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何のための異文化理解か

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Academic year: 2021

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(1)71 注. イ. 何のた 迷 は. め. 妄. 解. 理. か. 井 本 祠一. 年。. ⑥トルストイ﹁人生論﹂、米川和夫訳、角川文庫、五 |六頁、一九六二一. 朝刊。. ぎないのである。﹂と書いている。 一一 00 一年九月二0 日、朝日新聞、. 実はよく知っていると思っている 欧 米への無知を告白しているにす. の源泉である。日本の知識人が イス ラムへの無知を口にするのは、. 木は イスラムとの仲立ちを﹂の中 で ﹁イスラム文明は近代欧米文明. ⑤板垣雄二一は、アメリカ同時多発ァ ・ロ事件に際して新聞に寄せた﹁ 日. 大学出版局、叢書・ウニベルシタス 、一九八三年。. のツ ルベルト・エリアスⅡ文明化の 過程 ヒ、赤井・中村・吉田 訳、法政. 所収、セ九頁、 二00 一年。. ① 岡真理︵﹁文化が違 う﹂とは何を 意味するのかせ、Ⅱ大航海Ⅰ№三八. 0 一年、三頁。. の鍋倉健悦 ﹁異文化間コミュニケーションⅠⅡ丸まロライイノラⅡ二 ノ0 ー、. とが強調されている。講談社、現代 新書、一九九七年。. では、中央アジアでは東西よりも 南 北の繋がりのほうが強かったこ. ではなく、各地に独自の文化が栄え ていたことが示され、その意味. ①間野英二Ⅱ中央アジアの歴史Ⅰで は、シルクロードが単なる通商略. ヒ 理 解 」. /Ⅰ.

(2) 72. 11111. 1. @@11. トト. @. 生活上の習慣・催し物を通してであ る。日本人が仏教を知るのに、 仏. り、学校や家庭内での話題であり、 それより何より、宗教的な祝祭 や. 教徒がキリスト教そのものを知るの は、お坊さんの説教を通してであ. みなさいと薦めているのである。 キ リスト数社会の中にいるキリスト. りなさい、むしろ読み物として、 文 学 として、ある種の歴史として 読. く知ってもらいたいためではない。 そこから﹁生きる知恵﹂を汲み取. に ﹁論理の上で反対するのは難しい﹂とトルストイは書く。﹁こうした. るには川を知らなければならない﹂ と 主張し続けるこの拐引きの考え. おろそかにし、その動きに支障をき たしたという話である。﹁水車を知. よう になる。やがてそれに没頭して しまって、肝腎な水車の手人れを. ﹂そ水車問題の根源があると考える 研究を始める。果ては水の流れに ヮ. 男が、ある時から急にそのメカニズ ムや機能に特別の関心を持ち始め、. 起せざるを得ない。水車の技術に 榛 れていて、巧みに粉を挽いていた. あまりに有名な逸話であるが、トル ストイの﹁人生論﹂。の冒頭を想. 典や理論書を通してでないのは、 日本人にとっては自明である。やは. 迷いをさましてやるのは、ただひ とっしか方法はない。・・すべても. て キリスト教という古木 教 をより 深. り生活習慣上の幾多の場面を通して であり、もしどうしても言葉で知. のを考える 場 ムロ、だいじなのは、 考 えることそのことではなく、考え. 場 ムロでも、それは決してそれによっ. 、お坊 尼さ きん んや から聞く説話. りたいのなら、仏典や教義 書 よりも. な い、むしろそれをその文化の人 た ち自身がど う ﹁感じ﹂、あるいは無. 異文化を知るのには、その文化の理 詩的な面だけでは不足なのでは. んなに論理にかなっていようとも、 どこか分別にかけたところがある. ふられなければならないのである。 目的を忘れた考えは、たとえ、 ど. て、この順序のうちに、ひとっ ひと つの考えは理屈に合うようにわり. る順序だということ・・すべて考え 6目的がこの順序を定めるのであっ. 意識にどのように実践しているかを 知ることこそ肝要である。﹁左の頬. ものだ﹂。. や法話こそがそれに相応しい。. を打たれたら右の頬も差し出せ﹂と どこかに書いてあろうと、それを. そのままに信ずる人はいないであろ ぅ。信じたら大きな誤解となる。. を 理解しょうとする﹁目的﹂を意識 していないと、トルストイの拐引. 異文化を知ろ うとする心情がどんな に真摯なものであろうと、それ. 七. 必要に迫られただけの異文化理解は 不毛であり、目的のない﹁異文. ある。ショックを心の中で対象化で きる準備はしておかれ は ならない。. ある。しかしカルチャーショック そのものは自己の文化の為せる業で. 有益なことであろう。カルチャー シ,ック を感じられる精神は健全で. カルチャーショックはある意味でど んな場面でも必要なことであり、. ことになる。. っかずにいることになる。異文化 理解 という意識だけが一人歩きする. 錯覚が却って深い誤解を生む 、様 々 な文化の間に差別を置くことに 気. しかし、その舌口葉が ﹁その文化の中 では﹂ある種の真実を言い表して. る文. る. き 男の錯覚に陥りかれない、異文化 の抜け殻だけを知ることになる、. せ伎. いることも間違いない。それを知る のは、言葉の意味ではないっ生活. れ 「. 自己の文化だけから異文化を理解す ることになる、理解できたという. しの. の中で、あるいは文化の中でとしか一 三ロ りⅡ 様バ 比は ⅡⅡ。. れ. た.

(3) 73. ら. の. も. し. た. の. り. な謂そ たと博文で. いいの時言る. 丈. にでい. と. 係. しなも. も. り. の 壊 そ 埋. 、 会. 明あ そ習. る. へれ解こ と. 異. らのと 文. のたのなな は. 。 払. ず. 仏教. が. 」も. 教. いか的 。. の. どど. 仏. っな教. こ ん 何. 初. の. ら. を て に どち. 忘が. 、 る. ま」. が運にな. げそは中たな るのな国のる 。. が. 日. 本. もか伝で しの っ 来はか 宗. 世 界. の. ス聖な研す 徒. つそ. た 要. がいん文が. 若. てな献. る. し ヮ. り. フ -. ス ト. ぃは 研を る教. 意究読で徒 キ見書みあ が. ( リ. ス ト. に は漁ろ キ い キ ろ う く り ぬ か ス リ. 教らスは. ) 人. 。. ト. なま教 教 ら し 文 幅徒 なて札. 徒か のの. ト. が自 い やを る 身で " 知. *. *. た ち る の あ キ る ほ で 太 ろ り た 聖 る半 ラ ス め に. 書ろがか そう読 。 教何 読 がん考のよ ト. む. 、. 。、 @. --". と般. だえ理り こ て 論. なに. と も. 薦. な. ". み る. も. 的聖 な書. ま本を. めキ いで 質熟 る. り. 。 もを 読. " /Ⅹ. ユ、.

(4) 74. そ". 三. 年 め体. と. @ Ⅰ. ヤ. っ. に. ( イ あ モ. き. る. 」. 何先の. で っ. に単 そ ". ". い持. ツ. う. 。 る. 題は. 問いてとを 口 に. 入. が有イ 言プ ト. の合理 制 のなめ 解力. ただ 根セ l し でる ジ ろ幹 ン ジか と. ン. ド. 。 い な. 本は来 ど 覚 Ⅹ. ジ. は う ャ. ガ. 題. い食. も. 。 ド. イ. しなこど ". 逃 い. 文具 ". は で ま. の人なて 問にいい る る. イ. 習 0 セ のそのそ 慣 パ ン歴れでは の l テ史 ま あ コ. 人ガ てな. る た. の てパ百 と食人 l 年. る. こ. ら ィ. 然ィ だと だ. っ上 る降 よの. っ な 異文. ぅ の. " る. 顕ま 。 浄. な. 来ィ は い は ど. あ. 五い ド依ガ かこた. 持ろ百と さ. イ. はに. もな 間 どろ. 6 ド. なれ観て 知れかる す そ そ 長 え. 。 に わ. て. 的 て らてる る と っ 一 歴 い に か は も ジ 。 いて っ 史る " な " " ャた う もで. のて. 一. ず五 とか " イ古 りと 大な年うっ はは 百い減 ドモ はて く力っ 大て めの. そ. ほだ あ の. でるぞ点い不. ス ラ. は 最. し. ッ. 。 以 とイ. 。. だ超近 なに. 材ガ かま. は、﹁当時のドイッの地域に住んでいた人たち﹂︶の﹁食習慣﹂の中へ. 入ってきたのである。ジャガイモが 食習慣ごと輸入されたわけではな. い。 いやそもそも、たとえ個別的な ものであれ、ある食材にまつわる. 食習慣がまるごと輸入あるいは輸出 されることはごくまれであろう。. 日本のカレーライスはインドから 輸 入されたものには違いないだろう. が、実体は似ても似つかぬもの、 そもそも食材としての考え方から 異 なっているっ. 個々の 会素材がいっからどこで使わ れ出したかという調査研究は確. かに貴重なものであるが、そのこと と、現在それが食文化の中でど う. 根付いているかは、また別の観点か ら論じられるべきであろう。個々. の文化の原点探しは、尋ね当てたと きには、言わば骨格だけで、何の. 肉付きもないもの、あるいはまった く別の肉付きを発展させたもので. あったということになりかれない。. 昔を楽しむことを覚え、楽器を作る ことを考え出した人類は、世界. 中で様々な楽器を発展させた。中に はある地域独特のものもあれば、. どこかから次々に広がっていったも のもあっただろう。しかし、 管や. 弦を使ったもの、物を叩くことによ るもの、という基本形はほぼ普遍. 的である。例えば弦を張ってそれを 指 ではじいて昔を発生させる楽器. は世界中と言ってよいほどの広がりを持っていた。. 具体的には弦の数や共鳴箱の有無、 形などから、それぞれの弦楽器. 0発展過程、伝播過程、ひいては 親 子関係も論ずることができるであ. ろ う。そういう筋道をたどってみる ことは純枠に学問的には大いに 興. 味 深いことであり、これもまた単な る知的関心の対象になり得る。 た. だし、そういう発展や伝播の過程 が 一本道であったとは到底考えられ. ない。伝播はお互いだった、それぞ れの地で独自の発展を遂げたと 言 えよう。. 五.

(5) 75. ま避. つ け. 祠二. な あ 主. い る. 何のための異文化理解か井本. うようなものであろう。豚肉を食べ させられたムスリムと同じ反応を. 始が. 。. するに違いない。. 食る. でい菜あ. 所. は的の. イスラムは豚肉を食べることを禁じ ている、という事実がまずある。. し な た り. 四. ら擦. か摩. こ. 、 理. 知れ. 、 わ. は次から次へと誤解を深めていくば かりである。日本人が猫の肉を食. 彼らはよほど信心深いんだな、まだ 宗教に縛られているんだな・・ 話. るくらいで、どうしてそんなに、 こんな些細なことにこだわるのかな、. 当の﹂理由を感知できない契機にな りかれない。コーランに書いてあ. という﹁知識﹂は日本人にとって 却 って、 彼らがそれを食べない﹁ 本. 現代にも存在する問題の根源として 、やはり﹁どこかで﹂は繋がって. かに、知識としては大切なことかも しれない。知的関心だけでなく、. た、啓蒙 書 で始めて知った、とい・ っ問題もある。それを知ることは 確. ている、いや、うっかり忘れている のではなく、始めから知らなかっ. る観点が指摘されたりする。むしろ 近代文明の中に生きる我々が忘れ. れている0 啓蒙的な書物でも、. そ︶ ﹂に社会的な問題、特に差別と関わ. べさせられたと思え、こんな例題の 方がよほど現実を表していること. ﹂とにどこまで意味があるのだ る しかし果たして問題の根源を探る ヮ ぅか。. として﹁楽しむ﹂﹁関心を持って眺 める﹂﹁興味深くさらに追求する﹂. ずや そこに非合理的なものが見えて くるだろう。その 非 ムロ理を異文化. ら。そういう眼から見れば、豚肉食 を禁ずる理由を探っていけば、 必. れば食事それ自体を拒否すると思う ﹂。ここで肝腎なのは﹁そんなに気. っ皿を要求し、要求が認められなけ するからと三口われても、断固、 違 ・. で食事する気にはならないだろう。 そんなに気になるなら、熱湯治生母. ズが 載っていた皿を、洗剤できれい に洗ったからと言われても、それ. 岡真理はこんな例を出している 陪 ﹁たとえば私は、さっきまで ミ、、、. 対して非寛容になると、異文化 理 のなら平和であるが、その 木ムロ程に. 常 的に食べており、その文化の中で は何の問題もおきていないのだか. 禁ずることが最終的にムロ 理的に説明 されるはずはない。現に我々は 日. 合理的な理由だけを考えていると、 例えば豚肉食にしても、それを. いるのであろう。. いては、ほぼ世界中の地域と歴史の 中で確認され、研究され、報告さ. ﹁不浄なもの﹂にまつわる人間のお ど ろなどるしいまでの、心情にっ. き. 義そ. ". は な な で. と. それを知らずにいると、大きな摩擦 を起こすことがある。しかし、 か. い. 対る. こ で. と言って、イスラムはなぜ豚肉食を 禁じているかとなると、それは 知. 数組. 追 と 求に. る. 識の問題になる。ムスリムが﹁知識 として﹂豚肉食を忌避しているの なら、非ムスリムがその理由を知る ことも、何かの役に立っかもしれ ない。知れば﹁異文化理解﹂はいっ そう深まるかもしれない。しかし、 彼らは理由の如何に関わらず、豚肉 は感覚的に食べられないのである。 異文化理解のためには、必ずしも 知 識 が要求されるのではない。ある 時点では判断を停止して、相手の感 覚を知ること、想像してみること こそが必要な時もある。. き. を. な. o. こ. 唄物 中. すのにて. なる. なこ. 点こ. 種ー 6. 進化. 草食. る。. る. く. んに はあ. 観 あ. ど. になる。. イスラム教徒は、コーランにそう 書 いてあるから豚肉は食べない、. では と. 文者の. た. ら. 解. 人のれ 間でな. ぃ 化が ょ ぅ が ど う.

(6) 76. 目的そのものを改めて考察するのが本論の試みである。 ﹁文化﹂の厳密な定義はさておいて ︵﹁何のために異文化を理解しよ. 111・1・1. 11l,b. |. フム教徒の国で、たとえ調味料とは れた事実である。その豚肉が ィス -. 言え、食用に供されていたことが 分かったのだからパニックになった。. もう食べてしまっていたのだから。. っうにそれを食べる日本人には理解 しにくい。頭で理解はできても、. しかし、イスラムの人たちは豚肉を 食べないと言われても、ごく ふ. 文化には様々な相があることは間違 いない。 国単位のもの、もっと 広. 感覚では分からない 0 コーランに そぅ書いてあるからだそうだと聞 い. 、 ぅとするのか﹂をテーマにする本論 では、それはほとんど不要である︶ く キリスト教文化圏、イスラム文化 圏 のようなもの、逆に日本の中で. ても、納得はできない。何故に イスラムは豚肉食を禁ずるのか、いや. つしてそんなに﹁簡単に﹂食べない を宗教が禁ずるからと言って 、ど ・. も東と 西の違い、都会と田舎の違い 、そういう観点は無数に存在し得 都会生活しか知らない 人 ︵個人、また はごく少数︶がいわゆる田舎. で済ますのか、宗教にどうしてそん なに大きな力があるのだろうか、. そもそも、特殊な 内 ならいざ知らず、こんなにふっうに存在する豚肉. へ行って、そこの人たちと一緒に生 括 するのは、たいていの場合、お. というのがまず素朴な疑問として 湧き上がる。. よう。. 互いに大きな苦労を伴 う。短期間の 付き合いならともかく、長期にわ. ちを自分に同調させる場合もある。 お互いの生活の範囲内でならそれ. 逆に、都会人がいかにも都会的な強 烈 な個性を発揮して、周りの大た. ちろんある。それはその都会人に柔 軟性があった 場ムロだけではない、. 会の人が田舎で暮らすようになった 場 ムロ、うまく溶け込める場合もも. 場ム口の世 梧 はあまり表面化しない 場合 が多いであろうが。しかし、 都. の落ち度がなくても様々な問題が生 ずる。田舎の人が都会へ出てきた. れているから、食べないのである、 絶対に食べられないのである。感. ら食べたことがなく、その上で、 食 べてはならないものとして教え ろ. えだからではなく、生れ落ちた時か 且つ、最終的には、イスラムの 教・. いう のとは訳が違う。彼らにとって は豚肉を食べないのは、個人的、. 行 が規則だと言われて、多少不便な のだが、規則だからそれに従 うと. から、彼らはそれを持ち出すだけの ことである。道を歩くのに右側 道. いう のは理屈である。豚肉を食べな ぃ理由を﹁説明しろ﹂と言われる. イスラム教で教えられるから、 コ|ランにそ う書いてあるから、 と. くらいのことはあり得よう。文化を異にする人たちが一緒にうまくやっ. 寛 が拒否するのである。食べたら 美味 しそうなのに我慢しているわけ. たると、生活感情に根ざした粗糖 が表面化してくる。どちらにも何ら. て行けるのにも、少なくとも二つの 場ムロがありそうである。. ではない。だからこそ、調味料に 豚肉 が使われていたと聞かされれ ば、. それを食べていたとなれば、感覚的 にパニックを起こすのである。 た 数年前、日本の著名な調味料製造会 社の製品に豚肉が使われていた. ることもできない。こうい う感覚を 理解するためには我々は、せめて. 説明されても反応は変わらない。 食 べてしまったという感覚はどうす. とえそれが、単なる触媒として使わ れていたに過ぎないと、どんなに ことがイスラム国家で発覚し、大騒 ぎになった。ニュースでも何度も. 他 のもので我々の感覚にそれを置き 換えてみるしかあるまい。つまり、. 一 "一 ". 日本人が例えば外国で食べた食材に 大か猫の肉が混じっていた、とい. 報じられ、その後も評論雑誌などで 議論の対象になった。 イスラム教徒は豚肉を食べない、 絶対 に食べない。今ではよく知ら 何のための異文化理解か井本祠二. |. t. ・. @. ・・Ⅰ・.

(7) 77. い. い経. われ る. ら. 板目 日 と. にな. ぅ. と点相べ. で. が い. 変そ. の 意 シ. ラ は る. 問観. リ. Ⅰ ノう. 一. 達成されるものであろう。狭 い意味 での舌口語能力だけでない、外国人. との様々な交渉や取引能力を高める には、異文化間の違いを知って い. ること、それを実践できることが 円滑 な交際の必須の要件とも言えよ ・ つ。. 。. そういう観点から、異文化体験を通 して異文化を理解しようとする. に差別に繋がる。. の文化そのものもしばしば優劣の差 において意識される。それは容易. は必ずや文化的な高慢 か卑屈の影が 忍び寄ってくる。なお且つ 、個々. だけが相手を理解しょうとする、 相手に合わせようとすると、そこに. 本来、異文化とは文字通りお互い様 である。それを、どちらか一方. ないか。. なく、異文化理解そのものの存在理 由を考えてみる必要があるのでは. に増えた今こそ、必要に迫られての 異文化体験から得た知識だけでは. ことにもなりかれない。外国、ある いは外国人との交流の機会が大幅. 不毛なだけではない、却って大き な誤解をしていることに気づかない. れだけに留まって、結局は異文化を 自己の文化だけで理解していると、. れやすい。異文化の中でどんなに ヵルチャーショックを受けても、 そ. 異文化体験を積めば、それがそのま ま異文化理解だとの錯覚も生ま. 化は存在しないことになる。. 自分の文化にしたという 場 ムロがある としたら、そこにはいよいよ異文. かに長く 、 深いはずである。あるい は、まったく同じに二つの文化を. 化体験の経験が長かろうと、もとの 自分の文化との関わりの方がはる. で体得することも多くなるであろう 。しかしふ つぅは、どんなに異文. 異文化体験が深くなればなるほど、 その文化の知識が深まり、感覚. 体験したものだけが、異文化の意味 を表現できるのであろうか。. 、. しかしそういう異文化間の違いを 一っず つ挙げて いくことだけが、. ラ. 異文化理解の存在理由であろうか。 より多くの時間をかけて異文化を. シ. 「 か と た. でラ. ま っ. で. 問識始. し. しで あ. 手る をの ふ. 日額がめかて. は. あ に. 本ん 云 こ. のる い握々. ら. 佳す 、. コ. な. て化. 何 の. の. ため. 異 文 ⅠⅠ Ⅰ し し. l. 理解. 井 本 祠一.

(8) 何のための異文化現 解か. 目目口Ⅱ曲目 弾汁 吋 Ⅱ Ⅱ目中の寸 ヨト PⅡ目口ジ. 小中学生にとって﹁転校生﹂とい・っだけである種の異文化の匂いが 感じられる。もちろん本人は異文化 という言葉で理解しているわけで 記 はないが。地方の小部市で小中学校 時代を過ごした筆者にもそんな -. 憶 がある。見て感じただけではない 、自分自身も転校生になって 、奇 異の目で見られたり、面白がられた りした。小中学生でも自分の文化 を 持っているわけである。五感に分 類される感覚はもうすでに独自の 文化に適応すべき発展を遂げている 。それらを通して、よそからの 新. 奏 者の姿、言葉、話し方、いや、 雰四気としか言いようのない身のこ なし、態度にまで、ある種の違和感 を抱くものである。転校生木人も もちろん周りに対して違和感を抱く 。新しい土地に早くになじめる者 もいれば、そのことで苦労する者も いる。昨今のような、いわゆる 帰 回生徒の例を持ち出すまでもない。 異文化理解、異文化コミュニケーシ コンに関して、文化人類学的な ものから、言語学、心理学、教育学 、社会学など、実に様々な観点か ら 研究が進められている。文化現象 に関わるのだから、当然のことと は言え、それだけ広範囲な現象が対 象 になっているということである。. 井本. 祠二. のァ。お日日 odo. 文化との関わりが多くなったことは 確かであろう。しかし、世界が. 世界のグローバル化が進み、人や物 の交流が盛んになり、必然的に. ある。. しいとは言え、すでに少なくとも 五、 六 0年の歴史をもっ研究分野. で新. 理解を問題にする際、重要な観点と 言えよう。地域と地域、国と国. 現代になって始めて世界が繋がった のではないという認識は、異文. の昔から頻繁だったことが知られて いる。. ていったのである。日本列島から 北と南への繋がりも、これまた 古. いた。もちろん直接の繋がりではな いが、隣から 隣 へと、延々と続. 想起すれば、古代の日本でさえ古代 のぺ ルシャ帝国と繋がりを持っ. がったとしても、それは今の時代が 始めてではない。シルクロード. 代いてを 繋異. すらも決して、 西と 東の大文明の間 を細々と繋ぐ単なる掛け橋では. っていたのである。どこも単なる 中総点ではなかった 0 シルクロー. は、関連性の濃淡、時に争 いや離合集散こそあれ、次々に接して 繋. がと花. かった0。現代のグローバル化は交 通 通信機関の発達によって交流が. ド. とである。. くなった、途中を飛び越えてはるか 遠方へも直接に繋がったという. こ速な.

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