核のカタストロフィと表象 : 原爆文学における日常の崩壊と再生
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(2) 立命館言語文化研究 25 巻 2 号. ていると考えたい。廃墟とは,いかなる手段をもってしても過去はやり直せないという修 復不可能性を思い知らせ,そのことによって,今起こりつつある事態への警告と介入を促す, 批判的知と情動の空間である1)。 表象不可能性,修復不可能性を前提とする米山の議論は,「廃墟」の「ヒロシマ」に多元的な意 味を求める多様な動きとそれを封じ込めようとする力のせめぎ合いを読み解くことで,「いま, ここ」の我々の問題と過去のカタストロフィの経験の関係性を模索,廃墟広島の意味の蘇生を 図ろうとしている。こうした米山の問題意識と実践は,原爆文学という領域に括られてきた膨 大なテクスト群を議論するうえでも示唆的である。 『広島 記憶のポリティクス』の原著がアメ リカで出版されたのは 1999 年であるが,いみじくも同年に日本の文学批評誌『敍説』は『原爆 の表象』を特集した。特集号の後記に花田俊典が以下のように語ったことも,米山の問題意識 と響きあっていよう。 本誌創刊以来の腹案の一つであった〈原爆〉特集を,ようやく実現できた。原爆に関す る〈物語〉があまりにも自明にすぎることに対して,それなりに闘ってみたつもりである。 いったい原爆問題が語りつがれる必要があるのは,それが歴史上の重大な事件だったから ではなく,わたしたちの現在にとって,それがあきらかに今日的な意味を発信してくると 思われるからだ。それをさぐりあてる努力をすることなしに,いやむしろそれを創造する ことなしに原爆を語ることは,まるで史跡保存の手つきと変わりなくなってしまう2)。 私が以前上梓した『原爆文学という問題領域』 (創言社,2008・4,増補版 2011)は,米山や 花田の問題意識を踏まえつつ,ポストコロニアル研究,ジェンダーやナショナリティの問題系 を導入,原爆文学と呼ばれる文学・文化表象の読みなおしを試みたものであった。原爆文学と いうジャンルを実体的,本質的に固定されたものと見なすのではなく,複雑な関係性,錯綜し た声のせめぎ合いが継続される記憶と生存の場としてとらえ返してみることであった。そうし た姿勢は,現在も基本変わっていない。 論じる対象は小説,詩,評論といった文芸はもとよりマンガ,慰霊碑碑文,証言集まで広げ, その年代も様々であったが,議論の俎上に挙げたすべての表現は,特に 60 年代後半から 70 年 前半にかけて重要な詩作,発言を行った二人の卓越した文学者の問いによってふるいにかけら れている。石原吉郎と栗原貞子である。石原は,シベリヤ強制収容所の経験から,死者の経験 を数量化する危うさを確認,さらに,被害者の集団のなかで少しでも自分が長く生きのびるた めに,ひとりの被害者が他の被害者に何をしたのか,と問う。それは被害者としての位置から 広島を語ることの暴力性を問い,「告発」を断念する姿勢へとつながる。一方,戦後いち早くみ ずからの被爆体験を詩にしてきた栗原は,この時期加害者としての経験を組み込むことによっ て,積極的に広島の社会的記憶を語りなおそうとした。有名な「ヒロシマというとき」はその 代表作である。 体験の個別性,共役不可能性に固執する石原に対して,栗原は原爆体験の普遍化,共有化を 目指す。この点においてふたりの姿勢は鋭く対峙する。だが,石原と栗原の姿勢に共通するのは, − 44 −.
(3) 核のカタストロフィと表象(川口). 「被害と加害が流動する記憶の場」とでも名付けるほかない領域に向かって,書くという実践を 通しながら繰り返し立ち戻ろうとしたという事実である。書く行為それ自体によって,被害者 と加害者という自明化された分節のありようが揺るがされ,問い直される。ジョン・W・トリー トの大著『グラウンド・ゼロを書く 日本文学と原爆』 (法政大学出版局,2010・7,原著 1995) の理論的背景のひとつに,H・ホワイトの提唱する「中動態」概念がある。極めて乱暴に言いきっ てしまえば,中動態の実践とは,客観的な事実とか現実を実体的に想定するのではなく,世界 なり主体なりといったものが行為遂行的に現前する様子それ自体を表象する行為と言えよう。 こうした中動態の議論を,被害と加害の線引き,その問い直しといった課題に接続することも また可能だろう。「被害と加害の流動する記憶の場」とは,誰が加害者で誰が被害者なのか截然 としない,だが,まさにそうした分節化が行われようとしている,そうしたカタストロフィの 現場であって,それは書く行為によってあらためてたどり着くほかない現場とも言える3)。 こうした,被害と加害の問題を,本稿のサブタイトルにある「日常の崩壊と再生」という言 葉に引き付けてみると,次のように整理することも可能だろう。米山も問題にした「被爆ナショ ナリズム」とは,原爆というカタストロフィの経験を,日本国内のドメスティクな経験に収斂 させ,「被害者」としてのナショナルアイデンティティを確保することで立ち上がる。原爆とい う日常の崩壊の経験は, 「我々」の「戦後」という新たな日常を構成するために動員された。だが, 日常の再生は,それに収まりきらない剰余とでもいうべきモノやヒトやコトの排除によってな されるともいえ,ともすれば自己憐憫と他者への不寛容に満ちた閉鎖的な共同体を生み出すこ とにもなろう。拙著で石原や栗原を特権的な参照点としたのは,加害と被害という問題系を顕 在化させることで,「我々」の「戦後」という日常を,これまでになかった或いは未発に終わっ た新たな関係性へと開く契機を探ろうとしたからである。 以下では,1950 年から 53 年にかけて発表された三つのテクスト(手記が一つ,詩が二つ)を 具体的に読解しながら,核のカタストロフィと表象の問題について考えていきたい。これらは いずれも,原爆の記憶と喪われた存在,死者との関係性を考えるうえで示唆に富むものである。 取り上げるテクストは,原爆文学という領域に馴染んだものにとっては比較的有名なもので あるが,テクストの書き手は一般に「アマチュア」と区分される人たちである。現在の私の問 題意識のひとつに, 「プロ」や「アマ」という区分を超えて文学や芸術を捉えなおすことはでき ないかということがある。もちろん「アマチュア」の書いたものだから,庶民や民衆の素朴で 純粋な心情が表出されている,といった評価をしたのではない。一見,さほど技巧をこらして ないかのような素朴な言葉についても「文学の言葉」として個別の表現に即しながら読解する ことはできないのだろうか,という思いが強くあるからだ。五〇年代年代前半という時代設定 については,本稿ではあくまでも便宜的なものにすぎないのだが,近年の諸分野の研究動向を 鑑みて,この時期が「我々」の戦後という日常の成り立ちを考えるうえで極めて重要であるこ とは間違いないだろう。. − 45 −.
(4) 立命館言語文化研究 25 巻 2 号. 2.田中清子の手記(長田新編『原爆の子』岩波書店,1951・10) 広島大学教育学部教授長田新が編纂,占領下のベストセラーともなり映画化もされた『原爆 の子』4)から,一つの手記(作文)を取り上げたい。被爆当時小学三年,執筆時中学三年であっ た田中清子の手記である。手記のなかほどから終わりまでを引用する。 メガホンをもってさけんでいる人がいました。ひがいを受けた者は皆似の島に行けという ことでした。私達も,そこへ行くことにして,川から船に乗りました。 お母さんのすわっている前に,私と同じ年くらいの女の子がいました。その女の子は, 体中にやけどや,けがをしていて,血がながれていました。苦しそうに母親の名ばかり呼 んでいましたが,とつぜん私の母に, 『おばさんの子供,ここにいるの?』 とたずねました。その子供は,もう目が見えなくなっていたのです。お母さんは, 『おりますよ。』 と返事をしました。すると,その子供は 『おばさん,これおばさんの子供にあげて。』 と言って,何かを出しました。それはおべんとうでした。それは,その子供が朝学校に出 かける時,その子供のお母さんがこしらえてあげたべんとうでした。お母さんが,その子 供に 『あなた,自分で食べないの?』 と聞くと, 『私,もうだめ。それをおばさんの子供に食べさせて。』 と言ってくれました。私たちは,それをいただいた。しばらく川を下って船が海に出た時, その子供は 『おばさん,私の名前をいうから,もし私のお母さんにあったら,ここにおるといってね。』 と言ったかと思うと,もう息をひきとって死んでしまいました。私は,その子供がかわい そうでかわいそうでなりませんでした。私はお母さんと一しょに泣きました。今その子供 が生きていたら,どんなにうれしいかわかりません。 似の島について,しゅうよう所にはいると,そこは,けがや,やけどをしている人でいっ ぱいでした。中には,気ちがいのようになって,かん者の中を走りまわる人もいました。 今それらの人が,やけどや,けがをしていなかったら,そして生きておられたら,そして又, 船の中にいた子供がやけどをしなくて生きていて,その子供のお母さんにあうことができ たら,私はどんなにうれしかったことでしょう。 これまでも多くの人が田中の手記に心を動かされた経験を語っている。ジャーナリストで平 和運動家である岩垂弘も深い感動を覚えたと述懐するひとりである。彼はその感動の由来を「未 曾有の惨劇の最中にあっても,光り輝くような崇高な人間性が発揮されていたことを私は知っ た。瀕死の重傷下にあってもなお他人を思いやる優しい心。原爆といえどもそれを絶滅させる − 46 −.
(5) 核のカタストロフィと表象(川口). ことはできなかった。」と説明する5)。圧倒的な核のカタストロフィに拮抗,あるいはそれを凌 駕する「光り輝くような崇高な人間性」 「他人を思いやる優しい心」。こうした評言について,甘っ ちょろいヒューマニズムだなどと嘲笑する立場に与するものではないが,一方で私自身がこの 手記から与えられた感動を説明しようとすると,岩垂が語るような言葉だけではうまく掬いき れないのもまた事実である。 4. 4. この手記の文末は, 「です,ます」体でほぼ統一されているが,一か所だけ例外がある。瀕死 の重傷を負った少女が自分の弁当を書き手の母親に差出し,それを「私たち」が受け取り食す る箇所である。文章全体の統一性からいえば,「いただきました」とあるべきところが「いただ いた」となっている。単純に言って「いただきました」であれば,書き手の敬意・配慮は少女 と読み手に向けられる。 「いただいた」であれば,読み手への敬意・配慮は少なくとも表面から は消え,少女にだけ向けられていることになる6)。 些末なことかもしれない。だが,このようにも考えられよう。そもそも書き手は,過去のカ タストロフィの再現に心を砕きながら,宛先は「いま,ここ」の読み手に向けられている。『原 爆の子』に収められた手記の第一の読者は,彼ら・彼女らが普段接する教師たちであろう。田 中清子もおそらく自分が経験した災厄を,教師やその背後に広がる読者共同体に伝達すること を意識,言葉を選択,配列,整序しようと試みたはずである。だが,そうした再現行為を進め るうちに,突如,書き手の意識は「かつて,あの場所」にいた「同じ年くらいの女の子」の存 在とその行為に直接的に向けられてしまったのではなかろうか。 手記を書いている時間はその流れをゆるめ,カタストロフィの時間が顔をのぞかせる。イレ ギュラーな「いただいた」という文末表現は,書き手の日常を構成する言葉では再現の難しい 時空に触れようとする痕跡であろう。 「いただいた」で結ばれた文は「しばらく川を下って」と いう文に続き,少女が自分の名前を告げようとした矢先に息絶えたと綴られる。 「いただいた」 4. 4. 4. から「しばらく」のあいだには,当然時間の物理的推移が示唆されているのだが,その空白に おいてこそ,書き手はカタストロフィのうちに働いた自分の情動を辿りなおそうとしていると も想像しうる。惨禍の最中,思いもかけない贈り物として「いただいた」弁当。どのような思 いでそれを口にし,味はいかなるものであったのか。ほかにも様々な想像を読み手に喚起させ る空白であるが,それは,書き手にとってみればいまだうまく言葉にすることが難しい経験の 痕跡なのだともいえる。さらにいえば, 「いただいく」を「食べる」の謙譲語ではなく「もらう」 の謙譲語と解すと,弁当をもらいはしたが食べなかったという解釈も可能ではある。その場合, なぜ,口にすることができなかったのか,といった問いも生じるだろうが,もちろんその答え も空白のままである。 歴史家の小沢節子は,田中の手記について「二人の子どもがいて,死んだ子どもの残した言 葉を生き残ったもうひとりのこども」 「死との遭遇からの生還者,この世の果てまで行って帰っ てきた人という意味でのサバイバーであるもうひとりの子どもが書き残している」と指摘す る7)。小沢の見解に私の議論を重ねてみるならば,次のように言うこともできるだろう。書き手 は,手記を書く行為を通して,もうひとりの自分ともいえる死んだ少女との出合い直しを果た そうとしたのであり,現在と過去,生と死がいまだなお流動する記憶の場に立ち戻ろうとして いるのだと。 − 47 −.
(6) 立命館言語文化研究 25 巻 2 号. 少女の死に触れた後,書き手は「いま,ここ」の自分の感情を直接吐露する。 「私は,その子 供がかわいそうで かわいそうでなりませんでした。私はお母さんと一しょに泣きました。今そ の子供が生きていたら,どんなにうれしいかわかりません」 。「かわいそうで」という一見素朴 な言葉は,それに続く「今その子供が生きていたら,どんなにうれしいかわかりません」とい う実現不能な悲痛な願いの重さに支えられている。そしてその思いは,テクストの末尾に再び 繰り返される。「今それらの人が,やけどや,けがをしていなかったら,そして生きておられたら, そして又,船の中にいた子供がやけどをしなくて生きていて,その子供のお母さんにあうこと ができたら,私はどんなにうれしかったことでしょう」。 このように言ってもよい。無名のまま死んだ少女の記憶は,田中清子の手を介して,読者へ と受け渡される。 「いただいた」 「私たち」とは田中清子とその母ではあるが,読者自身もこの 手記を読むことを通して「私たち」になっていくのかもしれない。しかし,書き手の田中がそ うだったように, 「私たち」は「いただいた」ことの意味を十全には言葉にできない。死んだ少 女の人物や来歴を様々に想像しつつもそれを確定する言葉も手にしてははいない。核のカタス トロフィの語り継ぎとは,死者の記憶を自己の都合で領有しないこと,死者の死の他者性に向 き合うことからまずは踏み出されるのではなかろうか。. 3.林幸子「ヒロシマの空」(『われらの詩』10 号 1950・12, 峠三吉・山代巴編『原子雲の下より』青木文庫,1952・9) いまでも原爆詩朗読で取り上げられることの多い,林幸子「ヒロシマの空」は,朝鮮戦争期 における広島の文学,文化活動の拠点のひとつであったサークル詩誌『われらの詩』(1949・11 から 1953・11 まで 20 号。ただし第 7・8 号は合併号)に発表された8)。林は『われらの詩』の 活動を通じてサークル詩人として急速に成長していった人物であり,そのプロセスにおいて自 らの原爆体験の意味を発見,再構成していく力を獲得していった。その達成というべきが「ヒ ロシマの空」である。詩のなかほどから最終連まで引用する9)。 あゝ/お母ちゃんの骨だ/あゝ ぎゆつ とにぎりしめると/白い粉が 風に舞う/お母ち やんの骨は 口に入れると/さみしい味がする/たえがたいかなしみが/のこされた父とわ たしに/おそいかゝつて/大きな声をあげながら/ふたりは 骨をひらう /菓子箱に入れた 骨は/かさかさ と 音をたてる 弟は お母ちやんのすぐそばで/半分 骨になり/内臓が燃えきらないで/ころり と ころ がつていた/その内臓に/フトンの綿が こびりついていた ―死んで しまいたい!/お父ちゃんは叫びながら/弟の内臓を だいて泣く/焼跡には鉄 管がつきあげ/噴水のようにふきあげる水が/あの時のこされた 唯一の生命のように/太 陽の ひかり を浴びる. − 48 −.
(7) 核のカタストロフィと表象(川口). わたしは/ひゞのはいつた湯呑み茶碗に水をくむと/弟の内臓の前においた/父は/配給 のカンパンを だした わたしは/じつ と 目をつむる/お父ちやんは/生き埋めにされた/ふたりの声をきゝ ながら/どうしようも なかったのだ/それから/無傷だつた父ちやんの体に/斑点がひろ がつてきた 生きる希望もないお父ちやん/それでも/のこされる わたしがかあいそうだと/ほしくも ない たべ物を喉にとおす ―ブドウが たべたいなあ/―キウリで がまんしてね それは九月一日の朝/わたしはキウリをしぼり/お砂糖を入れて/ジユウス をつくった /お父ちやんは/生きかえつたようだと/わたしをみて笑つたけれど/泣いているような /よわよわしい声 ふと,お父ちゃんは/虚空をみつめ/―風がひどい/嵐がくる……嵐が/といった ふーっと大きく息をついた/そのまゝ/だつくりとくずれて/うごかなくなつた/ひと月 も たたぬまに/わたしは/ひとりぼつちになつてしまった 涙を流しきつたあとの/焦点のない わたしの からだ 前を流れる河/みつめる うつくしく 晴れわたつた/ヒロシマの/蒼い空 この詩の大きな構造は父親と娘「わたし」の経験の反復によって支えられている。「生き埋め にされた」妻と息子の「ふたりの声をききながら/どうしようもなかった」父親,原爆症を発 症した父を懸命の介護もむなしく助けられなかった「わたし」 。迫りくる燎原の炎を目前にして, 父は妻と子を助けだすすべを持たず,ともに死ぬこともできず,生き延びるために二人を見捨 て逃げたのだろう。 「わたし」が慰めのように言うように確かに「どうしようもなかった」こと かもしれない。だが, 「―死んで しまいたい!」と叫び泣く父親の姿を見ても,単純に割り 切れるものではないことは明らかだ。そして, 「どうしようもなかつた」という言葉は,原爆症 を発症した父親を介護も空しく救えなかった「わたし」の葛藤としてそのまま跳ね返ってくる。 悔恨,恥辱,罪責感の連鎖あるいは共有。カタストロフィからの生還者たちが抱えるというサヴァ イヴァーズ・ギルト(Sur vivor s guilt),それを基盤とする共同性の発生といった説明も可能で はある。だがそれでもなお,この詩は自らの表現の個別性に即して,さらに我々に読み解かれ − 49 −.
(8) 立命館言語文化研究 25 巻 2 号. ることを待っているようにも思われる。 たとえば,「わたし」は家の焼け跡から母の骨を拾い上げ, 「再会」を果たす場面。 「わたし」 は母の骨を「ぎゆつとにぎりしめる」 。だがそれは「白い粉」となって「風に舞」ってしまう。 さらに粉々になった「お母ちやんの骨」を「口に入れる」。グロテスクとも思える表現だが,乳 児は口唇による摂取によって,母親に出会うという。 「にぎりしめ」ても零れ落ちる母親の存在 を「わたし」は最も原初的な方法で確認しようとしたのだろうが, 「さみしい味」がするばかり である。本来性の欠如による満たされない感覚。生と死に分かたれた愛しい存在との再会を切 に願いながらも,それが永劫叶うことのない。父親が「弟の内臓をだいて泣く」という表現も またそうであるが,グロテスクなまでの即物性と親子の愛情という抒情性が拮抗することが, この詩の魅力の源泉のひとつになっていると言ってよい。 ところで,父の臨終を描いた「九月一日の朝」の場面には,やや唐突な感も否めない謎めい た言葉が記されている。 「ふと,お父ちやんは/虚空をみつめ/―風がひどい/嵐がくる…… 嵐が/といつた」 。歴史的事実を言えば,敗戦から約一か月後の 1945 年 9 月 17 日,広島に史上 最大級といわれた枕崎台風が来襲,県内で死者行方不明者 2000 人を超える甚大な被害をもたら す。広島において原爆のカタストロフィがもうひとつの自然がもたらしたカタストロフィとあ わせ語られることは珍しくない。 とはいえ,問題はそこにとどまらない。『われらの詩』には「狂暴な嵐に耐えて来た同志たち /また嵐の日が近づいて来た/斗かおう 全国の同志たち」(田端重治「朝鮮冬物語」,6 号)「き なくさいほこりをたてて/嵐はふたたび吹きだした」(荒田芳太郎「顔をあげろ」,11 号)といっ た表現が頻出する。この詩の発表当時, 「嵐」とは朝鮮戦争の隠喩として機能したのである。少 なくとも『われらの詩』関係者にとって,いまわの際の父の言葉は,1945 年 9 月の広島の自然 災害の記憶をどこか響かせつつ,朝鮮戦争を契機に日本が再び戦争に加担していく状況への警 告となるよう,劇的効果が期待されたのであろう 10)。そもそもサークル詩とは集団創作の実践 である。「嵐がくる…嵐が」という表現は,峠三吉や増岡敏和といったサークルのリーダーたち の強い指導,助言,介入の痕跡とみるべきで,林自身もそれを積極的に受け入れることで表現 者としての主体形成を遂げたのである 11)。 崩壊した日常の表象は,再現する時点での日常の論理へと回収され,再生を果たそうとする。 この詩のタイトルが「ヒロシマの空」であること,また,最終連の「うつくしく 晴れわたった /ヒロシマの/蒼い空」という表現をもって, 「反戦」 「平和」の象徴となる「ヒロシマ」の原 型と読めなくもない。だが「ヒロシマ」は, 「わたし」の「さみしい味」を充足するものなのか。 「うつくしく 晴れわたった/ヒロシマの/蒼い空」を見るのは,やはり「焦点のない わたしの からだ」である。「前を流れる河」を眺めたのちに「蒼い空」を仰ぎ見たのではなく,揺れる川 面に映った光景をさだまらない視線のうちにかろうじて捕捉したのだとも解釈できよう。 この詩が, 「反戦」 「平和」のプロパガンダであることを超えて,我々の情動を強く揺さぶる 作品となっているのは,どれほど求めようとも取り戻すことのできない愛しい存在への痛々し い思いが,いったんは表現者の身体内部をくぐり抜けながら表現化されているからであろう。 そのことによって, 「ヒロシマの空」は死者を生者の都合で動員しようとする思想から逃れ得て いるともいえる。だからこそ余計にこの詩は,家族を被害者と加害者に引き裂きもする残酷な − 50 −.
(9) 核のカタストロフィと表象(川口). 別れを強いる巨大な暴力について根源的に思考させ,恥辱の記憶をいまだ到来せぬ共同性へと 開こうとするのである。. 4.望月久「とまどい−弔慰金によせてー」(『われらの詩』20 号 1953・11, 望月久『難民』叢書見る,1996・6) 最後に,やはり『われらの詩』から望月久「とまどいー弔慰金によせてー」(以下「とまどい」 と略す)を紹介したい。『われらの詩』は峠の死(1953・3)や朝鮮戦争停戦(1953・7)という 状況の変化もあって 1953 年 11 月刊行の 20 号で終刊となる。 「とまどい」はその最終号に掲載 された短い詩である。 ほんとに安堵した顔で/かんぢんなことを忘れてしまつた 長女は天子様の子供で/十四才の少女で/斬込隊の歌だけはおぼえて/原爆に殺されて/ 八年たつて/三万円が戴ける あゝ 三万円のとまどいだ/二人のいもうとがいる/二人のあにきがいる/はは親がひと り/家族が五人貧乏で/三万円の重さを知らない 市役所に頭を下げて/沢山の書類を書き込んで/ハンコをおして/ほつとして/ありがた さをしみじみ考えて/かんぢんな事を忘れてしまつた 十円札なら三千枚/百円札なら三百枚/千円札なら三拾枚 だけど/どこでどんなに死んだか/殺された長女は帰らない/這うこともできなくて/水 も飲めなくて/つめたく涙をこぼしてころがつて おゝ 三万円のとまどいだ 仏壇がかえて坊さんがよべて/骨がなくても/法事ができる/はは親は三万円を握つたよ うに汗ばんだ/いもうとは/ミシンがかえる/きりきりとなるミシンがかえる 六畳と三畳の小さい家に/三万円に/つながる/夢が/こぼれて/みんな大事なことを忘 れてしまつた この詩の背景には,1953 年 6 月 5 日,広島市が動員中の原爆死没者の弔慰金請求受け付けを 開始したという事実がある。受給対象は建物疎開作業以外で死没した動員学徒,徴用工,女子 挺身隊員。「六畳と三畳の小さい家」に住む貧乏家族にとって,弔慰金「三万円」は想像もつか − 51 −.
(10) 立命館言語文化研究 25 巻 2 号. ない大金であり,家族にささやかな日常の再生を夢見させる貴重な糧である。母は「仏壇がか えて」「法事ができる」といい,妹は「ミシンがかえる」と喜ぶ。語り手も「三万円」の「あり がたさ」を「しみじみ考え」るのだが,それと引き換えに「かんぢんなことを忘れてしまつた」 のではないかと, 「とまどい」を覚えずにはいられない。 「三万円」をもらっても「殺された長 女はかえらない」。生者の日常が再建される為には,死者の記憶は忘却されねばならないのか。 母が「仏壇」や「法事」にこだわるのは,「殺された長女」を悼む心情というより(それも入り 混じっているだろうが) ,ようやく世間並みのことができるという俗事への強い関心の表れであ ろう。少なくとも語り手はそのように眺めている。 「とまどい」という詩は,軽妙な味わいのなかに,死者を思い出しつつ忘れていく,想起と忘 却のメカニズムを巧みに表現しているともいえる。何よりこの詩の最大の魅力は, 「語り手」自 身がこのメカニズムの外側,安全地帯から告発するようには発話していない点にこそあろう。 「三万円のとまどい」を自らの問題として引き受け自嘲的に語るからこそ,読者にも「とまどい」 をもたらすのであり,その「とまどい」こそが,死者を忘却,横領することからも,それを強 いるシステムからもかろうじて逃れさせる隘路へと導くはずだ。 「とまどい」に表象されるこうした問題は,当時の「復興」という言葉をめぐる問題とも繋が りうる。広島平和都市建設法(1949・8 公布施行)という法律を根拠に,多額の予算が投じられ, 道路や施設のインフラ整備がなされ,急速な「復興」が押しすすめられた。そもそも「復興」 という言葉には,喪失したものをすべて復元し,回復しうるのだという楽天的な響きがある。「復 興」するなということではない。問題とすべきは, 「復興」という言葉をナイーブに発し無批判 に受け止める瞬間,誰か・何かを忘却してしまうことに無自覚となる危うさである。「復興」な る言葉が強迫的に繰り返し語られることによって逆に重要な問題が不問に付されてしまうだろ うし,その社会的帰結としてそこでのポリティクスを隠蔽するだろう。 そもそも,『われらの詩』が刊行されたのはこうした時期に相当する。遡ってみれば,早くに 多賀孝子「忘れ得ぬもの」 (第一号)は「復興」から取り残される人々に光をあて,且原純夫「ヒ ロシマ」 (第八号)は,皮相な「国際平和都市」に対峙することで, 「あの日」の記憶へ向き合 おうとしていた。瀧隆治「ぼくは墓石諸君に敬意を表する」(第四号)は,決して上手とはいえ ない風刺詩であるが, 「百米とやらの道路」を「うす暗がりの田舎の道よりも味けない/坊ちや んそだちの我まゝな道路」と皮肉る。瀧隆治とは望月久のもうひとつのペンネームにほかなら ない。 広島市が弔慰金支給を開始した同月,大田洋子は「ほたる」 (「小説公園」1953・6)を発表, 以後「マッカーサー道路との対比」(「解放」1953・7), 「残醜点々」(「群像」1954・1)という「平 和都市」建設, 「復興」事業, あるいは人間の「再生」に孕む矛盾をテーマとする「H 市歴訪シリー ズ」を発表する。その集大成が『夕凪の街と人と―1953 年の実態』(講談社,1955・10)と言え よう 12)。大田は,日常の再生を促す希望の言葉ともいうべき「復興」という言葉が,現実の様々 な矛盾や差異を覆い隠す事態に鋭く対峙していったのである。 注 1)米山リサ『広島 記憶のポリティクス』(岩波書店,2005・7,原著 1999)Ⅹ - Ⅺ頁。. − 52 −.
(11) 核のカタストロフィと表象(川口) 2)『敍説 XIX 特集 原爆の表象」の後記(花書院,1999・8)。署名「H」は花田のこと。 3)中動態の議論を参照しながら加害と被害の問題を論じたものとして,拙稿「被害と加害を架橋する― 小田実「HIROSHIMA」の想像力」(『社会文学』第 37 号,2013・2)がある。 4)ここでは『原爆の子』全体の問題に触れることはできないが,テクストの受容と五〇年代前半のナショ ナルアイデンティティ形成との関係について,福間良明『「反戦」のメディア史 戦後日本における世 論と輿論の拮抗』(世界思想社,2006・5)が詳細に整理しているので参照されたい。 5)岩垂弘『ジャーナリストの現場―もの書きをめざす人へ』(同時代社,2011・10)140 頁。 6)『原爆の子』に収録されているほかの中学三年生の手記と比較するとわかりやすいが,田中の手記は, 漢字で書けそうな言葉もひらがなで表記している箇所が多い印象をもつ。特に後半になるにしたがって, その傾向が見られる。 7)小沢節子ほか「原爆をどのように語りうるか―原爆を描くこと,受容することをめぐって―」 (『原爆 文学研究』増刊号 2006・3) 8)本節と次節の内容は, 『われらの詩』復刻版解説である拙稿「『われらの詩』における詩作品―その詩 学(ポエティック)と政治学(ポリティクス)―」(三人社,2013・6)と重複する箇所が多い。あらか じめ断っておく。ちなみに『われらの詩』掲載の林の詩は以下の通り。「パントマイム」 (1), 「師走の街」 (2),「城あとのひとたち」(3),「希望の歌声―メーデーの日に―」(6),「黒いひまわり」(7),「ヒロシ マの空」(10),「断片」(12),「日本の青春」(13)。なお(1)から(3)までは「町由起子」名で発表さ れている。 9)「ヒロシマの空」は,初出と『原子雲の下より』収録版以降とで多くの異同がみられる。今回の引用 は『われらの詩』によった。 10)余談であるが,私が大学院生の頃,広島のある集会でこの詩の朗読を聞いた際,朗読者本人か誰であっ たかは忘れたが,「嵐が来る,嵐が…」という言葉を,「核時代の到来」の予言と説明していた記憶があ る。朝鮮戦争停戦,冷戦体制確立ののち,言葉の意味は読み替えられたのだろうか。 11)1950 年 10 月 5 日から 9 日まで,爆心地近くの会場で「われらの詩の会」主導による丸木位里,俊『原 爆の図』展覧会が開催された。全国巡回展の本格的口火を切ったこの展覧会では,雑誌掲載前の「ヒロ シマの空」が会のメンバー深川宗俊によって朗読されている(『われらの詩』10 号参照)。早くに会員 間でこの詩が交換,交感されていた事実を示すにすぎないが,おそらくこうした営為も通じて「ヒロシ マの空」は練り上げられたのだろう。 12)詳しくは,拙稿「街を記録する大田洋子―『夕凪の街と人と―1953 年の実態』論」(『原爆文学研究』 10 号,2011・12)を参照されたい。. − 53 −.
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第一五条 か︑と思われる︒ もとづいて適用される場合と異なり︑