秋 月 等 観 研 究 序 説
「 は じ め に 日本美術史上'今日の鹿児島県に属する地域出身の画家として'最も早 い時期に登場する人物は'室町時代の水墨画家'秋月であろう。彼は' 秋月等観t等観上人'高城秋月の名でも知られ'雪舟に学んだ人物とし て著名である。この稿で取-扱う文献において'彼の名前や雪舟に学ん だといったことは従来よ-明らかにされてきたのであるが'その生立ち や'雪舟への入門の時期'生没年など、不明の部分もかな-多く秋月 という名前や'現在秋月筆とされる作品に比べると'その実態はそれほ ど明確に研究されていない画家であるとも思われる。 ( J S ) 秋月を知る史料としては'朝岡興被の﹃古画備考﹄の秋月の項に見ら れる文献が基本的なものとして考えることができる。特にその中で-' へ 証 二 ) ( 証 三 ) 桂庵玄樹の﹃島隠漁唱﹄'木村探元の﹃三暁庵主談話﹄'狩野永納の ハ 証 四 ) ﹃本朝轟史﹄は重要であ-'本稿もこの三つの文献を基本として論を進 めてゆ-ものである。また'画歴を中心とした伝記的書物となると'昭 ( 社 五 ) 和十一年佐多芳久氏の手による﹃高僧高城秋月﹄があるのみといった現 状であろう。この書物は'秋月に関して種々の問題と'今日の研究に示 唆を与えて-れるものではあるが'正確な文献操作による美術史的考察 永 田 碓 次 郎 ∩研究紀要 第三〇巻︺永
田
雄
次
郎
の面では不備な点も指摘することができ'郷土史的に論述された部分ち かなり存在することも事実である' 1万㌧雪舟に学んだ人物である秋月の研究に際して'雪舟研究史の上 から秋月を考察する方法も可能であろう。雪舟の研究については'明袷 ( 証 六 ) ( 証 七 ) 時 代 の 沼 田 頼 輔 氏 ﹃ 画 聖 雪 舟 ﹄ 以 来 ' 熊 谷 重 夫 氏 ﹃ 雪 舟 等 楊 ﹄ ' 蓮 実 重 ( 証 八 ) ( 註 九 ) 厚氏﹃雪舟等楊新論﹄'中村渓男氏﹃日本美術絵画全集第四巻雪舟﹄に 至るまで行なわれるところであるが'これらの著作の中に秋月の名を見 る機会も少な-はない。しかも'雪舟の事旗が'秋月研究に直接に関連 を持ったであろう部分があることは重要で'秋月研究にあたって'雪舟 研究を同時に展開せねばならない必要性がここに存在する。さらに'雪 舟'秋月両者に関係する人物として'桂庵玄樹の名前を無視することち できない。桂庵は'雪舟にゆか-の深い周防の生まれであるLt長門永 福寺に住していた時期がある。雪舟と同時に入明Lt彼の生涯の友人で もあった。その彼は'文明十年(一四七八)に薩摩へ来るところとな -'﹃島隠漁唱﹄の中で秋月について-述べている。このような意味か らも'﹃島隈漁唱﹄の重要さが理解されるであろう。 次に考えられる史料としては'秋月が鹿児島出身であるところから' 今日鹿児島に遣っている古文書'ならびにそれに関する研究書がある0 二 四 l永 田 雄 次 郎 ∩ 研 究 紀 要 第 三 〇 巻 U
歴
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的
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実
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旧
記
雑
野
宿
あ
ろ
・ ( 荘 十 二 ) ぅLt地方史的なものとして﹃鹿児島県薩摩郡高城村沿革史﹄や.﹃川内 ( 証 十 三 ) , 市史﹄が考えられよう。さらに'鹿児島県出身の画家達の集大成である ( 証 十 四 ) ﹃薩藩画人伝備考﹄があ-'その中には秋月に関する文献が﹃古画備 考﹄より多-存在するめは注目に値する。 私はこの稿において'秋月研究で特に問題となるように思われる'そ の生立ち'雪舟への入門の時期'秋月の入明といった事項を中心にtt以 上あげた史料の検討を進めようとするものである。それは'今後'秋月 の作品による作風研究(様式研究)に進むべき道程における'今日まで の史料的研究のまとめとして考察するものなのである。二、秋月に関する基本的史料
ヽ ′ . . A I . I ( 証 十 五 ) 3 : I ﹃ 島 隠 漁 唱 ﹄ 秋 月 綿 都 。 薩 之 産 。 而 遊 聾 子 中 州 。 年 既 久 衆 。 専 師 雲 谷 翁 。 轟 工 究 其 妙寓.壬子之秋.錦旋以馬栄.於定福昌老師餌客軒而居蔦.蕊於戯乎詩 也蕃也。二乗備桑。賓可嘉尚者平。偽蓉駒綴三章 西南極地薩陽城 世出名綿誇償聾 此老能詩文能音 心如水鏡白酒乎 番 角 吹 頚 月 下 聾 一陣東風雪消轟 鏡花噂烏語昇平 中州要路赤間城 . 舟 子 朝 . 々 喚 渡 馨 . , 君説東遊我傾耳 寒垣風物恨初乎 h i 1 ﹃ 本 朝 音 史 ﹄ ・ 僧等観親秋月'本姓高城氏'世武門而仕薩州大守'後剃髪馬僧'時節 雪舟能画囲'乃従師入中華而得英名'郡窮即売陽′能堆得某所侍'朝出巳 意 t . 而 長 於 水 墨 雑 画 ' 標 格 滑 秀 ' 勝 於 諸 徒 ' 故 秋 月 所 画 ' 其 無 印 者 ' 世 人誤薦雪舟筆'其馬溌墨'筆愈簡'而菊愈壮'品目甚高'曽雪舟寓自 像 ' 有 附 秋 月 ( 証 十 六 ) 田 ﹃三暁庵王談話﹄ 秋月事 高城榛東と云ひし人にて東郷鮭谷氏杯兄弟にて東郷高城を一 所 に 持 ' 大 中 公 御 代 致 合 戦 皆 々 随 身 仕 候 魔 ' 1 . 樺 薗 1 人 不 相 見 得 ' 何 方 へ過行侯か又は打死にても致侯哉'数年尋侯虞'周防山口之雲谷寺雪舟 弟子に成-'出家致居候段相聞へ兄弟之内差越'大中公へ1門皆々随身 いたし難有被召仕侯間'其方にも致版図侯様段々申聞侯に付'日州細良 筋罷通-庄内へ参着之魔'大中公へ御見仕難有家御意侯人にて'落命之 地加治木にて侯'庄内山伏之惣職'十碍坊等見付先弟子に相成、給を香 侯 ' 1 番 弟 子 に て ' 其 流 儀 庄 内 へ は 段 々 有 之 候 ' 給 は 能 無 之 侯 ' 秋 月 よ -隔昌寺に差越'桂奄和尚へ謁し自者讃を被書'和尚被見'師匠雪舟給 は瀧候へども'字形又は讃等は其方ほど無之と被申候由'秋月俗鉢之時 の子有,商学左衛門先祖之其血筋之人直纏え馳 音 量 篭 - -I -手 篭 -I -隻 -さ 賢 君 ∼千 三'生立ちに関するl考察 秋月の生没年に関して明らかにした史料は'前掲の基本的史料を含め て皆無であるといってよいであろう。ただ'﹃古画備考﹄の中に「秋月 蕎龍頭観音、落款行年六十着歳'入唐秋月筆」'および「在唐三年秋月 七十歳」"の記述があ-'中島純司氏はそれらから秋月の年齢を推定され ている.ここにその部分を掲げることにする0 彼はまさしくこの年=一四九〇'・雪舟七1歳の自画像を附与さ れている。「行年六十七歳入唐秋月筆」「在唐三年秋月七十歳」 の落款の存在六「古画備考」)を認めるとLt明応六年の帰朝を六 七歳と見積ると'この年六〇歳前後である。また常信縮図(芸大 本)にある宜竹周麟山水図は秋月といわれる山水図に1連の'屋 根などの平行線を多用する形式を用いており(原図は)秋月画と 思われ竃が'之の周麟の讃∧七絶∨は'「翰林瀞芦集」・永正七-八年に当っている.したがって、このあた勺を秋月画の下限と考 (註十七) えれば'如上の推定は一応了解せられる。-..蝣蝣-蝣.--;--. この中島氏の説は'秋月の生年を永亨年間(1四二九-1四四〇の 早い時期と推定することに鴻なる。この他に'佐多氏の著書では、享禄 二年(一五二九)八十七歳から九十歳位で没したと書かれているが、こ のような事項に関する史料は現在見出すことはできず'この著述も推論 の域を脱しないものであろう.また'基本的史料白の﹃三暁庵主談話﹄ 花のみ「落命之地加治木にて侯」という記事を発見することが七きる が、現在加治木には'1 .それを窺わせる文献'・史跡もなく伝説的化伝え 宣れたものであ-'没した場所についても現在は不明であるといってよ ro __> 彼の生立ちについては、・)基本的史料Hに「秋月綿郎.薩之産」・'′胃に 「等親競秋月'本姓高城氏t.世武門而仕薩州大守」'∴鴇に「秋月事]高 永周雛次郎∩研究寵要第三〇巻U 城権威と云ひし人にて東郷溢谷氏杯兄弟にて東郷高城を一所に持'大中 公御代致合戦皆々随身仕候-」の記述が注目される。これらからへ秋月 は'高城氏という士族出身であることが知られるのである。そこで'高 城氏という氏族が問題となって-る.高城氏とは'基本的史料白によっ て透見ちれるように'宝治元年(〓1四七)に関東から薩摩Iへ下向した 渋谷l族の内の1家である.その渋谷1族とは'承久の変の功によ-現 在の北薩地方の地面職を与えられた渋谷光重が'五人の息子達(賄男重 直は鎌倉に残-、以下の五人)を薩摩へ向かわせ'・五人の各々に北薩の 地を分割させ'治めさせた士族のことであ-'それぞれ、次男実重が東 郷家'三男重保が祁答院家'四男重諸が鶴田家へ五男定心が入来院家'ノ 六男重貞が高城家を興こしたとされている。この内'高城氏について はへ野崎道雄氏の詳細な研究論文「渋谷五族の盛衰」によると、初代蛋 貞は承久の変で戦死Lt実際に薩摩にやって来たのは二代目重秀である ( 証 十 八 ) らしく'本稿もその記述によることとする?高城氏の居城は妹背城とい い'現在川内市高城町に属している0∴乙の高城氏の系図については( ﹃鹿児島県薩摩郡高城村沿革史﹄の中のものが最もよ-知られている。 この系図も部分的には不明確であった-t.時代と代数の異なったところ もあるが'高城氏十一代重頼の次男に'高城重兼という人物を発見でき る 。 そ こ に は 「 重 兼 ' 下 総 守 ' 高 城 権 頭 ' ・ 僧 名 等 観 ' 又 朴 也 ' 高 坂 釈 月」と書かれてお-'彼が秋月であるとされている人物なのである。こ の 記 述 は ' 基 本 的 史 料 3 1 の 「 本 姓 高 城 氏 ' 世 武 門 」 ㌦ 基 本 的 史 料 田 の 「高城権憩と云ひし人にて」という事項に」致する。. それでは'秋月は'高城氏の居城である妹背城に生まれたのであろう か。このことに関しては'疑問点が存在するのであるが'それは'薩磨 地方における応永年間の島津家の混乱が原因であると思われる。守護大 名島津家が'総州家、奥州家に分裂した後'応永七年(1四〇〇)頃よ-対立するという時期を迎えるに至った。/この混乱は'この地方の豪族を 二 四 三
永 田 雄 次 郎︹研究紀要 第三〇巻︺ 巻き込まざるを得ない政情を展開させ'特に'応永八年(1四〇l)の 総州家伊久と奥州家元久の対立は'渋谷五族を分裂させることにもなっ た。つまり'鶴田氏は元久側につき'他の四民(高城氏含む)は伊久側 に組することになった。この反目は十数年間続き'応永十四年(一四〇 七)に総州家の伊久が投すると奥州家が優勢とな-'応永二十九年(1 四二二)奥州家久豊が総州家守久の木牟礼城を攻略したことによって' 奥州家が島津家の統1を完成させ'八代藩主久豊の時代が到来したので ある。この分裂による戦乱で総州家についていた高城氏は'応永二十九 年(1四二二)の奥州家の島津氏統1によって'薩摩に下向して以来の 自身の領地'高城(妹背城を中心とした現在の川内市高城町)を失なう ことになる。このことは'高城氏にとって一つの転期を迎えたことを意 味している。この応永二十九年(一四二二)以前に秋月が誕生していれ ば'彼の生地は高城であるといってよいのであるが'はたしてそうなの であろうか.彼を知る最も確実な年代としては'基本的史料再の「王子 之秋.錦旋以薦栄」の記事が'まず第1にあげられよう.「王子之秋」 とは'明応元年(1四九二)であ-'前に述べた中島氏の概算の上限を 考え合わせても'応永二十九年(1四二二)以前に生まれたとは考え難 いと思われる。それでは'秋月はどの地で誕生したものなのか。つま -、応永二十九年(一四二二)以降の高城氏の消息を知る手懸-となる 史料を捜すのが要求されるであろう。このことに対し'﹃雲遊雑記伝・ ( 註 十 九 ) 上﹄中の「行脚僧記」文明六年(1四七四)の条の記事は'はなはだ興 味深いものである。 「川内」高城仁給繋「民部少輔久続欺」水引仁国分「平次郎親 友 」 ' 高 城 彦 太 郎 ここに'高城彦太郎なる人物の名前を見出すことができる。高城彦太 郎については'七代重豊'十一代重頼がこれに該当する名前を持ってい るがtもLt 七代重豊をそれにあてはめてみれば、重豊の実父重窮が貞 二 四 四 治三年(二二六二)湯田に高城天満宮の造営を主宰したことから'文明 六年(1四七四)とは時代的に合致しないのでt.十一代重額をこれに該 ( 註 二 十 ) 当させるという野崎氏の説は'充分な妥当性を持つものといわなければ ならない.ここで、高城彦太郎を十1代重額と考えれば'秋月と高城彦 太郎(重頼)の関係はどのようなものであろうか。系図によれば'重額 の子供は'重改'重兼となっている。この内の重兼は'いうまでもなく 秋月であ-'高城彦太郎(重頼)とは親子の関係であることがわかるの である。その高城彦太郎(重頼)が'文明六年(一四七四)に水引の地 に 住 す る と い う 記 事 は ' 見 逃 す こ と は で き な い 。 ﹃ 雲 遊 雑 記 伝 ・ 上 ﹄ は -' さらに'伊地知季安の次のような説明が加わる。 応永二十九年'大岳公兵二将トシテ山門院ヲ攻ラル時聖栄自記 二高城方兄弟立分レニッ成'偽舎弟三郎方ハ屋形へ申人傑へハ伊 集 院 ・ 市 来 ・ 高 江 ・ 宮 里 ・ 羽 島 方 へ 御 内 ヨ -ハ 長 門 守 高 城 之 本 城 二被打入供'兄ノ大川方ハ東郷・国分・執印ナトヲ頼水引二被居 云々 この事項によ-'応永二十九年(一四二二)には'高城氏も分裂した ことも知られるが'兄の大川方の系統は'「行脚僧記」の記事と合わせ て'高城彦太郎(重頼)の時代、つま-'文明六年(1四七四)におい ても'応永二十九年(1四二二)以来の水引の地に'居を構えていたと 考えられるのである。そうなると秋月の誕生の地-'水引の可能性が強 -なってくるのである.中島氏の概算は'-永享年間(1四二九11四四 1)に秋月が誕生した可能性を示すものである.また'明応元年(1四 九二)に薩摩に秋月が帰って-るところよ-'文明六年(一四七四)に は'すでに生まれているであろうから'その間の父の居所が水引であれ ば'誕生の地-'この地を考える方が自然であると思える。水引の地と は'高城とはそれほど遠い地域ではな-'高城の南'川内川によ-近い 地であ-'ここ-現在では川内市に属している。
秋月が水引で生まれたとすると'基本的史料Hの「秋月綿郎.薩之 産」に見られる'薩摩出身であるという記述に一致する。ここで'秋月 が薩摩出身であるという記述に対し'大隅出身であるという史料が1 i司 存在している。それは'博多崇福寺江月和尚手記貼交厨風の 的伝宗派図」という'雪舟派の系図の中の秋月についてのも の 中 で の あ諒「
宅謂
この桃山時代の'江月宗玩の手による系図中に'「大隅人入唐等観上人」 ( 証 二 十 二 ) がある。等観を秋月とするのは'秋月筆という「山水図」.の落款に'印 が「日本薩傷釈氏等観」とあるところから明らかであるLt基本的史料 肖からも理解される.この史料1つが秋月を大隅人としている.なぜ' この史料だけが'秋月を大隅と書いているのかが問題であるが'それに は'単なる誤-であることも考えられるLtもう少し穿って'基本的史 料白の記述との関係からも考えられることができる.それは'「落命之 地加治木」という事項である。加治木は大隅に属するため'そこから' 桃山時代に大隅人と考えられた可能性もあるだろう。この場合には' 「落命之地加治木」という言い伝え的記述に信濃性が出て-ることにな るのかも知れない。 以上のように'私は'基本的史料その他よ-'秋月が高城氏という士 族出身の人物であ-、薩摩に生まれたこと'その誕生の地が水引である 可能性が強いことを'その生立ちについての考察で論述したのである0 四㌧ 雪舟への入門の時期について 本来'高城氏出身の武士であるはずの秋月が'画僧として後世に名香 残すことになったのであるが'なぜ武士を捨てて画僧となったのであら うかOまた'誰を師とLt彼は画を学んだのであろうか.基本的史料H は「而遊聾子中州0年既久英.専師雲谷翁」'基本的史料胃は「後剃髪 馬憎'時師雪舟能画囲」'基本的史料臼は「大中公御代致合戦皆々随身 永 田 雄 次 鮮 ∩研究紀要 第三〇巻︺ 仕侯虞'樽頭一人不相見得'何方へ過行候か又は打死にても致侯哉'敬 年尋侯虞'周防山口之雲谷寺雪舟弟子に成-'出家致居候」と'以上の ように語っている。これらから'画は雪舟に学んだということが知られ るのである。なぜ彼が画僧になったかということについては'基本的史 料白の、大中公の時代の合戦中に行方不明とな-'その後雪舟に学んだ という経緯の記事があるのみといってよい。もっとも'この記事おいて 大中公の時代という年代には問題がある。大中公とは'島津家第十五代 藩 主 貴 久 の こ と で あ る が 、 彼 の 生 年 は 永 正 十 1 年 ( 一 五 1 四 ) t I I 家 督 を 継ぐのが大永六年(1五二六)である.大永六年(1五二六)に家督を 継いだ以降を'大中公御代と考えると'基本的史料日の「王子之秋。 錦旋以馬栄」(錦旅か)と矛盾が起きて-る.つま-'画僧として鹿児島 へ帰って-るのが明応元年(一四九二)なので、大中公御代の合戦とは 時代が合ってこない。基本的史料日の﹃島隠漁唱﹄は'桂庵玄樹が文明 八年(1四七六)から明応四年(一四九五)までの間に制作した詩文で あることや'他の記事とも考え合わせてみても'大中公御代という基本 的史料臼の年代は誤-であろう.基本的史料田の談話者'木村探元は' 延宝七年(〓ハ七九)から明和四年(一七六七)まで生きた人であり' 秋月が戦いの最中'行方不明にな-数年後山口で雪舟に学んでいたとい うのは、なかば伝承的な事柄であ-'木村探元もそのように受け取って いたのではないだろうか。後年'いつの時かの戟いに秋月が行方不明に な-'山口で雪舟に学ぶという伝が多-見られるのは'この記事より発 しているのであろうか。 秋月がいつの合戦において行方不明になったかといったことはさてお き'彼が雪舟に入門したことについて話を進めてみよう。 彼が雪舟に入門した場所を'まず考えなければならない。基本的史料日 は「而遊聾子中州」と述べている。さらに'同じ史料に「中州要路赤間 城」とあ-'﹃島障漁唱﹄の他の詩文の中にも「錦衣卜日赴中州。開門 二 四 五永 田 雄 次 郎 ∩研究紀要 第三〇巻∪ ( 許 二 十 1 二 ) 不鎖長城路。両岸人家渡口舟」と見えているところから'中州とは'今 の山口県地方を指すものであることがわかる。ここで'秋月が中州(山 口県地方)に遊芸していたと考えることができるのである。また'基本 的史料臼には「周防山口之雲谷寺雪舟弟子に成-」とあ-'ここでも、 山口において雪舟との結びつきが深いことを'秋月に関して知ることが できる。そこで'まず雪舟と山口との結びつきを考える必要性が存在す るのである。雪舟が山口に任した時期は'㈹京都を出て山口の大内氏の もとに行った時期、画入明帰朝の後'不明な部分が多いながら-'文明 元年(1四六九)よ-'大分に住んでいることが確実な文明八年(7四 七六)までのある時期'再再び山口へ帰ったと思われる文明十六年(一 四八四)頃以降t の三つの場合が考えられよう。 仰の場合は'雪舟がいつ京都から山口へ釆たかということが問題にな る。周防山口に雪舟がいるというのが確実にわかる史料としては'期之 悪風の﹃竹居西遊集﹄があげられる.これは'寛正五年(1四六四)の 雪舟'悪風の再会を述べたものである。 ∼ 寄揚知客井叙 揚雲谷'蓋慕漁秋月常牧渓之為人'以樽染居於人之上者也、方今 雄下登室橋者'不遇数人'里帝巷論'宛童走卒威知西周揚知客' 予 偶 以 憂 ( 事 ) 届 此 間 ' 一 日 細 其 姻 房 ' 頗 説 前 十 年 ' 握 手 者 ' 不 能 無 故 人 之 意 ' 乃 揮 竜 而 作 有 撃 之 董 ' 以 戯 之 云 ' 京洛曽遊揚客卿 l 結茅此地要終生 喜君董格出天下 ( 註 二 十 p ) 見卒亦知雲谷名 こ こ で 悪 鳳 は ' 「 頗 説 前 十 年 、 握手者」と十年ぶ-の雪舟との再会を 喜んでいる。寛正五年(1四六四)よ-十年前は、享徳三年(一四五四) 二 四 六 に あ た る . 当 時 へ 雪 舟 ' 悪 鳳 両 者 が 京 都 で 交 友 が ・ あ っ た が ' 寛 正 五 年 ( 一 四 六 四 ) ・ に 山 口 で 再 会 し た こ と を こ の 史 料 は 物 語 っ て い る 。 事 徳 三 年 { 1 四 五 四 ) 以 後 、 い づ 頃 雪 舟 が 山 J t L へ 釆 た か に つ い て は ' 種 々 の 説 が あ り ' 熊 谷 宜 夫 氏 は 、 遥 明 便 の 計 画 が 始 め ら れ た 長 禄 二 年 ( 一 四 五 八 ) と t 、 雪 舟 の 師 春 林 の 投 し た 寛 正 四 年 ( v l 四 六 三 ) を 考 え ら れ ' 後 者 ( 証 二 十 五 ) の 場 合 は ' 史 料 か ら や や 遅 い の で は な い か と 考 え ら れ て い る 。 ま た ' 質 舟 ' ・ 悪 風 が 最 後 に 京 都 で 会 っ た 時 期 ' 享 徳 三 年 ( 1 四 五 四 ) を も っ て 以 へ 註 二 十 六 ) 後 山 口 へ 下 っ た と い う 1 般 的 な 推 定 を 十 大 西 慶 氏 は 述 べ ら れ て い る . い ず れ に し て も ' 享 徳 ' 康 正 、 長 禄 ' 寛 正 と 目 ま ぐ る し く 改 ま っ た 年 号 の 時 期 ( 」 四 五 二 1 1 四 六 六 ) に ' 雪 舟 が 山 口 に 下 向 す る こ と に な っ た こ と は 確 実 な よ う で あ る 。 こ こ に ' 長 禄 ' 寛 正 ( 一 四 五 七 -一 四 六 六 ) の 頃 よ り ( 推 定 ) ' 入 明 の 応 仁 元 年 ( 1 四 六 七 ) ま で の 、 雪 舟 の 山 口 時 代 が 存 在 す る 。 と の 時 期 に 秋 月 が 雪 舟 の 弟 子 に な っ た と 考 え ち れ る の は ' 佐 多 芳 久 氏 で あ る . 氏 は ' そ の 時 を 、 寛 正 三 年 ( 1 四 六 二 ) と 決 定 さ れ て い る . 1 こ れ に 対 し て ' 現 在 そ れ を 裏 付 け る 史 料 は 発 見 さ れ て い な い が ' 氏 の 論 拠 は お そ ら -基 本 的 史 料 臼 の 「 大 中 公 御 代 致 合 戦 皆 々 随 身 任 侠 虞 ' 権 威 1 人 不 相 見 得 ' 何 方 へ 追 行 侯 」 ・ の 部 分 で あ ろ う . 大 中 公 御 代 は 誤 -と し て ' 秋 月 が 合 戦 中 に 行 方 不 明 に な っ た と さ れ る こ と か ら ' 氏 は ﹃ 島 津 国 史 ﹄ の 中 で ' 一 合 戦 に 関 し て 触 れ ら れ た 事 項 を 考 え ら れ た も の と 思 わ れ る . 。 寛 正 を 中 心 と し た 時 期 に は ' 次 の 条 が あ る 。 寛 正 三 年 市 来 久 家 復 以 邑 叛 。 ・ 節 山 公 伐 之 。 久 家 棄 城 亡 去 。 不 知 所 終 。 白 市 釆 政 家 馬 市 来 郡 司 職 。 侍 六 世 至 久 家 。 而 郡 司 職 絶 。 て の 合 戦 中 に 秋 月 が 行 方 不 明 と な っ た と い う こ と は t . 推 定 さ れ る の み で あ -' ・ す で に 述 べ た よ う に ' ・ 文 献 的 に は 確 実 な 根 拠 は な い 。 そ れ で は ' 合 戦 中 に 秋 月 が 行 方 不 明 に な っ た と い う こ と に は 注 目 し な く て も ' こ の 時 期 に 秋 月 が 雪 舟 に 接 し て い る 可 能 性 を 持 つ 史 料 が 考 え ら れ は し な い で あ ろ う か 。 そ の 可 能 性 を 持 つ も の と し て ﹃ 島 隈 漁 唱 ﹄ が 注 ● L : 詛 tr
目されよう。﹃島隠漁唱﹄の中で'秋月に最も関係の深いのは基本的史 料日であることはいうまでもないが'作者桂庵玄樹と雪舟の関係を知る ことのできる部分も'秋月と雪舟の関係を示唆するものとして無視でき ないものと思われる。 ノ桂庵玄樹は、応永三十四年(一四二七)に山口で生まれ'永享七年 (」四三五}に上洛へ南禅寺に学んでいる.寮吉二年(1四四二)に剃 髪得度し、その後'長門赤間関の永福寺に任し'応仁元年(一四六七) ( 註 二 十 七 ) の入明までその地にいたことは'よく知られている。これが'彼の入明 までの経歴であるが'入明に際しては'遣明船寺丸に士官として乗-込 んでいる。この寺丸に乗-込んだ人物の一人に雪舟がお-'ここで'桂 庵と雪舟の関係の親密さが窺われよう。∼さらに'桂庵と雪舟の交友をよ -示すものが'﹃島隠漁唱﹄の中に見られる。これは「巻之下」に出て -るが'﹃続群香華従﹄本には見られず'東京大学史料編纂所蔵の写本 ( 許 二 十 八 ) に見出されるようで'大西庶氏がその詩文を載せておられるので'ここ ではその部分を出させていただ-ことにする。それは'大西氏の説明に よれば'明応三年(一四九四)二月に'かつて東福寺に学び'今は山口に 住する延伯禅師よ-桂庵のもとに手紙が来たことを記した部分である。 一 予在防之目'貴避寒禽'酵情忘形友'不記幾多人、然乃去図㌧ 垂憐於千里之外'而置論於歯牙者t.除輝師、不遇水西翁雪舟翁老 t 註 二 十 九 ) -両 人 蔦 ここで'桂庵玄樹は周防時代を思い出しながら'友人として雪舟が蛋 要人物であることを示している。次に'当時雪舟'桂庵の二人が延伯香 訪れたことを述べている有名な部分をあげてみよう。 二 客 敵 門 1 楽 弊 先談来意立傾懐 雪舟回樟水西寺 ( 証 三 十 ) 風月主人吟下増 永 田 雄 次 郎 ∩研究紀要 第三〇巻∪ これは熊谷氏の﹃雪舟等楊﹄ の中にも掲載されてお-'二客は桂庵と 雪舟'1楽請は延伯を示しているのはいうまでもないであろう. さて'この会合はいつ開かれたものであろうか。大西氏は次の部分に 注目され'解答を引き出された.I 回頭二十九年過 避乱窓々此度河 隻膨千山石門晩 ( 註 三 十 一 ) 驚磨窺竹馬馨多 桂庵は'明応三年(一四九四)に二十九年前のこととしてその会合を 回顧しているから'この部分は文正元年(1四六六)の回想であること がわかる。そこから'雪舟'桂庵'延伯の会合の年が決定されるのであ る。さらに'次の部分は桂庵の居住の地を知る手懸-となる。 月 1 村 西 水 1 村 赤間城外旧栖存 岩根松老古蘭若 ( 拝 7 卜 二 ) 知待誰坂不掩門 ここで赤間城とあるが'これこそが長門赤間関にあた-'彼が任して いたといわれる永福寺であることを決定づけるものなのである。 以上のように'文正元年(一四六六)には'桂庵は長門赤間関永福寺 に任し'雪舟と交友のあったことが知られるところとなった。この事実 を踏まえて基本的史料日の次の部分を見ると'興味深いことが浮んでこ S E E S 中州要路赤間城 舟子朝々喚渡馨 君説来遊我傾耳 寒 垣 風 物 恨 初 平 -「中州要路赤間城」で「君説索道我傾耳」とは、いかなる薄味である 二 四 七
永 田 雄 次 郎 (研究紀要 第三〇巻︺ のか。基本的史料日は'明応二年(一四九三)に書かれてお-'この部 分も桂庵の永福寺時代の回想と考えてよいと思われる。基本的史料日 は'秋月と桂庵の関係を述べたものであるから'両者が赤間関(永福 守)で会いへ 「君説東遊我傾耳」ということが行なわたのであろう。両 者の出会う可能性は'桂庵が東福寺から永福寺に釆'入明までのこの時 期がまず考えられよう。同時に'雪舟もこの時期'桂庵と交友関係があ -'ここに'三者を結びつける可能性の時期が成立した。桂庵が赤間関 永福寺に移ってきた時期は不明であるが'1説には素吉二年(1四四 二) の得度の後すぐとされるOまた'寛正年間(1四六〇・二四六六) の後半という説もある.しかし'前に述べた文正元年(1四六六)の記 述申「予在防之日-(略)-而置論於歯牙者'除禅師'不適水西翁老両 人寓」と玄樹が記しているところからみて'山口時代が'桂庵にとっ てそれほど短期間であったとも考えられないようにも思える。雪舟が長 禄'寛正の頃(1四五七-1四六六)よ-山口に任し'桂庵もこの頃す でに永福寺に任していたのであれば'佐多氏の寛正三年(1四六二)と 断定はしないまでも、寛正年間(1四六0-1四六六)には'秋月が' 雪舟に入門してお-'雪舟と親しい桂庵に会見していたと考えても不思 議ではない。﹃島隠漁唱﹄よ-'桂庵'雪舟、秋月の関係を考えてみる と'秋月の雪舟への入門の可能性の1つとして'この時期をあてはめる ことができよう。 ■ 次は回の'雪舟が明よ-帰朝した文明元年(一四六九)から'大分の 天開図画楼に居を構えていると考えられる文明八年(1四七六)までの 場合である。雪舟は'帰朝後'文明八年(一四七六)まで'その足どり について不明の部分が多-'どこに任していたのか不詳の時期といって もよいであろう。山口地方は'雪舟の帰朝後の文明二年(一四七〇) に'大内教事が赤間関で兵を挙げ'翌年まで戦乱状態に陥っている。こ の事実を考え合わせて'雪舟がこの頃山口に任していたという史料は' 二 四 八 現存しない。ただ'「安世永全像」費が'文明五年(一四七三)に雪舟 が山口に住するといわれる史料となっていた。しかし'態谷宣夫氏は∼ この説に疑問を持っておられる。「安世永全像」は'雪舟が医学者安世 永全を措いたものであ-'画賛は'文明十二年(1四八〇)安世が季弘 大叔に求めたのであった。問題の個所を'熊谷氏の著書から転写させて いただく。 文明発巳の春、西大内左京兆公に防城に於いて鴇Lへ公相得て 騰び甚し。(略)楊雪舟'能画を以って世に名あ-。稗に明国に 入り'天子其能を奇とす。今'防城に・在-。全の為其の容を肖し 以って寄せ'且つ祝して日二子大明に遷せば剰ち天子必ず大医 の勅.を賜はること有らんかと。康子の春京師に回-'像を余に投 ( 託 三 十 三 ) じ'其の上に賛詞を署することを要す。 このことから'安世永全は'文明突巳つま-文明五年(一四七三) に'西大内左京兆公に謁している。ここで安世は'明に渡ることの許可 を乞う為に西大内左京兆公に会ったのである。それでは'雪舟はこの時 に「安世永全像」を描いたのであろうか。特に問題になるのが「今'防 城に在-」の部分である。この場合の 「今」を'文明十二年(1四八 〇) の画賛のできた時期と熊谷氏は考え'おそらく像は、文明八年(1 四七六)以後に措かれたものとされている。確かに'「今」は'文明十 二年(1四八〇)とする方が妥当性を持っているが'文明五年(1四七 三)に'安世が雪舟に肖像を依頼する可能性は残っている。これは'雪 舟が文明五年(1四七三)に山口に任する可能性を示しているという意 味にもなる。しかし'従来の説のように、この画賛よ-文明五年(一四 七三)には'雪舟山口にありと断定するのにも問題があろう。 視点を移して'この時期の桂庵玄樹の足ど-を探るのも興味深い。桂 庵玄樹は'雪舟と同時に入明したのであるが'彼に遅れること五年の文 明五年(1四七三)に帰朝したことが通説となっている.しかし、遭明
船寺丸の士官たる桂庵が一人遅れて帰朝することは'はなはだ不可解な ことであるといわなければならない。遅れた理由として'雪舟の天童第 で座を桂庵が後継したとされる文献などがあげられるが'他の書にこの ( 註 三 十 四 ) ような記事が見えないところから'この説に疑いを持つ人も存在する0 そこで'寺丸の責任者でもあった桂庵が'1行に遅れて帰朝することに 疑問を持つ熊谷氏の説に'私も賛成するのである。雪舟と同じ-'桂庵 玄樹も'文明元年(一四六九)に帰朝したものと思われる.その桂庵の 帰朝後の足ど-であるが'彼は山口地方の戦乱を避けて石見に寓Lt後 に山口に任するとされるものがある。伊地知潜隈の「宋学伝系図」に' 南禅寺に学んだ以安巣松が文明七年(一四七五)に周防で桂庵玄樹と会 ( 註 三 十 五 ) 見するとあるのがその根拠である。 文明七年(一四七五)という年は'大西庶民の桂庵玄樹関係の論にお いても注目されるべき年である。仰の場合に述べた'雪舟'桂庵'延伯 の交友を記した詩文の序に次のような部分がある。 碑師情義之尤厚者也'畢佳作四七字'冠篇首'以専感懐貴国之 ( 許 三 十 六 ) 仁 風 ' 且 述 今 昔 之 懐 者 ' 二 十 有 八 草 大西氏は'ここで桂庵が延伯の佳作の詩の「四七字」 (七言絶句の二 十八文字)を頭にとって、二十八の七言絶句を作ったことから'逆に' 二十八の桂庵の七言絶句の頭字を集めて'延伯の原詩を復元された。 忠君望月幾回轡 千首新詩未作遺 二十年前事如夢 ( 証 三 十 七 ) 薗容不改題青山 ここで特に興味を引-のは 「二十年前事如夢」の部分である。延伯の 七言絶句のできたのが、明応三年(一四九四)であり'桂庵は二十九年 前の文正元年(一四六六)の延伯'雪舟との交友を延伯の詩をもとにし て回想しているが'延伯は二十年前のことを回想して七言絶句を作った 永 田 雄 次 郎 ︹研究紀要 第三〇巻︺ とも受け取れる。延伯の「二十年前事如夢」の二十年をそのままあては めると'文明七年(一四七五)になる.ここで'文明七年(1四七五) に桂庵が延伯と会っている可能性があ-'この年'すでに述べた以安巣 松と周防で会っているという文献と合わせて'この時期に桂庵が山口地 方(永福寺とも考えられる)にいるとも考えられよう。 さて'桂庵玄樹は'文明八年(1四七六)に九州に渡ったとされてい るがへ その場所として'かって彼の師景蒲が任した'大分の万寿寺が考 えられる.文明八年(1四七六)に雪舟が'大分に天開図画倭というア ト-エを構えていたことは'呆夫良心の「天開図画楼記」によって知る ことができる。入明前よ-交友のあった雪舟と桂庵が文明八年(一四七 六)に'いずれも大分にあることは'雪舟が桂庵とともに万寿寺に赴い たという説を生むほどであ-'文明五年(一四七三) の雪舟山口在住の 可能性'文明七年(1四七五) の桂庵山口在任の可能性を大き-させる のかも知れない。それゆえに'紺の場合に考えたように、秋月が赤間関 で桂庵玄樹と会ったのを'この時期にあてはめることもできよう。さら に'文明五年(1四七三)に雪舟が山口に任する可能性と相侯って'従 来まったく考えられなかった'秋月が雪舟に入門した時期を'文明年間 の前半(1四六九-1四七五頃)とする可能性も存するのである.しか し'この時期は'雪舟'桂庵両者の足ど-とも文献的に不明の部分が多 -、なお流動的かつ不確実な時期ではある。 文明八年(1四七六)に大分に住する雪舟も'この年戦乱の地となっ た大分を去ることになる。それ以後'「安世永全像」画賛において'文 明十二年(一四八〇)に山口に住しているとも考えられるが'それと相 前後して'文明十1年(1四七九)に益田'文明十三年(1四八1)に は美濃を訪れ、行脚時代ともいえる時期を迎えたようである。これが終 るのが'文明十五年(1四八三)から文明十七年(1四八五)頃であ り'この時期に再び山口に任することになると思われ'再の場合はこの 二 四 九
永 田 雄 次 郎 ︹研究紀要 第三〇番} 時期を示している.再の場合において'秋月が雪舟に入門したと考えら れているのは'桓村演男氏である。氏の論拠は、・江月宗玩の「画師的伝 宗派図」である。この系図によれば'雪舟の弟子を二つのランクに分け ており'第二フンクはt等悦、等春'周徳など十人'第二ランクは'周 徳の弟子雲谷等顔'等速の弟子として'宗淵'秋月など二十三人となっ ている。氏は'第二フンクの人物を'雪舟が京都を去るにあたって山 口まで連れて来た弟子達'第二ランクの人物は'周防山口での弟子達で あると考えられている。第二ランクの人物については'等速の弟子と宗 淵'秋月はなっているが、両者と庵雪舟から正式の印可状ともいえる絵 画を授かっているところから'雪舟の置弟子と考えてもよいと思われ る。さらに'氏は、宗淵'秋月を文明も半ばを過ぎた頃入門した人達で ( 許 三 十 八 ) あるとされている。今'ここでこの可能性を'秋月に関して考えてみよ う。﹃島津国史﹄に次のような条がある。 文明十七年三月十七日。島津三郎太郎忠久。日出水引兵而西。 ・ 下 湯 田 城 。 二 十 日 。 下 水 引 城 。 文明十七年(1四八五)に島津三郎太郎忠久が'出水よ-兵を水引に 向け'これを下したとある.水引の地には'文明六年(1四七四)に高 城彦太郎(重頼)がいたが、この時'おそら-彼もこの地を追われたも のと思われる。高城彦太郎(重頼)・の子が重兼(秋月)であるところか ら、この時の合戦に行方不明にな-'基本的史料白のような記述も考え られる。 -それでは'当時桂庵玄樹はいかにあったのだろうか。桂庵は、文明八 年(1四七六)に九州に渡ったが'文明九年(1四七七)には肥後の菊 地に入っている.さらに、翌文明十年(7四七八)に薩摩に至ってい る.薩摩に来た後'彼は'文明十1年(1四七九)鹿児島の島陰寺に任 した-'長享元年(1四八七)日向飲肥の安国寺に行ったりで'長門赤 間関永福寺に住したとは考えられない? そうすると'桂庵は文明十年 二 . 五 〇 ( 1 四 七 八 ) 以 後 、 ・ 赤 間 関 に 住 す る 可 能 性 が な -な -' 基 本 的 史 料 日 に 見えるように'彼が赤間関で秋月と会ったことを回想することは起こ-得な-なって-る。この点で'中村氏の'秋月は文明の半ば過ぎに雪舟 に入門したという説に疑問が生じて-る。少し穿つと'秋月が文明十年 (一四七八)以前に桂庵と赤間関永福寺で会ってお-'文明の半ば過ぎ に雪舟に入門したという仮説も成-立つ。そうなると'基本的史料日の 「 而 遊 裏 手 中 州 。 ・ 年 既 久 衆 。 専 師 雲 谷 翁 。 番 工 究 其 妙 寓 」 の 部 分 と ' 「中州要路赤間城(略)君説東遊我傾耳」・の回想部分を切-離して考え なければならない。しかし'「而遊華子中州。年蹴久英。」と、かなち の時間が中州を中心に存在しているように思えるLt.基本的史料‖全体 が'部分'部分として切-離して考えられる叙述ではな-'雪舟'桂 庵'秋月の三者が同時間に存在しているのではないだろうか。「専師質 谷翁」として'山口にいた秋月が'その当時桂庵に出会ったと考える方 が自然である。そこで'私は'秋月が雪舟に入門したのを'文明十年 (1四七八)以降とは考えず'中村氏の「画師的伝宗派図」中の第二ラ ンクの人物も'単に山口時代の弟子達と考えた方がよいと思う。 以上のように'・・私は'秋月が雪舟に入門したと思われる時期を'抑伸 銅の場合に分けて考察した.この中で再は巌も可能性が薄く印画托し ぼられて-るのではないかと思われる。ただし'回はあまりにも不明の 部分が多-'これから新史料の出現を待つ段階であろう。文献的には' 刷の方が確実性があると思われ'紺と考えるのが現在のところ妥当なの か-知れないが'・新史料の出現によって、回の可能性のあることも示す ことで'印画のどちらと断定することは差し控えることにする.いずれ にしても'この章は'今後の新史料に期待するところが大である。
五 ㌧ 秋 月 の 入 明 ここでは'・秋月の入明について簡単に論述してみよう。基本的史料に おいては'胃にのみ秋月の入明の記事を見ることができるのであるが' 「画師的伝宗派図」'雪舟が秋月に付与した「自画像」における賛(覗 在は模本が藤田美術館に伝わる)などから'明国に渡ったことは確実で ある.ただ'基本的史料苗の「乃従師入中華而得英名」という記述には 問題がある.らま-'この書き方であれば'秋月と雪舟は同時に入明し たことになる。この記述は正しいものであろうか。秋月は'延徳二年 (11四九〇)に雪舟よ-七十一歳の「自画像」を与えられているが'そ の賢は次のように書かれている。 説 破 空 花 ' 本 無 色 相 . 不 現 色 相 ' 以 何 供 養 . 侍 百 千 年 ' 1 日 想 像。嵯平此郎師之疑思於詞藻之時'援竜於雪蕉之際'這般模様0 薯 夫 所 縁 著 者 ' 自 在 有 情 ' 空 轟 無 上 者 也 。 弘治丙辰歳再挙春念八日 天府第1名儒士秀才青霞杯事貿 ( 証 三 十 九 ) 自 筆 寓 等 像 付 輿 等 観 蔵 主 ' 四 明 天 童 第 1 座 雪 舟 七 十 1 1 歳 之 冬 これによ-'雪舟七十1歳の「自画像」を秋月に付与したことがわか るが、それとともに興味深いのが'育霞という人物の費である。育霞と いう人物は'田中豊蔵氏の研究によって'鉾江(江蘇省)丹徒の人であ ( 証 四 十 ) 湾'杜蕪という名前であることがわかる.その活躍期は'成化弘治年間 であることも明らかにされているQ その彼の賓の1つが'この「自画 像」のものであ-'ここには'弘治丙辰と年代が記されている。弘治丙 辰を日本の年号に改めると'明応五年(一四九六)に該当する。この時 期'尭天寿糞を正使とする遣明船の 1行が北京にお-'背霞の画賛か ら'秋月79この一行の1人として入明したと現在は考えられている.さ らに'石川県立美術館蔵の「西湖図」は無款であるがへ 「杭州西湖之 永 田 雄 次 郎 ∩研兜紀要 第三〇巻︺ 図㌧於北京会館同館作此図、弘治玖年閏三月拾三日」の書き入れよサ' 弘治玖年が明応五年(一.四九大)に該当することから'秋月筆に帰され ることとなったのである.これらの史料よ-'現在雪舟'秋月同時入 明説は考えられな-なっているといってよいであろう。ただ'土岐健三 ( 註 四 十 こ 郎氏は'「西湖図」の秋月筆に対して疑問を持っておられる。その論拠 ( 証 四 十 二 ) は'小葉田淳氏の﹃中世日支準父貿易史の研究﹄に'五応年間の遣明船 が'明応四年(一四九五)に出発'翌明応五年(一四九六)秋に帰国と 書かれていることと'﹃古画備考﹄庫の「観音文普'三幅対'落款在磨 三年秋月七十歳」における三年間の入明年数が合わないというところに ある。さらに'氏は'雪舟'秋月同時入明説を採る立場よ-'明応五 年(一四九六)に秋月は明にいないとされるが'雪舟七十一歳の「自画 像」の賛よ-すれば'秋月は明応年間に入明したと考える方が妥当であ -'そこから「西湖図」も秋月筆と考えられるに至ったとすることに妥 当性があると'私は考える。 また'秋月と桂庵玄樹の関係を示す、基本的史料日の中に'秋月の入 明の記事がないことも、はなはだ興味深い。桂庵と雪舟は同時に入明し たのであるから、雪舟七秋月が同時に入明すれば'基本的史料日の中に I も'そのことに触れている部分があってもよさそうに思われる。桂庵 は'そのことに関して回想した部分を'その詩文の中に持っていない0 基本的史料日が書かれるのがへ明応二年(1四九三) であることを思え ば、明応五年(一四九六)の記事がないことも当然でもあろう.これら から'雪舟'秋月同時入明説には疑問がある。明応の遣明船についての 小葉田氏の説が正当であれば'土岐氏の研究は'むしろ'﹃古画備考﹄ 中の-r観音文普'三幅対へ落款在唐三年秋月七十歳」の記事に疑問を呈 する意味で注目されるべきものである. .秋月の入明については'基本的史料胃の'雪舟'秋月同時入明説より 鳩'明応年間に秋月が入明したこと(その頃・ '雪舟は山口に住してい 二 五 一
永 田 雄 次 郎 ︹研究紀要 第三〇巻U る)'「西湖図」も秋月筆と考えられることを述べて'この章を終るこ とにする。 六'お わ り に 以上のように'本稿では文献的に'秋月の生立ち'雪舟への入門の時 期'秋月の入明を中心に'秋月に関する事項を考察した。秋月について の美術史的研究としては'今後'彼の基準作というものを定め'それを 中心にして作風的研究(様式的研究) へ進めていかなければならない。 現在'秋月の作風について論述されたものといえば'中島純司氏の「質 ( 証 四 十 三 ) 舟系花鳥適押頂究」'「素材形式主義への転落1雪舟系花鳥図界風研 究・第二部1」-らいのものであろう。また'秋月作品として見られ るものも'﹃水墨美術大系第七巻雪舟・雪村﹄の中で紹介されたもの' 旧島津家所蔵品として写真で見られるもの'佐多芳久氏の﹃董僧高城釈 月﹄の中で掲げられたものが'大部分であろうO秋月の地元である鹿児 島県にあっても'現在秋月筆とされるものは少なく これからの調査研 究によって発見していこうとする段階である。 さらに'秋月は'多くの弟子を育て、薩摩の地を中心に「薩摩派」と でも呼べるような水墨画の流派を形成した。この流派の画家達について も'その作品を中心として'各々明らかにせねばならず'秋月および彼 の1派の様式的研究は'今後ますます進めていかなければならないと忠 うのである。 それにしても'鹿児島大学に赴任してまだ日の浅い筆者にとって'多 -の方々の御協力がなければ'本稿が成-得なかったであろうことは申 すまでもない。特に'鹿児島大学法文学部五味克夫教授からは'史料の 紹介'多-の史料に関する鋭-興味深い御教示'御指導をいただいた。 また'鹿児島大学教育学部中村晋也教授'同田中道雄教授'同厚東孝治 二 五 二 助教授、鹿児島市立美術館川村純二館長'尚古集成館有馬寛慈館長'鹿 児島県明治百年記念館建築調査室山下庶事氏t、鹿児島市立長田中学校土 岐健三郎教諭'川内市在住の野崎道雄氏'それに関西学院大学文学部美 学研究室の皆様にも'文献の紹介'卸教示'御指導と多大な学恩をいた だいた。末筆ながら'皆様方に深い感謝の意を述べて'本稿を終えるこ とにする。 註 二朝岡興禎F古画備考山 (六百九十八-七百二ページが秋月に関する記述で あ る 。 ) 二 ㌧ 桂 庵 玄 樹 ﹃ 島 隠 漁 唱 ﹄ ( F 続 群 書 類 従 巻 第 三 百 三 十 六 第 十 二 輯 下 ・ 文 筆 部山にF島隈集山の題名で所収されている.) 三 ㌧ 木 村 探 元 口 述 ・ 橋 口 兼 珍 記 述 F l ] 薩 摩 主 談 話 虹 ( F 新 薩 藩 叢 書 西 山 昭 和 四 十六年、歴史図書社刊に所収されている。) 四㌧狩野永納﹃本朝董史﹄ (昭和四十九年'国書刊行会刊においても見ること が で き る 。 ) 五 、 佐 多 芳 久 F 董 僧 高 城 秋 月 ﹄ ( 昭 和 十 7 年 ' 高 城 村 史 実 保 存 会 ) 六 へ 沼 田 頼 輔 ﹃ 画 聖 雪 舟 ﹄ ( 明 治 四 十 五 年 ' 衆 精 堂 ) 七 ' 熊 谷 宣 夫 F . & ヨ 舟 等 楊 ﹄ ( 昭 和 三 十 三 年 ' 東 京 大 学 出 版 会 ) 八 ' 蓮 実 重 厚 F 雪 舟 等 楊 新 論 山 ( 昭 和 五 十 二 年 ' 朝 日 出 版 社 ) 九 へ 中 村 渓 男 F 日 本 美 術 絵 画 全 集 第 四 巻 雪 舟 ﹄ ( 昭 和 五 十 1 年 ' 集 英 社 ) 十 t F 島 津 国 史 ﹄ ( 明 治 三 十 八 年 ' 島 津 家 編 集 所 ) 十二 F旧記雑録﹄ (鹿児島大学付属図書館複写本参照) 十二'高城村史実保存会編F鹿児島県薩摩郡高城村沿革史虹 (昭和六年'高城 村史実保存会編纂) 十 三 t F 川 内 市 史 山 ( 昭 和 五 十 1 年 ' 川 内 郷 土 史 編 さ ん 委 員 会 ) 十 四 、 井 上 良 書 編 ﹃ 薩 洋 画 人 伝 備 考 ﹄ ( 大 正 四 年 ) 十五、F島願漁唱﹄はF続群書類従山本を使用した9これについては'異本も 多-F古画備考L中の字句と異なるところも見られるO F続群書類従」本
にも明らかに誤字が見られるが'本論とはあま-関係しない部分なので' あえて訂正はしなかった。 十 六 t F 三 昧 庵 主 談 話 ﹄ は t F 新 薩 藩 叢 書 山 本 を 用 い た . こ れ も 多 -の 誤 字 ' 脱字が見られる。文意の不明の部分はそれが原因であることを指摘し'訂 正はせずに'原文を掲載した。 十七'中島純司「素材形式主義への転落-雪舟系花鳥図解風研究・第二部-」 ' 第 二 〇 五 号 ) 十 八 ' 野 崎 道 雄 「 渋 谷 五 族 の 盛 褒 」 ( 昭 和 四 十 四 年 ) 十九㌧伊地知季安芸京遊雑記伝・上i (昭和四十六年﹃鹿児島県史料集(冗)管 窺 愚 考 ' 雲 遊 雑 記 伝 ・ 上 山 ) 二 十 ㌧ 野 崎 道 雄 「 渋 谷 五 族 の 盛 衰 」 ( 前 出 ) 二 十 二 熊 谷 宣 夫 「 「 雪 舟 二 大 字 」 に 関 し て 」 ( 仏 教 聾 術 ' 第 七 十 九 号 ) ' 中 村渓男F日本莫術絵画全集第四巻雪舟山 (前出)の両者に「画師的伝宗派 図 」 が 所 収 さ れ て い る 。 二 十 二 ' 田 中 一 松 ・ 中 村 瑛 男 F 水 墨 美 術 大 系 第 七 巻 雪 舟 ・ 雪 村 山 ( 昭 和 四 十 八 年'講談社)の中に'秋月筆「山水図」として紹介されている。 二 十 三 t F 続 群 書 類 従 山 本 ( 巻 之 上 ) 文 明 三 年 ( 1 四 八 〓 に 見 え て い る . 二十四'大西庶「雪舟史料を読む9 兄卒マ夕雲谷ノ名ヲ知ルー龍尚夷圭関係 史 料 ( 二 ) 、 勧 之 悪 風 竹 居 西 遊 集 ( ニ ー 」 ( 日 本 美 術 工 芸 第 四 六 〇 号 ) 二 十 五 ㌧ 熊 谷 宣 夫 F 雪 舟 等 楊 E ! ( 前 出 ) 二十六㌧大西庶「雪舟史料を読む1 0 茅ヲ此ノ地二結ビテ生ヲ終へンコトヲ要 フ ー 細 之 悪 風 竹 居 西 遊 集 ( 二 ) -」 ( 日 本 美 術 工 芸 第 四 六 言 方 ) 二 十 七 ㌧ 和 島 芳 男 r 中 世 の 儒 学 ﹄ ( 昭 和 四 十 年 ' 吉 川 弘 文 館 ) 二十八㌧大西庶「雪舟史料を読む1 6 誰が帰ルヲ待チテカ門ヲ俺ハザルー鋤之 悪 風 竹 居 西 遊 集 ( 八 ) ' 桂 庵 玄 樹 島 隠 漁 唱 ( こ -」 ( 日 本 美 術 工 芸 第 四 六 七 号 ) 二十九㌧大西贋「雪舟史料を読む16 誰ガ帰ルヲ待チテカ門ヲ俺ハザルー勧之 悪 風 竹 居 西 遊 集 ( 八 ) ' 桂 庵 玄 樹 島 隠 漁 唱 ( ニ ー 」 ( 前 出 ) 三十'大西庶「雪舟史料を読む1 8 先ヅ来意ヲ談ズレバ 立チドコロニ懐ヒヲ 永 田 雄 次 郎 ∩研究紀要 第三〇巻︺ 憤クー桂庵玄樹島隠漁唱(三)-」(日本美術工芸第四六九号) 三十二大西庶「雪舟史料を読む1 7海波隔テズ'雁ハ書ヲ侍へタ--桂庵玄 樹島階漁唱(二)-」(日本美術工芸第四六八号) 三十二㌧大西庶「雪舟史料を読む17海波隔テズ'雁ハ書ヲ侍へタリ-桂庵玄 樹島階漁唱(二)-」(前出) 三十三'熊谷宣夫F雪舟等楊山(前出) 三十四㌧西村天囚F日本宋畢史山(明治四十二年'梁江堂書店) 三十五㌧西村天囚F日本宋畢史虹(前出)'和島芳男F中世の儒学j(前出) 三十六㌧大西贋「雪舟史料を読む16誰が帰ルヲ待チテカ門ヲ俺ハザルー期之 慧鳳竹居西遊集(八)'桂庵玄樹島隈漁唱(一)-」(前出) 三十七'大西虞「雪舟史料を読む19番容改ラザルハ是レ青山-桂庵玄樹島隠 漁唱(四)-」(日本美術工芸第四七〇号) 三十八㌧中村渓男F日本美術絵画全集第四巻雪舟山(前出) 三十九'田中豊蔵「雪舟問津」(田中豊蔵F日本美術の研究﹄昭和三十五年' 二玄社刊に所収されている) 四十'田中豊蔵「雪舟問津」(前出) 四十二土岐健三郎「秋月等観筆とされる西湖図について」(昭和五十一年) 四十二へ小葉田浮F中世日支通交貿易史の研究山(昭和十七年'刀江書院) 四十三'中島純司「雪舟系花鳥図犀風研究」(S^cowPS第1九九号) 四十四㌧中島純司「素材形式主義への転落-雪舟系花鳥図界風研究。第二部 -」(前出) (1九七八年十月四日受理)