郷学福山啓蒙所の一考察
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(2) 久木. 幸男・山田. 大平. 注. 石川謙『近世の学校』 (1957年5月) p.167. 石川謙『日本庶民教育史』 (1929年4月,復刊1972年8月) p.163. 3 P.239. 『明治以降教育御慶発達史』巻1, 4 小松周書「中小学規則(明治3年)と地方学制改革+ (『金沢大学教育学部紀要』人文・社会 科学編, 13号, 1965年3月).ただし「中小学規則+に完全に則った郷学は実は一校もない. 「中小学規則+は「小学+の開設科目として,句読・習字・算術の3R'sに語学(外国語) ・地 P. 理学を加えた「普通学+と「五科大意+とを定めたが(『明治以降教育制度発達史』巻1, 141),この規則に最も類似した京都の「中学費内小学舎+の規則でも「普通学+に作文を加え ている上に,中学の五科のうち「医科之儀-即今欠乏,追テ設置ノ節-更ニ可相違+とされて いるところからみて, 「五科大意+が教授されたか否かは疑わしい(『京都府百年の資料』 5, 教育編, P.149). 5)米山光儀 「『日本教育史資料』における郷学関係資料の取掛,について+ (『日本教育史資料の 研究』 Ⅴ, 1986年5月) ∫ 6)龍谷次郎 「最近の『郷学(校)』の評価について+ (『日本史研究』 215号, 1980年7月) 宏 「研究動向と問題点・近世I+ 7)入江 (『講座日本教育史』5, 1984年4月, P.96) 1 2. Ⅰ郷学と公教育 卿学研究の涜れ. 1985年刊・吉川弘文館版『国史大辞典』郷校の項(山本武夫執筆)に. 紘,次のような説明がみえる。. 郷学・郷学校・郷学所ともいい,幕末期の村学校・市学校・啓蒙所・教諭所も含ま れる。設立目的として(-)藩士・陪臣のため(藩校の延長),. (二)庶民の教化教育. のため,の二種がある.寺子屋が個人の経営であるのに対して,藩・代官所や有志の 集団紅よi,て経営され,藩の許可の上で保護もあった(中略).初期の郷校は為政者側 から学問を平易に教え込もうとするものであった(中略).時代が下るにつれて,郷校. では農村生活の倫理を教える傾向が強くなり,儒教倫理に帰着はするが,藩校での経 書学習とは異なる性格のものとなった。経営主体は(-)領主・代官の直営, (二)官 民協力経営, (≡)民間有志の経営, (四)町村・町村組合の経営といろいろあるが (中略),それぞれの盛衰も幕領・藩領で異なっている(下略)1'。. 『国史大辞典』を40余年遡る1942年f(i ・富山房版『国史辞典』郷学の項・. (石川謙執筆). には,次の説明がある。. 郷学校・郷学所・郷校・郷費などとも称せられ,明治初年vLは屡々義校と呼ばれ た.郷学に二種類あって,第一種は藩費の延長としての郷学であり,第二種ilま庶民教 育機関としての郷学である(中略)。後者は領内各地の庶民を教化するために藩主・旗 本又は代官が,自ら設立したり設立を奨励保護したりしたものである′. (中略)。文化・. 文政年間までは「官民協力の経営にかゝるもの+が絶対多数であったが,天保年代に 入ると俄然二「幕府・津・邑主の経営にかゝるもの+が拾頭し(中略)次の弘化・慶応 期(中略)になると「民間有志の経営にかゝるもの+が進出(中略),. ′安政・文久の頃 からは,全く新しい経営形態であるところの「町村又は町村組合の経営にかゝるも の+が頭を出して釆た(中略)。かくて郷学の発達は,その経営方法の趨移を通して, 公立小学校観念の展開証左となって教育史上に新しい意味を産み出したのである2)o.
(3) 3. 郷学福山啓蒙所の一考察. 戦中・戦後を代表する二つの日本史辞典における郷学についての記述は,一見明らかな ように基本的に一致している.記述上の重点の置きどころの多少の違いを除桝ま,両者の 間に40年の距りがあることを感じさせぬ程に,内容上の一致度が高い.こんにちの郷学論. が依然として石川謙が提起した枠内を出ていないことを示すものでもあろうか。石川はい うまでもなく郷学研究の開拓者であって,精々「藩学と寺子屋との中間紅位したものと見 てよいS'+といった程度の郷学認識は,石川の研究によって飛躍的に深められた.郷学に. 第一種・第二種の類型を設定したこと,経営主体の推移を明らかにしたこと,その公的性 『国史大辞典』. 格と明治期小学校-の接続とを強調したことなどは,石川の創見である。. の記述もこれらをほぼそのまま継承しており,石川以後の郷学研究も石川説の修正ではあ ってもその全面否定でほないという見方が,あるいは成り立つといいうるのかもしれな い.しかし石川の郷学研究が実は一面において方法上の限界を伴うものであったことも, また認めないわ桝こはいかない。それは,個別郷学の研究を積み重ねた上で立論するので はなく,主として『日本教育史資料』に依拠して研究を進めたということである。石川は 手習塾研究に-jいてもほぼ同じ手法を採用しているo恐らく戦前の研究段階としてはやむ. をえぬところであったのかもしれないが,戦後個別郷学の研究を踏まえての石川説修正意 見が提起されることになったのも,またやむをえないところであった。 津田秀夫の第三種郷学論. 石川説修正意見の代表的なものは,周知のように摂津平野郷. の郷学舎翠堂の研究に基づく津田秀夫の第三種郷学論であり,以後主としてこの第三種郷 学論をめぐって様々の見解が提起されることになる。津田は含翠堂研究を基礎にして,石 川のいう第一種・第二種郷学のほかに「封建的権力機構に比較的煩わされない+郷学が存 1953年. 在するとしてそれを第三種郷学と名づけ,含翠堂こそがその典型だと主張した4)0 のことである.当初は第三種郷学のメルクマールを,封建頭主権力からの相対的自立と 「万人教育+ (universaleducation)の理念(教育における身分制の否定)とに求めたが,. 1971. 年の論文では経営者と教師との分離,人民の共同出資の2項を追加し,権力からの相対的 自立は権力による公認を含むと訂正している。そしてこのような郷学設立の運動こそが 「公的教育にたいする国民的同意の具体的表現の一つ+であり,公教育創出の前提である と論じた6)0. 1953年に始めて提起された津田の修正意見に対して,石川は直接には答えなかったよう である。. 1960年刊『江戸時代までの学校に関する史的研究法の発達』は,瀬谷義彦・高井 浩の郷学研究を「注目に価する業績+としているが6),津田説にはふれていない。それに 先立つ1957年刊『近世の学校』では含翠堂を取り上げながら,やはり津田説-の言及は見 られない.ただ,. 「同郷・同志の町人たちが,世に処する心得を身につける教場としたに. すぎない点で,含翠堂は,まったく『庶民のもの』. -それも『ゆたかに暮す庶民』のも. のにほかならなかった7'+と述べているのは,第三種郷学論への一つの解答たりえたかも しれないo含翠堂が「万人教育+を目ざしたとする津田説は,石川がかって次のよう匠書 いたことを廉けたものではなかったかとも見られるのであるが,もしそうだとすれば,-そ こには一種のスレ違いが生じていたのでもあろうか.. 郷学に於ける公立学校観念の展開は,普通教育観念Universal. education-ideaの.
(4) 4. 久木. 幸男・山田. 大平. 畢開によって一層明瞭に色づけられてし.,るo何人にも必要な知識を何人もが学ぶとい ふ意味での普通教育観念は,郷学の発展によって発展したものであった8)0. スレ違いといえば,津田説を恐らく参照することなく津田説の一部と類似する主張を試 みた小松周書との間にも,それは見られたo津田は小松論文「幕末期の寺子屋及び郷学に. おける近代化について+杏, 「国民教育創出の歴史的起点を求めるにあたって,寺子屋・ 私塾・郷学にはそれぞれ共通するところがあるとする見解+の一例として批判し, に寺子屋・私塾に重点をおいて考察の対象+とする限り, 公的教育との関連で見出しえ+ず,. 「とく. 「国民教育創出の歴史的起点を. 「郷学の公的教育機関としての性格付桝ま,その歴史. 的過程で出来あがってきた+と論じた9)。ところが小松は,手習塾(寺子屋)と郷学との共 通性よりもむしろその相違点に注目し,前者が「身分制の枠内のもの+であることを繰り 返し指摘した上で,次のように述べているのである。 寺子屋の単なる量的普及という事態の中に,身分制を突き破る学校近代化の力強い 動きをみることはできなかった。これに対し郷学は,幕藩権力の指導や監督を受ける ことはあったとはいえ,これを成立せしめた庶民の教育的要求-学問への要求は身分 制を越えるものであり,したがって郷学の成立はたとえ,その内容が封建的な漢学で. あったとはいえ,学問と教育との身分制からの解放を意味した。ここにわれわれは上 層庶民を主体的勢力とした,学校近代化-の下からの方向をみることができる10)0 津田は郷学と対比した手習塾の性格として,その学習内容が身近かな生活に必要な知識 にとどまったこと,教師・経営者が未分化であること,支配権力からの公認を原則として. 受けていないことと並んで,それが身分制の所産であり,身分差別のための教育を行なう 機関であることをあげている11)。小松の主張との間に決定的な相違を見出すことは困難で あろう.もっとも小松は上引箇所にすぐ引き続いて,. 「もしこのような寺子屋と郷学が結. 合されるならば,そこには国民教育創出への一つのコースが可能になるであろう+とも述. べており,「身分制の枠内のもの+である手習塾と「身分制を越える+郷学との「結合+と は何を意味するのかが相当難解である12).この難解さが津田・小松の間にスレ違いを生じ させた一国であるのかもしれないが,とにかく津田の小松批判をとおして,第三種郷学論 が手習塾論と表裏の関係にあることも,また明らかVLなったというべきであろうo. ところで,以上の粗雑なまとめからも,第三種郷学論が提起する問題が多岐にわたって いることがうかがわれるが,津田説に多かれ少なかれ触発されたと思われるその後の郷学 研究の流れを概観すると,そこではおよそ次の4・点が問題になっているのではないかと思 われる.第一は第三種郷学概念の妥当性にかかわる問題,第二は第三種郷学論の裏返しと しての手習塾論,第三は第三種郷学ないし郷学運動を近代公教育の前提とみなすことの当 香,そして最後に第三種郷学の存否の問題である.これら相互に関連するところの多い問 題を,以下順次吟味していきたいと思うが,その重要度から見て第三・第四の問題が恐ら く中心になる筈である。. 第三種郷学概念と手習塾論. 第三種郷学概念を問題にしたのは竹下喜久男・森川輝紀で. あり,手習塾論を取り上げたのほ梅村佳代である。竹下は含翠堂関係史料を再検討して, 少なくとも初期含翠堂が津田のいう「万人教育+からは遠い存在で,平野郷七名家中心の.
(5) 郷学福山啓蒙所の一考察. 5. 学問所であったと主張した18).津田はこれに反論したが,七名家中心という問題に関して は,石島庸男が慎重な表現ながら中世の惣的結合との関連を示唆している14)。森川は,第 三種郷学論が石川説の小修正にほかならぬことを見通していたのであろうか,石川の挙げ. た郷学経営形態のうち近代小学校-の接続可能性をもつものとして,民間有志型・官民協 力型を抽出し,前者を第一類型,後者を第二炉型と呼んだ。この第一類型が津田の第三種 郷学に近いわけであるが,わが国近代学校は第一類型ではなく第二類型に接続するという のが森川の結論であった15)。研究方法を全く異にする竹下・森川において,第三種郷学概 念はともに否定されているということができる。. 一方梅村は,第三種郷学論との対照において手習塾の自生的性格を強調する立場から, 信州伊那・伊勢松阪在手習塾の分析を踏まえて,幕末期手習塾が幕末危機-の民衆的対応 の所産であると主菜した.とくに松阪在手習塾-の「非人+入塾の事実の発見は,手習塾 を身分差別の教育棟関とする津田説克服の契機たりうると考えられる16)o近年八鉾友広に よって-挟訴状が手習塾の教材化された事実が明らかにされたことと相供っで7),津田の それを含む旧来の手習塾論が,板抵から問い直されるべき時機が到来しているといってよ い。. 公教育との接続問題. 郷学と公教育との接続という問題は,恐らく第三種郷学論の要石. であろうと思われるので,津田の所説を・出来るだけ忠実にフォローしてみよう.ただしこ. こで接続というのは,維新期郷学が学制規定の小学校紅再編されたという,多くの地域で 見られる事実そのものを指すのではないoその事実に内在する意味が問題セあり,それは 津田によれば次のように要約されている。. 「学制頗布+を公教育の出発点として有効たらしめるためには,まず,それ以前に 郷学及びその出張所を設置している(中略)。専制的な教育体制を施行しようとしても それに先行している民間の公的教育機関としての郷学運動の展開のない処では,. 「学. 制頒布+の実施は新しく人民との対立関係を生み出すものであった18)0 津田はその第三種郷学論を展開するに際して公教育という語を多用しているが,その内 容にふれることは少ない。ただこの箇所では,. 「学制頒布+-「公教育の出発+,. 「専制的な. 教育体制の施行+-「学制頒布の実施+としており,結局彼が「公教育-専制的教育体制+ と解していることが判明する。即ち,津田において郷学が公教育の前提となったというこ とほ,. 「専制的な教育体勧+施行の前提となったということになる。郷学諭の整理を試み. た龍谷次郎が津田のいう公教育にをま疑問があるとし,同じく入江宏が津田の公教育概念の 藩意的使用を批判したのは,ゆえなしとはしないのである19).. 上引箇所の後半部は,郷学運動が公教育-専制的教育体制施行の潤療抽的役割を果した という意味に解せられるo. もう少し詳しくいえば,上引に引き続いて「『学制』は国民教. 育創出のための公的教育を実施してきた郷学の存在を上から組替え+たと述べているよう に,郷学運動が生み出したのは「上からの組替え+対象としての郷学だったということに なる。しかしもしそうだとすると,更に二つの疑問が生じることになろう。一つは,郷学. はどのような意味で手習塾よりも「上からの組替え+が容易な存在だったのかということ であり,いま一つは,. ■郷学が創出しようとしたとされる国民教育とは何かということであ.
(6) 久木. 6. 幸男・山田. 大平. る。後者はのちにふれるように国民教育という語の二義性にも関連している。 津田は前引の如く「郷学運動の展開のない処+,つまり手習塾以外の民衆学校のなかっ たところでは,. 「『学制顔布』の実施は新しく人民との対立関係を生み出+したと明言して. いる.学制実施に際し多くの地域で手習塾が閉鎖されようとしたことは津田も認め20),普 た一般Kよく知られているところでもある.反対に,郷学は多くの場合学制規定の小学校 に再編されている.これらの事実は,手習塾よりも郷学の方が公教育(-専制的教育体制) に親和的な学校だったことを意味するのであろう。確かに学制下の小学校は,第三種郷学 のメルクマールとして津田が挙げた4点,万人教育ないし普通教育,民衆による出資,経. 営と教育との分離,権力による公認,を形式的には受け継いでいる.この継承関係を津田は 公的教育から公教育-の移行と規定した。しかし両者の間には実は決定的な相違がある。. それは,自発的な民衆の出資が民費の強制徴収に変えられ,経営と分離した教育の内容が 権力によって一方的に決定され,権力の所在が封建額主から天皇政府に移ったということ. である。従って公的教育から公教育への移行,あるいは「上からの組替え+とは,自発的 出資が強制徴収に変わり,教育内容決定権が権力の掌中に帰した上に,画一的教育内容が 強制されるようになったことを,具体的には意味することになる.この移行ないし組替え が,. 「新しく人民との対立関係を生み出+さなかったのであれば,それはなぜか。予想さ. れる答は,強制徴収や権力による教育内容決定が,すでに郷学においても多かれ少なかれ なされていたのではないかということであろう。. 津田もこのことを全く認めていないのではなく,後にふれる石島庸男の研究を批判する に当って,. 「含翠堂のような郷学が教育運動として普及していくなかで,幕末維新期には. 石島のいうように,官学的色彩をもった公的教育磯閑に変質していくのも事実である21'+ と述べている.しかしこの「変質+とは,その性格が少々変ったという程度のことでをまな く,より正確にいうと「反対物への転化+だったのではないか。第三種郷学は,たとえ支 配権力の公認をうけたにしても,そもそも官学的性格を全くもたない存在だった筈だから. である.結局津田の文脈からは,第三種郷学が郷学運動の普及の中でその反対物に転化 し,そのことによって郷学は公教育(-専制的教育体制)の前提となりえたということにな るのではないだろうか。しかしながら,反対物への転化の過程の分析は,津田においては. なされていない。その分析が果して可能なのかということも問題であろう。というのは,. 第三種郷学がもし存在しなかったとすれ畔,反対物-の転化も固よりありえないからであ る.ここに第三種郷学の存否が改めて問われねばならなくなるのであるが,それは一先ず 保留して後述に譲り,その前に津田のいう国民教育という語について吟味してみたい。 (A)一つは戦後の, 国民教育という語には二つの,しかも全く相容れない用法がある。 (B)他は戦前の用法である。. (A)前者は,津田が「国民の教育権の思想は(中略)戦後. における国民教育運動の展開と呼応する形で成長してきた+と述べる場合のそれである。 「民衆運動として国民. いわば,国民によ卑,国民のための教育と要約してよいであろうo 教育の史的発展+とか,. 「そのなか(-近世社会の中,引用老荘)で国民教育運動の原点をさ. 〈oる+-とかいわれる場合の国民教育も,戦後の用法に従うものであることほ明らかである。 前引の「国民教育創出のための公的教育を実施してきた郷学+という際の国民教育もまた.
(7) 郷学福山啓蒙所の一考察. 7. 同様である。そし七この意味の「国民教育の歴史的起点+が第三種郷学だと,津田は主張 するのである22)o の国民教育+,. (B)ところが一方で津田は,. 「明治の国民教育+,. 「『学制頒布』に開始される公教育として. 「維新政府の上からの国民教育の創出過程+などとも述. べている23)oこの国民教育を(A)の如き国民教育論的意味あいに解することはできない. 明治政府が国民による,国民のための教育を構想したり実施したりした形跡が全くないこ とは,改めていうまでもないところだからである.国民教育主いう語は戦前には,国民に よる,国民のための教育とは,全く正反対の意味で用いられるのが通常であった。 1887年 (明治20)頃からこの語はかなり頻発に使われるようになっているが,比較的早い使用例の 一つは,同年7月の『教育時論』社説であろう.そこでは国民教育とは「国家の権力を以 て教育を施すの義+とされ,. 「国民教育の目的は国家の為に教育を為すものにして,一個. (ママ). 人民の為にする者にあらず+と論じられている24).. 「国民の私の教育+とする主衷も-部. にはあったが26),もちろん前者が主流であった。そしてこの流れの中で,やがて1890年 (明治23)の第2次小学校令第1粂「小学校ノ本旨+の規定が現われることは周知のとおり である。. このように津田は同一著作の中で同じ語を,二様の,しかも全く正反対の意味で使用し ている。不可解というほかはないが,さらに同一箇所で(A)㌔(B)両様にとれるような形 で国民教育という語を用いている場合さえある。. 「近代日本の国民教育の史的発展の原型. を, 『学制』頒布の以前に遡って(中略),これを『第三種郷学論』として展開した+と述. べているのがそれであるo単に「近代日本の国民教育+といえば(B)の意味紅解するほ かむまないが,. 「国民教育の史的発展の原型を(中略),『第三種郷学論』として展開した36)+と. いうことなら,この国民教育は(A)の意味にならざるをえない.佐藤秀夫が指摘した国 民教育という語の「概念整理の不定型27)+の一典型であろう。. 以上津田の所説の一部を追ったが,その限り,第三種郷学を公教育の前提とする彼の主 張が余りにも多くの問題を含んでいることが判明したoそこで,先に保留した問題-第 三種郷学の存否の問題に移りたい。ただしそれを全く新たに検討する力量も余裕もないの で,先行研究を整理する中で残された課題を求めるとし、う形になる. 第三種郷学の存否. 第三種郷学の存否問題は,浮田がその典型とみなした含翠堂が第三. 種郷学の名にふさわしい存在であるのか否かという問題と,幕末維新期の郷学が津田のい うように第三種郷学の「系譜の延長上にある+といえるのか否ふという問題に分かれる. 前者は竹下喜久男・高野良一によって取り上げられ,後者を一貫して追求してきたのは石 島庸男であるoそのうち釣下は,津田に先立って含翠堂経営基盤の推移を検討したoそし て初期には七名家の学問所だとする自説を再確認するとともに,後期は官学的郷学で,一 般郷民の経営参加が見られる草庵末-天保期馴も「真に郷学としての性格をもった+と結 論している。しかしこの「真の郷学+が第三種郷学だとはしていない28'.一方高野は竹下・ 津田とほぼ同じ史料を使用しつつ,教育費の社会的組織形態の変遷を追求するという視角 から含翠堂の経営を分析したJそして初期・中期には経営組織が公共性をもちうる可能性. があったが実現せず,嘩終的には「封建領主を組織内に導入することで(中略),政治に, 教育の経営組織が従属させられる要田を作った29)+と論じた.両者ともに主として経営面.
(8) 8. 久木. 幸男・山田. 大平. の分析に終申しており,また互いに酪酸するところを含むが,含翠堂が第三種郷学である らと卑全面的に承認しないという点でははぼ一致しているoただ教育実態の分析が手薄な ことほ,残された課題の所在を示している。. しかしながら,含翠堂が第三種郷学であることが積極的には是認されないにしても,慕 末錐新期に各地に設立された郷学の中に第三種郷学に類似するものが存在する可能性は, 少なくとも論理的には皆無だともいえまい。しかし果して実際にはどうだったのか.泉州 60-70 堺という先進地域の郷学を取り上げてその性格を検討したのは石島庸男であって,. 年代に堺郷学を扱う論文5篇を発表している80)o. それらについてはすでに龍谷の紹介・整. 理があるので繰り返さないが81),博捜した史料を次々に投入して多角的に論じるという研. 究手法によって,津田が第三種郷学の流れを汲むとした堺郷学が設立当初から官学的郷学 であったことの証明に成功しているといえる。とくに民衆の動向との関連において支配者. 側の郷学政策をダイナミックに把握した結果,一見「下からの運動+と見紛うものが実は 「権力の枠内+のものにすぎないことを明らかにしたことは,塀型論的考察にとどまり■が ちだった従来の郷学研究に新生面を開くものでもあった。少なくとも幕末維新期の先進地 域に第三種郷学が存在しないことは,石島の堺郷学研究によって確証されたということが できるであろう82).. 石島はその後京都の郷学(番組小学校)の研究を通じて先進地域に第三種郷学が存在しな かったという自説を補強するとともに83),後進地域の例として羽前米沢の郷学を取り上げ た34).そして藩(のちに県)が設立したものは言うに及ばず,村民有志が積極的に設立した 「津田氏のいう第三 ように見えるものも実は民衆的基盤を欠いていることを明らかにし, 種郷学は存在しない+, 「郷学運動が盛んなところは,すんなり『学制』を受け入れ小学校. がどんどん建っていくぼど歴史は単純ではあるまい+と結論している。先進地域・後進地 域対象の実証的研究を踏まえてのこの結論には重みがある。第三種郷学が存在しないこと 紘,ほぼ完全に証明されたといってよいであろう。 捻ば完全に,といったのは,中間地域が必ずしも取り上げられていないように思われる からである.第三種郷学が全くの幻影であるか否かを最終的に見届けるためには,中間地 l. 域の郷学についての検討が必要であろう。以下,その小さい一例として啓蒙所について考 えていきたい。 注. 『国史大辞典』巻5 (1985年2月) p.335. 『国史辞典』巻3 (1942年2月) P.38.石川の郷学についての一般的説明は『日本庶民教育 史』 (1929年),岩波版『教育学辞典』 (1936年),『概観日本教育史』(1940年)にも見られ,そ 『国史辞典』所載のものは,戦前における彼の郷学研 れぞれ前のものに小修正を加えている。 究の到達点を示すものといってよし′、であろう。 P.361. 3) 乙竹岩造『日本庶民教育史』中(1929年9月)(『史潮』 49号, 1953年11月oのち『近世 4) 津田秀夫「摂津塾地域における郷学運動紅ついて+ 民衆教育運動の展開』 1978年3月,所収) (『歴史学研究』370号, 1971年3月。 5) 津田秀夫「民衆的教育運動と権力による公教育の成立+ のち同じく上記『近世民衆教育運動の展開』所収。なお以下の津田説の引用は注32を除き,す べて同書による) 1) 2).
(9) 郷学福山啓蒙所の一考察 謙『江戸時代までの学校に関する史的研究法の発達』 (『野間教育研究所紀要』16輯, 6)石川 1970年5月,もはぼ同文である) 1970年5月)。なお石川謙『日本学校史の研究』序説, 7 石川謙『近世の学校』 (1957年5月) P.192. 8 P.170. 石川謙『日本庶民教育史』 (1929年4月,復刊1972年8月) P.60, P.68. 9 津田,前掲書(注5に同じ) 10 (『金沢大学教育学部紀要』人 小松周書「幕末期の寺子屋及び郷学における近代化について+ 文・社会科学窮, 12号, 1964年2月) p.61. ll) 坪田,前掲書(注5むこ同じ) 12) 小松はこの論文で「その(-手習塾の,引用者注)普及は,生産力の発展とあいまって上層農 民の教育的要求を高め,人間形成をめぎした教育機関(郷学)の必要を自覚させるであろうか ら,そこに近代学校への下からの道が準備される筈だからである+ともいっており,手習塾郷学-「近代学校+というコ-スを考えているようにもみえる。 13 14 15 16. 17) 18) 19) 20) 21). (『大谷女子短大紀要』12号, 1987年3、月) 竹下喜久男「含翠堂設立の前提+ (『日本の教育史学』30集, 1987年10月) 石島膚男「後進地郷学の二態様+ 森川輝紀「郷学論考(1)+ (『埼玉大学紀要』巻24,教育科学Ⅱ, 1975年3月) 梅村佳代「寺子屋の位置づけをこついて+ (『暁学園短大紀要』11号, 1978年3月), 「下伊那の 寺子屋について+ (『伊部』599号, 1978年4月), 「寛政期寺子屋の一事例研究+ (『教育学研究』 巻53, 2号, 1986年6月) 八鰍友広「一挺訴状の往来物化とその流布の教育史的意義+ (『日本の教育史学』30集, 1987 年10月), 「往来物『白岩目安』の波布+ (『西村山地域史の研究』5号, 1987年) P.75. 津田,前掲書(注5に同じ) (『日本史研究』215号, 1980年7月),入江 龍谷次郎「最近の『郷学(校)』の評価むこついて+ 宏「研究動向と問題点・近世工+ (『講座日本教育史』5, 1984年4月, P.99) P.36. 津田,前掲書(注5に同じ) 津田,前掲書(注5に同じ) P.100.念のため付言すれば,津田は変質した郷学も「民衆の共 有学校+であり, 「万人教育+を目ざす儒学(のちにほ洋学に代わる)の教育も行っていたと いう。しかしそれらは実は林学だ桝こ見られる特徴ではなかった。教育が「国家の事務+とさ れた天皇制教育体制のもとでも, 1916年の徳島市遊動円椿事件の著名な大審院判決が示すよう 「民衆の共有学校+という性格を保持し に,公立小学校は「地方公共団体の営造物+として,. 22 23. 24 25 26 27 28. 29. ていた。また3R'sなど「生活手段としての科目+のみを教えたとされる手習塾でも,八鍬友 広の最近の研究が示すように, 3R'sの教育を通じてそれをこえる「万人教育+的なものが目 ぎされていた(八鞭友広「『用文章往来』の研究+,教育史学会32回大会発表要項+, 1988年10 月) P.61, P.LO吐, P.75, P.60. p.49, 津臥 前掲書(注5に同じ) P.58, P.62, P.69. 津田,前掲書(注5に同じ) 80号, 1877年7月5日, P.45) 「国民教育とは如何+ (『教育時論』 (『時事新報』社説, 1887年7月8日,『福沢諭吉全集』巻11, 福沢諭吉「国民の教育+ P.299). 津田,前掲寧(注5gこ同じ) P.96. 佐藤秀夫『学疲ことはじめ事典』(1987年11月). p.83.. (『大谷女子短大紀要』13号, 1970年3月) 竹下喜久男「含翠堂の経営+ (『京都大学教 高野良一「『第三種郷学』 (含翠堂)における公共化の可能性とその制約条件+ 育学部紀要, ⅩⅩⅤⅠ, 1980年3月)。ただしこの論文は,含翠堂自体の教育史的研究でほない。 国家による教育の組織化への対抗理静である「私事の組織化+論に対する批判(持田栄一)の 「私事の組織化+を日ざした筈の含翠堂紅おいて,ど 「正当性+検討のための基礎作業として, のような意味で公共化が実現しえたか,あるいはしえなかったかを検証しようとしたものであ る。. 儒学校の組織化過程よ.りみたる教育近代化の前提+(『教育学研究』巻31, 3号,1964 30)石島庸男 年9月), 「維新変容期における学校の組織化過程について+ (東京教育大学『教育学研究集録』 4号, 8集, 1969年3月), 「郷学分校から小学校への移行+ (『山形大学紀要(教育科学)』巻5, 1号, 1973年1月), 「心学教化思想の本質と堺『庸行合』 (『山形大学紀要(教育科学)』巻7,.
(10) 10. 久木. 31) 32). 33) 34). 幸男・山田. 大平. 1978年2月), 「幕末期『堺』の教育構造と郷学所の位置+ (『日本史研究』 191号, 1978年7月) 龍谷,前掲論文(注19に同じ) その後津田は石島に反論したが, (津田秀夫「近代教育成立前夜の民衆運動と子どもたち+,汰 学セミナー増刊『教育と法と子どもたち』 1980年12月所収),結局堺郷学が官学的紡学でない ことを立証しえなかった。 石島康男「京都音別、学校創出の郷学的意義+ (『語座日本教育史』2, 1984年4月) 石島,前掲論文(注14に同じ) (以上. 久木幸男). ⅠⅠ啓蒙所の設立と窪田次郎 啓蒙所の概観. 啓蒙所に関する先行研究としては,小久保明浩「明治初期・福山地方に. おける啓蒙運動と教育1)+,有元正雄他『明治期地方啓蒙思想家の研究-窪田次郎の思想 と行動2'』所収の焼成-. 「教育・医療衛生活動と思想+などが主なものである。その他維. 新期教育史関係論著でも啓蒙所に論及するものが多く,. 『福山市史』, 『広島県史』もそれ. ぞれかなりの紙幅を啓豪所に割いている。ただこれらの論著の中には,郷学としての啓蒙 所の性格を中J亡♪の論点としているものはないようである。そこで本稿では,啓蒙所がどの ような性格の郷学であったのか,端的にいえば第三種郷学の系譜につらなるものであった のかどうかということを,改めて考えてみたい。なお使用史料は主として上記有元ら・共著 の「資料編+および『広島県史』近代現代資料編に収められているものによった。 啓蒙所については頼成一が上記論考とは別に概略の説明をしている.要領をえていると 思われるので,やや長文ではあるが,まず次に引用してみよ-ぅ。 -八七二年(明治五)の学制頒布以前に福山藩(福山県・深津県) ・小田県におい て設置された民衆初等教育機関。維新後,新政府および府藩県当局は教育の重要性を 痛感し,既存の藩校等の改革と併行して民衆教育焼関(郷学校)を設立しようとする (中略)。明治三年,福山藩は藩校誠之館を中心とする学制改革を実施する。そこで特 筆されるのは,七歳から小学に入って「普通学+を学習することと,城下に二か所の -. r女学校+を設置したことであるo藩当局は「普通学-士農工商細民奴隷ニ至ル迄一 般ニ就学講習+. (学制井序)すべきものとして新時代にふさわしい人材の育成をめざ. したが,当時の財政事情から管内全域に普及させることは困発であった。安部郡莱板. 村(現福山市加茂町栗根)の医師窪田次郎はこの「普通学+を管下に実現するため, 藩当局(誠之館)の協力のもとに,啓蒙所と名付けた民衆初等教育機関設立の運動を 起こした。まず啓蒙所設立・運営の財政的基盤となる結社と-して啓豪社を設立し,町 村役人・豪農商層を周旋方として村単位に資金(米銀)を募集し,啓蒙所-か所の年 間経費(米五石)が集まったところから,寺院や庵室を利用して啓蒙所を開設してい った.最初の啓蒙所は明治四年二月に深津郡深津村(現福山市深津町)に開設され,. 一年後には管内町村(約-六○か村)の約半数に当る七○か所(通学生二七五六人) に設置された.啓蒙所には七--○歳までの児童を入学させ, _初・中・上の三段に分. けて手習・素読・算術を教え,考試を経て進級させた。教育内容は発展段階的であ り・設立維持の組織性はのちの公立小学校のそれに近いものがあるoなによりも民衆.
(11) 11. 郷学福山啓蒙所の一考察. の力によって設立・維持されたものである点に歴史的意義がある。小田県となってか らは備中地方にも普及し,学制頒布当時八三か所,通学生五○九五人,貯蓄金合計三 万四四六三円余であった。学制頒布後は学制にいう小学校とみなされてさらに発展 し,明治六年三月には-^八校となった.. ,ト田県は数次にわたる教則改正ののち,明. 治八年八月に至って初めて文部省の教則に準拠した3). この説明でほ,啓蒙所が第三種郷学に近いとは述べていない。しかしその開設が民間の 運動書こ始まり,. 「民衆の力によって設立・維持された+上に,、その「組織性はのちの公立. 小学校のそれに近い+とされていること, 設けていること,. 「設立・運営の財政的基盤となる結社+を別に. 「普通学+の教育を施そうとしていることなどは,津田秀夫が第三種郷. 学の表識とした諸点と大?んよく似ている。その上啓蒙所運動の提唱者窪田次郎がのもに 地方民会設立や地租改正反対に深くかかわったという事実があるo. これは,津田が想定し. た郷学運動と自由民権運動との関連4)を示す事例とは直ちにいえないにしても,一脈ゃつ ながりを示唆するものと見られるかもしれない。しかし果してそのように断言してよいの かどうか,療が概略的に説明している諸事項vLついて,もう少しくわしくみていきたい。 啓蒙所設立の前提とし. 幕末から明治-と向かう内憂外患の危機的状況の中にあって福. ての福山薄の学制改革. 山藩は, 1868年(明治元)に藩士浜野草書を学校総裁兼教師に. 任命し,彼の建議にもとづいて藩校誠之館の改革を行なった。そして漢学に加えて皇学・ 洋学の2科を置き,さらに数学・苦学・画学の3学科を設けた。また入学者の対象を藩士 のみでなく「一般人民+にまで広げ,他日成業の見込みある老には学資を給与する法を設 けた。続いて翌69年2月には,管内各村で誠之館の教則をもって私に学校を設ける場合に は書籍貸与・教員巡視:試験実施と優秀者-の賞品授与などを行なうこととし, 、安部郡山 野村に誠之館支校を,福山城下に市学校を設置した5).また領内各地に郷学を設置するこ とを意図してその教師養成のため,儒書の教授能力をもつ者や学力優秀の少年を誠之館で 再教育することを計画している6)。この計画は実現しなかったようであるが,意図的に教. 師を養成しようとした早い例七いってよいであろう。 68-69年の改革が余り実効を収めなかった′ためであろうか, 70年7月,福山藩大参事で 中央政府の集議院議員であった岡田書顧によって,より根本的な改革案が参議広沢其臣に 建議された。. 「藩治本論7)+と題するその論は絵論・原人・国体論・政論・学制諭の5篇. に分れ,そのうちの「学制論+で教育改革について論じている。その冒頭に「学-天下ノ 知識ヲ長スル所以也。故二学-平々入り易ク人々得テ学フ-キヲ要ス+という。これが岡. 田自身の学問に対する基本姿勢である。そして,従来の漢学や洋学のように外国の言葉を 用いて学んでいたのでは,字や音を覚えてその意味がわかるよらになるまでに時間を費し てしまう。そのため当面は「世上普通ノ漠仮雑用ノ文体二倣ヒ人情二通徹シ易キ+細沢書 を用いる。しかし将来的にはすべての文に仮名のみを用い漢字を混じえぬようにすれば, 児童や女子も読書が容易になりー「天下ノ智識長スル+に至る。ただし「各国ノ語学ヲ学ヒ 其書ヲ読ミ其測源ヲ極メソ事ヲ欲スル老+は「専務従事,各其志二従フ可+きである,と したのである。. このような岡田の改革論は,学校制度よりも教育内容の改革,その平易化に主眼を置く.
(12) 12. 久木. 幸男・山田. 大平. ものになってい′るo従って学校については大ヰ・小学を設け「小学校-到ル処二置+き,. また「痴人学校+設立を主張する程度にとどまっている。しかし教育内容平易化の主衷の 背後には「人々ヲシテ人タル所以ヲ尽サシムル+ことが政治の大本だとする彼の政治観が ある。岡田は「国ノ盛衰強弱-智識ヲ尽スト尽サザルニ在ル+ともいっているが,それは 「人タル所以ヲ尽+すことの具体的な一面を言い現わしたものでもあった。そして「智識 ヲ尽+してその盛強をはかるべきだとされるその国とは,岡田によれば「本邦万民ノー父+. である天皇を「奉戴+する国にほかならない。つまり岡田は,天皇を奉戴する新しい国家 体制(それは必ずしも藩を否定するものではない)建設のために国民が「智識ヲ尽+すことを 求め,さらに「智識ヲ尽+すための方途として教育内容の平易化を提言したのであった。 この提言を具体化したのが70年10月の学制改革であり,この改革がやがて啓蒙所設立運 動を導き出すことになる。改革に際して出された「学制井序+は「国家人材ヲ盛二義ヒ,. 文明開化ノ道ヲ興輩セソ事ヲ庶幾シ,更二教育ノ方ヲ厚クセソ+ために,幼児期の教育の 重視を討凱、,さらに七歳から小学校に入学して和文書・翻訳書の教科書によって修身,国 体・地理・窮理・経済・歴史・数・書の八つの「普通学+を修めるものとしている。そし て学則として次の三か条を定めた。. -,前件普通学-士農工商細民奴隷二至ル迄一般二就学講習シ,成業ノ上各職業ヲ修 メ生産ヲ営ム可シ.尤モ篤志有ツテ尚請書ヲ渉り其淵源ヲ究メソト欲スル者-,中. 学二入り其課井二原書ヲ講尭ス-シ。若文通才ノ者-教官許可ノ上直二原書二就キ 他日ノ大成ヲ期ス-シ。. -,婦人クル者,第一婦徳ヲ正シクシ内事ヲ修メ,且膝下庭訓二関係スル事頗ル重ケ レハ,女子幼少ヨリ女学校二人り,前条普通学科ヲ講習ス-シ。 -,男女学校,入学修業ノ規則-各校中ニテ掲示ス8)0. この改革によって誠之館では漢学を廃して普通学科を置き(ただし生徒10人の漢学専修科 を別に設ける),英・仏学,数学,習字科を設けたoまた同年12月,誠之館支校として福山東 町・西町のこか所に女学校を開いている9'.しかし小学校は誠之館のはか領内には全く開 設されず,. 「農工商細民奴隷二至ル迄一般二就学講習+するには遠い状態であった.ここ. に窪田次郎による啓蒙所設立運動が開始されることになる. 窪田次郎とその明治. 窪田次郎(1835-1903)は医師の子として生まれ,備中の儒者阪谷. 初年における思想. 朗慮(のち明六社員). に学んだ.. ・福山の江木鰐水(『江木鰐水日記』で知られる). 1854-59年,京坂に出て緒方研堂(洪庵高剃・赤沢寛輔(種痘の名手という)か. ら蘭方医学を学び,のち帰郷して文の医業を継いだ.. 69年には飢健の救助活動を行ない, 翌70年3月には近村の庄屋細川貫一郎(榎本武揚従弟)とと、もに「奉郡令書+を藩に建言し ているoこの建言によって藩に知られるようになったらしく同年8月,藩の医院教授に任 命されたが辞退した.同年12月, ′啓蒙所設立を建言,翌71年1月藩の承認を得て設立紅奔 走した。その後藩の棒大属に任じられて藩札の整理に当り, 8月藩命で上京(滞京中の9月 に福山大-扱が勃発している),廃藩置県後も72年3月まで在京したoその後ほ74年に地方民 会設立・学習結社蛙鳴群の結成, 師として活動,. 77年には地租改正反対などに活躍したが,以後は専ら医. 88年岡山へ移住し同地で没した10)0.
(13) 13. 郷学福山啓蒙所の一考察. このように幅広く活動した窪田ではあるが,一体どのような思念が彼を動かして啓蒙所 設立運動に踏みきらせることになったのであろうかo. 明治初年の彼の思想,とくに教育思. 想を知ることのできる資料としては1872年頃に書かれたとされる「政教一致ノ答+と, 70年の前記「奉郡令書+がある。前者において窪田は「人ノ性-慾ナリ+という独特の発 想を示している.彼によると人間は生まれてすく小に母乳を欲するように,人は生来「慾+ をもっているが,その「慾+が発現すると「情+となる。それは欲するものを手に入れ. 「惜シムノ情+を生ずることでもある。さらに「情ヲ具シ智能ヲ長スレ-,則チ物ヲ成ス 益々大ニシテ,物ヲ守ル益々固シ+であるたあ,成人した老はその慾により修身・斉家・ 治国・平天下を欲し「政府ヲ守衛+しようとする。そしてこうした心は窪田によればすべ ての人間がもっているので,その心によって人々が同じものを欲すればその結果として助. けあって家を成し,家々が助けあって村を成す。それが郡・県・国-と拡大していき,最 終的には国々が助けあって「万邦ノ慾ヲ協和シ以テ天地ノ性ヲ達ス+るものである.これ が窪田のいう「天理ノ公慾+であり「善行+の漁れである。しかしその「善行+を妨げる 「悪行+も存在し,それは「私慾+から生じる。その「悪行+のもととなる「私慾+を生 じさせないように,子どもに「道ヲ修メ+させることが「教+. -教育であると窪田は考え 「政府ヲ た。すなわち窪田にとっての教育とは,私慾を生じさせないために「道ヲ惨メ+ 守衛+して,. 「全地球一大棟梁,万額皇風ヲ仰ク+という意味での「政教一致・開化文明. ノ極+の実現を目ざすものであつた11)0 「奉郡令書+は農民の租税負担軽減を建言した文書で,. 「富国強兵を欲すれば,また農賎. し. を薄くするに如くなし+というのがその要旨であるが,租税軽減が必要な理由の一つとし て,重税が農民子弟の教育を妨げ,ひいては人材開発を困難にしている事実を指摘してい る。. 「父母その子弟を教授してその成立(成長)を試みんと欲するは天下の通情なり+。と. ころが重税・災害に苦しむ農民は「教授の情切なりと錐も,厚序の設け備われりと錐も, 徒らに之れを羨望するのみ。何を以てか束備の礼をなし何を以てか子弟の費に供せんやo お. ここを以て天之れに購するに良材を以てすと錐も,空しく牛腎烏口の下に長じ,廃ちて奴. 僕乞弓之末に死す+という有様である。そこで窪田は「農賦を薄くして,之れをして教授 た. の余力あり,以てその情を達せしめんことを+提案し,. 「是れまた田竜の困りて起つ(す. ぐれた人物が出現する)所にして,人材登庸の一助ならずや+と論じている12).ここでは教 育が一面子どもの成長に寄せる父母の願いに発するものであることを認めながら,他面そ. れが人材登庸という国家的効用をもつことを指摘している。. 「政教一致ノ答+と共通して. いえることは,人間の「慾+や「天下の通情+を重んじるという形をとりつつ,結局それ を政府の「守衛+や「富国強兵+. -とキャナライズしていくという考え方が一貫している (小地主)レベルに属 ことである。窪田は知識人であり,耕作地所有規模からは「小豪農+ した。彼が「小豪農層から自作農民まで含めた耕作農民の立場を最もよく理解し,その立. 場を代弁するものであった18)+といわれるのは誤りではあるまい(「欲+や「通情+への言及 0. 0. は,このことを示すといえる)0 、しかし彼が政府の「守衛+や「富国強兵+について述べる. 時,単に耕作農民のみを代弁していたとは思えない。そして啓蒙所設立運動は,政府, 央政府・福山藩庁)杏,少なくとも半ば代弁するものとして開始されたのである。. (中.
(14) 14. 久木. 啓蒙社・\啓蒙所の設立. 幸男・山田. 大平. 窪田は恐らく70年の初冬頃14),福山藩学制を広く藩内全域に実. 施するよう藩庁に提言したが容れられなかった。財政上の理由からだという15)。そこで藩 の学制よりも規模を縮小した学校とその維持方法を構想し,経営・維持組織として啓蒙社 を設立することを同年12月に建議したoその結果,学校掛権少属杉山新十郎が担当者とな り,. ・窪田・杉山のはか大属横山光一・一等教授佐沢太郎(『仏国学制』の訳者)を加えた「発. 起人+が翌71年1月19日地方有志者の参集を求めて「啓蒙社大意・啓蒙所大意並規則+杏. 議定した16). 「啓蒙社大意+によるとその中心となり学校(啓蒙所)の経営に当為のは周旋 方で,現に54名が知られている17).いずれも村役人・豪農商層であって,啓蒙所は彼らの 主導で建設と経費集めが行なわれた。経費は啓蒙所1校ごとに年5石,それを30ロに分け て村内有志の拠出を求めること,年2回啓豪社の全体会議を誠之館で開き「仮令小事タリ トキ必ス社中一同ノ評議ヲ以テ定ム可キ事+などを「啓蒙社大意+は定めている18)0. その後窪田は「雀躍奮励,日以て夜に継き,百方奔走し+て各地啓蒙社・啓蒙所の設立 に努めたといわれるが19),実際の設立経緯が判るのは深津郡吉田村,同深津村の場合であ る。吉田村の場合,. 71年1月22日,庄屋で周旋方になる土産書大のもとへ誠之館-出頭す. べき旨の横山光一書状が届いた。代理として子息の惣太が出席したが,朝四ツ時から夜四 ツ時まで会議が続き,席上「大属様,少属,御衆中ヨリ御町嘩ナ御療ミ+があったとい う。土屋家としてはこの時初めて啓豪社設立を聞かされたわけで,これは他の多くの周旋 方の場合もはぼ同様だったらしい.さらに2月10日,安部郡川北村で開かれた庄屋集会に おいて,廃藩置県の予告などとともに,学校教育振興の告諭が藩庁からなされている。啓 蒙所設立に対する藩当局の積極性がうかがわれよう。吉田村では2月19日になって書太 が,村内の身元相応の老を呼び出して啓蒙社加入を申し談じている。また24日にも村役人 づら. を集めて評議し,さらに28日にも評議を行なって,小面(小前)26口,吉太7口の計33口の 出資を決めている。そして3月12日,吉田村新星谷の徳十郎宅において啓蒙所が開設され た.教師をま土屋槙六・官本-平の2名である.算盤が不足だったらしく3月12日に誠之 鰭, 17日には誠之館のほか土木役所から借用しているが,こ_のほか藩や誠之館からの援助. は全くなかった20)。吉田村啓蒙所の場合,最初の誠之館の会議から50日,村内での働きか けを吉太が始めてから20日余りで発足している。しかしそれは周旋方が積極的だったから ではなく,機械的に上からの指示に従って動いた側面が強い。. 深津啓蒙所は同村庄屋の石井英太郎らを周旋方として,. 71年2月6日に開設された。啓 蒙所として最初の開設である。石井が極めて積極的に取りくんだためであろう。彼は豪農 「啓蒙社大意+が議定された1月19日の会議にも出席している。 で藩庁の史生でもあり, 藩に近い立場にあったといえるが,彼はまた70年から漢学塾翠松館を経営していた。翠松 鰭-は誠之館教師が時折出張教授しており,翠松館は少なくとも郷学に極めて類似した学 校であった.こうした事情が石井を積極的にさせたのであろうか,彼は啓蒙所経費に自ら 15ロ出資し,村民100人から70ロを集めた。ほかに旧翠松館教師と誠之館からの出車教師 もそれぞれ1日ずつ出資しており,砲口数87口(14石5斗)という比較的余裕のある財政基. 盤をもって深津啓蒙所は発足した.石井はのちに小田県令宛小学校寄付金申込の中で「民 (ママ). 間二教育之道ヲ開度義,私亡文武右二門,積年宿志二供所,時未得其機,終二不果其志,.
(15) 郷学高山啓蒙所の一考察. 15. 私儀其緒ヲ継述,今大政御維新百度興起之盛時ニ遭際,旧福山藩庁御杖御引立被為在,昨 春又啓蒙社之挙アリ,自ラ議劣不敏ヲ顧ス,一意従事周旋ス+と述べており,少なくとも 彼の意識において「福山藩庁御杖御引立+. (-翠松館)と「啓蒙社之挙+とが「一意従事+. の対象として一連のものであったことがうかがえる。ともかくこうした経緯で深拝啓豪所 2名の啓 は同村長尾寺を校舎として発足した。開校に際しては誠之館出張教師が臨席し, 蒙師匠(啓蒙所教師)が藩庁校務掛から任命をうけている21)o そしてこの深津啓蒙所を蔦. 矢として各地に啓蒙所が設立されていった。. 71年末には沼隈郡のみで15校に達したとい. う2そ)0 注 1 2 3. 4 5. 6). 7) 8) 9) 10). il) 12) 13) 14). 15) 16) 17) 18) 19) 20) 21) 22). 『世界教育史大系』1,日本教育史Ⅰ (1976年1月)所収。 1981年3月刊。 療 成一「地方史研究ノ-ト(14)一啓蒙所+ (『芸備地方史研究』133号, 1981年10月) 津田秀夫『近世民衆教育運動の展開』 (1978年3月) p.75. 『日本教育史資料』4, P.339.なお『日本教育史資料』 2 (P.635)によると, 1870年,誠之 館分校を沼隈郡部浄,芦田茄府中市村にも設けたという.後者は次節でふれる古府郷費を指す のであろうが,もしそうなら開設は69年11月である。 『福山市史』下, P.41. 『広島県史』近代現代史料編Ⅰ, P.146. 『日本教育史資料』4, P.331. 『日本教育史資料』4, P.340. 「指圧術予備言+ 「窪田次郎履歴書+ (有元正雄他『明治期地方啓蒙思想家の研究』資料編, P.646, 1981年3凡 P.710) 「政教一致ノ答+ (同前書, p.431) 「奉郡令書+ (原漢文) (同前書, P.243) 有元正雄「民政思想+ (同前書, P.158) 『福山市史』下, P.46, 『広島県史』通史締5, P.523は70年10月「啓蒙社設立に関する会 義+が藩庁で開かれたとしているが疑わしい。窪田が啓蒙社設立を建議するのは12月だからで ある。あるいはこの「会議+は福山藩学制の全面実施を求めた窪田提言をめぐるものだったの かもしれないo 72年に窪田が書いた「紳護社創立願文+では,啓蒙社を企画したのは「一昨年 午年ノ冬+つまり70年冬のこととしている(有元他前掲書〔注10に同じ〕 P.441) 療顧「教育・医療衛生活動と思想+ (有元他前掲書〔注10に同じ〕 P.177) 「啓蒙社大意・付等+杉山新十郎「啓蒙社及啓蒙所設立の由来+ (同前書, p.415, P.424) 「啓蒙社周旋方+ (同前書, p.420) 「啓蒙社大意+ (同前書, p.417) 杉山新十郎「啓蒙社及啓蒙所設立の由来+ (同前書, P.425). 『土屋家日記』明治4年1月-3月(福叫城文書館鹿) 「深津啓蒙所記録+ (『広島県史』近代現代資料編Ⅱ, 野町誌』 P.295より再引) 『福山市史』下, P.48.. p.. 18), 「深津小学校沿革史+ (『福山市引. ⅠⅠⅠ啓蒙所の教育 啓蒙所の生徒と教師. この節では史料上の制約はあるが啓蒙所の教育と,その同時代匠 「啓蒙所大意並規則+が「士農工商 おける評価について見ていくo まず生徒については, 貧富ノ分チナクセ歳ヨリ十歳迄-必ス此啓蒙所二入り教ヲ受ク-シ+. 「御管内ノ男女共七.
(16) 16. 久木. 大平. 幸男・山田. 歳ヨリ十歳迄-必ス此啓蒙所二入1)+と,数え年7-10歳の子どもの全員就学を取ってい る.これは70年10月の「学制井序+にいう「士農工商細民奴隷二重ル迄一般二就学講習+ という箇条をより具体化したものとみられる。また「啓蒙社大意+は「月並ノ謝礼等致ス ニ及バズ侯事+と述べ,. 「啓蒙所大意並規則+は「貧窮ニテ書物算盤調-難キ老--,学. 校(-誠之館,引用者注)ヨリ啓蒙所-御下ケニ相成,夫々へ御貸渡シ(中略),若シ損シ侯 節-其由ヲ周旋方へ申シ出ス可キ事+といっている。これらは少なくとも全員就学を最小 限保障する措置であった.事実算盤の貸出しが行なわれた例は,前節で吉田村啓蒙所につ. 「御. いて見たとおりである。また啓蒙所への就学は,ひとり啓蒙社が企てたものではなく,. 津庁ノ厚キ御趣意+だとも述べている1)。子どもを入学させることに踏みきれない親たち に対して,一種の圧力を加える意図があったのかもしれない。これらの点を併せて考える. と,全員就学がかなり真剣に考えられていたらしいことが推察できる。ただしそれが容易 に実現できると考えられたのでもあるまい.窪田次郎が72年に書いた「民選議院設立の構 悲+では啓蒙所の標準的広さを12坪としている2).生徒50人弱と見積っていたといえる. 70,生徒2956人であるから,. 71年末の啓蒙所数は既述のとおり. 1校当り生徒は40人弱. で,窪田の見積りと大差はない。しかしこれは全員就学からは遥かに遠い数字であった。 もちろん生徒数40-50人を越える啓蒙所もあった。深津啓蒙所は前述のように当初長尾 寺を教場に当てたが71年9月には石井英太郎所有の貸家に移転し,さらに手狭まになった ためであろうか,. 72年5月には増築がなされている3).. しかし大部分の啓蒙所はこれより小規模で恐らく全児童を収容しきれなかったであろ う.生徒の出身階層も従ってまた,かなり限られたものになっていたろうと思われる。. 「啓蒙社大意+と「啓蒙所大意並規則+はともに,貧しい子どもにも学ばせる必要がある と説いている。ところがその理由は両者でかなり異なっている。啓蒙所の経費拠出を求め た前者は「子守・丁稚,下女・下男卜為ルモ,既二容儀ヲ習ヒ文字算数ヲ知ラ-,之ヲ召. 使フ人モ亦自ラ使ヒ易ク,又使フ人ノ嬰児 教育ニモ益アル-シ+と述べている。これ. に対し一般の父母に呼びかけた後者では, 学ぷことによって「世間ノ風儀,交リノ仕 方ヲ知リ,手紙・証文ノ意味ヲ解シ,梶. 表1. 持. 沼隈郡山手村啓蒙社加入者の高所持 高l人. 150石以上,. 数 1人. 加入者憎入着芸 1人. 100%. 20-50. 6. 66.7. 10-. 13. 12. 92.3. 面・算用各家業ニ損失ナク,又日雇奉公・ (相). 嫁イリ・姫トリ・婿養子等ニモ其合手多カ. 5-. Z. 35. 34. 97. 1. 困窮ニ暮ストモ,目ノ前ノ小利ニ迷ヒ手入. 3-. 】. 30. 12. 40. 0. ヲ情ソテ,子供ノ実入リ不熟ヲナスコト勿. 1. ル可シ。父母タル者篤ト此理ヲ弁-,任命. レ4)+といっている.啓蒙社に出資したの は主として「召使フ人+であったから(秦. ′、ノ. 1石以下. 69. 4.3. 70. 1.4. 無. 高. 33. も「困窮ニ暮ス+階層の子どもの入学は,. 合. 計. 257. 決して容易ではなかったであろう.のちに. 注) 『福山市史』下,. 1),無償・学用品貸与という条件があって. 67 P.48による. f. 26. 1.
(17) 郷学福山啓蒙所の一考察-. 17. 小田県諭告が「啓蒙所ノ弊害クルヤ,富人ノ出金スル者卜貧民ノ香ラサル者卜互二隔意ヲ 生シ,富人ノ子弟-出金ノ多キヲ誇り貧民ノ子弟二得色ヲ示シ,貧人ノ子弟-之二恥縮シ テ入校セサルニ至ル6)+と述べているの抹,授業料徴収の理由づけと見られる点もあるも のの,実際こうした事実がなかったとはいえまい。学校掛として啓蒙所設立に尽力した砂 山新十郎も「富者の子弟は其父兄の寄附金の多きを誇り,細民の子弟を圧迫するの弊を生 ぜり6)+とのちに書いている。 教師は・ r啓蒙社大意+では各校1名,年間経費5石の約70%余に当る3石6斗をその 給与に充てることとされている(残り1石が筆・墨・紙代,. 4斗が畳修繕費である7))。しかし. 既述の吉田・深津のように複教教師をおいた例もある.後者の場合は2人の教師の給与に しか. 充てるためであろうか,所定口数の2倍以上に当る87日(14石5斗)を集めているo. し1人3石6斗の給与はかなりの薄給で,これだけでは独立の生計を維持するのは困難で あったろうと思われる8).杉山も教師が薄給であったことを認めていた。彼らの前身は不 明だが恐らく手習師匠からの転身が多く,農業を営みながら教えたのであろう。杉山によ れば手習師匠の中には啓蒙所に反対するものがあり,彼らを説得して短期の講習ののち啓 蒙所教師紅採用したという9)o. 採用に関する規定はないが,藩当局が任愈権をもっていた. ことは,先に述べた深津啓蒙所の場合からも知られるところである。 序でふれた70年12月の「府県郷学用途+に関する太政官達では,高1万石につき親米 1石5斗を郷学経費の一部として府県が支出することになっている.これを福山藩(11万 石)に放械的に適用すると,藩が支出するペき経費は16石5斗紅なるo. しかし藩はこの僅. かの経費さえ啓蒙所のために支出せず,しかも教師任命権を握っていたのである。もちろ んこの太政官達は府県に対するもので福山藩を拘束するものではない。こ ̄のことによって ち,郷学啓蒙所がこの太政官達の影響を受けていないことが知られる10).啓蒙所に直接影 響のあったのは,やはり70年10月の福山藩「学制井序+であり,それはカリキュラムの面 でとくに著しい. 啓蒙所のカリキュラム. 啓蒙所のカ1)キュラムは衰2に示すとおりであるが,この裏か. らわかるのは次の諸点であろう.. ①教育内容を使用教科書によって示す方法申;採られてい. ②教科書は福山港学 る.これは福山藩学制にもみられるが,当時一般のやり方であった. 制と共通_oものがとくに多い。福山藩学制にみられて啓蒙所で使用しなかったものは『天 変地異』 (小幡篤次郎訳の窮理教科書)のみである。. ており,合計5点に達する.. ③福山で編述された教科書が多く使われ. ④次いで福沢諭吉や小幡など慶応義塾系の著者の手になるも ⑤. のが比較的多く3点ある。しかしこれは啓蒙所のみに限ったことではない(表3参照)。 教科は福山藩学制では既述のように修身・国体など8科目に細分されているのに対し,啓蒙 所では手習・素読・算の3科目である.俗にいう「読み・書き・算盤+という分類に従っ たものであろう。. ⑥啓蒙所は習字教科書として往来物を多く用いているが,福山藩学制に. 、⑦福山藩学制では はみられない。前者は民衆向きの実用的教育を目ざしていたといえる0 教科書の素読と講義を予定していたのであろうが,啓蒙所で講義も行なったのかどうかは 明らかでないo深津郡では72年2月から郡内の啓蒙所生徒が月に1回参集して会読を行な っているが11),これが素読を意味するのか否かも不明確である。. ⑧啓蒙所は初段-上段と.
(18) 18. 久木 表2. 幸男・山田. 啓蒙所カリキュラム. 手習. 素読. いう等級制を搾り,昇級紅は「考 算. 明倫撮裏革篇※*九ふ割声. 初段  ̄平倣名_片便名. 数字受取之文. 歴朝一覧※*. 世界国尽※☆ 万国歴史※. *は福山前述教科書. 科書。. 八算 見-. こととして,藩学制が特記しなか? た可能性もある。 以上から,啓蒙所カ1)キュラムは. 窮理図解※☆. 基本的には福山藩学制に従いつつそ. ・養生静*. 荏) 「啓蒙所規則+によるo. 必ずしも明らかでない。しかし藩校. いるので12),等級制はいわば自明の. 手形証文之文明倫撮要後篇※*. .商売在来 月令往来. 福山藩学制では等級制採用の有無は. 伴う等級制を採用していたとされて. 中段高山管内地理略※水生産道案内※☆. 上段. 読+を要するとしているの牢対し,. 誠之館では年齢を加味し「考試+杏. 人名頭告諭大意※寄せ算. 皇国地誌略※* 男女用文章下札. 大平. ※ほ「学制井序+と共通 ☆は慶応系著者による教. れを民衆向きに簡略化したものだ と,まとめることができる。教科書. が和文書・翻訳書ばかりだったとい. うことは,前節で述べた岡田書顧「学制論+の主旨に従ったものであった。この主旨紅沿 って福山藩は翻訳書を教科書に採用するとともに,新たに和文教科書の作成を進めた。藩 学制の制定以後に作成された教科書としては,次にふれる古府郷費の五弓豊太郎が編んだ 『歴朝一覧』 『福山管内地理略』がある。彼が「歴朝一覧井福山管内地理略二部編輯被仰 付+れたのは,藩学制制定後間のない70年11月7日で,同月15日には早くも『歴朝一覧』 草稿を書き上げた。 11月27日には修正稿を仕上げるとともに, 『福山管内地理略』執筆に とりかかり12月12日原稿完成, 『歴朝一覧』の方は同月22日に完成稿を藩に提出してい る13)。極めて早いテンポで教科書作成が進められていったことがうかがえるが,とにかく 地域で作られた教科書を大幅に採り入れたことは,福山藩学制およびその影響をうけた啓 蒙所カリキュラムの目立った特色だった。 このことは,啓蒙所と同じ1871年にカリキュラムが制定または改定された松江・京都・ 名古屋の堵合と対比すると,さらFt_明らかになる.表3からわかるように,これら諸校にお いては地域の教科書は近世の村名尽の系統をひくもの(京都の『山城郡村地名』)や「管内地 図+ (名古屋)以外は採用されていない。啓蒙所と共通の教科書は,主として慶応系著訳書. のみである。ただし福山の場合,地域の教科書とはいっても藩命によって作成されたもの であった。また『歴朝一覧』が藩当局の諒解のもとで水戸学の史観に基いて編述されてい る事実が示すように14),地域教科書・翻訳教科書の採用から想像されるような開明性が一 貫していたわけでもない。その上,啓蒙所カリキュラム自体が教師や地域の人たちの手で 自主的に編成されたものではなかった6. 「啓蒙社大意・啓蒙所大意並規則+を起草したの. は窪田次郎であるがIS),当時の彼削ま藩の立場から民衆に臨むという姿勢が濃厚であった 上紅16),前述の「啓蒙社大意+等御定経過から見ても,藩の意思がそこに強く働いていた 0. 福山大-挟に対する当局の「説諭+が「啓蒙所大意+を「啓蒙所告 ことが推察できるo 静+七呼んでいるのは17),この推察が誤つでいないことを示すものであろう′。啓蒙所カリ 0. キュラムは,実質上は藩制定のカリキュラムなのである.ただ啓蒙所運営上の細かい点.
(19) 19. 郷学福山啓蒙所の一考察 蓑3. 素. 読l習. 郡中潮法. 下. 等. 五十音. 九々割声. 数字. 但陪記. 地名. 甫氏尼. 孝経. 名頭. 告諭大意※ 職員令. 国史略. 惑書華苧 密室芸…冨. 西洋事情☆. 三枚御高札 名頭. 八算. 世話千字文 公用文章. 年. 号. 国. 名. 見寄算、. 帝. ⑳名古屋藩小学校規則(1871年7月) 入. 門. 智. 環. 修. 身l国 篇※. 孝経. 体I地. 容. 理. 名古屋管内 歴朝一覧※ 地図 告諭大意※ 世界国尽※. 詩経. 各国旗章. 書経. 皇朝沿革園 地学事始☆. 裏革俊名. 比例式全部 数字 三鏡 歴代一覧. 乗法 除法. 諸国部名. 珠筆兼修. 商売往来. 諸等諸法 筆 分数諸法. 比例法. 第 日本政記 五. 経. 比例難問. 其政大意 等. 西洋事情☆ 日本外史. 等. 公用文. 安国旗章 即題手東. 必用雑問. 万国公法. 外国里程. 開平方. 太政官諸規則. 蓋語学五百雷. 開平難問. 第 西洋易知録. 督l窮理I歴史. 餐. 号. 監. 官位相当表 地球図. 加減乗除. 珠筆兼修. 山城郡村地名. 私用文 悪書学一首言. ☆ 論語. 受取証券 苗字尽 京都町名. 私用文章. 腎!. 減法. 干支. 諸職住東 商売往来. 等. 術. 字l算. 数名. 世界国見※☆ 上. 蔀l習. 珠筆兼修. 論語. 等. 読l暗. 加法 五十韻芳票妄. 方名・干支. 大統歌. 句. 術. 書[算. 市中湖法. ノ. 中. ◎京都府小学課業表(1871年8月). ㊧松江藩教導所学則(1871年5月). 求帯. 開立方 開立雑問. 公私用文章 手習之文. 西洋易知錬 P.72, P.36, ◎は『京都府百 ⑳は『愛知県教育史』巻3, 注) ㊤は『島根県近代教育史』巻1, P.21紅よる. 年の資料』 5,教育鼠 ※ほ啓琴所と共通の教科書(往来物ほ除く).☆は慶応系 著者による教科書oなお名古屋小学校は武士対象で,等級制を採っていないo. 紘,教師や周旋方にある程度任されていたようである。深韓郡の啓蒙所教師たちが学習会 をもち,勤務時間についての申合せをしている事実もある18).基本的な点は官側(藩)が 抑え,一定の限度内でのみ民間の自由(経費拠出を含む)を認める体制であったと概括して.
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