身延山久遠寺門前町に就きて 五 凶
身延山久遠寺門前町に就
S
て
法 皐 博 士千
沼
淑
夏
B
平泊先生はかつて早稲田向車誌上に身延山門前町の研究を愛表せられましたが‘未だ意に止問ずさなして、 A Y 恭助手入 交好修氏主共に・来山、親 L ︿古文献に就いて剥査せられました o すでに各地諸大寺に就ての研究成果は事界に功献す る と ζ ろ多︿.今我が山のそれに就ては、特に先生に御願して、その一部分や得て本誌上に掲載する次第、先生の御 好意に脅して深︿感謝する次第であります。 ハ 今 村 記 ︶稿を起すにあた
b
、身延山の経燕
b
し歴史事貨に隠って、大体左の如く四期に匝介して、夫夫の時
代に随って記述したいと思ふ。
一、守成時代
︵
弘
安
六
年
l
寛
正
二
年
︶
百七十六年間
二、組山興隆時代︵寛正二年
l
延
賓
七
年
︶
二百十九年間
三、組山全盛時代︵延賓七年!明治維新前︶
︵ 一 冗 治 元 年 ︶︵
慶
腰
元
年
l
大
正
十
二
年
︶
百七十九年間
問、革新時代
六十五年間
x
× ××
× × × ×︵
一
︶
守
成
時
代
弘安六年正月廿三日一百日の喪を畢るや、昭朗等の六老借以下が一月交代を以つ
て輸次に塔を守る之とごなった。この時期は正臆元年十月その藤止さる、まで約七年聞に亙
b
、
乙
.
t
l
を﹃守塔輸衣時代﹄古橋す。かく月番の制が定まるや、六老借以下は各
i
山内に草庵そ構へた。
なほその他に文永十一年九月八日相又村榎畑史姥即ち後の日備が願主となって﹃下之房﹄を建立し、
また日停は﹃志摩坊﹂を開基し、四候和基は﹃端場房﹄を開基し、山内坊中の纏輿を成した。
正腰元年日向は身延山第二世として、始めて狙座を占め、以後四十五年間第四世日善までを直弟相
療時代三なす。守成時代姐山の外護に力を致し、は奮の如く波木井氏であって、初代貫長、二代長義
共に組山外護の遺誠置文を残してゐる。
0 0 9 0 0︵ニ︶組山興隆時代
︵1
︶中興期︵寛正二年
i
天
文
十
二
年
︶
︵
2
︶進展前期︵天文十三年
i
丈
蔽
元
年
︶
︵3
︶進展後期
︵
文
雄
元
年
l
臆
長
六
年
︶
︵4
︶
隆
盛
期
︵
臆
長
六
年
ー
延
賓
七
年
︶
本時代は歴史の上に於いては鷹仁の甑を距る七年以前よ
b
徳川氏第四代家綱将軍の晩年に至る二百
十九年間である。日朝上人は文明七年西谷の地狭陸な
b
しだめ、鷹取山麓に堂塔伽藍を移し、以て寓
身延山久遠寺門前町に就きで 五 五身延山久遠寺門前町に就きて 五
,
,
、
世不易の基を確立した。他方畢術を振興し、制規乞粛正した。年中行事、月行事輸次が組織化きれた
番
のは乙の時代であった。今試みに月行事輪次を文書中よ
b
抄記せば次の如︿なる。
異津坊・端場坊
四
番
七
番
十
番
十三番
十六番
十
九
番
杉
ノ
坊
・
稲
泉
坊
武
井
坊
・
南
ノ
坊
畳
林
坊
・
大
善
坊
下
之
坊
・
隅
之
坊
竹
ノ
坊
・
松
井
坊
南
向
坊
・
北
之
坊
西
之
坊
・
本
行
坊
二
番
五
番
八
番
十一番
十四番
十七番
南延坊・積善坊
慶林坊・国牽坊
山本坊・窪之坊
林識坊・華之坊
定林坊・樋津坊
運心坊・戒善坊
とれによって、官時の房載も知
b
得
ら
れ
る
。
二
番
六番
九
番
十二番
十五番
十八番
大林坊・大乗坊
志
摩
坊
・
岸
之
坊
東之坊・山之坊
法
雲
坊
・
佐
倉
坊
寵
坊
・
情
水
坊
時代は進展して群雄割擦の戦闘に入るに及んで、大檀越波木井氏は漸︿哀へたが、外護は寄まなか
ったものが他民出で来った。
甲斐の武田氏は信玄の尖信虎の時代、日俸がその悪疾を平癒せしめた故を以て、甲府信立寺を建℃
、、これ
μ
敬侍したことが惇へられてゐる。この時に身延山は始めて官寺と庇ったといはれてゐる
o
信玄に至って永誠元年禁制吠を下してゐる。左の如し。
本I>’
Z可E d u H J 止 巾 一、殺生禁断之事付於ニ寺内−射 ν 弓 放 一 一 銭 地 一 事 一、任ニ代々剣一諸役免許之事 一、押買狼菊之事 一、寺家中町中諸公事任 4 寸 法 之 上 者 層 用 品 串 徒 中 向 後 不 ν 可レ有ニ非分之沙汰一之事 一 、 大 坊 並 僧 坊 下 人 之 外 或 続 二 他 之 被 官 一 恋 借 一 弘 町 家 之 構 成 一 族 町 中 不 レ 可 二 一 汗 自 作 一 之 事 一 、 賞 闘 中 身 延 山 末 寺 之 事 始 ニ 先 々 一 一 吋 レ 傍 一 一 聖 人 御 計 一 之 官 争 一 、 身 延 山 寺 中 並 町 中 之 事 如 − 一 先 々 一 永 代 可 レ 得 一 不 入 一 事 右之保々任先制円仰如件 永 品 開 一 苅 年 十 二 月 十 五 日乙れに擦るに身延山は諸役を免除せられ町中は本山の支配に属せし乙とが知らる、。信玄は日蓮宗
がほげ士宗に封する法論に就いて﹃堕尻﹄第六に出℃おる如く、﹃浄土宗奥日連業於子分同不可有法論若
有取持入者師棺共可慮罪科事﹄と布達して乙れ
h T最禁してゐる。巷説に﹃信玄身延攻め﹄といふ乙とがあ
る
が
、
かく外護に力を謹し、信玄が乙の患を敢てしようとは思以も寄ら泊。
身延山久蓮寺門前町に就争て 五 七身延山久慈寺門前町に就きて 五 入
武田の賂穴山伊一旦守信君は信玄の姉を母としておた人で、入選して梅零癒不白と践した。久遠寺に
左の文書を興へた。
貴寺門前諸役等任護規例令免除之解者以此旨寺役最重可被仰付之者也何如件
実正九年辛巳五月朔日
不
白
ハ 花 押 v久
建
寺
織田信長が山法師の横暴を憎みて叡山を健主、高野を攻め、
一向宗を征伐し、偽敬に劃して大なる
歴迫骨加へし乙とは史上明かな事貫である。日蓮宗もまた全︿この圏外に出づるを得ぎ
b
しならんと
は必十しも無稽の想像とは謂ひ難い。然るに乙、に天正十年三月附の﹃信長会御朱印般寝﹄古橋する
ものが古記録中よb
接見された。即ち
本主 芳事官=帯
。
甲斐岡身延山久遠寺
一、軍勢甲乙人等飢入狼藷 一、明探山林竹木事 付放火事 一、相懸箭銭兵級事 右 依 々 竪 令 停 止 掛 一 − 来於違犯筆者慈可慮燦科者也 依下知如件天正十歳三月 日 朱 r:11
まいふのである。天正十年六月二日の本能寺の獲を距る三ヶ月の前である。
徳川家康は天正十年よ
b
十八年比至るまで甲州を食みし関係上、同十年に身延に詣で症同一千石を
頒たんとせしも家康のために武運長久を祈願せし日鏡はこれを拝辞した
Y
将来を約し、実正十六年十
一月十一日に身延山に朱印肢を下附してゐる。その文に臼は︿
甲州身延山之事
。
。
。
一、久遠寺中同門前殺生禁断裁竹木免許之事 一 、 寺 中 並 門 前 諸 役 等 任 − 一 一 魯 規 例 一 免 除 之 法 度 以 下 知 一 一 前 々 一 従 ニ 大 坊 一 可 レ 被 一 一 申 付 一 之 事 一 、 大 坊 並 併 坊 之 被 官 之 外 令 ニ 俳 術 品 庁 山 本 町 中 一 不 レ 可 レ 借 ニ 俗 家 之 縫 威 一 事 一 、 分 闘 中 久 山 町 が 寺 末 寺 山 口 ザ 如 一 ﹄ 前 々 一 一 円 レ 峰 崎 一 位 持 上 人 斗 一 若 寺 併 末 寺 封 = 本 寺 一 相 企 ニ 不 儀 之 強 情 一 考 則 従 一 一 大 坊 一 可 レ 有 ニ 也 放 一 其 上岡中不 ν 可 ニ 許 容 一 之 事 一、信立寺寺内諸役免許之事 右之保々永鎖掌不レ可ご相違一以ニ此旨一揃偽訟興皆無ニ怠俊一修行肝要也 約 如 件 い 天正十六年山氏子十一月十一日 家 成 公f
a
'
官 卵j 身延山久遠寺門前町に就きて 五 九身延山久法寺門前町に枕きて
,
、
「可かく家康と身延山との密接不離の関係を生じたのは、
目鏡上人が家康小身微械の閥、開運田宮茶羅を
回して贈った時よ
b
以来の乙とである。その後二代秀忠の時の朱印
m m
は全文殆んど家庭のそれと同じ
であるが先立最後に、
一、合式関免許之事、営闘中身延山諸末寺中寺役免許之事といふ一項がある。曾式開云々の乙ごは高津宿の願本寺、鰍津宿の蓮華寺が諸役免許の上、毎年十一
月十一日より三日間曾式の節、雨所の関所を預
b
、曾式参詣の老若男女を手形なくして故障なく遁行
せしめた。その開札に
閥御免許の添朕
一、今月十日より十三日迄身延参詣之男女路物木布は五端六端、米は五升六升、糸は十つれ十五つれを限りに役所に改有閑 敷者也 丑十月朔日丑の十月朔
H
ごあるのは、恐らく天正十七年己丑十月朔日であらう。営時開所の通行は規定最も最
重で容易ならぬことであって、手形の呈示は絶針に必要であったに拘らず、
たとひ曾式中の三日間と
は言へ、か、る特典を輿へし乙とは注目すべき一事であらう。
豊臣秀吉は天下を統一するや、信長の悌敢闘介弾樫の後をうけて、寧ろ反動的に封寺枇政策に大いな
る種化を鷲らした。天正十八年の朱印肢に
一、山中殺生禁断甲州身延山久遠寺
。 。
竹木東西門前諸役等如二前々一令ニ免許一事。 。
付信坊沙掬之外門前不可俳綱事1~
々
一、拾貰文閤津拾賞文八日市場武悶梅雲寮山中旬図入之地不可有相逮事 一、蛍寺参詩之型車問寺中岡役等令免許事 右相守脇陣々旨可勤行者也 天正十八年八月廿三日御朱印とある。畳区氏の外護時代は普通文様八年日賢入山よ
b
慶長六年に亘る約十年聞とされてゐる。文雄
二年には秀吉の姉瑞龍院妙恵日秀尼が朝鮮役陣設の秀勝追善のために、本堂、大方丈及唐門を建立し
?
ミ
。
慶安二年比寛文元年一しは守岡と買本間越か殺生してむる。嘗時身揺り堂塔伽藍破損修覆並−
L
寺中門
前山本作の節は、大城山・相俣山・赤津山三ケ所よ
b
’毎年用材、篠、板等を買取来ったゃうである。然る
に買収不許可となった矯め、先規のごとく仰付られたき旨、六老中に願出で、代官松本三太夫への達
書
が
出
・
た
。
帥
ち
哉
の
も
の
で
あ
る
。
身延山久遠寺門前町に就為、て ム ノ、身延山久遠寺門前町に就きて ム ノ、 表書之沼久蓮寺訴訟−三候英方御代官所大城山相侵山赤津山ユテ前代ヨリ板材木貝原身延山建立破損修覆並寺中門前家作等仕 曲部向昌一候閃右村々被致穿襲於無紛者如先規可被山叩付不及山叩候符共身延山之外へ一本モ倒候 ρ ヌ様昌可被入念候 以 上 慶安三年三月サ七日 占
,
、
老 中 蓮 署 松 木 太 夫 殿寛文二年代幾人衆に劃して諸役免除の制定があ
b
、正徳年間には﹃宿房﹄制が既に確立し、各地檀
那寺別に参詣者を宿泊せしめた乙とが推定さる、。衣の文書は本山の支配樺強くして、諸種の容啄を
容
る
‘
、
の
徐
地
な
か
b
し之とを鷲明するものであらう。
旋
毎年十月曾式中宮岡参詣之仕止宿免許之事 附曾式中たり主も他闘之参詣止宿者跨停止震観之参詣止宿者合式中品可限尤嘗闘b
親類之者平日参詣無様止宿之遭者其 宿坊え念度可相周事 右之越今般御免被仰付候余脇陣者如古法可相守高一心得惑之族於有之者役人共迄可銭越度者也 天保大乙未年十月 静 定 中 町 名 主 年 寄 中宿
房
定
林
戒
房
立 本 寺 ハ 京 都 ︼ 大 石 寺 門 官 帥 士 ︼ 経 王 寺 ハ 堺 ︶ 海 海 寺 ハ 信 州 ︶ 本 妙 寺 ハ 中 山 ︶l
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畢
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房
弘 法 寺 ︿ 民 間 ﹀ 妙 願 寺 内 京 都 ︶ 了 仙 寺 ︵ 伊 豆 ︶房
七ケ闘六緑門徒 妙 了 中 一 寸 ︵ 甲 州 ︶房
丹後但馬食門徒 本 隆 寺 ︵ 京 都 ︶房
蓮永寺 海 長 寺 ︵ 駿 州 ︶ 本質寺房
本 門 寺 ︵ 池 上 ︶ 本土寺 妙 本 寺 ハ 比 企 ︶房
誕生寺 諸 門 徒 ハ 参 州 ﹂ 妙提寺門徒房
妙 願 寺 門 徒 ハ 京 都 ︶ 妙 成 寺 ︵h m
州 ︶房
玉津門徒 孝 勝 寺 門 中 ︵ 仙 選 ︶ 水戸諸門徒房
妙 法 寺 門 越 後 ︶ 法 音 寺 ハ 紀 州 ︶ 養 時 叩 寺房
本 成 門 徒 ハ 越 後 ︶ 岡 宵 門 徒 ハ 駿 州 ︶房
妙 光 寺 門 徒 ハ 上 総 ︶ 感 廃 寺 門 中 ハ 東 京 ︶房
時 同 門 徒 古 末 寺 門 江 戸 ︶ 法 輪 寺 ハ 飯 高 d房
諸 闘 京 妙 閣 官 寺 門 徒 本 陽 寺 ︵ 信 州 ︶房
立 正 寺 ︿ 休 息 ︶ 闘前 4 Y ︵ 義 州 ︶ 身延山久遠寺門前町に就きて 妙 純 寺 門 中 ハ 相 州 ︶ 妙 漏 寺 ハ 京 都 d 正 法 寺 門 小 西 ︶ 大 縄 中 一 寸 ハ 京 都 ︶ 察官寺 海費寺 感 勝 寺 戸 川 伯 州 ︶ 遠 妙 寺 ハ 甲 州 ︶ 鷲山寺門徒 妙 蓮 寺 ハ 富 士 ︶ 妙 瓢 寺 門 中 ︵ 佐 野 ︶ 感 廃 寺 ︵ 駿 州 ︶ 本 闘 寺 ︵ 下 山 ︶ 本 妙 寺 門 中 ︵ 下 野 ︶ 本 成 寺 ︵ 安 房 ︶ 成 正 寺 門 大 阪 ︶ 海源 寺 ︵ 海 老 名 ︶ 長 法 寺 ハ 堺 ぱ 妙 奥 寺 ハ 野 州 ︶ 法 要 寺 ︵ 周 防 ︶ 遠照寺 庚 昌 寺 ︵ 讃 岐 ︶ 長 源 寺 ハ 信 州 ︶ 本立寺 大 法 寺 ︵ 八 王 子 ︶ 貧 相 寺 ハ 備 後 ︶ 東 金 門 徒 ︵ 上 線 ぜ 費 清 寺 ︵ 小 川 ︶ ム ノ、身延山久蓮寺門前町に就きて 士 山
岸
定
費
法
西
麓
固
大
南
尾
署
之
林
林
雲
右 二 十 田 町 の 外之
蓋
乗
延
房
諸 門 徒 ハ 遠 州 ︶ 妙 法 寺 ハ 小 室 ︶ 法 華 寺 ハ 富 士 ︶ 長 遼 寺 ハ 甲 州 ︶ 詩 門 流 ハ 佐 渡 ︶ 建 策 寺 門 駿 州 ︶叉﹃三誠五禁﹄といふものがあるが、
豆 願 寺 ︵ 郡 山 ︶房
本 門 寺 ハ 富 士 ﹀ 要 法 寺 ハ 土 佐 ︶ 妙 蓮 寺 門 徒 ハ 京 都 ︶ 六 回 長 補 描 寺 ハ 信 州 ﹀ 常 諦 寺 ︵ 畿 州 ︶房
本 能 寺 門 京 都 ︶ 本門寺門徒︵京都︶妙俸寺本血覚寺︵相 o 豆︶賞門徒︵伊勢︶蛍門徒ハ尾州︶玉徳寺滞永寺︵相州︶詩門徒ハ近江︶ 聴 法 寺 ハ 甲 州 ︶房
房
誇 門 流 ハ 江 州 ︶ 要 法 寺 ハ 京 都 ︶ 鏡忍寺門中 本 建 寺 ︹ 大 野 ︶ 質相寺 妙照寺房
碑文谷法諺寺門中 弘妙4 2 X
信 州 ︶ 六 脇 陣 門 徒 根本寺 妙宣寺誠は本山の指導原理を示すものと謂ふぺ︿、五禁は宮崎の
二 、 者 不 レ 能 ニ 其 器 一 者 寺 院 可 一 一 建 立 一 事 本 立 寺 円 相 州 ︶風儀の如何に額一股せしかそ加賀に示す詮左に供すべきものである。三誠は
房
信 立 寺 ︵ 甲 州 ﹀房
貧 相 寺 門 中 ハ 駿 州 ︶房
務 光 寺 円 台 骨 仲 ︶房
満 願 寺 ︵ 京 都 ﹀ 一、者串成就可 ν 詮 ニ 法 要 一 事 、 者 不 ν 能 ご 其 恭 一 者 可 ν 致 一 日 給 仕 助 功 一 挙また五禁は
〆戸、、− ) 主主組
。
旦
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。
時 。 二
代。−
1.'!<; 巳 大 命 取 人 事一
一
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放
議
事
四、女犯肉食事 玉、滋義之事延賓七年日股上人の入山よ
h J
、元職十一年その蓮化に至るまで約二十年間、坊合堂塔の建立極めて
多く、昼前絶後の壮観乞呈した。
とれ身延山が漸く杢盛期に入ったことを示すものである。貞享四年
新橋堂並に三十六坊建立はその代表的なるもの主謂ふべきであらう。正徳二年仁は房合百三十三を数
へ、寛保・延享の頃に至って、本山の整備結構また壮麗を極むるに至
η
た。徳川時代の後半に入るに
友
A
で、門前町屋の接語、商業金融の組織また具備し来った。
顧る仁身延霊山の進展脅建をいたく阻害したものは火災地震及水害である。就中戴衣に亘る蹴融氏
の暴威は研究の資料を坦誠し、門前町謙一連の跡を事相んごする小生の企蓋を困難ならしむる最大原因
となっゐる。左に火災を編年的に記述して見ょう。
︵ 一 ︶ 延 亨 凶 丁 卯 年 七 月 七 日 下之坊よ nリ 後 火 山 内 十 一 一 坊 を 焼 失 す 。 。 一 ︶ 安 永 五 丙m s
年十月十二日 夜七面山堂宇を金銭す。 ハ三︶文政四辛己年八月九日 夜九ッ時出火して御樹o八角堂。拝殿を焼失す。 身延山久慈寺門前町に就きて 犬五身延山久法寺門前町に就きて ﹄、﹄、 F a , − a F ハ四︶文政七叩申年八月廿七日 夜 蛍 火 し て 本 砂 川 3 粗 削 金 o 位 牌 堂 o 上 行 蛍 。 、 一 丸 山 町 40 高崎室。舞台。集局o機銃堂。裁模。凶附堂。二重寅塔 番所計十一三棟金︿茨櫨に蹄せ
L
め、僅かに組側供所及び祈祷金を残してゐる。 ︵五︶文政十二日丑年九月六日 夜五重塔より殻火して舎令所。大方丈o水嶋様。奥書院o庫観。封面所o歳絞没。翼骨堂。中央o拝殿。 古悌堂。位牌堂。東照宮玉屋。表門o門番所。長屋o遁本得。湯呑所o廊下等伽藍金字二十八棟を烏有に路し、残るは東西雨宮寅蔵 主鎚堂のみである。同時に又門前町方にも延焼しその大宇亦焼土と化し去った。この文政年間再度の阿械のために、身延 山の受けた打撃は蓋し前伐にその比なきところであらう。 ︵ 六 ︶ 慶 山m
− 苅 乙 丑 年 十 二 月 十 四 日 笠岡ッ時中谷仙窪坊より出火し、三門 o 大 子 堂 。 天 紳 堂 。 常 喝 堂 。 常 経 堂 。 松 田 毘 堂 。 妙 見 堂 。 妙 時 現 金 サ三夜全 o 支院十七ヶ坊等を焼失、火煩は上中町及び下町の傘をも程め百六戸の民家や亡した。 ︵七︶明治八年一月十日 午後六時西谷本種劫より出火、本院o裁様。祖師堂。位枠合一を始め七十五棟、寺中十二坊、門前町家十軒 を焼失した。身延山同様中の正し︿最大なるものである。 ハ八︶明治二十年三周三日 中町より失火は門前町屋二百品開戸を穏め議して、猛火は仁王門。竹之坊o山本坊及松井坊に延焼し、総 てを烏有に蹄ぜL
め た 。以上摘記した外文久四年叩子二月廿日正午の山火事は新宿の清正川・妙正堂・支院三ケ坊・町方四戸を
延焼し、文政十一年比子六月対日の大風雨は河川を汎濫せしめて、
上新町及下新町の人家を流失した。
叉
遠
く
賓
永
四
年
丁
亥
十
月
四
日
、
五日の地震には諸堂破損し死者十八名を出し、嘉永・安政の大震災もま
た損害を及ぼしたることは古記録に散見してゐる。
乙れらの大災害が金山に多大の損害を輿へたことは明らかであって、会山衆徒をして﹃歴代諸事の
苦辛道管は空し︿一片の煙ご化し終れ
b
﹄との嘆盤を接せしめたのであった。しかしこの惨害を救済
するに何如なる方迭を以でしたか。他の大寺院に於けるさ同じく害附・外護及開帳の方法を以
τ
し
た
のである。就中火災直後の寄附外護は時代の蹴償還とともに、幕府並に各藩主よ
b
も寧ゐ漸究各講中及
官商の力氏擁るの傾向を示してゐる。
乙れ時勢の鑓還を語るものであって、
之、にも亦封建制衰退の
一
徴
候
を
示
す
。
出開帳が官事者の絶大なる努力に依ったことは勿論であるが、幕府及領主の援助もまた興って力あ
った乙とは見逃すことを得ない。出開帳を例記せば左の如くである
ハ一︶賀廃三年四月朔日b
江戸深川滞心寺 六 十 日 間 つ 一υ
文政三年三月十一日企 悶 同 ヨ 一 ︶ 天 保 一 冗 年 七 月 十 九 日b
同 同 ハ 四 ﹀ 同 八年七月十九日b
同 七 十 日 間 ハ 五 ︶ 嘉 氷 二 年 七 月 十 九 日b
阿 六 十 日 間 身延山久法寺門前町に就きて 六 七身 延 山 久 遺 品 寸 門 前 町 に 品 川 き て
﹄ 、
L,
F 士ハ︶安政四年七月 同f
r
;
J
︵ 七 ﹀ 文 久 三 年 同居開帳は、明治二十三年五月六日より二十六日まで山内諾堂の開扉を行以、什費者査に至るまで、
普く衆鹿の観覧を許した。
慶長九年日遼上人が入山するや、直ちに﹃身延山旋﹄並に﹃町中按﹄を制定してゐる。
乙れを左に
掲 ﹁
。
身
延
山
按
一、金之番可巌殺事 書夜五人不 ν 閥被レ詰包靭綾巳後晩鐘己前議 ν 震 三 二 人 一 不 ν 可 レ 菅 本堂御膨堂外陣並橡毎日掃除豆諸蛍 ハ五日一度掃除 食役之時 T h a 可茶店札綴小袈裟並堂内議高雑談等之無沙汰停止 運 品 広 之 品 川 居 − 一 於 堂 内 一 之 時 不 可 以 尼 女 経 机 並道具紙切不 ν 被 ν 渡 一 − 次 番 必 二 峰 崎 ご 呑 代 一 十 八 歳 巳 前 小 併 禁 制 右 於 一 一 綬 漫 一 者 如 ニ 先 規 一 可 団 地 十 日 過 番 緩 漫 之 旨 令 一 一 品 目 知 一 考 銅 銭 百 疋 可 二 一 給 奥 一 鴬 右 之 依 若 妄 奉 ニ 無 賃 一 者 過 失 可 レ 同 二 北 一 本 罪 − 事 凡 補 一 一 先 代 法 度 一 綿 一 一 衆 中 評 議 一 重 同 所 ν 定 刻 レ 件 ~ftt
m
一、御堂香代官禁制。 。
但於 ν 有 一 一 瀬 沼 之 切 周 一 者 結 衆 者 可 ν 額 二 結 衆 之 内 一 時 的 レ 代 − 一 先 日 透 谷 市 問 等 一 可 ν 准 ν 之不レ爾者偽遜代鳥目 二十疋慶長第九市辰七月二十七日 日 乾 歩
l
t
日 遠 釘j町
中
提
従公儀被仰出御僚目堅可籾守事 ふか︿信カを励まL
節々堂参すべき事 忍傷かたく停止せL
むべき事 若L
此旨そむくにおゐては永代遺放たるべし 打郷禁制 若此旨背む︿におゐては一年遺放あるペし退向の問は其組として家役あいつとむへし 口論かれ︿停止 若−−の回臼そむ︿におゐては人足三拾人遁代あるへし 右三ケ傑縦令すいきゃうたりといふとも宥免あるへからす 往覆にも内にでも松火穴いまヲ停止並かまと能︿火乃用心すへき事 火b
m
心のた必なる問屋政一間にた人住居せしむへからざる事 番の者にして毎夜火弁盗人の用心能くよはふへき事 公儀をえす L て他所の者抱お︿へからす 大幼﹂ロ申上すして屋敷の寅買いたすへからさる事 身延山久遠寺門前町に就きて,
、
九身延山久遠寺門前町に就きて
七
0 うりさめをなすへからさる事 米穀等の賢買他所を聞きあはせずして私縫を立つへからさる事 参詣の衆たとひ不如意の仁なりとも一街も致す︿からさる事 山中松山木ある山に於いて下梯をも致すへからさる事 五日に一度つ L 未明に出て家のまへ一聞に掃除すへき事 女房とも日出のまへ入逢の後は寺内へ往覆すへからさる事 来非衆老来をえらはす信衆に封して惣て慮外致すへからざる事 倫中のうわさ・貨不貨によらす町中において惣じてとり沙汰いたすへからす若申上へき旨あらは念度大坊え申上げ紙切あるへ したピし無貨に於ては誌放あるへ L 大小事によらす惣して宿太郎の下知に隠ふへき事 他陣蕪引率いたすへからざる事務迩品目の者は速かに可行犯放事 右脇陣々相違致すにおいては念度第遁行ふへL
英︿みさして訟索をとけ時をうっさす過失の越を可・申土 若自他慮相模にをいては 其のくみの家々より銀子二匁つミ渇代を向すへし若他露よりつげしらしむる者は褒美あるへし縦令この外なりとも其過をしりな がらか︿しやかは念度札明に及び罪過にをこなふへ L 所定如件慶長第九甲反霜月七日 身 延 山
ま
あ
る
。
乙の﹃町中従﹄は今岡採訪の節、賀物館の一隅に陳列してあった制札よ
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轄寓したものであ
る
が
、
この制札は久し︿風雨に曝されたもので、回宙一銭消磨して判請に苦しむ箇所が多
h Tある。思ふに
乙の制札はもと町内の要所に立てられたもので、門前町に闘する法規の最初のものとち謂ふぺ主であ
る
o
文面に操って時代の流れとともに、門前が漸次繁昌を加へ、また大坊が町中に封して把握してむ
党支配椎も他の寺院門前町に比して除程強力であったとえか想像し得らる、。棟梁その他濁占的現象
の顕れ始めたのもこの頃
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であらう
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それは門前町の殺謹と不可離の闘係にあるものと謂って不可
は
な
か
ら
う
。
延
賓
年間
の
営 『
円。門
前 口 前
被?去
仰 度
出 』
之 に
1~目
一、家屋政物質之事 一、家屋政貰買之事 一、内者二阿致契約差出事 右=一ケ脇陣於遜犯者本人語人可伐拍車問弁五人組口口伐罪溢者也 但 被 官 不 ・ 昨 ・ 子 細 者 内 規 − 子 身延山久遠寺門前町に就きて 七身延山久遠寺門前町に就きて 4二 本院納所可読下知者也 延寅三乙卯歳四月十五日 品 百 番 南 泉 主 ち
また寺院が経陸生活に闘輿したことを誼示するものである。
門前高業のこごに就いては左の丈書がある。
一月六度垣市之事
上旬爾度 上宿惣町中 中 旬 雨 由 民 中宿惣町中 下旬爾度 下宿惣町中高
荷
之
事
上 廿 日 宿 太 艮II 下 十 日 惣 町 中 右回日没飢之載可然、永代也放之罪科仰而所定如件 由 民 安 四 辛 卯 極 月 一 一 一 日とれに擦って、市場開催の吠況も推知し得る。
練って身延山の山内組織を見るに、
とれを詳かにすぺき何等の資料もなく、唯僅かに古老の記憶を
辿
っ
て
、
乙れを述ぶるの外に術なきを如何仁せん。本山には本院、支院の別があって、支院は部厚.房
と 昔 、 と う部も檀林の如きものと房・坊とで、部屋房から﹁時ノ頭﹄、房から年行事・月行事が出で、山内行政
を司ったゃうである。また座席には二活から五老に至る・までがあった。前掲﹃身延山按﹄に見ゆる
ゆ リ っ し﹃結衆﹄は山徒方を代表するもので、後年総結衆及宇結衆に
R 7れて、本願といふものと共に町方にそ
の
名
残
を
留
め
て
ゐ
る
ー
と
聞
い
た
。
身延山に特有なる司法を掌
h
しちのに﹁加用人﹄さ呼ぶ込のがある。隠目付のごとき役割をなした。
後年には雛慣の中からこれを選出したこさが古記録にも見えてゐる。
之れに就いて延賓元年十二月附
﹃
加
用
人
規
則
五
ヶ
傭
﹄
がある日は︿
僚
々
一、従天下仰出候遁位協黛引率申閑鋪事 附金不儀一味同心仕間取事 一、知先規 衆徒中無被不可匁之事 附蓮背師命仕間致事 一、任奮規品目合之節施主方或無銭俗人之相伴者給仕可仕事 一、於本院寺中合合之時南端不足之官帝 者以内謹所中不可異儀取締事 一、如先規加用人之作法賂相守狼仕聞舗事 身延山久蓮寺門前町に就きて 七身延山久蓮寺門前町に就きて 布之五箇保永々墜可相守者也 延 曹 耳 元 年 車 問 丑 敏 月 十 六 日 来 信 賞 老 中 中
四十歳以上の者入加用の際は料物を納めしめ℃、制限を加へたゃうである。即ち
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加用の料物
一、甲一朱 方 丈 一 、 育 番 文 震 一 、 百 代 文 院 一 、 百 坊 文 街 一、甲武朱 知用仲間 右衆評申渡之上は自今方支守中ともに不可有相達者也 寛保三葵亥年十一月四日E
乎 定とある。明和二年の﹃加用人新入申渡事﹄は詳細儀績にまで及んでゐる。日はく
新入申渡事
一、出仕往来之節大衆中へ慮外不可致之事 一、頭布色袈裟不可川事七
回一、何事によらず一紡相談不可洩事 − 0 0 一 、 於 = 山 門 − 門 前 之 者 共 ュ 慮 外 不 レ 可 ν 飲若放将之者有 ν 之 山 時 頭 可 一 一 白 ・ 上 一 事
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一、加用分門前二而放持不 ν 可 レ 致 事 一、裏附駒下駄不可剤事 一、出仕往来節口良4
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上不可事 一、給仕之節上帯無用之事 一、給仕之節下総依下る不可事 一、出仕舎 A 口其外寄令之時分行儀正毅可致事 一 、 波 木 之 山 本 ρ 可銭格別事 一、不知事ハ時之案内可聞事 右之佐脈々念度可相守者也 明和二酉年霜月サ四日享保年間の﹃町中定﹄には
定
C D 一、町中藤儀等之事如務規狼 9 に無之様可有吟味雄有先規此度銅山中渡者也 身延山久遠寺門前町に就きて 時 之 頭 @ 七 五身延山久遠寺門前町に就きて ヒ 六 一、波木井家者傍格別事 享保七年七月 日 老
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曾 蛍 番 力 目 用 人との文面中﹃波木井家格別たる事﹄とあるは、
乙
れ
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先、天械十二年嘗番房よち波木井・熊谷雨
家に劃して年寄役免除の申渡ゐ
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しがためである。
賢一暦四年六月八日には﹃永代千部講﹄が組織されてゐる。尤もとれよ
b
以前享保十八年二月永代不
円弱千部曾が成立して居るが、このたび千部金に改正を加へ、法規乞定めたのでゐって、明治三年に歪
るまで相続いて加山管繕費の一宇を荷憎してゐる。千部金の事は
一 、 元 金 甲、百拾八雨 内参拾五爾二分正金 八十二雨三分卒形金 冗 ; 金 文、百五拾爾 内五拾雨ハ御潰御殿蓮成院西川附 外 文、百 雨 報思議料 一、本金甲 四拾雨 一 、 周 文 百武拾爾とあって、講金貸付の方法は、金子拾雨借用者には時債二十雨の土地を携保に供せしめ、返済期限は
三年以内とし、借金両は百衿雨未満
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定めてある。若し返済を怠つカ時は千部役信協議の上にて出訴す
る。千部金は方丈よ
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火急の入用有るも矧立てず、同時本願人手刷借もせ守、金子利子多く、千部講入
用の上、剰像金あるときは本願人相談の上修覆等の御入用に差上ること、なってゐる。
徳川末期に至ると、古記録の中に加賀金揮の富田屋長右衛門・問弁屋清助等よ
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金子の融遁を受け
し乙とが散見してゐる。
之、にも営時の高利資本の準出を見ることが出来るのである。
山内坊中は文永十一年の﹃下之房﹄誼に﹃志摩房﹄
﹃端場房﹄に淵源し、弘安六年六老慣が山内に
結んだ六房を加へ、賓徳・長雄年間﹃岸之房﹄、﹃花之房﹄﹃慶休房﹄の建立が古記録に見ゆる
o
文明年
聞には三十八房を敷へ、下って貞享四年には三十六坊の一時建立があり、正徳二年には房の一線数百三
十三を敷へてゐる。蓋し空前絶後の繁柴であらう。きれど徳川末期寓延時代には九十三ケ坊であっ
て、四十坊を減少し、維新時代の療備段蒋の漉は坊舎の腰合を促し、明治九年には僅かに三十二坊を
残
し
て
ゐ
る
。
町方の戸数誼に人口に就いては貞享三年七月調べの古文書を最古とする。即も
回
了
家
教
上 国I 東 拾 五 軒 西 拾 五 軒 狐 町 東 十 二 軒 西 二十二軒,
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東 サ 三 野 西 二 十 軒 上自盟岨押 十 三 軒 下撞揮 三 十 軒 下 町 東 二 十 一 軒 西 二 十 四 軒 裏 町 五十一軒 身延山久遠寺門前町に就きて七
七身延山久遠寺門前町に就きて 七 F
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二百四十二軒 山内併徒寓延年間には衣の逼
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。
百六拾七人︵西谷純林を除︿︶ 門前戸数 内 人 下 男 本院八拾二人 坊 合 百 三 拾 品 開 人 コ 一 百 拾 武 戸 謬 身延山町 政 拾 出 且 戸 瞳i
零 参拾参戸 武百五拾八戸 新 干d
口 男 五百武拾七人 女 六百九拾人 純, 千武百扮七人 本却も戸数七十を増加してゐる。
山 ︵ 方 丈 ・ 支 院 共 U 寺 町 戸と
あ
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﹁施山由緒書﹄にゐる明治三年八月改人別帳には
数 百 戒 扮 机 引 日 威百威名 人 方 数 八 拾 武 石 ム ハ 斗 六 升 或 才 馬 拾六匹 清 治 九百捻参入 軒 武百六折或戸 高 人 口人口は倍増してゐる。
とれは身延町のみに就いてのもの
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思惟さる、。戸数に於いては殆んど品質化を見ないが。
顧るに明治維新は悌敬徒とっては正に受難の秋であった。神悌混清の禁止、腰備段稗の運動は遼原
の火の如く蔓延し、身延も亦明治四年には寺領悉く官渡せらる、悲運に遭遇した。
乙れより以前慶臆
四年八月朱印境内及年貢地にして甲府総轄に提出した文書がある’﹄れを左に摘録する。
一、朱印境内 右境内之内山林市品々切開山畑出来仕候 只今布石高威拾八石八斗五升九合京勺 一、御年賀地 高百貞治六石九斗三升三合七勺 右九ケ村之内=所持仕候石高ユ候 一、高四十一石一斗六升八合 黒 津 村 一、高三石七斗三升七合三勺 大.
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居 村 一、高二万六斗九合四勺 市 川 大 門 村 一、高三石六斗五升 戸 問 村 一、高六石五斗一升五合 天 神 中 脇 陣 村 一、高十五石四斗四升七合 f乏 津 村 一、高五斗五升五合 i¥. 之 尻 村 一、高一石四升 東 商 湖 材 身延山久慈寺門前町に就きて 七 :Jr~身延山久遠寺門前町に就きて ノ 、