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帝国書院 | 高校の先生のページ 高等学校 世界史のしおり 2004年 10月号

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(1)

 歴史学が家族を扱うようになったのは、ごく近年の現象である。国と国の関係などだけ が歴史と見られていた時代には、歴史家が家族のありかたを問題にすることはなかった。 しかし、家族のありかたは、それぞれの社会を、その根底において規定してきたから、い までは、時代解釈の重要な要因のひとつと考えられている。

 では、「家族」とは何なのか。「家族」にあたる英語は、ふつうは family である。しかし、 そうだとすると family とは何なのか。アフリカのファミリと日本の「家族」は同じ意味 なのか。中世フランスのファミリは、いまのわれわれの考えるようなものであったのか。 実際には、「家族」そのものが、場所によって、その内容は非常に違っているし、同じ国 でも、時代が変われば、その意味は大きく変化した。「家族」は、かつてアナール学派の 主張した、「変わらないようで変わるもの」の代表なのである。

 1688年、イギリスの役人グレゴリ=キングは、租税台帳や実地調査をもとに、「政治算術」 と呼ばれた手法をつかって、当時のイギリス社会を統計分析した。表1は、その結果の抜 粋である。キングの表は、近世イギリス社会─いわゆる「われら失いし世界」─の構造を 知るうえで、汲めど尽きない情報源であるが、紙幅の都合上、ここでは三つの事実を読み 取るだけにしておきたい。

 まず第一に、この表は、イギリスの社会 を分析するにあたって、各階層の家族数を 前提にして、家族の平均人数、年収や年支 出などを計算し、そのうえで、全人口を「イ ギリスの富をふやす家族51万と、それをへ らす家族85万とに二分している。ここでま ず見られることは、近世のイギリス社会に おいては、すべては「家族」が単位となっ ていて、それより小さい「個人」というよ うな単位はないということである。「家族」 はふつうは成人男子である「戸主」によっ て代表されており、戸主以外の家族のメンバー─妻などの女性、子ども、あとで述べるよ うに、子どもと似た扱いを受けたサーヴァント(使用人)たち─ は、この戸主に従属し ており、家族の外にむかっては、' nothing 'だったのである。

 したがって、「戸主」には社会的地位、つまりステイタスというものがあり、「ジェント ルマン」とか、「ヨーマン」とかいった称号や身分、または「大工」、「日雇い労働者」と いった職業名で表示されていたが、従属メンバーである妻や子どもやサーヴァントには、

家族の社会史─私的な領域

名古屋外国語大学教授・大阪大学名誉教授 川 北 稔

「われら失いし世界」の家族

表 1 1688 年のイギリスの社会(同時代人キングの推計)抜粋

家族数 身分・職業など 家族の規模 年平均収入 年平均支出

160 12,000 5,000 2,000 140,000

貴 族 ジェントルマン

高級官僚 貿易商 自作農

40人 8 8 8 5

2800ポンド 280 240 400 50

2400ポンド 260 194 320 47.5 その他を含めて、「富を増やす家族」 約510,000

354,000 400,000

日雇い労働者 小屋住み農

3.5 3.25

15 6.5

16.5 8.1 その他を含めて、「富を減らす家族」 約850,000

(2)

個人として固有のステイタスはなく、「ナイトの妻」とか、「大工の徒弟」などと戸主のス テイタスに従って呼ばれていたのである。

 「戸主」のみが家族を代表するという傾向は、産業革命末期になっても明白で、1832年 の選挙法改正でも、年賃貸料10ポンド以上の家に住む「戸主」にしか選挙権は与えられな かった。「子ども」はもとより、「妻」や徒弟のような「サーヴァント」にまで選挙権を与 えることは、想像もできないことであった。西ヨーロッパで、近世から近代への家族史の 動きは、ひとつには、こうした「従属メンバー」が、家族の外でも、1人の個人として評 価されていく歴史である。たとえば、産業革命による工場労働は、低賃金ではあっても、 女性や子どもにとって、「自分の稼ぎ」を明確にさせる意味があった。実態は、家族労働 の成果であるにもかかわらず、収入がすべて、「戸主」のものとされた中世や近世とは、 本質的に異なっていくのである。19世紀後半に行われた既婚女性の財産権の承認や20世紀 に実現した女性の参政権も、こうした傾向の典型である。

 表1から読み取れるもうひとつのことは、上流の家族のほうが、圧倒的に家族の平均規 模が大きいということである。表では庶民である「日雇い労働者」や「小屋住み農」のそ れは、せいぜい3人強とされている。夫婦と子どもが1人いれば、それでおしまいという ことであるが、貴族の「家族」は、平均40人となっている。これは、いったいどういう意 味なのか。貴族たちは平均して35人以上の子どもをもったというようなことでは、むろん ない。ここに現れているのは、この時代の「家族」つまり family といわれているものが、 血のつながりのない、家事使用人や徒弟などからなる「サーヴァント」、つまり、住み込 みで、独身の若者たちを含む概念であったという事実である。だから、「サーヴァント」 の多い上流階級の「家族」は、むやみに大規模になるのである。

 「サーヴァント」のなかでも、毎年、取り入れ後の「雇用の市」で、新しい雇い主を探 した農業使用人は、断然数が多かった。こうしたサーヴァントたちは、むろん、もともと 別の家庭に生まれた者であるが、14歳前後に実家を離れて他の家庭の使用人となり、そこ で「家族」の「従属メンバー」として扱われたものである。つまり、庶民の家族も、子ど もが1人というようなことはありえなかったのだが、子どもたちがつぎつぎと生家を離れ、 他の家の「使用人」となったために、結果としては、3人強という「家族」構成となった のである。血縁関係のない彼らが、実子たちと同じように扱われたということは、食事の テーブルや寝室の具合などからもわかることだが、実際には、彼らが厚遇されたというよ りは、実子であっても従属メンバーである以上は、戸主には絶対服従を強いられていたと いうことである。

 西ヨーロッパではどこでもそうだが、近世から近代にかけてイギリスの家族も、血のつ ながりのないこうしたメンバーを「家族」からしだいにはずしていく。家事使用人は、主 人の家族とは別の部屋で寝食するようになり、実子と使用人の扱いはまったくの別のもの となる。神戸の異人館のひとつ、英国館に行くと、「女中部屋」は、長い階段を隔ててあり、 主人家族の居室部分との間には鍵がかかるようになっている。

 こうして、われわれの馴染んでいる、婚姻関係にある夫婦とその血族のみで構成される 「家族」が生まれる。振り返ってみると、表1でいう「家族」は、「使用人」を含んでいる わけなので、現在の言葉でいえば、家族よりは「家政」(household)に近く、俗な言いか たをすると「同じ釜の飯を食う」人間の集団の意味であったことがわかる。

(3)

 表1が語る近世イギリス家族の第三の特徴は、それが実質的に、とくに庶民の場合、単 婚核家族で構成されているということである。家族規模が3人強でしかないということは、 祖父・祖母の同居する三世代家族というようなものは考えられないし、ましてやおじさん やおばさんたちが同居するタイプの大家族など考えようもない。イギリスや北フランス、 オランダなどの西北ヨーロッパでは、もともと大家族であったのが、産業革命以後になっ てしだいに核家族化したというような、昔の通説は当てはまらない。イギリスの家族は、 すでに13世紀にも核家族であり、それがウェットな親子関係を排除し、特有の個人主義の 伝統を生み出したのだとさえ主張している歴史家もいる。

 そのような議論が正しいかどうかはわからないが、少なくとも、17世紀には、イギリス の家族には、つぎのような三つの相互に深く関係する傾向が認められた。ひとつは、当時 のイギリスやひろく北西ヨーロッパでは、人びとは一般に晩婚で、10人に1人くらいは、 生涯独身で過ごすこともあった。日本を含めてアジア各地やアフリカ、東ヨーロッパなど では、遙かに早婚であり、生涯独身で過ごす人は、とくに女性ではまったくの例外であっ た。第二に、キングの表にもみられるように、イギリスをはじめとする北西ヨーロッパで は、単婚核家族が一般的であった。これも、世界の他の地域で見られた、三世代の家族や おじさんやおばさんも同じ家族として暮らすような「大家族」の社会とはまったく異なっ ていた。最後に、先に見たように、イギリスや北フランスでは、おおかたの家庭の子ども は、青少年の間、ほかの家庭にサーヴァントとしてはいった。つまり、日本の奉公制度の ようなものが、一般的に存在したということである。

 イギリスでは、14歳前後になると多くの子どもは、生家を離れてサーヴァントとして別 の家庭にはいる。そこでは、雇い主が親代わりの監督責任者となるので、実家の親との関 係は薄れる。やがて結婚すると、独身・住み込みが前提のサーヴァントはやめることにな るが、親元に戻ることはなく、若夫婦だけの新世帯ができあがる。親との同居はないので、 親の家族も、子どもの家族も、単婚核家族となるのである。また、サーヴァントをしてい るあいだは、結婚できないので、必然的に晩婚となるのである。徒弟制度や農業サーヴァ ントの制度は、今日の学校制度にも似て社会的に晩婚を強制する装置だったのである。  晩婚には、当然のメリットとして、新婚世帯がある程度の経済力をもってスタートする という意味がある。工業化の前提となるような国民的な豊かさは、このような家族制度に よって育まれやすい。反対に、アフリカやアジアのような、結婚しても親の家で暮らす大 家族制の社会では、経済的自立のないままに、たとえば、10代前半にも結婚してしまう早 婚社会となるのである。

 このような家族のありかたは、産業革命が進行して、サーヴァントの制度がなくなって いっても、基本的には続いた。しかし同時に、「家父長的家族」から「平等主義の家族」 へと表現されるような変化が少しずつ進行した。父親の権威がだんたんと低下し、長男だ けが優遇される相続制度などが変更されていくのである。とくに、農家や職人の家族のよ うに、家族が生産労働のティームをなしていた工業化前の社会とちがって、産業革命が進 行すると、家族は別々の場所で雇われ、それぞれの「収入」を得るようになる。かつて一 緒に働いていた家族では、父親は、息子に仕事の技を教える教育者でもあったが、学校教 北西ヨーロッパの家族

(4)

育が普及すると、父親のそのような役割も消滅していく。

 というより、工業化の別の局面である都市化が進行 すると、家族はそれまで持っていた多くの機能を喪失 していくのである。社会が商業化され、生活の多くの 局面─薪とりから、副食づくり、衣服づくり、教育・ 保育などなど─が自給するものではなく、商品として 「買い取る」ものになるからである。

 こうなると、新しい家族を構成すること、つまり、 結婚も個人の問題とみなされるようになり、父親の許 可を前提とする家族や家系のための婚姻、いわゆる政 略結婚が少なくなって、「恋愛結婚」が普及していく。 同時に、「子どもの発見」として知られているような 現象も生じる。かつて子どもは、「小さい大人」とし てしか見られていなかったが、子どもは大人とは別の ものだという意識が強くなったのである。子どもの描かれている肖像画を時代順にみてい くとよくわかるように、近代のヨーロッパ人は、サイズの小さな大人の服ではなくて、子 どもには「子ども服」を着せるようになった。「青少年の非行」は矯正が可能であり、大 人の犯罪と同一視して処罰すべきものではないという見方が生まれるのも、同じ流れにた ってのことである。

 同様に、「高齢者」も特別な存在として「発見」されていく。その社会的表現が「定年 制度」である。三世代家族が一般的で、高齢者だけでの核家族などというものがほとんど

見られない世界では、「老人福祉」は、全体が貧しいことから起こった「姥うば捨すて」のよう

な現象を別にして、それほど深刻な問題にはならない。しかし、核家族の社会では、「高 齢者」は「子ども」とともに、生産的労働からははずされ、特別の保護を要する人たちと して分類されていくのである。

 戦前の童謡「赤とんぼ」には、このような歌詞がある。15歳とは、数え歳のことだから、 今様にいえば13か14である。こうしてみると、日本の戦前の社会は、20代中頃に結婚する のがふつうであった「われら失いし世界」のイギリス社会とは、非常に違っていたことが わかる。戦前の日本社会は早婚・三世代家族によって特徴づけられ、北西ヨーロッパ型と はまったく違うタイプの家族によって構成されていた。父親の権威も強く、「家父長的」 な傾向も見られた。

しかし、第二次世界大戦後の日本では、家族制度が急速に北西ヨーロッパ型に近づき、 晩婚化と単婚核家族化が進行した。生涯結婚しない人の比率も急速に上昇している。サー ヴァントの制度はないが、高学歴化がその代わりをしている。いまの日本の若者は、徒弟 や家事使用人や農業サーヴァントにはならないが、何十年も「学生」であるために、経済 的自立は遅いにも関わらず、親の世代とひとつの家族をつくる習慣はなくなっているため、 晩婚が必然となるのである。公的な分野で活動しようとする女性が多くなったことも、女 性を私的な領域に閉じこめがちな、これまでの婚姻制度や家族制度を変えていったのであ る。

(5)

 「どこを覚えればいいの?」こう生徒にきかれ ることが多い。社会科は暗記もの、と思われてい るし、まして世界史の教科書にはたくさんの年代、 国や地域、人名、事件等がつぎつぎに出てきて、「も う覚えられない」となってしまうのも無理はない。 あるできごとがなぜ起きたのか、その人物はどう してそんな行動をしたのか、自分ならどうしたか 等、‘考える’ことが大事だよ、と日頃から訴え てはいる。が、テスト、入試とつづく受験競争の 矛盾の中でどうしたらよいのだろうか。

 どこにあるかわからないような場所や、遠い昔 のできごとの話……「自分には関係ない」「すん でしまったこと」と生徒にはうつる。そんな中で どうしたらもっと歴史を身近に感じられるように なるだろうか。

 私たちは‘今’を生きている。自分たちがこの 時代に生きてきて、世界のいろいろなできごとに ふれる中で、何かを感じることがあるはずだ。そ れを調べてみよう。現代を入口に、歴史的に掘り 下げ、レポートにまとめる。そんな現代史中心の レポート学習を毎年行っている。現任校は進学校 で、受験の制約も大きいが、2年生の世界史Aで 取りくんでいるレポート学習の一端を紹介したい。

(1)テーマ

 次のテーマの中から1つ選び、レポートを書く ように、ということで3点あげる。

①激動の現代史……今、世界はどう動いているの か、日々の新聞やテレビのニュースで印象に残っ ていることを調べる。

②20世紀とは……私たちはどんな世紀を生きて

きたのか、20世紀について考える。

③その時々の話題から……たとえば二千年問題が 騒がれていた年は‘ミレニアムについて’とした。 (2)注意点

 レポート作成の注意点としていくつかあげる。 ①歴史に関するもので、自分の最も関心のあるも のを選ぶ。特定の事象・人物・国や地域にしぼっ て、各自が具体的なテーマを決める

②調べたことを整理し、自分の考えにそってレ ポートを構成する。レポートには次のことを入れ るとわかりやすい。「はじめに」……なぜそのテー マにしたのか、どんな疑問点があるのか等自分の 問題意識について。「おわりに」……どんなこと がわかったのか、残された疑問点、今度の課題や 感想について。

③自分の考えを自分の言葉で表現する。どこかの 本の丸写しはダメ。引用する場合は、「 」でくくっ て○○著「△△」と出典を明らかにする(こうし ないと盗作になっちゃうぞ)。最後に、参考図書 もあげておくとよい。

 なお、評価上もとても重要な課題なので、全員 必ず提出するように、と強調しておく。

(1)作成過程

 どんなことが今、ニュースになっているか問い かけ、生徒にあげてもらう。またNHKビデオ「世 紀を超えて」などを見て参考にすることも。  次に図書室で各自、テーマを考えながら参考図 書を探すことになる。はじめはワイワイうるさ かったりするが、だんだん集中してくる。テーマ がはっきりしない生徒には個別相談。こうした時 間は2∼3時間で、あとは各自が放課後や休日に すすめる(生徒からブーイングが、でも地域の図

現代史のレポート学習

東京都立調布北高等学校 忍 田 則 行

は じ め に

導  入

(6)

書館で調べてくる生徒も)。約1か月後提出とす る。行事等で意外と日数がなかったりするので注 意。

 はじめは、「めんどくさい」「何やったらいいか わからない」と言っていた生徒も、苦労しながら 何とか調べていく。

(2)発表

 できれば全員発表といきたいところだが、時間 の制約があって、みんなに紹介したい一部のもの にしている。発表では、なぜそのテーマにしたの か、どんな問題があって自分はどう思うのかを中 心に、板書や模造紙を使ったりする。聞いている 生徒は、自分の知らないことをクラスメートが発 表するのに驚いたり、発表者を見直したり(?) する。

 発表や討論を重視するなら、具体的なテーマを 設定する必要があろう。たとえば、「ヒロシマに 原爆はなぜ落とされたのか」等。

(3)問題点

 図書館や自宅からインターネットで、いろいろ な情報を集めることができるようになった。膨大 な情報をどう扱うのか、なかなかたいへんである。 なかには、パソコンからプリントアウトしたもの をそのままレポートにするケースも。書物にしろ インターネットの情報にしろ、自分で吟味し、考 えるということが大事である。

 テーマによっては、電話や手紙、または直接会っ て聞きとり調査といったことも必要だが、そこま での展開はできていない。そのためには強い問題 意識が必要だろう。さらに外部への働きかけ、訴 えということもありうる。それをどのようになし うるのか、時間の保証も含めて今後の課題である。

 「紛争の原因」「現代社会と自動車」「若者と現 代音楽」等、多様なテーマがよせられる。人物で はキング牧師やマザーテレサが人気だ。「より深 く歴史と現代について考えられて、楽しかった」 「もっと調べてみたい」等の感想を書いてくる。

 ここ2∼3年は、2001年9・11同時テロ事件を

取りあげる生徒が多 い。やはりテレビを 見て、たくさんの人 が犠牲になったこと にショックを受けて 関心をもったようだ。  ある生徒は「誰が 何のためにやったの か」と疑問をもち、 新聞や資料をいろい ろ調べていくうちに、 報道をうのみにしないで過去の歴史を調べること が大事だと感じ、「これからの情報社会では自分 自身がしっかり考えていかなければダメだ」と指 摘する。また別の生徒は「テロはよくないけど、 こんなにたくさんの人を殺してしまうほど、うら みは大きかったのか」「もっと1つの命を大切に しないといけない」「アメリカの報復も無意味」 だと感じ、今も多くの人々が殺されていることに 対して心を痛める。レポート①の生徒は、テロを きっかけにアフガニスタンの子どもたちに想いを はせ、日本の自衛隊のあり方を考え、「世界にもっ と目を向けていきたい」と結んでいる。

実際のレポート

帝国書院

「明解世界史A 最新版」p.191

レポート①

アメリカ同時多発テロ事件の背景

 2001年9月11日、アメリカで同時多発テロ事件が発生した。 4機の旅客機がハイジャックされ、このうちの2機がニュー ヨークの世界貿易センタービルの2つの建物に相次いで激突し た。ビルは、炎上し、倒壊した。犠牲者は5000人以上と見られ ている。また別の1機は、ワシントン郊外の国防総省に突っ込 み、残りの1機がピッツバーグ郊外に墜落した。

 ☆2002年9月11日世界中を凍らせたこの事件から1年が過ぎ た今、テレビで見た映像がとても驚きだった。たまたま貿易セ ンタービルの近くで仕事をしていた人がその光景を撮影した映 像にショックを受けた。脳裏に今でも焼き付いている人々の悲 鳴、恐怖、血だらけの人、ビルがくずれ落ちる跫音…を映し出 したテレビでさえも恐ろしかった。人々はどんなに恐ろしかっ ただろうか…。理由もない一般市民を巻き込んだテロには怒り を覚えた。

 事件後、アメリカ連邦捜査局は実行犯をわりだし、その支援 者を逮捕した。アメリカ政府はイスラム原理主義の中でも過激 派ウサマ・ビンラディンを、テロ事件の中心人物と断定した。 彼をかくまっているとされるタリバン政権と、彼の支配者を報 復の対象にあげた。

(7)

 パレスティナ問題を取りあげた昨年のレポート ②。自爆テロを行った18歳の少女にショックを受 け、自分の問題として考えようとする姿勢が印象 的だ。

 多様な表現があってよいだろう、ということで、 実は、レポート以外でも絵画、工作、世界史新聞等、 各自の創意あふれる作品も歓迎する、と呼びかけ ている。例年、何人か工夫して提出してくれる(描 いた絵にコメントをそえた作品①、写真+詩集に した作品②)。こうしたことは「総合学習」とし て展開したほうがよいかもしれない。また、グルー プに分けて行う「共同学習」もおもしろいだろう。

 アメリカによるイラク戦争とその後の占領がテ ロを呼び、今もイラクの混乱がつづいている。日 本は戦後はじめて戦場に自衛隊を派遣。イラク人 のために活動し、拘束された日本人が「自己責任」 として日本でバッシングされた。日本が海外で戦 争をするには憲法9条がじゃまだ、と改憲の動き が……。

 そんな中で世界史を学ぶということにはどうい う意味があるのか。教科書をただ覚えればすむ、 というわけではあるまい。生徒たちは、世界で今 起きていることに目を向け、資料を調べ、レポー トを作成する、その過程でいろいろなことを考え、 歴史認識を深めていく。今年のレポートはイラク 戦争が多く取りあげられそうだ。

 受験競争の制約もあるが、世界史を学ぶうえで 現代史のレポート学習は欠かせないと考えている。

レポート②

α

として

お わ り に 作品1

作品2 ンダハルを明け渡し、最高指導者オマル師は姿を消したといわ

れている。

 一方、アフガニスタンは20年にわたる内戦、3年越しの干ば つ、現在の政治的危機の状況の下で、食料事情が著しく悪化し ている。アフガニスタン国民の多くは、隣国のイランやパキス タン、国境付近などへ避難し、難民の数は2001年9月現在370 万人、国内避難民は96万人と推計されている。

 アメリカがアフガニスタンへの軍事行動に踏み切ったことを 受け、日本政府は対米支援策に乗り出した。政府は2001年10月 29日、米軍などへの後方支援を盛り込んだテロ対策特別措置法 を成立させた。この法律によって、日本の安全保障政策が大き く転換したといえる。

 日本における自衛隊のあり方、自国の安全のためにどこまで 必要か、といつの時も話題にのぼり、国会の中でも未だに議論 が絶えない。<後略>

は じ め に

(8)

 大航海時代は「世界の一体化」の始まりとして 世界史で扱われることが一般的であろう。本校で は高校1年次に全員必修で世界史全般を扱い、2 ・3年の選択授業で大学受験を念頭においた授業 を展開している。その際、大学入試に必要な歴史 用語・年代などの単純な暗記を要求して事実の羅 列に終わることのないように留意している。  ここでは、高校2年の世界史Bの

授業で扱う大航海時代の展開につい て触れてみたいと思う。また、上述 の留意点に関する試みとして、「サ ツマイモとジャガイモ」を切り口と し、「新大陸」原産の「サツマイモ とジャガイモ」の伝播、2つの芋が 中国やヨーロッパ社会に与えた影響 を見ていきたい。

 大航海時代を扱うポイントを以下 に列記しておく。

① 大航海時代の歴史的経過と意義 ② ファン=ヒネス=デ=セプルベタと

ラス=カサスとの論争

③ 大航海時代をめぐる新しい物流 について

④ 大航海時代における中世的要素 ⑤ 大航海時代における近代的要素 以上は大学受験を意識するうえで不 可欠の要素と、世界史の面白さを伝 えるための要素から構成している。  ①については、下に示した授業用 のプリントを利用している。これは

板書プリントと呼んでいて、時間短縮と授業の軸 を明確にする目的で、あらかじめ生徒に配布して いるものである。授業ではこれを教材提示装置と プロジェクターを使ってホワイトボードに映写し、 映し出されたプリントに書き込みながら、補足説 明している。その際、帝国書院の「最新世界史図説 タペストリー 初訂版」はたいへん重宝している。 生徒全員に購入してもらい、さらにプロジェク ターで映写することで、見るべきポイントや指示

アジアの栄華と大航海時代

─サツマイモとジャガイモを切り口に

公文国際学園高等部(神奈川県) 新 堀 雄 介

は じ め に

(9)

を徹底している。なお、「大航海時代」のための 4枚の板書プリント(B5判)がある。

 また、授業時間数の制約が大きいため、とくに ④と⑤を理解できるように説明するのに、毎年、 苦労をしている。最近では、「ルネサンス」にお ける中世的性格と近代性を説明した後に、「レコ ンキスタ」から「大航海時代」を扱い、絶対王政 の重商主義政策へ結びつけている。「市民革命」 の理解にはどうしても絶対王政の特質が欠かせな い、国王と特権階級・大商人との「持ちつ持たれ つの関係」をできるだけ正確に理解する必要があ る。その「持ちつ持たれつの関係」のうち、国王 と大商人の関係は重商主義政策の中に見られるわ けだが、この関係の成立の端緒として「大航海時 代」を扱っている。

観点  下の地図Aに見られるように、サツマイ モはメキシコのアカプルコ港から太平洋を横断し て日本にまで伝播。すなわち「西回り」で日本に 伝播したことになる。一方、ジャガイモは地図B にあるように、大西洋からスペイン・オランダを 経て東南アジアのジャカルタを経由して「東回り」 で日本に伝播している。このように、「新大陸」 を原産とする2種類の芋が地球を東西逆の方向に 1周して日本にまで伝播したことから、大航海時 代以後の世界の交易規模の拡大を認識させる。さ らに、南米原産のジャガイモがアイルランド移民 によって北米に持ち込まれたことを取り上げる。

サツマイモ  メキシコを中心に中南米が原産。 大航海時代になるとメキシコのアカプルコ港から ルソン島のマニラにいたるガレオン船の航海用の 食料としてルソン島にもたらされた。その後、 1593年福建省南安県の邑人陳振龍親子が福建省の 救荒作物として普及に努めた。明末の徐光啓は『農 政全書』に栽培法を取り上げている。現在、中国 のサツマイモ生産量は世界の8割を超えている。 清代から急増した中国の人口を支えることに貢献 したともいえよう。

日本への伝播  1605年福州から戻った野國総管 が琉球に栽培法を伝えた。今年、沖縄の嘉手納町 では、「野國總管甘藷伝来400年祭」が開催される そうである。

 1698年第19代種子島弾正久基が琉球の中山王尚 貞の時に導入した。1705年前田利右衛門によって 薩摩に伝えられ、飢饉時にも薩摩では餓死者は皆 ◆サツマイモのたどった道

◆ジャガイモのたどった道

「タペストリー」p.97 ⑤中国歴代の登録人口

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無だったとされている。

青木昆陽  関東地方を襲った享保の大飢饉時に 実績のあった「薩摩芋」は、享保の改革を推し進 めていた当時の将軍徳川吉宗、大岡越前守忠相の 命を受けた蘭学者の青木昆陽によって、小石川療 養所をはじめ日本全国に広められた。ただ、青木 昆陽を知っている生徒は毎年ほとんどいない。

ジャガイモ  まず、生徒に「ジャガイモ」の語 源を発問する。勘のよい生徒は「ジャカルタ」を 言い当てることができる。16世紀末にオランダ人 が現在のジャカルタに商館を建設し、これを1619 年にバタビアと改称している。オランダ人が日本 に来航するのがもう少し遅れたら、「ジャガイモ」 の名称は違ったものになっていたかもしれない。 なお、「馬鈴薯」の由来をマレーシアに求めるの は誤りのようである。また、ジャカルタは日本で はジャガタラと呼んでいたため、「ジャガタライ モ」という呼び方もあった。

ジャガイモの原産地  アンデス高地の中、ペ ルーとボリビア国境付近ティティカカ湖周辺が ジャガイモの原産地である。ジャガイモはインカ 文明の人々の重要な食料であった。しかし、15世 紀末にコロンブスによってヨーロッパに持ち込ま れたジャガイモは、以後のヨーロッパでは観賞用 であり食用ではなかった。三十年戦争で荒廃した プロイセンでジャガイモが食べられるようになっ たのは、フリードリヒ2世の功績による。

日本への伝播  日本には1601年ジャカルタから

来たオランダ船によって長崎県平戸に伝えられた とするのが一般的である。しかし、ポルトガル人 が持ち込んだとする説もある。本格的に日本で栽 培されるのは明治時代以降のこと。

アイルランドとジャガイモ  イギリスのクロム ウェルによる征服後、アイルランド人はジャガイ モを主食とする貧しい生活を送っていた。1845年 に発生したジャガイモの胴枯れ病のため1846∼47 年にいわゆる「ジャガイモ飢饉」が発生した。そ の結果、アイルランド農民の100万人が餓死し、 100万人以上がアメリカなどに亡命した。アメリ カに移住した彼らは、移住先でもジャガイモを栽 培した。アメリカ合衆国には南米のペルーから ジャガイモが伝播したのではなく、ペルーから持 ち出されてから約350年後、世界を回ったあと、 ヨーロッパから持ち込まれたのである。

 ①「大航海時代」の内容、②その事件の歴史的 位置づけ、③内容に生徒をひきつけるためのエピ ソードなど、の3つの大きな構成によって世界史 の授業を行っている。「大航海時代」はエピソー ドなどには事欠かない。今回は「サツマイモ」と 「ジャガイモ」にしぼって、「モノ」を切り口に「大 航海時代」以後の世界が、それ以前の時代と大き く違っていることを生徒に示唆することを狙った ものである。2つの「イモ」が世界を東西両方向 から回って日本に持ち込まれたことは、世 界史と日本とを結びつけるうえでも興味深 い話である。

参考文献

歴史と現代 朝日選書 143 大塚久雄著  西洋経済史 筑摩書房経済学全集4 大塚久雄編著 世界史を動かしたモノ事典 日本実業出版 宮崎正 勝著

ラテンアメリカ史植民地時代の実像 世界思想社  染田秀藤編

ラス=カサス伝新世界の審問者 岩波書店 染田秀 藤著

世界近現代史1 山川出版社 大江一道著 世界史 中央公論新社 ウィリアム=H.マクニール著

帝国書院「明解世界史A 最新版」p.80

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 タペストリーの特色である世界全図を生かし、 入試傾向にも対応した授業例を、タペストリー p.28「15世紀ころの世界」を題材に考えてみたい。  近年、本当の意味での「世界史」を追究しよう という傾向が入試問題に見られる。つまり、細か い事項や年号にこだわった出題や、各国史(とく にヨーロッパや中国に偏った)より、グローバル な動きをテーマにしたリード文・出題という傾向 である。そこで今回のテーマである「15世紀ころ の世界」と関連して、近年重視されるようになっ た「海域世界」という概念を留意点とする。なお 今回は、すでに近代まで説明が終わり、そのまと めとして、「15世紀ころの世界」という授業を行 ったと仮定させていただきたい。また文中の【発 問】というのは、一つの例である。

 ある時代を短いフレーズで表現することは、歴 史の流れを意識するうえで有効である。まず生徒 にp.28の世界全図を開かせ、この時代のキャッチ・ フレーズを考えさせる。【発問:生徒に自由質問】 その後副題の「アジアの海に向けてヨーロッパが “船出”」を板書し、以下のような図を書く。

 【発問:どちらが繁栄しているのか?】副題から

ヨーロッパに対するアジアの優位をおさえる。  まず13世紀と14世紀の世界全図をみる(p.24∼

27)。【発問:特徴は何か?】するとユーラシア大

陸がモンゴルの勢力圏であり、さらに15世紀もタ タル・ティムール帝国という【発問:共通点は?】 モンゴルの伝統を継承した国家がいまだ強大であ ることもわかる。これらに対し【発問:両者に対 抗している勢力は?】明が対抗している状況を把 握する。

 明にとって最大の脅威は何か。当然北方の遊牧 勢力である。とすれば南方の兵力は薄くならざる を得ない。その観点で全図をみると、【発問:東 南アジアで前世紀との相違点は?】目立つのは黎朝 大越とアユタヤ朝の拡大(板書②に図示)である。 11世紀の全図(p.20∼21)をみるとアンコール朝 カンボジアが強大である。次に13世紀の全図をみ ると、モンゴルが雲南に侵入すると【発問:どの ような影響があったか?】タイ人の南下がおこり、 スコータイ朝や次のアユタヤ朝によってカンボジ アが圧迫されている状況が分かる。同様に大越も チャンパーを圧迫し南下している。東南アジアの 国家形態を、中継貿易で栄える港市国家と、平原 を支配する農業国家に2分し、さらに14世紀の全

図から、【発問:東南アジアで強大な勢力は?】マ

ジャパヒト王国の拡大をあわせると、港市国家が 農業国家に飲み込まれつつある流れが判明する。 港市国家の生き残り策は何か。【発問:生徒に自由 質問】それがマラッカ王国と明のつながりである。

 マラッカ海峡はほぼ無風で、両側に暗礁が多い 海の難所である。当時の帆船では櫓のついた小船 に引かせ40∼50日かかるのが普通であったとイブ ン=バットゥータが書いている。宝を積んだ大船

タペストリーを使って─ 15 世紀ころの世界

東京都立小松川高等学校 小 豆 畑 和 之

1.はじめに

2.15 世紀の概念把握

3.繁栄するアジア

4.狭間で栄えるマラッカと琉球

マムルーク朝

タイ 大越

イスラーム ヨーロッパ

VS ジェノヴァ

ヴェネツィア

マラッカ オスマン

オスマン

交易路

(12)

がゆっくり行くので、【発問:どんな事態が想像さ れるか?】海賊の襲撃にはもってこいであった。 そこでマレー半島を陸越えすることもあり、ある 地峡などでは船に荷物を積んだまま象に引かせて 横断したという。この後触れるオスマン艦隊の山 越えとの関連が推定される。アユタヤ朝の圧迫に 苦しんだマラッカ王は【発問:王が考えた手段は?】 明の鄭和と結び支配を拡大した。その後明が海上 消極策に転換したためマラッカは一時苦境に陥る が、アユタヤ朝との抗争に勝利した後、王はスル タンを名乗り、中国産品と東南アジアの香辛料の 中継拠点として繁栄した。同様に明の海上消極策 により中継交易で繁栄したのが琉球である。  明は冊封関係を持たない国の船舶の入港を認め ず、入港場も回数も国ごとに決めていた。たとえ ば安南・ジャワは3年1貢、日本は10年1貢であ ったが、琉球は当初1年1貢とされ、圧倒的に多 かった。琉球の交易に関連して、日本の対明勘合 貿易品目のうち興味深いのは、蘇そ木ぼくである。  蘇木は東インド産の植物で、日本の国産品では ないのに日本からの重要な輸出品となっていた。 蘇木は古くから赤色染料または薬剤として用いら れていたが、鎌倉時代には宋からの輸入品であっ た。しかし室町時代、明が成立すると貿易は一変、 明の海禁策によって琉球商人の台頭を招いた。琉 球は室町幕府へも遣使を盛んに行うが、この献上 品の中に日本が消費する以上の蘇木があり、これ が明や朝鮮に再輸出されたのである。

 一方のヨーロッパはどうか。15世紀以前のアジ ア勢力を代表する一つがモンゴルで、他がイスラ ム勢力であるわけだが、まずモンゴルから15世紀 にモスクワ大公国が独立、優位であったアジア勢 力の一角は崩れている。しかしティムール朝はい まだ強力で、さらにその後を継いだオスマン帝国 は16世紀の全図(p.30∼31)をみるとマムルーク 朝も滅ぼし、15世紀はヨーロッパに対するアジア の優位がうかがえる。

 さらに細かくヨーロッパの状況をみてみる【発

問:いくつかあげさせる】と、年表からコンスタ ンツ公会議が行われ教会大分裂が終了したこと、 百年戦争が終結したことで、英仏が複雑な領土問 題を解決し、国民国家としての姿をあらわしつつ あることがわかる。しかし年表からぜひとも答え させたいのは、スペイン王国の成立である。

 14世紀ヨーロッパ商業をリードしていたのはイ タリア海港都市で、イスラム圏のディナール金貨 に対抗して13世紀には金貨を鋳造し、海上保険も 14世紀に始めている。【発問:p1333-Aを参照して、 最も繁栄したのは?】なかでもヴェネツィアは、 シャンパーニュの大市を通じてドイツと結びつき、 繁栄する紅海ルートにつながるマムルーク商人と の香辛料交易を【発問:誰の許可で?】、教皇から 許可を得て独占している。

 当時のイタリア経済の好調を物語るもので、余 裕があれば触れたいものが、麻とオリーブである。 14世紀以降麻織物産業がイタリアで勃興するが、 麻は帆布(大航海時代)や油絵・版画の画材(ル ネサンス)にもなった。オリーブは魚との関連で ある。14世紀北欧ではニシンの塩漬けが、南欧で はイワシのオイル漬けが流行していた。当時、加 工した海産物は畜肉の端境期には貴重な蛋白質で あったためである。 

 この繁栄を脅かしたのがオスマン帝国である。 オスマン帝国はティムールに敗北したが徐々に西 方に進出し、コンスタンティノープル攻略で地中 海東半と黒海を勢力下においた(板書例に記号 を書き加える。おもな交易ルートをあらわす)。 これによりイタリア商人は大打撃を受けるが、彼 らは西方に活路を見出そうとした。(板書例①に ヴェネツィア、ジェノヴァを図示する)14世紀に ジェノヴァはポルトガルとの関係を強め、イベリ ア半島や北アフリカでの活動にシフトしていった。 【参考:2003年一橋大の問題】しかし繁栄を誇った

イタリアも15世紀末【発問:p.280の年表参照】フ ランスのシャルル8世の侵入に始まるイタリア戦 争以降衰退していく。

5.ヨーロッパの状況

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 ポルトガルは13世紀にレコンキスタを完了させ ていた【参考:2004年早大・政経の問題】が、常に 隣国カスティリャとの関係に注意を払っていた。 内陸部は荒地で農業に適さず、【発問:国名に含ま れる英単語は?】ラテン語のポルタス(港)+カ ラ(温暖な)にちなんだ国名の通り、人々は海岸 地方に集まり、さらに14世紀以降はジェノヴァ商 人に特権を与え結びつきを深めていた。ポルトガ ルの海外進出【発問:海外進出の契機となったの は?】は1415年のセウタ攻略に始まる。

 イタリア商人は北アフリカ商人との交易から、 【発問:p.119からアフリカの代表的交易品とは?】サ ハラの奥地で金が産することを知っていた。その ためヨーロッパ人は金の産地を発見しようとし、 徐々にその金はアフリカ西岸のギニアに集まるこ とがわかってきた。そこでモロッコをまわり、海 路アフリカ西海岸に向かう動きが始まる。  ポルトガルはコンスタンツ公会議において、十 字軍(セウタ攻略)を提唱することで、自らの地 位を高め、カスティリャとの交渉を有利に進めよ うと考えた。その実、セウタに集結する金、モロ ッコの穀物(ポルトガルは当時食糧不足に苦しん でいた)も狙いであった。

 その後ポルトガルは【発問:p.138の年表を参照 して代表的人物は?】エンリケ航海王子のもとで アフリカ大陸南下を推進する。この後いわゆる「コ ロンブス・ショック」を経て、ガマによるインド 航路開拓に至る。しかし、ポルトガルがアフリカ 西海岸を下って喜望峰に達するのに70年かかった のに、ガマが喜望峰をまわってカリカットに達す るのには10年しかかかっていない。これはなぜか。 【発問:生徒に自由質問】その理由は当時アフリカ

東岸は、イスラム商人にとっては既知の海域で あったからである。ちなみにガマはこのとき、プ レスター =ジョン【発問:p.138の年表を参照して、 どのような人物か?】とカリカット王宛の親書を 携えて航海に旅立っている。

 こうして鄭和・コロンブス・ガマによって、3

大洋は結びつき、ヨーロッパ勢力による「世界の 一体化」が本格化する。14世紀イタリア海港都市 は地中海とアジアを結びつけ、15世紀ポルトガル はイベリアとアジアを結びつけたわけだが、両者 の違いは何か。【発問:生徒に自由質問】イタリア 海港都市がイスラム商人との平和共存を考えてい たのに対し、ポルトガルは武力でイスラム教徒の 撲滅を考えていた点があげられる。これはポルト ガルがレコンキスタの結果成立した国家であるこ とに由来するが、そのような方針がポルトガルに とって有利に働いた事項として、ヴィジャヤナガ ル王国の場合がある。この王国は【発問:どのよ うな王朝か?】南インドのヒンドゥー王国であっ たため、北のイスラム王朝との対抗上、来航した ガマに友好的態度をとった。また明の海上消極策 が有利に働いて、ポルトガルは中国や日本に進出 していくことになる。

 またヨーロッパ艦隊の優勢の理由として、陸に おけるモンゴル軍優勢の理由を思い出すとわかり やすい。モンゴルは優れた機動力とそれを生かし た戦術によってヨーロッパを圧倒したが、同じこ とをポルトガルはイスラム艦隊に行った。また船 体の強度にも違いがあった。【発問:p.113ジャンク とダウ船の説明を参照】ヨーロッパと中国の船は 船体に釘を使うが、アラビアとインドの船は船体 に釘を使わないため強度に差があった。ただし暖 かい海では鉄釘は腐りやすいという欠点もあった。 一方ヨーロッパ船は虫に侵されやすい樫を船材に 使い、インド船は虫に強いチーク材を使っていた。 中国人はこれらの事実を知っていて、東南アジア で利用する船を現地で作っていた。

 授業のまとめとして帝国書院『高等世界史B』 p.149がわかりやすいので、ぜひ参照させたい。  最後に板書に戻り、交易ルートの変化(記号 ) を書き加え、イスラム世界が完全に主ルートから 外れてしまったことで、衰退が始まることを説明 し、16世紀の説明につなげる。

7.ポルトガルの発展

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 評価の研究では、いわゆる「4つの観点」相互4 4 の関係4 4 4、とくに「思考・判断」と「資料活用」お よび「知識・理解」の関係に十分留意することが 重要と考える。また、生徒の学習を評価するため には、その前提として、予想される学習者の思考 類型をあらかじめモデル化4 4 4 4しておく作業が必要で ある。ここでは、大航海時代から19世紀にいたる 世界史A「2部 一体化に向かう世界」の授業に おいて、筆者が作成した評価用問題を事例に用い、 これらの点について私見を述べる。

 大航海時代を扱う際、生徒の「関心・意欲」を 引き出すため、筆者はチョコレートを教材化し「カ カオと砂糖きびの出会いの歴史」と題した授業を しばしば実施する。そして授業の“山場”で次の ような問題を課し、生徒の「思考・判断」の力を 試している。

[問題例]チョコレートを「作る力」のもとは? スペインは、チョコレートの原料のカカオの産地すな わち今のメキシコ・ユカタン半島の低湿地帯も、砂糖 きびの移植先すなわち今のキューバなどカリブ海諸島 も、大航海時代に植民地化した。にもかかわらず、チ ョコレートの生産力は弱く、やがてポルトガルやオラ ンダ・フランス・イギリスなどに追い抜かれていく。 なぜスペインはチョコレートの生産を独占できなかっ たのか。

 このような問題を出すと生徒はどのような答え 方をするだろうか。そして、それらはどのような 「思考」の状態を示しているのだろうか。生徒の

出した答えをレベルに分けてモデル化してみると、 次のようになる。

<学習者思考モデル・レベル1>・チョコレートを 生産する力がスペインにはなかったから。(0点) <学習者思考モデル・レベル2>・カカオ・砂糖きび・ チョコレートをうまく作る技術がスペインにはなかったか ら。(1点)・作る技術を他の国に盗まれたから。(1点)  <レベル1>は、「生産力」という概念を具体 的にイメージできていない思考の状態であり、低 い評価しか与えられない。<レベル2>は、「生 産力」イコール「作る技術」と考えている状態で あり、誤りではないが、この問題の場合「作る力」 のもとは別の所にある。

 <レベル1>や<レベル2>のような生徒に対 しては、砂糖きびやカカオを大量に生産するプロ セスが具体的にわかる資料や、生産技術だけでな く過酷な条件でも長く安価に機能する労働力の確 保が生産力の中核となることがわかる資料を与え ることが必要と考える。

<学習者思考モデル・レベル3>・カカオや砂糖き びを作ってくれる人がスペインにはいなかったから。(2 点)

 生産力の中核として労働力に着目できている点、 <レベル1・2>とは質的に異なる思考であり、 若干評価の点数があがる。ただし、その労働がど のような人々によって担われていたかは、わかっ ていない思考状態である。このレベルの学習者に 対しては、西アフリカに注意を向けるような工夫 を入れた環大西洋の地図資料を与えてヒントとす ると、効果的に思考がすすむものである。

 さて、「思考・判断」の問題に対して、生徒は「∼ ∼だから、∼∼∼なのでは?」と自分なりの仮説 を立て推論することが多い。この「推論」を単な

「2 部 一体化に向かう世界」

「思考・判断」から「資料活用」「知識・理解」へ

愛知県立成章高等学校 西 牟 田 哲 哉

は じ め に

「思考・判断」の問題例と学習者思考モデル

「思考・判断」における仮説・推論から 「資料活用」へ

(15)

る思いつきに終わらせず、歴史的・科学的なもの に近づけていくために「資料活用」の意義はある のだ、と筆者は考える。つまり、「思考4 4」を深め4 4 4 たり修正したりするために4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4「資料4 4」は活用される4 4 4 4 4 4 べき4 4なのであり、したがって、両者はセットにな っていなければいけない。近年センター試験等で、 グラフ読み取りなどの「資料活用」問題が新傾向 として目立つ。しかし、その資料がどのような仮 説の検証と対応しており、どんな「思考」を深め るための資料問題なのか、不明瞭なものが多いの は残念なことである。

 さて、先のヒント(西アフリカを示した地図資 料)を与えると、生徒の中にはさらに上の段階の 思考と思われる答え方をする者が出てくる。次の ようなものである。

<学習者思考モデル・レベル4>・砂糖きびやカカ オを作る人、すなわち西アフリカの黒人との関係がスペイ ンは弱かったから。(3点)

 この状態まで思考が進んだ生徒には、別の地図 資料を与えてみる。そして、大西洋上に引いた縦 の破線の意味と ? 条約の中に入るものを答え させたい。正解の「トルデシリャス条約」は、知 っていなければ答えられないわけで、その意味で これは「知識・理解」の問題である。強調したい のは、「トルデシリャス条約でスペインは西アフ リカをポルトガルに譲った」という知識が、以上 の文脈で問えば先の「思考」を深めることに役立 つという点である。つまり、「知識・理解」もや はり「思考・判断」とセットになることが、学習 を効果的にするカギなのである。

 「思考・判断」と「資料活用」および「知識・ 理解」の関係がバラバラなまま新傾向の出題を増 やしても、生徒は従来の「覚える」勉強に、意味 連関を感じない「資料問題」等が加わるだけで、 受験生の負担のみが倍増されてしまいかねない。  さて、最後に「関心・意欲・態度」と他3つと の関係について簡潔に指摘しておく。先の「トル

デシリャス条約」の他、たとえば「オランダ独立 の年号」「スペイン継承戦争の結果」といった、 一見細かそうに感じる知識は、実は大西洋奴隷貿 易においてそれぞれポルトガル・オランダ・イギ リスが優位に立つことに関連するものばかりであ る。生産力の基盤である西アフリカの黒人奴隷を 確保する国が、「19世紀に向かって一体化する世 界」において覇権をにぎっていったわけである。 知識を利用することで思考が深化すれば、さらに 追究しようと新たな関心・意欲がわいてくるもの である。

 また、「年表」資料をうまく活用すれば、この 時代フランスでルイ14世が活躍していたことに気 づく生徒も出てくる。「コルベールの重商主義」 や「ナントの勅令廃止」といった知識も、先の「思 考・判断」の問題と関わりが深いのだ、と気づけ ば、ここでもやはり新たな興味・関心がわいてく るのではないだろうか。

 このように、「関心・意欲・態度」とは単に導 入段階だけで終わるものではなく、「思考・判断」 「資料活用」「知識・理解」のいずれの場面におい4 4 4 4 4 4 4 4 4

ても継続的に機能するもの4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4なのではないか、と考 える。

 以上をまとめてみる。いわゆる「4つの観点」 のうち実践の中心軸を作るのは、「思考・判断」 であると筆者は考えている。それに対し「資料活 用」および「知識・理解」は、中心軸の両翼に位 置するいわば車の両輪の役割を果たす。この際、 「思考・判断」との対応関係を明確に意識し、そ れぞれ両者がセットになっていることが重要だと 指摘してみた。他方、「関心・意欲・態度」は各 方面に向かってまんべんなく広がり、かつ、恒常 的に機能している状態が理想だ、といえよう。

参考文献 S.コウ他『チョコレートの歴史』      河出書房新社、1999年など 「思考・判断」と「知識・理解」の関係

「関心・意欲・態度」の位置

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ベンガル湾港市のアルメニアン居住地 黒海とカスピ 海の間に位置する小国のアルメニアが、インドや東南 アジア各地の海港都市(港市)の、しかも路地裏に「ア ルメニア・ストリート」として名を残しているのはな ぜだろうか。それが私の関心の始まりであった。アル メニア人の商業活動とその文化遺産をたずねて、2001 年から数度にわたってマラッカ海峡と南インド沿岸を 往来してきた。インドのマドラス(現チェンナイ)、 カルカッタ(現コルカタ)、その北郊のチンスラーと シャンデルナゴル、バングラデシュのダッカ(ダカ)、 ビルマのラングーン(現ミャンマーのヤンゴン)、マレ ー半島のペナン、マラッカ、シンガポール…。研究調 査の対象地は、さらに横浜、神戸、上海、香港などの 東アジア各地に及んでいる。調査の手がかりは、定住 地のアルメニア教会跡、「Armenian Street」の地名、 アルメニア人が創業・経営したホテル、アルメニア人 墓地・墓碑銘である。痕跡の断片をつなぎ合わせると、 近現代アジアにおける民族移動・民族離散(ディアス ポーラ)のライブヒストリー(今もなお持続している歴 史状況)とアジア近代ホテルの一エポック、そして、小 民族によるアジア商業史の特徴が浮かび上がってくる。

ホテル経営とアルメニア商人 ベンガル湾沿いの港市 をたどってゆくと思わぬことが分かる。各地に定住し 始めた当初から、アルメニア人はホテルの創業や経営 に積極的だったことである。カルカッタのグランドホ テル(現在のオベロイ・グランドホテルの前身)、ヤ ンゴンのストランド、ペナンのクラッグ(その後サナ トリウム、寄宿制学校に転身し、現在はペナン州政府 の保管下にある)とE&O(Eastern&Oriental)、シ ンガポールのラッフルズやグランド(転売)、それに 東アジアでは神戸のグランド(廃業)など大小さまざ まなホテルである(マドラスには今のところホテルの 所在が確かめられず、また、シンガポールでは転売な

どでホテル名が変わったり、所有がはっきりしないも のもある)。ホテルはいずれも19世紀末から20世紀初 頭までの半世紀間に建てられており、シンガポールや 神戸のグランドホテルのように転売されたり廃業した ものもある。しかし、なかにはオベロイ・グランド、 ストランド、E&O、ラッフルズなどのホテルのよう に名門「コロニアルスタイル」ホテルとして現在も名 を博しているものもある。経営者は、E&O、ラッフ ルズ、ストランド、クラッグを別にすれば、同じ家族 や一族の経営によるのではない。なぜかは分からない が、ホテル名に「グランド」が多いのである(ちなみ に、ストランドとは「船が乗り上げる」「綱を寄り合 わせる」という意味を持つ)。

アジア近代とアルメニア人経営のホテル 『ホテルと 日本近代』(富田昭次著、青弓社、2003年5月刊)は、 ホテルの経営を通じて日本近代史を概説している。近 代国家のひとつの象徴がホテルの建築様式とサーヴィ スの洋風化であったことがうかがわれる。その先端が 当時の居留地であり、明治初期から中期にかけて神戸・ 横浜の居留地にはモダンなホテルが次々と建てられた (「第1章 居留地文化の華」)。

 実は、このことは文明開化期日本だけの特徴ではな く、東南アジアや南アジアにも当てはまる。周知のよ うに、ボンベイ(ムンバイ)の玄関先に威容を誇るタ ージマハルホテルは、インド財閥の総帥となったジャ ムセトジー・タータが英国などの西欧文化に対抗して、 インドで建設した洋式ホテルの第1号であり、最高の ホテルであった。E&Oやストランド、ラッフルズの ホテルも豪華客船による世界周遊の欧米人客(visitors と呼ばれ、touristsということばは1900年代初めには まだ定着していなかった)やラドヤード=キップリン グ、サマセット=モームなどの有名文人、それにマラ ヤのゴム農園主やタイ王族、ロシア皇族などの常宿客 (residentと呼ばれた)を顧客とした。「スエズ以東 のアジア最大の社交場」、それがホテルのうたい文句 で あ っ た(Rafles Hotel by Gretchen Liu, Landmark Books,1999)。インドや日本のホテルと違うのは、こ こではアルメニア人が経営の主であったことだ。とく に、上記の3つのホテルを創建したのは、アルメニア 人のサルキース4兄弟ティグラン、マーティン、アヴ ィエト、アルシャクである。蒸気船による新たな世界 航路、フォードの自動車とダンロップ社のゴムタイヤ、 その需要を満たしたマラヤのゴムプランテーション、 国際港市における洋風サロン文化の風潮…20世紀のこ うしたブームにうまく乗り、彼らは「アジアのホテル 王」の栄誉を獲得したが、やがて世界大恐慌の到来に よってホテル業からの撤退を余儀なくされた。 南海寄帰内聞伝

ベンガル湾のアルメニア商人たち

その1−アジア近代のホテル経営者 追手門学院大学教授 重松伸司

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識的に起点とされてきたのは、15世紀末に始まる大航 海時代であろう。立場に大きな違いはあれども、E.L. ジョーンズ『ヨーロッパの奇跡』(本誌No.22、2004年 1月号で安元稔氏が書評されている)とI.ウォーラー ステイン『近代世界システム』といったグローバル・ ヒストリーの先駆けをなす代表的な作品では、16世紀 前後に分水嶺が置かれている。ポメランツは、こうし た通説的な見方に、革新的(innovative)な見地から 痛撃を加えたのである。

同一の軌道から「逸脱」へ ポメランツが提起する主要 論点の第一は、市場の発展という基準で比較して、近 世(16∼18世紀)のヨーロッパとアジアでは、遅くと も18世紀末までその程度にまったく差はなかったとい う主張である。ここで比較されるのは、どちらも先進 地帯のイングランドと中国・江南(長江下流域)とい う地域である。工業化以前の世界では、アダム=スミ スが『諸国民の富』で描いたように、市場の発展によ る分業の程度が経済発展(生活水準の向上)を可能にす る。かかるスミス的な意味での経済発展という点で、両 地域に違いはなかったという。第二の論点は、数世紀 にわたるこのような市場主導の経済発展と人口増加の 末に、18世紀後半にどちらの地域も、資源(環境)危機 に直面したとするものである。すなわち、食糧・繊維 原料・燃料・建築資材などの土地から得られる資源に限 界が訪れていた。こうした事態は、市場の発展が主導す る経済発展をほとんど閉ざそうとしていたのである。  しかし、かかる隘路に直面して、イングランドと江 南ではその後の軌道が大きく異なることになる。ポメ ランツの第三の論点は、この点に関わっている。ヨー ロッパはアジアと同じ軌道から、いったいいつ4 4、どの4 4 ような理由で4 4 4 4 4 4「逸脱」したのであろうか。ポメランツ

の答えは実にユニークなものである。ヨーロッパは、 18世紀後半以降、次の二つの要因によって資源危機か ら脱出し、「逸脱」したという。第一は、石炭の存在 とその利用である。プロト工業化地帯の近隣に石炭が 存在しなかった中国とは対照的に、イングランドのプ ロト工業化地帯には石炭が豊富に存在した。これが、 「エネルギー革命」としての産業革命を可能にした。 第二は、「新大陸」(アメリカ大陸)の存在である。ヨ ーロッパ(イングランド)は、15世紀末以降に獲得し た新世界の資源を自由に利用することによって、資源 危機を突破しえたということになる。他方、新世界を 持ちえなかったアジア(中国・江南)は、資源制約の 淵に沈んでいったのである。

新しい論争に向けて ポメランツ説の新しさはどこに あるのだろうか。第一は、18世紀後半までは、アジア における経済発展は、ヨーロッパと同等もしくは凌駕 していたと強く主張した点である。この主張は、近年 のアジア経済史研究、とくに近世アジア(中国および インド)の経済史研究が明らかにしてきた成果を前提 にしている。第二は、ヨーロッパに「大いなる逸脱」を 可能にさせたのは、内在的4 4 4に形成された優位性ではな く、「石炭」と「新大陸」という、ヨーロッパにとっては 半ば「外在的4 4 4」で「偶然的」な事情、すなわち比喩的にい えば「タナボタ」的な要因であったと主張した点である。  かくして、近世以来、ヨーロッパが優位に立ってい たという正統的な説に痛撃を加ええたのである。これ らの二点は既存の正統的諸説から大いに反論を受け、 新たな論争が起こるであろう。しかしながら、正統的 な世界史解釈に大きな動揺を与えたという意味で、既 に本書は古典的位置を獲得しているとさえ思われる。 (大阪市立大学大学院経済学研究科教授 脇村孝平) K. ポメランツ

大いなる逸脱

ヨーロッパ・中国と近代世界経済の形成

The Great Divergence: Europe, China, and the Marking of the Modern World Economy, Princeton University Press, 2000,

10+382p, US$ 22.95.

翻訳は2005年夏に名古屋大学出版会より刊行予定

書評 わたしの一冊 グローバル・ヒストリーの登場 西洋中心史観の克服ということが 言われて久しいが、夜郎自大にアジアの優位を唱えても説得力を欠 くほかはない。近年の国際的な歴史学界における新たな潮流として、 「グローバル・ヒストリー」(Global History)と呼ばれる動きが存

在する。グローバル・ヒストリーの中で最も先鋭的な諸作品は、既 存の世界史(World History)の「西洋中心性」(Eurocentricity) を何とか乗り越えようと試みている点で注目される。しかも、各地 域についての最新の歴史研究を吸収しつつ、新たなパラダイムを構 築しようとする旺盛な知的意欲に満ちている。ケネス=ポメランツ の『大いなる逸脱:ヨーロッパ・中国と近代世界経済の形成』は、 そうした作品の代表であり、新たなパラダイム構築への可能性を秘 めた衝撃的な作品である。

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