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15 最近の更新履歴 横道誠の研究室(京都府立大学文学部欧米言語文化学科)研究

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この小報告では、2014/15 年におこなった研究のうち、分量の超過などの理由から発表媒体を得がたい ものを合わせて発表する。論文 2 本は JSPS 科学研究費補助金(課題番号 26770121)の助成にもとづい ている。第 2 の論文は「グリム兄弟による「歌謡エッダ」(古ノルド語)のドイツ語訳(その 1)―「青 年シグルズの歌」を例として」(京都府立大学ドイツ文学刊行会『AZUR』第 7 号、2015 年、21-42 ページ) の続編(完結編)である。2014 年夏にベルリンに滞在する機会を得て、約 3 年ぶりに国立ベルリン図書 館(プロイセン文化財団)でヘルダーとグリム兄弟の遺稿を調査した。滞在中に撮影した写真を、多田昭 彦氏のデザインによって本誌の表紙に使用している。

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〈論文〉

エルンスト・ローベルト・クルツィウスとゲルマニスティク

 ―ひとりのロマニストから見たグリム兄弟とヘルマン・グリム― ……… 1

グリム兄弟による『歌謡エッダ』(古ノルド語)のドイツ語訳(その 2・完結編)

 ―「青年シグルズの歌」を例として― ……… 25

〈翻訳〉

ギュンター・アルノルト

ヘルダー著『人類史哲学の構想』の資料より

 ―ルクレティウス抜粋・カプセル XXVIII の 6 番, εvr― ……… 47

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INHALT

〈Abhandlung〉

Ernst Robert Curtius und Germanistik:

Jacob, Wilhelm und Herman Grimm aus der Sicht von einem Romanisten ……… 1

Grimms deutsche Übersetzungen der Lieder-Edda(Altnordisch),

dargestellt an Beispielen der Jung-Sigurd-Lieder(Teil 2) ……… 25

〈Übersetzung〉

Günter Arnold:

Eine von hundert Quellen der Ideen zur Philosophie der Geschichte der Menschheit:

Das Lukrez-Exzerpt XXVIII 6, εvr ……… 47

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─ひとりのロマニストから見たグリム兄弟とヘルマン・グリム─

はじめに

本稿の目的は、20 世紀のドイツのロマニスト、エルンスト・ローベルト・クルツィウスから見た 3 人 のグリムに対する見解に見通しをあたえることである。3 人のグリムとはヤーコプとヴィルヘルムのグリ ム兄弟(以下、簡潔に名のみを記して区別する)とヴィルヘルムの息子でヤーコプの甥だったヘルマン・ グリム(以下、簡潔にヘルマンと表記)である。

クルツィウスは、現在フランスのアルザス地域圏に属する南部の街タンに生まれ、後に同じくアルザス のコルマールのリセで 1900 年まで、同地域最大の都市シュトラースブルク(ストラスブール)のプロテ スタント向けギムナジウムで 1903 年まで学んでアビトゥーアを取得した(Lausberg 1993, 21-24)。彼 はその後、1903 年から 1910 年までシュトラースブルク、ベルリン、ハイデルベルクの大学で文献学と 哲学を学び、最終的に戻ったストラスブール大学で 1910 年にロマニストのグスタフ・グレーバーに博士 論文を提出し、学位を取得した(ibid., 24-36)。ドイツ語圏とフランス語圏の文化が混淆する第 1 次世界 大戦前のアルザスに出自をもつことが、ラウスベルクの表現を借りると、クルツィウスの「心と精神」を 早くから決定しただろう(Lausberg 1957, 447)。さらにクルツィウスは、アビトゥーア取得以前からロ ンドンに英語習得のための留学をおこない、1909 年は博士論文執筆のためパリに滞在して国立図書館を 利用し、1912 年はローマに滞在し、1913 年にグレーバーの教え子だったボン大学のハインリヒ・シュネー ガンスに教授資格申請論文『フランス文学の歴史家にして批評家としてのフェルディナン・ブリュンティ エール』を提出した(Lausberg 1993, 23-48)。クルツィウスはドイツのロマニストとして、生涯にわた る仕事の中心を同時代フランス文学のドイツ語圏への紹介と研究に置きつつ、フランス以外の欧州の各国 文学(一部米国の文学も含む)も積極的にドイツ人に知らしめようとした。この仕事の方向性は、欧州の さまざまな地域で勉学に励んだ青年時代の経歴に根ざしているだろう。

その古代ローマ風の姓 „Curtius“ はドゥーデン社の『発音辞典』によると [ˈkʊrt͜si̯ʊs](Mangold 2005, 256)であり、t の発音は標準ドイツ語では [t] でなく [t͜s] であるため、原音を尊重するならば「クルティ ウス」等の発音や表記は望ましくない。古代ローマの建国神話に姿を見せるサビニ族のメッティウス・ク ルティウスや『アレクサンドロス大王伝』の著者として知られるクイントゥス・クルティウス・ルフスと いった古代ローマ世界の人々は、クルツィウスの家系に無関係だと思われる。彼の家系はドイツ北部に由 来し、クルツィウス以前にも官吏や学者を輩出していた(Lausberg 1993, 21-22)。エーミル・ライッケ は 16 世紀の人文主義の時代に、学識者や詩人がみずからの姓名をラテン語や時にはギリシア語に翻訳し、 改名したり、通称に用いたりして身を飾ったことを記している(Reicke 1900, 70)。フリードリヒ・クルー ゲの『ドイツの人名研究』は、クルツィウス(Curtius)がクルト(Kurt)をラテン語化したものである ことを指摘している(Kluge 1917, 18)。さらに、このクルトはコンラート(Konrad)が口伝えによって 訛ったものであり(ibid., 16)、結局クルツィウスは姓としても男性の名としても珍しくないコンラート

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―英名のコンラッド(Conrad)―と同じである。だが由来がそのようなものでも、この姓もまたク ルツィウスの仕事の方向性に感化を与えたのではないか。彼は主著『欧州文学とラテン語の中世』(Curtius 1993)において、古代ローマ帝国を言語面において継承した中世ラテン語文学に、古典古代の文学的伝 統を欧州の近代各国語文学へと運び届けた水脈を見た。もちろん、青年期からの欧州各地への滞在と言語 習得への努力、そして壮大な視野という要素が姓以上に大事であることは言うまでもないが。

「3 人のグリム」のうち、ヤーコプとヴィルヘルムはゲルマニストの第 1 世代に属する。彼らの仕事に ついては最近も筆者なりにまとめたため、そちらを参照されたい(横道 2015, 24-27)。他方、ヘルマンは 文化史家であり作家でもあった。彼は初期のころから詩、戯曲、短編小説、長編小説などの創作をおこな い、同時に学者として『ミケランジェロ伝―その生涯とフィレンツェとローマ最盛期の歴史と文化』

(1860/63 年)を始めとしたルネッサンス研究、そして彼を育んだゲーテ時代についての研究、さらにホ メロス研究などを進め、1873 年以後は、ベルリン大学で彼のために新設された近代美術史講座の教授で あった(Löhneysen 1966, 79-81)。

以上 4 名の生没年について確認すると、生まれた順にヤーコプ(1785-1863 年)、ヴィルヘルム(1786-1859 年)、ヘルマン(1828-1901 年)、クルツィウス(1886-1956 年)となる。クルツィウスとグリム兄弟が生 きていた時代は約 1 世紀ずれており、ヘルマンが 1901 年 6 月 16 日に 73 歳でベルリンで亡くなった時点 でも、クルツィウスはまだシュトラースブルクのギムナジウムに通う 15 歳の少年であった。ヤーコプ、ヴィ ルヘルム、ヘルマンのいずれも、クルツィウスと直接の交流を持ちえなかった。

時代の上でだけでなく、学問活動の上でも、クルツィウスと 3 人のグリムの接点が豊富であるとは言え ない。それぞれロマニスト、2 人のゲルマニスト、そして創作をおこなう文化史家であり、彼らの関心は 多くの点で重なってはいても、仕事の方向性が根本的に異なっている。しかもクルツィウスは 3 人のグリ ムについて、まとまった著作を残したわけでもなかった。管見の限り、クルツィウスとグリム兄弟やヘル マン・グリムとの関係についての先行研究も存在していない。本稿の主題は、明らかにいわゆるマイナー トピックと言えるだろう。筆者としては、この問題に取り組むことで、ひとりの卓抜なロマニストの眼を とおして、ゲルマニスティクという学問分野にひとつの光を当てることを目指したい。

1.ヤーコプ・グリムに対する弾劾

クルツィウスの『欧州文学とラテン語の中世』では、ギリシア語、ラテン語、イタリア語、フランス語、 スペイン語、英語、ドイツ語による文学の歴史が隣接分野の知見とともに俯瞰され、総体としての欧州文 学の把握が試みられている。この書物では、文学作品の伝統的モチーフは古風に「詩的トポス」(poetische Topik)と呼ばれている。「トポス」(τόπος, 複数形は「トポイ」τόποι)の原意は「場所」であり、派生的に、 修辞学において議論を有利に進めるために知っておくべき論理の戦型を意味する。チェスの定石のような ものを想定すればよいが、クルツィウスは穏健に修辞学の「トポス」を「普遍的な思考」の「貯蔵庫」で あると説明する(Curtius 1993, 89)。それは「あらゆる弁論と著作において一般的に使用することがで きる」ものであって、著作で用いる場合には、いかなる場合でも「読者が満足を感じる」ような仕方で用 いられねば機能せず、特に 18 世紀の文学革命までは、著者たちは読者を引きこむために「謙虚な振る舞い」 を心がけ、「読者を主題に導いていく」ように努力した(ibid.)。欧州文学の伝統的なモチーフは、文学作 品を主導する魅力的な伝統的モチーフが定石のような性格をもつゆえに「詩的トポス」と呼ばれるのであ

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る。「トポス」のドイツ語は „Topik“(「トーピク」)であるが、記念碑的訳業と言える邦訳(クルツィウ ス 1971)では、ギリシア語の原意が意識され、あえて「トポス」と訳されている。分かりやすさを優先 すれば、現代日本人に広く親しまれている英語式の訳語を使って「トピック」(topic)と訳すことも可能 である。「詩的トピック」という訳語なら、それが文学的モチーフを指していると察するのも難しくない かもしれない。ただし、古典古代以来の文学作品に現れた「思考の貯蔵庫」という含意を、日常生活でも 使われる「トピック」という訳語から汲み取るのはほとんど不可能であるため、本稿でも「トポス」とい う訳語を選びたい。トポスはしばしば文学作品だけでなく、観念や概念や鍵語や常套句として修辞学や哲 学を含む人文学、社会科学、自然科学を横断する。それは長大な歴史を超えて受け継がれるが、ある時点 で消えたり、新しく生まれたりもする。もちろん「あらゆる詩的トポスのもとで、その表現様式は歴史に 制約されている」(Curtius 1993, 92)。クルツィウスが取り上げたもので特に有名になった詩的トポスは、 絢爛な光景、理想郷、楽園、混樹の森林、洗練された杜、黄金時代などをあつかった「理想的景観」(Curtius 1993, 191-209)と次に述べる「象徴としての書物」(Curtius 1993, 306-352)ではないか。

クルツィウスが『欧州文学とラテン語の中世』第 16 章「象徴としての書物」で扱うのは、宇宙や自然 や人間界を「書物」と見なす詩的トポスの伝統である。そこで言及される範囲は、古代オリエント、ユダ ヤ社会、古代ギリシア、ヘレニズム時代、古代ローマ帝国、初期キリスト教、ビザンツ帝国、中世初期、 イスラム世界、中世盛期、各国のルネサンス、ダンテ、シェイクスピア、ゲーテ、その他である。ダンテ、 シェイクスピア、ゲーテが特別扱いされるのは、クルツィウスが彼らを近代欧州文学の 3 つの頂点と見な しているからである(後述)。

「象徴としての書物」第 7 節は「自然という書物」と題されており、キリスト教の意味での自然―つ まり唯一神の被造物としての自然―を書物と見なす伝統の中世以降の変容過程が主題となる。12 世紀 以後は哲学においてもこの意味での自然を「生命の書」と見なす聖書の伝統が浸透したこと、たとえばサ ン・ヴィクトルのユーグなどが被造物のすべてと人間となった唯一神をすべて神の書物と見なす哲学を構 築したこと、13 世紀のボナヴェントゥラもこのトポスをもちいて神学的な議論をおこなったこと、中世 の終わりのドイツではメーゲンベルクのコンラート、ニコラウス・クザーヌスに非キリスト教の枠組みが 弱まった形での用法が見られること、錬金術師として知られるパラケルススにはまだ神学的・神秘主義的 な傾向が維持されたこと、ルネッサンス期の哲学者たち(モンテーニュ、デカルト、フランシス・ベーコ ン)にもこのトポスが受け継がれたこと、英国の場合はジョン・オウエン、特異な作家として知られるトー マス・ブラウン、フランシス・クォールズ、『失楽園』のジョン・ミルトン、形而上詩人たち(ジョン・ ダン、ジョージ・ハーバート、ヘンリー・ヴォーン、リチャード・クラッショウ)がこのトポスを支えた こと、生物学の世界でのスワンメルダムの発見をブールハーヴェはこのトポスを意識して理論化したこと、 フランス啓蒙のディドロ、ヴォルテール、ルソーの思想にもこのトポスが見られること、英国の前ロマン 主義においてエドワード・ヤング(いわゆる「墓場派」)がシェイクスピアを、ロバート・ウッドがホメ ロスを「自然という書物」の精通者と位置づけたこと、そして青年時代のゲーテたちのシュトゥルム・ウ ント・ドランクにもこのトポスが強い印象を与えたことである。この節の最後は、ゲーテの詩「信書」(1774 年)に現れた「自然という書物」の指摘からドイツ・ロマン主義の「自然詩」と 19 世紀のゲルマニスティ クへと話題が展開する。

自然詩の概念は、シュトルム・ウント・ドランクの詩学から、ヤーコプ・グリムのロマン派文学理論

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に移行した。「自然詩は純粋行為それ自体の生命と呼びうる。それは生命の書であり、真の歴史に満ち、 ページを繰って読み、理解の端緒につくことはできても、読み尽くすことはなく、理解し尽くことも ない。芸術詩は生命の加工であり、すでに哲学的なあり方の最初の芽に収まっている」。聖書の意味 での「生命の書」、サン・ヴィクトルの神秘主義の「生ける書物」はグリムのもとで世俗化され、英 国の前ロマン主義の創作理論と混ぜられている。そのような脆い基礎の上に、19 世紀のゲルマニス トたちの中世解釈は立っていた。中世についての学問は、ドイツではロマン派の土壌の上で成長した。 しかし、この学問がその土壌から吸い上げたのは感情的な熱狂の精髄にすぎなかった。歴史理解の純 粋化や意識の照射という、ドイツ・ロマン派が最大の価値と永続を見て重視したものが欠けていた。 ノヴァーリス、シュレーゲル兄弟、シュライーアマッハー、アダム・ミュラーは、方向性は異なって いても、新たな精神性によって結ばれ、新たな歴史像によっても結ばれていた。その精神性や歴史像 にグリム兄弟、ウーラント、そして彼らの同志たちは関わっていなかった。陳腐な書物の隠喩をつう じて、ヤーコプ・グリムのもとで書物の価値剥奪がおこなわれた。だが、ノヴァーリスの次の文を眼 にするたびに、私たちはもっと高次の次元へと高められる。「書物は歴史存在の現代の類型なのである。 しかし、それはきわめて価値の高い類型である。書物は伝統に代わるものとして姿を現したのかもし れない(Curtius 1993, 328-329)。

クルツィウスらしい密度が高く錯綜した書き方であるため、ここで解きほぐしてみよう。

まず、引用によって紹介されているヤーコプの「自然詩」の理論についてまでをパラフレーズする。被 造物としての自然界を神的な生きた書物と見なす聖書の伝統と 12 世紀に活躍したサン・ヴィクトルのユー グらの神秘主義神学はキリスト教色を薄めながらヤーコプに流れこんだが、それは 18 世紀英国の前ロマ ン主義の亜流でもあった。この世俗化された神秘思想によって、「自然詩」は汲み尽くしがたい自然生命 の書物として美化され、逆に「芸術詩」は自然生命を「加工」したものとして、その意味で哲学的な性格 を微弱ながら孕んでいるものとして―「哲学」には知性による自然と生命の抑圧というイメージが与え られている―貶められた。

「 自 然 詩 」(Naturpoesie) は、 グ リ ム 兄 弟 の 時 代 の 鍵 語 の ひ と つ で あ る。 類 似 し た 用 語 に

„Naturdichtung“というものがあり、これも「自然詩」と訳される。後者は時には „Naturpoesie“ と同義 であるが、時にはまったく異なって、宇宙と自然現象を扱う詩を指す。本誌に収録したギュンター・アル ノルトの論考は、その意味での自然詩の典型と言えるルクレティウスの『物の本性について』と、ヘルダー による近代での復興の試みを扱っている。それに対して狭義の „Naturpoesie“ は、引用でヤーコプも意識 的に対照させているとおり、「芸術詩」(„Kunstpoesie“)の対概念であり対義語である。「芸術詩」の「芸 術」(Kunst)には「人工、人為」という意味も含まれているため、芸術詩はこの含意を反映して、芸術 性が高くとも人為的な技巧によって形成されたものであり、神秘的な生産力をもつ「自然」のものではな いと位置づけられる。近代の(ロマン主義的な)自然と芸術に対する感性の一面が反映された価値観と用 語法だと言えるだろう。「芸術詩」と対照的な関係にあるものと見なされた „Naturpoesie“ は「自然」に 属する民衆的想像力に関わる詩的生産物であり、具体的には神話詩、メルヘン、伝説、民衆歌といった民 間伝承(Volkstradition)である。それらは「自然」の全体性を体現するものと見なされた匿名の「民」(Volk, 民族・民衆)に継承・保持されてきたものと想像され、結果として無教養な識字能力がない一般民衆に主 体としての無垢な「民」が読みこまれ、識字能力をもった伝統的な教養層には「民」から遊離した堕落し

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た存在という意味づけが―教養層からの自己卑下によって―おこなわれた。„Volkspoesie“(民族詩、 民衆詩)は „Naturpoesie“ の実体的な現れとしての―つまり具体的なジャンルとしての―神話詩、メ ルヘン、伝説、民衆歌を指しており、これは通常、„Volksdichtung“ と同義のものとして扱われている(以 上、主に Bausinger 1999 と Bausinger 2014 に依拠して要約)。

ヤーコプは実際のところ、民衆の集合体を無垢で神的な「民」(Volk)として美化する感性と思想を有 していた。クルツィウスが引用した一節はヤーコプによる初期のエッセイ『古ドイツの職匠歌について』

(1811 年 , JG 1811, 5)に見られる。そこでは「自然詩」が汲み尽くせない意味を宿した神秘的な書物に 見立てられ、「真実の歴史に満ちた」ものとして規定される。逆に「芸術詩」は人為的に構築されたとい う点で、人間の意識にいわば穢された「哲学的なあり方の最初の芽」に属するものであって「生命の加工」

(eine arbeit des lebens―小文字書きは原文ママ)なのである。しかし、クルツィウスがヤーコプの仕 事をどれほど正確に理解していたのかは不明瞭である。というのも、クルツィウスは実はヤーコプの引用 を『古ドイツの職匠歌』から直接にではなく、オーストリアのゲルマニストであるアントン・エマヌエル・ シェーンバッハの書物から引用―つまり孫引き―しているのである(Schönbach 1900, 100)。しかも、 その書物でシェーンバッハはヤーコプについてではなく、ヤーコプの後継者ひとりカール・ミュレンホフ について書いており、ヤーコプはそのなかでいわばついでに言及されているにすぎない(ibid., 82-103)。

『欧州文学とラテン語の中世』がナチス時代、戦時中、そして戦後直後のさまざまな制約の下で書き継が れたことを考えると、一次文献の入手に困難が生じた可能性は考慮すべきである。しかしクルツィウス自 身に偏見があって、ヤーコプの仕事を真剣に理解する意欲が欠けていたということもありうる。

孫引きによるヤーコプの著作の引用に続く箇所は、次のようにパラフレーズされる。ヤーコプを始めと する 19 世紀のゲルマニストたちは、この立場に立って中世研究をおこなったが、それは安易な方向性で あった。ドイツ・ロマン派の作家たちとゲルマニストたちは中世への憧憬という精神的母体を共有してい たが、前者は新しい思想性と歴史像を生み出し、後者はそれを成し遂げなかった。というのも、ゲルマニ ストたちが「陳腐な書物の比喩」としての自然詩を重視したことで、本来の書物が人工的なものとして軽 視される風潮を作りだしたからである。その「書物の価値剥奪」をおこなった首謀者を、「19 世紀のゲル マニストたち」の代表と言ってよいヤーコプに見る。ドイツ・ロマン派の詩人のひとりノヴァーリスの書 物観はヤーコプと対照的なものである―クルツィウスはそのように叙述を展開している。

クルツィウスの所説は、欧州文学史を総覧しようとする壮大かつ独自性の高い意図の一環であり、その 指摘の妥当性をつぶさに検証するには相当な時間と労力を要するだろう。しかし、ここでは、引用した箇 所が論理を順序立てて紡ぎだすようにではなく、むしろ論理的な飛躍を繰り返すようにして、そして著者 自身の心情をなまなましくぶつけるようにして語られていたことに注目したい。つまり、この引用箇所を 基礎として支えているのは学問的事実以上に、クルツィウスが置かれていた状況そのものだと推測される のである。

クルツィウスは『欧州文学とラテン語の中世』の序文で、この書物の下準備を 1932 年に始めたこと、 しかもその直前に『危機のドイツ精神』(Curtius, 1932)を発表していたことに読者の注意を促している

(Curtius 1993, 11)。つまり、『欧州文学とラテン語の中世』は別の書物『危機のドイツ精神』の問題意 識をそのまま引き受けて書かれたことが暗示されているのである。『危機のドイツ精神』は、ドイツの国 際的な孤立化を憂い、ファシズムとボルシェヴィズムを攻撃し、ドイツの文化的・社会的・政治的状況を クルツィウスなりに分析しようと試みた書物であった。その刊行の翌年にナチス時代が始まり、クルツィ

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ウスは『欧州文学とラテン語の中世』を書き継いでいった。これらのことを念頭に置くと、ヤーコプら「19 世紀のゲルマニスト」への弾劾と、ヤーコプが「書物の価値剥奪」をおこなったという非難は腑に落ちる ものとなる。というのも、ヤーコプは「すべてのゲルマニストのなかで最も有名な人物」(Brunner 2000, 11)であり、ナチス時代に多くのゲルマニストたちがナチズムを積極的に支持したという事実があ り(Gaul-Ferenschild 1993; 河野 2005)、さらに 1933 年 5 月のいわゆる「焚書」によって反体制的と見 なされた書物が焼かれて以来、文学に携わる者たちの活動にはさまざまな制約や弾圧が加えられたからで あった(Barbian 1995 を参照)。ナチスの批判者であったクルツィウスは時代の苦難を体験した者として、 その憤りをヤーコプにぶつけたのではないか。つまり、同時代のゲルマニストたちの活動が象徴的存在と してのヤーコプの言動に読みこまれ、焚書に代表されるナチスの政策もヤーコプに思想的源流が(当否は 措くにせよ)見出だされてしまったのではないか。

しかしながら、少なくとも歴史的に実在したヤーコプに「書物の価値剥奪」の責任を押しつけるのは、 あまりに乱暴な見解である。ヤーコプはフランスの衛星国家として生まれたヴェストファーレン王国の君 主ジェローム王のもとで 1808 年から 1813 年まで、ナポレオン体制崩壊後はカッセル選定候のもとで 1816年から 1829 年まで司書として図書館のために働き、1830 年にゲッティンゲン大学の正教授

(ordentlicher Professor)に就任したときも図書館司書を兼任した。ヤーコプの著作をめくると、彼が研 究を進める上で諸言語にわたる膨大な数の書物を利用していたことが、またヤーコプの書簡を見ると、つ ねに書物を求めて問い合わせをおこなっていたことがわかる。ヴィルヘルムと共同で所有していた蔵書は、 現在では目録の形で一覧することもできる(Denecke 1989)。その目録を追うと、誰もがこの 2 人の兄弟 が書物を偏愛する蔵書狂のたぐいであったことを理解するだろう。ヤーコプに面とむかって「書物の価値 剥奪」という言葉を吐けば、相手は面食らうばかりのはずである。

クルツィウスはノヴァーリスの格言を、私たちをヤーコプの立場よりも「もっと高次な次元」に高めて くれるものとして引用している。書物が取って代わったかもしれないと述べられる「さまざまな伝統」

(Traditionen)は「さまざまな伝承」と読むこともできる。ドゥーデン社の『ドイツ語大辞典』によると、

„Tradition“は ラ テ ン 系 の 単 語(traditio) が ド イ ツ 語 化 し た も の で あ り、 ゲ ル マ ン 系 の 単 語

„Überlieferung“の同義語である(Duden 1999, Bd. 9, 3938, 4025)。伝承研究の分野では、私たち研究者 は「口承」と言いたいときに „mündliche Überlieferung“ とも „mündliche Tradition“ とも言う。クルツィ ウスはノヴァーリスのこの格言に出典の表記を付けていないが、やはり状況の制約によって書物の入手が 困難だったのだろうか。あるいは格言であるため、出典表記を不要と判断したのだろうか。それは措くと しても、クルツィウスは 1929 年に出版されたエルンスト・カムニッツァーによる編集版『断章集』(Novalis 1929)でこの格言に接したのではないだろうか。この版は『欧州文学とラテン語の中世』の作業が開始 された時点で学術的な書物としてはまだ新しい部類に属していたし、何よりもそれはノヴァーリスの断章 群をはじめて包括的に、しかも体系的に整理した形で収録した版だった(ibid., 759-790 の「内容概観」 参照)。問題の格言は断章 1987 に分類されており、それは「芸術の断章」という部門の「文献学あるい は文学の学問」という見出しに分類された 4 ページ強の分量から成る「書物の世界」(Bücherwelt)の「書 物」(Bücher)の欄に分類されている(ibid., 1929, 639)。書物自体にもノヴァーリスの「書物の世界」 という用語(見出し語は ibid., 638 に掲載 ; ノヴァーリス自身の言葉としては ibid., 639 の断章 1985 を参 照)にも、無数の書物を博捜して仕事をおこなったクルツィウスが魅了されたことはたやすく想像される。 この「書物の世界」のイメージを背景として、クルツィウスはヤーコプを自身やノヴァーリスの対極に立

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つ者と位置づけたのではないか。

『欧州文学とラテン語の中世』の第 18 章「エピローグ」の第 1 節「回顧」では、16 世紀以来の伝統を もつ古典文献学と異なり、ゲルマニスティク、ロマニスティク、アングリスティクが新興学問であること、

「そのために、それらは易々と「時代精神」の流行と錯誤の犠牲になる」ことが語られている(Curtius 1993, 386)。初版の序文によると、この「回顧」は本書の出版に先立つ 1945 年、ハイデルベルクの雑誌『移 ろい』(Die Wandlung)に発表されたという(Curtius 1993, 11)。クルツィウスは記していないが、こ の雑誌は 1945 年 5 月にドイツで戦争が終わったあと、11 月に刊行が始まった月刊誌だった(T. S. エリオッ トやハンナ・アーレントも寄稿し、1949 年まで存続)。戦争が終わった状況下で、クルツィウスは文学や 語学の研究者たちのいわゆる戦争協力の問題に言及せざるをえない心情だったと思われる。

特にヒトラーの第 3 帝国でゲルマニスティクは、クルツィウスのいう「「時代精神」の流行の犠牲」を 存分に体現した。クルツィウスの言い方が穏当すぎて責任の主体を不明瞭にしているというならば、グリ ム兄弟の伝統を継いできたゲルマニストたちは、彼らの学問をナチズムの祭壇にささげた。ただし、クル ツィウスのおこなったヤーコプに対する弾劾は彼の独創に帰されるものではなく、それもまた時代の大き な潮流のひとつであった。ナチズムへの関与をおこなった多くのゲルマニストたちは、戦後にグリム兄弟、 その同志たち、弟子たちともども厳しい批判にさらされた。19 世紀に成立したゲルマニスティクは、先 に見たように「民」を重視する傾向からドイツ民俗学と固く結ばれた分野でもあり、特にそちらの側では 苛烈な批判と克服の試みがなされた。ヘルマン・バウジンガーやインゲボルク・ヴェーバー=ケラーマン、 そして彼らの仕事を日本で紹介する河野眞によるドイツ民俗学史についての批判的叙述は、グリム兄弟以 降の民俗学がゲルマニスティクと連動しながらナチズムに絡めとられていった姿を克明に記録している

(Bausinger 1971; バウジンガー 2010; Weber-Kellermann et al. 2003; ヴェーバー=ケラーマン他 2011; 河野 2005)。

古典文献学の手法を重視するロマニストが、戦間期からの不安とナチス時代の鬱屈を戦後において吐露 した機会のひとつ―それが「陳腐な書物の比喩」をつうじたヤーコプによる「書物の価値剥奪」への弾 劾だったはずである。

2. ヴィルヘルム・グリムへの低い関心

先の引用においてクルツィウスは、ヤーコプだけでなく、「グリム兄弟」にも、つまりヤーコプとヴィ ルヘルムの組み合わせにも言及していた。1846 年の初頭、ゲルマニスト―当時の含意としてはドイツ・ ゲルマンの法・歴史・言語に関わる専門家全般―のための第 1 回の会議が告知されたとき、文献学の分 野からは、ヤーコプおよびヴィルヘルムのグリム兄弟が、モーリッツ・ハウプト、カール・ラッハマンそ して先に名前があがっていたウーラントらとともに呼びかけ人として名を連ねた(Meves 1994, 28)。「す べてのゲルマニストのなかで最も有名な人物」(前述)と言われるヤーコプに対して、ヴィルヘルムは学 者としての評価の点ではかなり見劣りがする。それを反映してか、ヴィルヘルムに対してクルツィウスが 深い関心を寄せた形跡は見当たらない。ゲーテについてのエッセイ「ゲーテの書類管理」(1951 年)にお いて、クルツィウスはヴィルヘルムの手紙を引用している。ヴィルヘルムは、(先に述べたようにいつも 書物を求めていた)ヤーコプの依頼を受けて、ヴァイマル図書館からミンネゼンガーの写本を貸し出して 欲しいとゲーテに請うたのだった。ゲーテの対応は実務的ではあるものの官僚的なそっけなさを伴ったも

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のだったため、ヴィルヘルムはいささか辟易した思いをヤーコプに伝えている(Curtius 1954, 62)。ク ルツィウスはここでヴィルヘルムの手紙をゲーテの個性を浮き彫りにするために使用しているにすぎず、 ヴィルヘルムの個性には関心が向けられていない。

ヴィルヘルムは「自然詩」に関する見解をヤーコプと共有していた。カール・ダウプとゲオルク・フリー ドリヒ・クロイツァーが発行していた雑誌『研究』(Studien)の第 4 巻(1808 年)に発表された「古ド イツ詩の発生と古ノルド詩との関係」というヴィルヘルムのエッセイは、それをよく示している。そこで ヴィルヘルムは「芸術詩」が「意識と意図をもって創作された詩」であり、「多かれ少なかれ作者の流儀」 を含んでいるために「詩が民から分離して存在し、民に到達しえない」と論じている。「芸術詩は、自然 詩(Naturdichtung)がなお生き生きとして生きているところでは過剰なものであり」、それは「民の精 神の外部にある」(JKS, Bd.1, 114-115)という。ここでは „Naturdichtung“ が „Naturpoesie“ の意味で 用いられているが、この問題については前述のとおりである。

ヴィルヘルムの個性がもっとも発揮された仕事のひとつは、グリム兄弟の知名度を世界的なものにした

『メルヘン集』の執筆と改訂に関する作業だろう。『メルヘン集』が主としてヴィルヘルムを中心になされ た仕事であることは、現在では広く知られている(「茨姫」の事例研究として横道 2014a を参照)。しか しクルツィウスの著作に『メルヘン集』への関心は見られない。それはクルツィウスがメルヘン、あるい はそれをふくむ民間伝承全般、そしてヴィルヘルムの仕事に対して深い関心を持っていなかったことを暗 示している。1947 年のエッセイ「ヘルマン・ヘッセ」の一節からは、このことが垣間見えている。クルツィ ウスは、ヘッセの作品にしばしば現れる鳥の言葉の理解への願望に言及し、つぎのように述べる。

鳥の言葉を理解する―メルヘン、伝説(ヴァーグナーのジークフリート)、夢の永遠の構成要素で あり、あらゆる創造物との共鳴へのあこがれだ(Curtius 1954, 159)。

クルツィウスはヘッセ作品に民間伝承に通じる性格があることを―好意的に―説明しているのだ が、実際にはクルツィウスはこの問題に深い興味をもっていない。というのも、「伝説(ヴァーグナーのジー クフリート)」という表現は、民間伝承の研究者にとっては違和感のあるものなのである。

クルツィウスが簡単に言及しているのは明らかにヴァーグナーの楽劇『ニーベルングの指環』4 部作の 第 3 作『ジークフリート』である。古ノルド語によるゲルマン神話『歌謡エッダ』には、龍と化したファー ヴニルの心臓からしたたる血を英雄シグルズ(ドイツ語名ジークフリート)が舐めて鳥の声を理解できる ようになる場面がある。グリム兄弟はその箇所を含めた「英雄の歌」をドイツ語に翻訳して刊行した(横 道 2015 と本誌に収録した続編を参照)。グリム兄弟の時代には、ゲルマン諸語圏で先祖の神話に大きな 関心が寄せられていたが、これが特にドイツ語圏では持続的な潮流を生み出した。19 世紀後半から 20 世 紀前半にかけて欧州各地で熱狂的な歓迎を受けたヴァーグナーの諸作品も、この潮流に属している。

ヴァーグナーはよく知られた 1856 年 1 月 9 日のフランツ・ミュラー宛の手紙で、『ニーベルングの指環』 の参考資料を列挙した。『歌謡エッダ』(グリム兄弟によるものを含めて複数のドイツ語訳が出ていたが、 ヴァーグナーはどの版を使用したかを説明していない)やシグルズの一族をあつかった『ヴォルスンガ・ サガ』(『歌謡エッダ』翻訳においてグリム兄弟の競争相手だったフリードリヒ・フォン・デア・ハーゲン の訳を使用)、さらに『歌謡エッダ』の内容に大きく依拠したヤーコプの『ドイツ神話学』(初版 1835 年) やヴィルヘルムの『ドイツ英雄伝説』(1829 年)などである(Wagner 1988, 336-337)。エルンスト・マ

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インクは『ニーベルングの指環』の主要な登場人物が「エッダ」、各種サガ、欧州各地の民間伝承、グリ ム兄弟ら学者の著作、ヴァーグナー以前の創作物でどのように扱われてきたかを考察しており、すべての 人物の中で突出して周到に論じられているのは、最大の英雄ジークフリートであった(Meinck 1892, 199-305)。これらの問題に関心があれば、ジークフリート(ないしシグルズ)が鳥の言葉を理解するの はヴァーグナーの作品に固有の要素でないことは、ほとんど常識なのである。「ヴァーグナーのジークフ リート」と簡単に表現するクルツィウスは、これらの知識を有していなかったか、あるいは興味がなかっ たために杜撰な表現を成し得たと言える。

「メルヘン、伝説(ヴァーグナーのジークフリート)、夢」という雑然とした語の並べ方―「夢」はメ ルヘンや伝説と並ぶ文学ジャンルなのか?―も、クルツィウスが民間伝承を真剣に考察すべき対象と考 えていなかったことを暗示している。さらに言えば、「伝説」の括りにヴァーグナーの作品を入れている ことから、民間伝承と近代の創作としてのオペラ―ヴァーグナーのものは好んで「楽劇」と呼ばれるが

―の関係にも深い興味が寄せられていないことが感じ取れる。クルツィウスは米国出身の英国詩人 T. S. エリオットの代表作『荒地』をドイツ語に訳した経験がある(Eliot 2005; Eliot 1990)。この詩集ではヴァー グナーが繰り返し引用されており、エリオットはそれを自注でも言及している(Eliot 2005, 71-74; Eliot 1990, 46-61)。現在のエリオット研究を代表するひとりローレンス・レイニーの注釈は、エリオットが直 接言及していない部分にもヴァーグナーが間接的に影響を与えていることを周到に指摘している(Eliot 2005, 78, II. 31-34; 79, l. 42; 105-106, l. 202; 110-111, l. 266)。このような背景を踏まえると、クルツィ ウスにもヴァーグナーについての一通りの知識があったはずだが、おそらくそれは水準を超えるものでは なかったのだろう。『欧州文学とラテン語の中世』では、ヴァーグナーの仕事は明らかに低く評価されて いる。

ウェルギリウスの詩やダンテの詩は、偉大な創作を偉大なものとして理解できるすべての人にとって 現在のものである。しかし誰が―専門家以外で―『ベオウルフ』、『ロランの歌』、『ニーベルンゲ ン』、『パルジファル』を引用するだろうか。これらの創作が現代人を感化するためには、つねに人為 的な再活性化をなされねばならず、新しい媒体に引き入れられなければならない。これらのいくつか の素材を、リヒャルト・ヴァーグナーはオペラ形式で鋳直したが、いまではもう昔の時代のものとい う感じがするし、価値があるのは台本よりも音楽である。しかし、はるか昔にロランやアーサーの素 材は文学的なきらめきに満ちた刷新が果たされていた―アリオストの『狂えるオルランド』(1516 年)において(Curtius 1993, 248)。

中世の英語やフランス語やドイツ語で書かれた作品はウェルギリウスやダンテの作品に及ばず、ヴァー グナー作品は数世紀前に書かれたアリオストの作品に劣ると見なされている。「民」の美化にもとづいた ヤーコプの思想やゲルマニスティクに否定的な印象を抱いていたクルツィウスにとって、ゲルマン神話と 民間伝承に根ざしたヴァーグナーの世界観は真剣に取りくむ意欲の湧かない領域だったのだろう。

クルツィウスが、学者としてのヴィルヘルム、ヴィルヘルムが中心になった『メルヘン集』、民間伝承 全般、そしてグリム兄弟らの研究の伝統の流れを汲んだヴァーグナーの作品に興味を抱かなかったとして も、彼がエッセイで好意的にあつかったヘルマン・ヘッセは、グリムの『メルヘン集』の熱狂的な支持者 だった。1914 年のエッセイ「ドイツ語で物語った作家たち」はそれを最も明確に伝えている。このエッ

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セイは、19 世紀中葉までのドイツ語文学のうちヘッセが推薦できるものを並べていく形式で書かれてい る。著者名や表題を並べるだけでも長大になるが、それは次のとおりである―民衆本、グリンメルスハ ウゼンの『冒険者ジンプリツィシムス』(阿呆物語)、クリスティアン・ロイターの『シェルムフスキーの 真実かつ好奇心をそそる実に危険な海と陸の旅行記』、ヨハン・ゴットフリート・シュナーベルの『フェ ルゼンブルク島』(長大な原題を大幅に省略した通称)、ゴットホルト・エフライム・レッシングやマティ アス・クラウディウスの諸作品、ヨハン・ハインリヒ・ユング=シュティリングの自伝的著作、ゲーテの 3作品(『青年ヴェルターの苦悩』、『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』、『親和力』)、フリードリヒ・ フォン・シラーの『見霊者』、クリストフ・マルティン・ヴィーラントの『オーベロン』、ヨハン・カール・ アウグスト・ムゼーウスのメルヘン集、カール・フィリップ・モーリッツの『アントン・ライザー』、ヨ ハン・ティモトイス・ヘルメスとモーリッツ・アウグスト・フォン・テュンメルの諸作品、テオドーア・ゴッ トリープ・フォン・ヒッペルの『上昇線を描く人生の経歴』、ゴットフリート・アウグスト・ビュルガー の『ミュンヒハウゼン男爵の海と陸の素晴らしい旅、騎行、愉快な冒険』、フリードリヒ・ヘルダーリン の『ヒュペーリオン』、ジャン・パウルの 4 作品(『生意気盛り』、『五級教師フィクスラインの生活』、『ジー ベンケース』、『アウエンタールの陽気なマリーア・ヴッツ先生の生涯』)、ノヴァーリスの『ハインリヒ・フォ ン・オフターディンゲン』、ルートヴィヒ・ティークの多くの作品(『金髪のエックベルト』、『ウィリアム・ ラヴェル氏の物語』、『フランツ・シュテルバルトの遍歴』、『セヴェンヌの動乱』、『ヴィットーリア・アコ ロンボーナ』、作品集『ファンターズス』)、クレメンス・ブレンターノとアヒム・フォン・アルニムの諸 作品(両者はやや否定的に紹介される)、アーデルベルト・フォン・シャミッソーの『ペーター・シュレミー ルの不思議な物語』、ヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフの諸作品(『あるろくでなしの生涯より』、『デュ ランデ城』、『予感と現在』、『詩人とその仲間たち』)、ユスティヌス・ケルナーの作品(『影絵ルクスの旅 の影』、『わが幼年期の絵本』)、グスタフ・シュヴァープの『古典古代の美しい伝説』、E. T. A. ホフマンの 諸作品(『悪魔の霊液』、『黄金の壷』、『スキュデリ嬢』、『くるみ割り人形とねずみの王様』、『ブランビラ姫』、

『砂男』、『クレスペル顧問官』、『騎士グルック』、『マルティン親方とその弟子たち』)、ヨハン・ペーター・ ヘーベルの作品集『ラインの家庭の友の小さな宝箱』)、ハインリヒ・フォン・クライストの『ミヒャエル・ コールハース』、ヴィルヘルム・ハウフのメルヘン作品、インマーマンの『ミュンヒハウゼン』、フリード リヒ・ヘッベルの『カワカマス』、イェレミアス・ゴットヘルフのベルン方言による作品、アーダルベルト・ シュティフターの『習作集』、エドゥアルト・メーリケの『画家ノルテン』、ゴットフリート・ケラーの『緑 のハインリヒ』を始めとした作品、フランツ・グリルパルツアーの『哀れな辻音楽師』、アネッテ・フォン・ ドロステ=ヒュルスホフの『ユダヤ人の山毛欅の木』、オットー・ルートヴィヒの『ハイテレタイとその 報い』、ハインリヒ・ハイネやヘルマン・クルツの作品(Hesse 2003, 324-340)。

だが、これらのドイツ語による物語作品の頂点について、ヘッセはエッセイの最終段落で次のように語 る。

そして、そのすべてよりも大切なものがある―グリムのメルヘンだ。それは高貴な誠実さから整え られており、私たちは落ち着いて、この誠実さをドイツ語圏の人を顕彰するための一覧に書き加えて よいだろう。メルヘンの内容自体から引き出されるのは、とりわけドイツ民族の特性だと思われそう だが、それは間違っている。メルヘンと民間伝説はしばしば一致して超次元的なものを、人類という 概念を私たちに力強く示す。諸国民はいかに巨大な波しぶきをあげようとも、究極的にはまさにその

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人類に仕えているのだ(Hesse 2003, 340)。

ドイツ語の物語作品の頂点にグリム兄弟のメルヘンを据え、しかもそれが「ドイツ民族の特性」ではなく

「超次元的なものを、人類という概念を」示すというこのエッセイの結論をクルツィウスはいかに読んだ だろうか。それを明らかにする資料は存在していない。この引用に関しては、のちにホーフマンスタール に関連させてふたたび取りあげたい。

ヴィルヘルムに大きな関心を払わなかったクルツィウスが、グリム兄弟ふたりの個性や仕事の内容の共 通点と相違点をどれほど正確に把握していたのかは分からない。蛇足を覚悟で言えば、『メルヘン集』に 従事し、「自然詩」の詩学をヤーコプともに奉じていたヴィルヘルムも、ヤーコプと同じく「書物の価値 剥奪」には無縁であった。自然詩の詩学を信奉していても、ヴィルヘルムはその「自然詩」たるメルヘン の多くを書物から採取したし、聞き取りによって採取されたメルヘンもしばしば書物を参照して改稿され たのであった。ハンス=イェルク・ウターの『メルヘン集』概説書(Uther 2013)をひもといて、この 書物に収録されたメルヘンのひとつひとつの出典を追っていけば、ヴィルヘルムの『メルヘン集』が、ほ とんど書物による書物のためのメルヘン収集の記録だったとすら言えることが分かるだろう。ヤーコプと の共同の蔵書については前述した。経歴について言えば、ヴィルヘルムは 1814 年にヤーコプより 2 年は やくカッセル選定候の司書として図書館で働き始め、1830 年にヤーコプがゲッティンゲン大学に移って 正教授と司書を兼ねたときには、ヴィルヘルムも司書として同じ大学に移り、1831 年に准教授

(außerordentlicher Professor)に、1835 年に正教授に就任した。

3. ヘルマン・グリムに対する称賛

クルツィウスは 1924 年のエッセイ「エマソン」で、題名に掲げられた米国の詩人のドイツ語圏での受 容を、「ラルフ・ウォールド・エマソンは、ヘルマン・グリムによって 1857 年にドイツに紹介された。ニー チェはエマソンに感嘆した」(Curtius 1954, 189)と簡潔に要約した。1960 年(クルツィウスの死から 4 年後)に刊行された『読書日記』にも「ヘルマン・グリムはエマソンを称えた人物の第一位だった。第二 位はといえば……ニーチェであった!」(Curtius 1960, 58)という相通じる 1 節が見られる。

ヘルマンは、講演にもとづいたエマソンのエッセイ集『代表的人間』(Emerson 1850)のドイツ語に よる部分訳を刊行した(Emerson 1857)。この書物ではプラトン、エマヌエル・スヴェーデンボリ、ミシェ ル・ド・モンテーニュ、ウィリアム・シェイクスピア、ナポレオン 1 世、ヨハン・ヴォルフガング・フォ ン・ゲーテがエマソン独自の思想を交えて論じられているが、ヘルマンはゲーテとシェイクスピアの箇所 を抜き出して翻訳したのであった。さらにヘルマンはみずからの成功したエッセイ集(1859 年)にエマ ソンへの献辞をかかげ、1865 年にエマソン論を発表し、ドイツでのエマソン受容を促進した(Chevalier 1997, 331)。ヘルマンとエマソンは文通によって交流したが、1873 年 3 月、両者は偶然にもフィレンツェ で出くわしたことがあるという(Löhneysen 1966, 80)。

他方、ニーチェは生涯にわたるエマソンの愛読者であった。ニーチェの遺稿に含まれた覚え書き(1882 年 2/3 月)には、次のものが含まれている―「エマソンは私の心に告げる。詩人と哲学者と聖者にとっ ては、あらゆる事物が親密で聖別されており、あらゆる体験が有益だ。あらゆる日が神聖であり、あらゆ る人が神々しい」(Nietzsche 1980, Bd. 9, 673)。この抜き書きは『悦ばしき知恵』の扉ページで一部改変

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されて、次のように引用された―「詩人と賢者にとっては、あらゆる事物が親密で聖別されており、あ らゆる体験が有益だ。あらゆる日が神聖であり、あらゆる人が神々しい」(Nietzsche 1967-, V2 [1973], 21)。

エマソンが 1844 年に刊行した『エッセイ集 第 2 シリーズ』(Emerson 1844)のドイツ語訳(Emerson 1858)をニーチェは所有していた。ニーチェの全集編者マッティーノ・モンティナーリは、収録されたエッ セイの 1 編「個性」において、ゾロアスター教の開祖ザラスシュトラが称賛されていること(Emerson 1844, 118-119)、ニーチェがドイツ語訳でのその該当箇所(モンティネーリは S. 361 と記しているが筆 者所有のものでは S. 351)に大量の下線を引いていること、そして「まさにこれだ!」という叫びと、次 の感想を書きこんだことを指摘した―「1 冊の本にこれほど自宅でまったく落ち着けるようなくつろぎ を感じたことはない。……この本を褒めてはいけない。これはあまりに私に近すぎる」(Nietzsche 1980, Bd. 14, 279; Motinari 1982, 82-83)。つまり、エマソンのザラスシュトラへの言及は、ニーチェの『ツァ ラトゥストラかく語りき』の霊感源のひとつと見なしうるものというわけである(ibid.)。

かつてニーチェの独創と考えられていた思想の多くがエマソンの書物を源泉としていることについて は、エドゥアルト・バウムガルテンが先駆的な研究をおこない(Baumgarten 1957)、米国では 1992 年(エ マソン没後 110 年、ニーチェ没後 102 年)に出版されたジョージ・スタックの書物(Stack 1992)がニー チェをエマソンの引き写しであるかのように論じたことがきっかけとなって、研究が活性化された。日本 では新田章の論文(新田 1988)がエマソンからニーチェへの影響と思想的差異の概要を簡潔に示している。

クルツィウスが 2 度にわたってヘルマンとニーチェを並べた形で言及した理由は、容易に推測がつくだ ろう。つまりクルツィウスはヘルマンを、海のむこうの文学作品にも広がった確かな鑑識眼という点で、 ドイツ語圏どころか世界的な知名度を獲得したニーチェにも匹敵していたと評価したいわけである。

『欧州文学とラテン語の中世』には無数の人物の名が挙げられているが、鍵となる人物をひとりだけ選 ぶとするならば、それは『神曲』の著者ダンテ・アリギエーリだろう。『欧州文学とラテン語の中世』は、 第 1 章「欧州文学」につづく第 2 章「ラテン語の中世」第 1 節においてダンテに連なる詩人の伝統(ホ メロス、ウェルギリウス、ホラティウス、オウィディウス、ルカヌス、スタティウス)の解説から本論を 開始し、ダンテに繰り返し立ち返りながら、第 17 章「ダンテ」によって議論の総決算をおこない、第 18 章「エピローグ」で議論の幕を閉じている。全編をとおして、ダンテは古代から中世にいたるラテン文学 の伝統的トポスを受け継ぎ、繰り返し、そして欧州諸語による近代文学へと伝達した、いわば分水嶺の役 割を担った詩人と見なされている。

第 17 章「ダンテ」は、「私たちは通常、ダンテ、シェイクスピア、ゲーテに近代文学の 3 つの頂点を 見る」というさりげない言葉で始まっている(Curtius 1993, 353)。そこで参照を指示されている文献は ヘルマンの『断章集』である。その参照指示されたページを開くと、ヘルマンは「現在、それぞれの国民 が念頭に置かなければならない詩人が 4 人いる。ホメロス、ダンテ、シェイクスピア、ゲーテである」と エッセイを始めている(Grimm 1900-1902, Bd.1, 291)。クルツィウスはあえて言及していないが、それ は「ダンテについての諸文献」という文献案内である(Grimm 1900-1902, Bd. 1, 291-309)。クルツィウ スはこの 4 名から古代に属するホメロスを外した上で、みずからの議論の導入に利用したのであった。こ の参照指示は、ダンテを重視した点でもクルツィウスの共感を得たヘルマンへの賛辞として機能している。

『欧州文学とラテン語の中世』の頂点を築く章がヘルマンのエッセイに立脚して始まるという構成は、ヘ ルマンの西洋文学史への見解に対するクルツィウスの信頼をも垣間見せてくれる。

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『読書日記』でもヘルマンは言及されている。

クレメンス・ブレンターノとその一族のことを最も良く知るにはどのようにすればよいかと問われれ ば、私はひとりの偉大なドイツの著作家の忘れられた書物の名を挙げたい。それはヘルマン・グリム の『ドイツ文化史研究』である(ベルリン、ヴィルヘルム・ヘルツ刊、1897 年)。1951 年 6 月 16 日はヘルマン・グリムが、つまりヴィルヘルム・グリムの息子でアヒム・フォン・アルニムとベッティー ナ・ブレンターノの娘婿だった彼が、文化史の教授としてベルリンで亡くなってから 50 周年であった。 彼が亡くなったその日、ゲーテ時代は永遠の墓穴に沈んだのだ(Curtius 1960, 55)。

ここでクルツィウスはヘルマンを「ひとりの偉大なドイツの著作家」と称え、その著書『ドイツ文化史 研究』(1897 年)が読まれなくなったことを惜しんでいる。クルツィウスはヘルマンの死によってドイツ 文学の黄金期であるゲーテ時代が最終的に終わったと言う。つまり 1832 年のゲーテの死のあとも、卓越 した書き手だったヘルマンの著述活動のなかでその黄金期は 19 世紀を生き延びることに成功し、その書 き手の死によって、20 世紀最初の年についに地上から消えたのであった。引用で言及されている 1951 年 は『読書日記』が実際に執筆・発表されていた年であり(Curtius 1960, 113)、ヘルマンの没後 50 周年 にあたっていた。クルツィウスは記念の年であることを読者に伝え、再評価への機運を高めようと願った のである。

引用ではヘルマン周辺の血縁・姻戚関係がクレメンス・ブレンターノの「一族」として一括りにされて いた。ヴィルヘルムはメルヘンの提供者のひとりだったヘンリエッテ=ドロテア・ヴィルト(通称ドルト ヒェン)と結婚し、ヘルマンはふたりの間に生まれた息子だった。他方、ブレンターノの妹ベッティーナ はアヒム・フォン・アルニムの妻であり、ふたりの娘のひとりがヘルマンの妻となった女流作家のギーゼ ラだった。ブレンターノの母マクシミリアーネは、ゲーテの『青年ヴェルターの苦悩』でヴェルターから 熱烈に求愛されるロッテの黒い瞳のモデルになったことで知られている。ブレンターノの妹クニグンデは、 ブレンターノの友人でグリム兄弟の師でもあったサヴィニーの妻になった。ヘルマンはブレンターノの「一 族」に連なる著述家として、まぎれもなくゲーテ時代の生粋の落とし子のひとりだった。

クルツィウスはヘルマンをゲーテ時代の生き証人と見なして高く評価した。しかし現在のグリム研究者 は、この評価に対して疑問を抱くのではないか。クルツィウスが推薦する『ドイツ文化史論考』の第 5 の エッセイは「グリム兄弟、そして子供と家庭のメルヘン集」(Grimm 1897, 214-247)と題されている。 これはもともと『ドイチェ・ルントシャウ』82 号(1895 年)に「グリム兄弟―思い出」として発表さ れたものである(Grimm 1895, 85-100)。このエッセイでヘルマンは父ヴィルヘルムと伯父ヤーコプ、そ してその周辺にいた人々の生活を活写しているのであるが、その一節にはグリム研究史上、もっとも問題 的だった内容のひとつが含まれている。ヘルマンは、グリム兄弟へのメルヘン提供者でもあった母ドルト ヒェン(本名ドロテーア)や叔母のグレートヒェン(本名マルガレーテ=マリアンネ)の実家にあたるヴィ ルト家の雰囲気―「太陽薬局」を経営―について、彼自身の実体験にグリム兄弟が残した収集記録の 覚え書きを織り交ぜる形で、このように物語った。

ところでドルトヒェンはその富を別の源から受けとったのだ。「太陽薬局」には多くの廊下、階段、 上下階、奥まったところがあり、わたし自身まだ子供だったから探検して回ったのだが、ヴィルト家

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の子供たちのための部屋には、戦争で夫をなくした「老女マリー」が居座っていた。彼女は毎晩『燕 麦の小人』から夕べの祈りを読んだ。この人から、メルヘン集の第 1 巻はもっとも美しいメルヘンを 得た。彼女に由来するメルヘンはつぎのとおり―「兄と妹」は 1811 年 3 月 10 日に「マリーから」。

「赤ずきん」は 1812 年秋。「手なし娘」は 1811 年 3 月 10 日。「盗賊のお婿さん」と「名づけ親の死神」 は 1811 年 10 月 20 日。「仕立て屋の親指小僧の遍歴」、「茨姫」、日付のない他のメルヘン。私は印刷 版の順序にしたがって題名を挙げた。ただちに察せられるのは、ドルトヒェンとグレートヒェンは、 おそらく老女マリーが彼女たちに語って印象にのこった話を伝えてくれたにすぎない、ということで ある(Grimm 1895, 97)。

ハインツ・レレケ―ホーフマンスタールの特に『イェーダーマン』の研究の権威的存在(Hofmannsthal 1990; Rölleke 1996を参照)でもある―は、1975 年に発表された画期的なグリム研究の論文(Rölleke 1975)において、この箇所がグリム兄弟の残した書き込みをでたらめに配列したものであること(ibid., 78)、ヘルマンが生まれる 2 年前の 1826 年にヴィルト家の「老女マリー」は死去していたこと(ibid., 79)を指摘した。つまり、ヘルマンは思い出語りの体裁で虚実おりまぜた内容を語っていたのであった。 レレケはその作業の成果として、メルヘンを語った「老女マリー」の正体がグリム兄弟にメルヘン提供の 協力を開始した時点で 20 歳になったばかりだった(ヘルマンが誕生した時点では 39 歳だった)フラン ス系の女性マリー・ハッセンプフルークであることを明らかにした。創作者でもあったヘルマンが、ゲー テ時代の思い出を創作まじりに語ったことは不思議ではあるまい。クルツィウスがその虚構性をどの程度 まで理解していたのかは分からない。レレケのこの論文が発表される 20 年近く前の 1956 年、クルツィ ウスはその生涯を閉じた。

4.精神の国際主義者たち

先に紹介したヘッセのエッセイ「ドイツ語で物語った作家たち」では、グリムのメルヘンが「ドイツ民 族の特性」を超えて「超次元的なものを、人類という概念を」示すものとして位置づけられていた。国際 的な学習・研究環境で育ち、欧州文学を総体として理解するべきと見なしていたクルツィウスにとって、「国 際性」(Internationalität)や「国際主義者」(Kosmopolit)の問題は主要な関心事だった。ここでいう「国 際」とは、外交や民間レベルでの外国人同士の交流のことではなく、「精神」の国際性のことである。「ホー フマンスタールへの追憶」(1929 年)と題されたフーゴ・フォン・ホーフマンスタールへの追悼文で、ま さにその死が惜しまれてならない詩人に対して、クルツィウスは「精神の偉大な国際主義者」([der] große Kosmopolit des Geistes, Curtius 1956, 120)という称号を贈った。

繋ぎ、結び、守ること―それが、ホーフマンスタールが国民のために引き受けたひとつの機能だっ た。この課題を意識したからこそ、彼は私たちに『ドイツ語読本』と別の本『ドイツ語の価値と栄誉』 を贈ったのだ。この精神の偉大な国際主義者は、私たちの民族的魂と民族精神をはぐくむ根の層と密 に結ばれて生い立った。それらの根を守り、その諸力をやしない、それらの宝をあらわにすることは、 彼にとっては愛が強制してくるものであった。私が見ているのは、彼が財宝を探す者の、鉱脈を探る 者の、星空を解釈する者の視線と深慮を働かせて、私たちの伝統で遠くまで生い茂った森のなかを進

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んでいく様子である。あらゆる繁茂を知っている者の夢見るような、同時に見晴らすような眼で。彼 の血液には自然のあらゆる物質が循環しており、それゆえに彼はそれらと結ばれている。そうして彼 は歴史を、彼の民も他のさまざまな民も、過ぎ去った生と新しい生の浄福の領域も、彷徨いながら通 りぬけていくのだ。この滋養する愛から、私たちも彼も保守的と呼ぶあの心性が生まれた(ibid.)。

クルツィウスのイメージでは、ホーフマンスタールは傑出した樹木のような存在であり、地上では空に むかって国際精神が開き、しかもそれは地下に根を張った民族的な要素と一体であった。彼はその広い視 野を保ちながら、自文化への深い愛を実現するために、財宝、鉱脈、運命の星としてのドイツ語著作を書 物にまとめた。このようなホーフマンスタールの仕事に、クルツィウスは「保守的」(konservativ)な心 性を読み取る。みずからの言語と文化にあふれる愛をそそぐ精神的な国際主義者こそが真の意味で「保守 的」だという考えるわけである。

クルツィウスは、ヤーコプやヴィルヘルムが「国際主義者」であるか否か、あるいはクルツィウスが評 価する意味での「保守的」な精神を有していたか否かについては何も語らなかった。とはいえヤーコプと 19世紀のゲルマニストたちを弾劾し、ヴィルヘルムに無関心だった以上、クルツィウスが彼らに、クルツィ ウスにとって大きな価値を有するこれらの評言を捧げえたとは考えがたい。逆に、おそらくヘルマンのこ とをクルツィウスは、ホーフマンスタールと同様に「精神の国際主義者」として、「保守的」な理想的人 間として敬愛していたのではないか。しかし、クルツィウス自身の評価がヤーコプとヴィルヘルムに対立 的なものであったとしても、ホーフマンスタールは、クルツィウスがホーフマンスタールに見ていた「精 神の国際主義者」を、そしてクルツィウスのいう「保守的」な性質をヤーコプとヴィルヘルムに見ていた と思われる。これについて、以下で確認してみたい。

先の引用でクルツィウスは、ホーフマンスタールが戦間期に刊行したドイツ語による名文の選集『ドイ ツ語読本』(1922 年)と類似した趣旨の『ドイツ語の価値と栄誉』(1927 年)に言及していた。ホーフマ ンスタールによるこの種の選集の試みは、1912 年の『ドイツ語で物語った作家たち』(Hofmannsthal 1912)に端を発する。ヘッセによる先に紹介した同名のエッセイ(1914 年に発表)は、明らかにこの選 集に刺激を受けて書かれた。というのも、ヘッセはエッセイのなかで唯一の注を末尾近くに付け、種明か しをするかのようにこの選集に言及し、讃辞を与えながら、かつ―嫉妬したのだろうか―粗探しをす るかのように、ヘーベルの『ラインの家庭の友の小さな宝箱』が収録されていたら完璧だったと述べてい るのである(Hesse 2003, 340)。第 1 次世界大戦後、祖国オーストリア=ハンガリー二重帝国の解体のあ とに、ホーフマンスタールはかつてと同様に選集の『ドイツ語読本』と『ドイツ語の価値と栄誉』を刊行 した。クルツィウスは何も語っていないが、『ドイツ語読本』にはヤーコプとヴィルヘルム両方の著作が、

『ドイツ語と価値と栄誉』にはヤーコプの著作が採用されている。

『ドイツ語読本』に収められたヤーコプの著作は、『ドイツ語の歴史』(1848 年)から採用されたもので ある。それは、内容に直接関係をもつ序文の前に置かれた「ゲルヴィーヌスへ」という特異な文書の全文 である。ゲオルク・ゴットフリート・ゲルヴィーヌスは、1837 年にゲッティンゲン大学でハノーファー 王国の国王エルンスト・アウグストの新憲法破棄に抗議し、ヤーコプやヴィルヘルムら 7 人の教授ととも に処分を受けた歴史家である。ドイツではこの事件は「ゲッティンゲンの 7 人」として知られ、大学人に よる政治権力への抵抗の象徴と見なされている。『ドイツ語の歴史』が刊行された 1848 年は、2 月にフラ ンスで始まった暴動が革命となり、3 月にそれがオーストリア帝国とプロイセン王国の 2 大国をふくむド

参照

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