ.人権の保障

1620年にメイフラワー号でプリマスに到着したとき、乗船していた人々が新 世界と呼ばれていた大地に上陸する前に約束事をした。それが「メイフラワー 盟約」である。それはアメリカ民主主義の原型と呼ばれるものである。それは 多数決の原則をアメリカに確立させた最初のものである。17世紀の初頭という 時代を考え、また当時のヨーロッパ社会と比較すれば、それは確かに当時とし ては破格の民主主義である。 しかし「メイフラワー盟約」は女性を除外し、男性のみが多数決に加わると いうものである。女性には選挙権、つまり多数決に加わる権利がないことに当 時は何の違和感もなかったようだし、当然のこととして受け止められていたよ うである。そのような次元から発展したアメリカの民主主義は歴史の進展と共 に、段階的にではあるが確実に発展し、今日のようなものになったのである。 独立後、相当経年の後に選挙権は白人の男性のみならずやがて白人以外の男性 にも、そして女性にも与えられるようになった過程に民主主義の成長と発展が 見られるのである。 アメリカ合衆国の憲法は1787年に制定された後、88年にニューハンプシャー

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が 9 番目に批准し、憲法の発効が決定したのである。その後、必要な新しい条 項が追加されていった。それが憲法修正箇条と呼ばれるものである。そのよう な中で最初に修正された条項のなかに、当時として高く評価すべき「自由」の 保障を掲げている。憲法修正の第 1 条から10条までは「権利の章典」(Bill of Rights)と呼ばれ、それらは1791年に確定したものである。憲法修正の第 1 条 に個人の自由を保障する条項がある。それは次のように示されている。 【憲法修正第 1 条】連邦議会は国教の樹立を規定し、もしくは信教上の 自由な行為を禁止する法律、また言論および出版の自由を制限し、または 人民の平穏に集会をし、また苦痛事の救済に関し政府に対して請願をする 権利を侵す法律を制定することはできない3 この条項に様々な自由の保障が示されている。まず国家は国教なるものを制 定してはならず、どのような宗教活動をするかは個人の自由である。どのよう な宗教を信じ、どのような礼拝をするかは完全に個人の権利であることを保障 しているのである。現在ならば信教の自由は当然のことと思われるであろうが、 この条項が確定した1791年という時代を考えれば破格の民主主義であると言え るであろう。もともとヨーロッパでは信教の自由がないから、アメリカへ移民 してきたのである。それを憲法で明確に保障したのである。ヨーロッパから信 仰の自由を求めて当時は新世界と呼ばれていた現在のアメリカに移民してきた 歴史上の事実を考えれば、アメリカの憲法に信教の自由を謳っていることは重 大な意義がある。 また言論および表現の自由をも保障している。これは思想の自由を意味して いる。何を言うか、如何に表現し、如何に伝えるかの自由を保障するものであ る。さらに自由に集会する権利を保障しているのである。現在の民主主義を考 えるならば当然のことと思われるであろうが、そのような憲法修正箇条が確定 した18世紀末という時代を考慮するならば、当時のどこの国とも比較にならな い民主主義である。 そもそも民主主義の原則は自由と平等と個人の人権を保障することが大前提 である。憲法修正第 1 条は自由という権利を保障したものである。しかしその ような自由という概念は黒人奴隷には無縁のものである。当然黒人奴隷には自

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由も平等も個人的人権の保障もない。そこには民主主義の大きな瑕疵があると 言わざるをえない。「自由」と大々的に憲法に謳っているにもかかわらず、自 由を与えない奴隷制度があったことは民主主義の大きな矛盾である。

Ⅱ.黒人とインディアン(Native American)

南北戦争はアメリカを南北に二分して、同じ国民同士が戦った戦争である。 北部は奴隷制度に反対し、南部に奴隷制度の廃止を求め、黒人奴隷を解放して 自由を与えるため敢えて戦ったのである。一方南部は黒人奴隷を農業の労働力 として不可欠であるため、奴隷制度を堅持する必要があった。いわば南北戦争 は奴隷制度の攻防のための戦争であったと言える。1861年に始まった南北戦争 は、1865年北軍の勝利に終わった。そして奴隷制度が廃止になり、黒人の地位 に関するものが劇的に進展していった。もちろんこれで黒人問題が解決したの ではなく、黒人奴隷が身分上奴隷ではなくなったというだけのことである。そ れは黒人が民主化の第一歩を踏み出したという状態である。 まず奴隷制度に関するものとして憲法修正第13条と14条が挙げられる。南北 戦争の結果奴隷制度は廃止された。それを法的に示すものは次の憲法修正第13 条第 1 節である。 【憲法修正第13条第 1 節】奴隷および本人の意に反する労役は、…〈中 略〉…合衆国内またはその管轄に属するいずれの地にも存在してはならな い。 南北戦争は1865年北軍の勝利で終結したが、戦争の最中に、時の大統領であ るエイブラハム・リンカーンが1863年に奴隷解放令を出していた。それは戦争 の決着がつく前のことであり、当然法的には効力がなく彼の単なる宣言である。 なぜなら奴隷を所有しているのは南部の農園主であり、それを擁護しているの は南軍である。奴隷制度をどのようにするかは南部の州が決めることである。 南部の州が堅持している奴隷制度をリンカーン大統領が「奴隷解放」と言って も、その時点で現実には奴隷解放される確証がないのは自明である。それでは

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なぜ戦争が終結していないのにリンカーンは奴隷解放宣言をしたのであろうか。 1863年戦況は北軍優勢になり、リンカーンは意図あって黒人奴隷を自由にす ると宣言した。そうすることによって、南部の領主の農園で働かされている奴 隷が南部を去り、北部に逃げ、また北軍の味方になると思って、その時点で解 放令を出したのである。そして1865年、南軍のリー将軍が北軍のグラント将軍 に降伏して、国を二分して戦った戦争は終結したのである。そして戦争終結後、 憲法の修正によって奴隷という存在は法的にあるいは形式的にアメリカには存 在しなくなったのである。 憲法修正第13条によって黒人は奴隷ではなくなったが、それで問題が解決し たとは言えないのである。それは黒人問題解決の第一歩に過ぎないのである。 黒人が奴隷ではなくなったとしても、黒人が黒人であることに変わりはなく、 急激に生活が向上するということはあり得ないと考える方が自然であろう。彼 らは領主のもとで奴隷として酷使されてきたために財産も蓄えもなかったと推 測される。その様な黒人が法的に自由な身分になったとしても、生活状態が急 激に変化するはずはない。彼らの生活の向上が計られるのはその後の大きな課 題である。その一助になったのは憲法修正第14条であり、それは1868年に確定 している。その第 1 節は次のように謳っている。 【憲法修正第14条第 1 節】合衆国において出生し、または帰化し、その 管轄権に服するすべての人は、合衆国およびその居住する州の市民である。 いかなる州も合衆国市民の特権または免除を損なう法律を制定し、また いかなる州といえども正当な法の手続(due process of law)によらないで、 何人からも生命、自由または財産を奪ってはならない。またその管轄内に ある何人に対しても法律の平等なる保護を拒むことはできない。 この条項には「奴隷」とか「黒人」という文言は一切ない。「何人」という 表現は文字通りアメリカに居住するすべての人間を意味している。言い換える ならば、皮膚の色とか人種民族に関係なくすべての人という意味である。アメ リカに居住する者はアメリカの市民であり、市民としての特権を有し、市民 としての権利を例外なく保障されることを意味している。もちろんそのよう な「すべての人」あるいは「何人」という表現は黒人を念頭に置いたものであ

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ることは想像できるが、あくまでも人種差別することなくすべてのアメリカの 人間を保護するものである。さらにこの条項は黒人を念頭に置きながらも、す べてのアメリカ市民の生命、自由および財産の保護を謳ったものである。しか もこの条項は民主主義の根幹である「平等」にという重要な概念を示している。 「何人に対しても」という表現は平等という概念である。当時としては画期的 な民主主義の精神である。南北戦争の後アメリカは確実に民主主義をより近代 的な方向に発展させていると言えるだろう。 1868年に確定した憲法修正第14条第 2 節には「インディアンは納税の義務が なく、下院議員の議席を決める人口比の中に含めない」という趣旨の文言があ る。これはインディアンをアメリカの人口の数に入れないと明言したものであ り、明らかに平等性を欠いていることが今日ならば自明であると言える。しか し 2 年後の1870年に憲法修正第15条が確定しているが、その中で合衆国市民の 投票権について画期的な文言があり、アメリカの民主主義はより完全な方向に 進んでいることが読みとれる。 【憲法修正第15条第 1 節】合衆国市民の投票権は、人種、体色または過 去における服役の状態にもとづいて合衆国または各州により拒絶または制 限されることはない。 これによりインディアン(現在はNative Americanという呼称が定着している) はアメリカの市民であることが法的に認められたと言えるのである。そしてこ れは黒人にもインディアンにも、アメリカの市民であるすべての成人男性に選 挙権を認めるものである。1870年という時代を考慮に入れれば、世界の最先端 を行く民主的発想であろう。この条項の中に使われている「人種」や「体色」 は黒人やインディアンを念頭に置いたものであろうが、条項が意味するものは アメリカのすべての成人男性に投票権を付与すると明言していることである。 成人とは何歳を指すのか、法的な根拠を示してみよう。憲法修正第14条の第 2 節には「21歳以上の男子に選挙権を与える」という趣旨の規定がある。つま り女性の選挙権には触れられていないのである。男子にのみ選挙権を与えると いうことは男女の平等化がまだ図られていないということである(しかし次章 に述べる通り、後年女性の参政権が実現する)。また男子は21歳にて選挙権を

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得るという文言は、1971年に確定した憲法修正第26条によって年齢の変更があ り、アメリカ国内すべての州で18歳になれば選挙する権利があると修正されて いる。またこの時点では女性にも選挙権があり、アメリカのすべての州で18歳 以上の男女に選挙権があることが謳われている。これは飲酒や喫煙を認めると いうことではなく、あくまで選挙権の年齢を18歳以上のすべての市民に与える というものである。もちろん男女の区別なく18歳以上のすべてのアメリカ市民 には選挙権が有るということである。しかし誤解してはならないのは、飲酒や 喫煙の年齢は各州の専決事項であるので、合衆国憲法が規定するものではない。 それらは選挙権とは別にして考慮しなければならない。

Ⅲ.民主主義と女性

すでに述べた通り民主主義の原則は自由、平等そして個人的人権の保障であ る。当然その原則はすべての国民に対応されなければならないことは言うまで もないだろう。すでに黒人やインディアンには法的に市民権や投票権が付与さ れたことを論述したが、女性の権利はどうであろうか。現在は言うまでもなく すべての面において男女平等に権利が付与されている。いつ頃どのように男女 の平等化が図られたのであろうか。 1620年の「メイフラワー盟約」以来アメリカは民主主義の国だと言いつつ、 現実には女性は暗黙のうちに除外されてきたのである。女性は男に従属してい る存在と位置づけられ、投票する権利が与えられないまま長い年月が経過した のである。 19世紀になって以降、女性の選挙権についてはアメリカ各地で議論の的にな り、ニューヨーク州やワイオミング州などでは19世紀半ばに女性の選挙権が認 められている。しかしそれは地方政治での次元である。アメリカ全国レベルで 女性に選挙する権利が付与されたのは20世紀になってからのことである。1920 年に確定した憲法修正第19条は次のように謳っている。 【憲法修正第19条】合衆国市民の投票権は、性の区別にもとづいて、合 衆国またはいかなる州によっても、これを拒絶または制限してはならない。

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たったこれだけの条項であるが、民主主義の観点から言えば非常に重大なこ とである。つまり男女平等を国家として保障するというものである。アメリカ には連邦政府の権限とされているものと、州政府の権限とされているものがあ る。しかしこの第19条は、女性の選挙権はアメリカすべての州で認めるもので あり、いかなる州もそれを制限する法を決めてはならないと、明記しているの である。つまり女性であることを理由に選挙権を奪ってはならないことを全国 レベルで保障するものである。1920年という時代を考慮すれば画期的な決定で あると言えるだろう。 すでに述べている通り、1971年以降投票する権利は男女の区別なくアメリカ 全土に亘って18歳以上である。そして憲法修正第26条には「いかなる州もこれ を拒絶または制限してはならない」と規定されている。つまり飲酒年齢や喫煙 年齢と違って、選挙に投票する権利は18歳以上のすべての合衆国市民に付与さ れるということである。もちろん男女が平等であることは言うまでもない。 憲法修正第19条によって、投票権に関する限り法的に男女は平等である。し かし黒人問題が憲法修正によって完全に解決された訳ではないのと同様に、女 性に対する差別の問題も同様である。憲法修正条項によって、それらが法的に 解決したように見えるが、現実には黒人差別も、また女性に対する差別もなく なってはいなかったのである。それらが1960年代になって表面化してきたので ある。公民権運動や女性解放運動である。そのような運動が強力に推進された 後、黒人の地位も女性に対する差別も徐々に改善されて今日に至っている。 ビル・クリントン(Bill Clinton)元大統領夫人のヒラリー・クリントン (Hillary Clinton)上院議員が民主党の大統領候補になり、オバマ上院議員と善 戦した。彼女は負けはしたものの、女性を代表して大統領候補になったと考え てもいいだろう。いつか彼女に続く女性候補が出現し、ドイツの女性首相が国 際的に活躍しているように、アメリカにも女性大統領が誕生するかもしれない。 しかしその道のりは未確定である。

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結論

アメリカは歴史の浅い多民族国家である。たくさんの様々なグループから成 り立っている国家である。白人、黒人という単純なものではない。多数の民族、 多数の文化と宗教、その他色々なグループから成り立っているのがアメリカで ある。アメリカには多民族国家故のアメリカ独自の苦悩と苦難がある。民主主 義という一面にも大きな問題があり、アメリカはそれをひとつずつ解決し今日 の民主主義の先進国となった。今やアメリカは世界第一級の民主主義の国と言 えるだろう。 2009年 1 月20日、オバマ氏がアフリカ系(黒人)としてアメリカ史上初めて 大統領に就任することは民主主義のさらなる前進を意味している。多民族国家 であるアメリカの大統領にアフリカ系のオバマ氏が選ばれた意義は、多民族国 家の代表という意味を考慮すれば、極めて大きい。 しかしまだ女性大統領も、ユダヤ人大統領も、ヒスパニック系大統領も、ア ジア系大統領も誕生してはいない。またリンカーン大統領やケネディ大統領が 暗殺されたような恐怖がいつまた起こるかは分からない。レーガン大統領も狙 撃されたことがある。そのような暗殺がある限り完璧な民主主義ではない。そ れは民主主義に対する挑戦であり、決して許してはならない敵対行為である。 新大統領であるオバマ氏にもその危険性は大いにある。アメリカの民主主義は 確かに世界第一級のものである。しかしそのような暗殺という要素がなくなら ない限りまだ完璧な民主主義ではない、と言わざるを得ない。

Notes

1.朝日新聞大阪本社発行、『朝日新聞(夕刊)』、2008年(平成20年)11月 5 日発行、p. 1. 2.拙論、「アメリカ社会の始まりと民主主義」武庫川女子大学英文学会

Mukogawa Literary Review, No. 44. 2008.

3.合衆国憲法修正第 1 条。以下、合衆国憲法修正条項の引用は次のものからで ある。中屋健一編『アメリカ入門12講』(東京:三省堂、1990)、pp. 250⊖256.

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