C
ジオルジ論文
要
旨
主観性
・ 主体性を研究す ることに伴 う
方法論の移 り
変わ りを乗 り
越 える
二
つ の道
アメデオ
・ ジオル ジ
Am
edeo G
i or g l : Saybr ook G
r aduat e Sc hool
人間主体の諸経験 と
諸行動 を研究す るに当たつて
( 今日の
) 主
流
心理学者たちが採 つている四つの研究戦略 を、
主観陛
・主体 性の現
前 を減少 さ
せていると
い う
理 由で、
批判 し
た。主観 性
・主体 性を誇
張す る
傾 向のある二つの視点をも
批判 し
た。
主観性
・主体 性に向 う
均衡の取れた一つの接近 を提出 し
た。それは、
( 1) 主
観性
・ 主体
性 には、
「
見えない」あるいは非感覚的な諸特 性があ り
、
それ らは
理論的に取 り
入れ ら
れなければな らない と
認 める、
一つの理論的視
点を承認す る
。それはまた、
( 2) 人間の主勧 性
・主体 性に向 う
均
衡の取れた接近 を適切 に評価す るためには、
間主観的
・間主体的次
元が決定的であると
強調す る。主観
・主体に依存 した視点で、それ
自
身のもろもろの禾
J 益
を実現できる視点 こそが、
客観 性の達成 のた
めに要請 されてい る態度である。
主観性・ 主体性を研究す るこ とに伴 う ―
の移 り変わ りを乗 り越 える一つ の道
*
アメデオ・ ジオル ジ セイ ブル ック大学院大学
[ 吉田章宏訳 淑徳 太 判 林
I . は
じめにこの論文の 目的は、主流の心理学者たちが これまで心理学的諸現象 を研究す るのに
用いて きた方法の主要なタイプを論評 し評価す ることです。私 の基本的な論点は、そ
れ らの確 立 された諸方法は、主観性・主体性 を扱 う理論的な能力 を持 つていない とい
う理 由で、本質的に欠陥がある、 とい うことになるで しょう。 これ らの確立 された諸
方法は、一つの 自然科学 としての心理学 とい う脈絡の内部で展開 されま した。そ こで、
私の主張は、それ らの方法総てが、いかなる心理学的現象 に とつて も不可欠な特質で
ある主観性。主体性の現前 を、増大 させ るよ りもむ しろ減少 させ て しま う、 とい うも
のです。なぜな ら、 この[ 主観性・主体性 とい う] 概念 は、適切な理論的明瞭化 をされ
たこ とが これまで無かったか らです。私は、また、ここでの議論 を、主流心理学者た
ちが研究 を行 う状況の型 に限定 し、また、心理学が 自然科学の一つであるとい う考 え
を信奉す る心理学者たちによつて動機付 けられた基本的な [ 研究 の
] 戦
略 に限定 したい と思います。私がこの問題 を論 じる自然科学の枠組みは、厳密 な実験室状況 を仮定
す る必要 はあ りませ んが、 しか し、少な くとも、擬似 的実験、測定 とデー タの統計的
処理 を前提す るものです。問題 は、その ような枠組みが、果た して、また、 どのよ う
に して、主観性・主体性の適切な理解に場を用意す ることが出来 るか、 とい うことで
す。従 つて、最初 の課題 は、主観性。主体性の存在 を少な くとも承認 し、少な くとも
暫定的にで も、その基本的意味を確立す るために、主観性・主体性の玩象 に直接 に対
面す ることです。
*こ
の論文は、2003年
8月13日
に、ス ウェーデ ン、ス トックホル ム、Er s t a&
Skondal Hogs kol aお いて開催 された、人間科学研究国際会議の第
22回
年次集会に於いてな された、基調講演の改訂版である。
**こ
の試訳 は、愛知医科大学大学院看護学研究科開設記念・特別講演会「看護を担
う未来の リーダーた ちへ : 看 護現象を見つめて」
2004年
5月22日
に、著者 ジオル ジ教授が講演者 として来 日され ることを機会に、
1980年
以来の友である吉 田章宏が、急速、短期 間の うちに試み た ものである。社撰な誤訳が含 まれていることを恐
れてい る。読者は、 この試訳 を通 して、ジオル ジ教授の真意 を読み取 るよ う努 め られ
んことを、心か ら希望す る。邦訳 を許可 されたジオルジ教授な らびに、この機会 をご
提供 くだ さつた愛知 医科大学看護学部。高橋照子教授に感謝する。
***
本試訳 を、多少な りとも読みやす く、誤 りを少 な くす るための改訳 と校正 のこの論文において、私は、主観性・主体性 ( s ubj ec t i vi t y) と い う言葉 を、次の よ
うな事柄 を語 るための、一つの総称的 ( 包括的
) な
言葉 として用いることに します。すなわち、人間たち l er s ons ) 、 識 経験、こころ Os yc he) 、 生きられた身体
Che
l 市 ed bodyp、 自我 Ggo) 、 自己( s el → 、そ して、私たちの生 と気付き Cawar enes s )
を指示す るよ うなその他の総ての言葉 を、包括す るもの として、です。明 らかなこと
は、 これ らの言葉の間を区別す ることが出来 ます し、また、最終的には区別 しなけれ
ばな りませんが、 しか し、いまここでは、それ らの総てが共有 している事柄を強調 し
たいのです。
私が ここで用いている言葉の意味での、主観性・主体性 とは、極めて重要な概念で
す。 と言いますのは、 この概念は、総ての人間科学の 中心に位置 しているか らです。
その [ 人間科学の
] 中
には心理学が含まれていますが 、殊 に、心理学がその関心を人間存在 に向ける場合に、この [ 主観性・主体性の
] 概
念 は[ 心理学の] 中心に位置 し、極めて重要 となるのです。 これ は、 どこにで も見 られます が、同時に、捉 えがたい言
葉です。人間科学の ―
は他者 を敬い注意深 く接 しなければな りません。そ して、
人間科学の研究者 もまた、他者についての知識 を獲得することが問題である場合には、
[ まった く] 同様なのです。 しか し、 これ らの課題の達成は、主観性・主体性について
の、その否定 か ら絶対化まで広がつてい る驚 くべき幅のもろもろの信念の勢ぞ ろいを
背景 として、為 され なければな らないのです。主観性・主体 性を しつか り捉 えるとい
うことは、人間諸科学における鍵 となる問題 のひ とつです。 しか し、 自然科学的心理
学者たちは、この課題に適切な仕方で接近 していなかつたのです。
主締 い理学者たちによつて採用 されている枠組み を前提 とす るとき、主観性・主体
性は どの ように姿を現すので しょ う力、 そもそ も、第一に、主観性・主体性は、「内
的過程」 あるいは「内的データ」を含む と理解 されま した。 したがつて、それは、当
初は、可視性あるいは観察可能性の一つの問題で した 研究者は、参加者[ いわゆる 職
験者」] 自身にだけ与え られてい る事柄[ 過程あるいはデータ] を、どのように して、顕
在的にす ることが出来 るであろ うか[ とい う問題で 制 。第二に、個性の問題があ りま
した。参加者[ 財鶏茜旨」] は、おそ らく、極めて独 自な仕方で反応 していたで しょう。
では、昨 は、行動 あるいは経験の個性的な様式を、 どの よ うに して下般化できる
であろ うか[ とい う問題で引 。最後 に、 自然科学的なものの見方は、因果関係 を前提
していま した。 しか し、科学が よ りよく理解す ることを望んでいるところの 日常生活
においては、人々は、 自らを、 自由に行為 しているもの として経験 しています、ある
いは、少な くとも、そのよ うに 自らを解釈 しています。では、研究状況における参加
者の もろもろの[ 1澤豹: 潮行為が刺激 ( 原因
) に
対す る反応 ( 結果) と
して解釈 されなけれ ばな らないのに、発動力 l agenc y) は 、 どのよ うに して、承認 され うるであろ う
か[ とい う問題司 。参加者の側の 自発的な活動 は、その理論的枠組みに含まれては
いなかったのです。 このことは、急進的行動主義 について も当てはま ります。 と申し
ますのは、確力ヽこ、
Ski r l ner ( 1953) は
、 自発em
i t ) さ
れた行動を記述 しては いますが、 しか し、彼 は依然 として、 自発行動は刺激によつて制御 され うるもの として構想 していたか らです。 したがつて、主応 畔 は、主観性・主体性を一つの方法
す るための、あるいは、それを避 けて通るための、幾つ もの戦略が展開 されま した
しか し、それ 日痢離L・ 主湘 」 を我がもの とし、適切に扱 うための、健全な理論は何
も導入 されなかったので九 以下では、この点を、はつき りとお示 ししたい と思いま
すし しか し、その前 に、まず、主観性・主体性の意味の問題に対面いた しま しょう。
H。 主観性・ 主体性の意味
「
主観性。主体性」 とい う名詞 と、「主観的 0主体的」 とい う形容詞 は、多様な意味
と内包 ●or l not at i ons ) を 持 つてお り、その含意 は、望ま しくない ものか ら賞賛すべ きものまで、広がっていま丸 「主観性・主仙 とい う名詞 は、しば しは、人l er s On) 、
自己あるいは 自我 の同意語 として用い られ、通常は、肯定的あるいは中性的であると
理解 されています。形容詞「主観的・主体的」は、通常、軽蔑 的に Oej or at i vel y)
用い られ、偏 り、あるいは、測定出来ない とい うことを含意 しますじ私は、心理学 と
哲学の事典
5, 6冊
を調べてみたのですが、その中には、名詞「主観性・主体性」は、見当た りませんで した。 そこで、私は、「主観性・ 主体性」 を次のことを意味す るも
の としますЪ すなわち、それは、時には 自発的に開始 され る個々人の諸過程であつて、
[ それ ら個々人の] 同一性に関係 し、部分的に非感覚的あるいは不可視的な性格をもつ
ために、簡単には公的に明瞭化す ることが しに くい もの、です。形容詞形[ の「主観的・
主体的」 と言 う語] は、同 じ一冊の事典に さえ、繰 り返 し見つ けることができま した。
それが意味す るのは : 「個々の生体に依存す る」、「他の研究者たちによつては検証
され えない」、あるいは、「物理的 な器具による記録を許 さない」な どです l Wmen,
1934, p. 265) 。 この形容詞形に連合 してい るこれ らの意味は、専門的な事典に も通例 見出 され るものです。 しか し、「主観主義」 ( s ubj ec t 市i s m) とい う語が通常載つて
いる名詞形であ り、それは、常に、「客観主義」 Cobj ec t i vi s m) の反対語 とされてい
るのです。おそ らく、そのことが、「主観性・主体性」 ( s ubj ec t i vi t y) と いう語が、
辞書 に載つていない理 由なので しょう。その 占めるべき場 を、「主観主義」の軽蔑 的
侮蔑的な意味が。奪い取つて しまってい るのです。 しか し、「主観的一客観的」 とい
うこの単純な対立はあま り助 けにな らない とい うことに、直 ぐ気づ くことで しよう。
私たちの主要 な関心が主観性, 主体性の適正な意味にあることか ら、まず、「主観
主義」 とい う侮蔑的な語 を扱い、それ を処分す ることを試みま しょう。 この語 には、
鍵 となる二つの意味があることが示唆 されています 6i nha, 1969) 。 第一の意味では、
主観主義は次のよ うな考えを指示 します。すなわち、真理 Che t r ut h) は、個人的な
とい う意味でパー ソナルなものに過 ぎず、 したがって、真理は人か ら人により、場合
か ら場合によ り、異な りうるとい う考 えです。 これは、明 らかに、学術的 な脈絡 にお
いては、語の否定的な意味にお ける相対主義に導 きます。 しか し、我々が恥知 らずに
も[ 勝手に] 意見を述べ自分の選択によつて個人的な欲望を満たす場合 には、 日常生活
において も、広 く顕在化す るものです。
主観性。主体性の第二の、 よ り哲学的な意味は、ある自己中心的な視点 を指示 しま
す が 、 自我 の独 自に 個 人 的 な側 面 を取 り入 れ るわ けで は な い 、 とい い ます
Si nha, 1969, p. 52) 。 ここでの基本的意味は、いかなる対象 を経験す る場合にもある
主観・主体を必要 とす ること、 しか し、それ は、ある具体的な、生きている個人 とい
うよ りは、ある抽象的な主観・主体なのです。 これは、
…
を採 ることとして
理解 され ますも しか し、この語の第一の意味におけるよ うに主観主義的ではあ りませ
ん。そ こでの主張は、世界の対象 6bj ec t s ) を人が経験す るためには、主観・主体依
存性 を要す る、 とい うこと、 しか し、それは、偏見あるいは相対主義 を含意 しな くと
もよいが、 しか し、それ らを必ず しも」除は しない、 とい うものです。
ある厳密 な意味では、一つの対象の経験で、主観。主体に依存 しないものは、存在
しません。客観主義が主張 しよ うとす るのは次のよ うなことです。す なわち、人があ
る対象 を経験す るには、その対象それ 自体を、それがあるがままにCs i t i s i n i t s el f )
経験すべきである。それは、あたか も、人間主観・主体は [ 欠落 していて、まるで]
誰 も経験 してはいないかのよ うに、 とい うのです。 しか し、経験す る人間が欠如 して
は、いかなる対象 l obj ec t ) も 、知 ることあるいは現前す ることが、できません。 し
たがつて、客観主義 が私たちに採用す るよ うに と勧める態度では、経験の対象は物神
化 ∈ei f y) さ れます
`
つ
ま り、経験 している人間の視点やそれまでの経験を露にす る
か も しれない如何 なる特質 も剥 ぎ取 られ るので 九 これ もまた、抽象 に向か う一つの
動 きです。 しか し、 この抽象 は、対象に基づいていて、経験す る者への如何なる言及
もJ F除するものです。 ある
―
る者が存在 しているとい うことは、誰 もが知 つてい
るに もかかわ らず、そ うなのです。 したがって、客観主義 は一つの誤 つた理想なので
す。なぜな ら、その立場その ものが、それ
E―
l をもた らすに要す る事態を忠実に記述 してはいないか らです。仮 にもし、客観主義が、経験す る者の存在 を取 り戻そ
うと試みた として、[ その上回 なお、客観主義は対象それ 自体 Che Obj ec t i n i t s el f l
を知 るのだ と主張 した とす ると、 この主張は、それで もやは り誤 りで しょう。なぜ な
ら、それは、ある無限の過程 の最後 に到達 したのだ、 と主張 しなけれ ばな らないであ
ろ うか らです。現象学者たちは、経験の地平構造か らして、いかなる物的対象の知覚
も、無尽蔵である[ 尽くす ことが不可能である] とい うことを示 して きま した。物的対
象以外 の対象の経験 も、た とえそれが非斜映的に ( おnadumbr at i onal l y) 、 与え られ
てい る として も、時間性 のゆえに、[ やは り] 、 尽 くす ことが不可能 なので 九 経験す
る者 にお ける対象性の構成は、少 な くとも、視点性 を認 めることが必要です し、それ
を認 めると、主観・主体依存性を導 きいれ ることにな るのです。客観性は、客観主義
的に解釈す ることは出来ないのです。
鍵 となる問題 は、したがって、ある経験 された対象 は、如何にして 価w) 、 主観性・
主体性を必然的に要請す るか、 しか も、それでいて、経験 された対象が、偏 り無 く知
られ ている、 と主張で きるよ うな仕方で知 られ うるのは、如何 に し
てであるか、 とい
うことを理解 しよ うと試み ることで 九 これ が、主観性・主体性の知識 を獲得す る努
力を取 り囲んでいる総ての難 しさ l vul ner abi l i t i es ) を 生み 出 している中心的な問題
なのです。科学 ( 学問
) は
、客観的な知識 を求めます。 もろもろの 自然科学においては、 この課題 は、諸事物 と諸過程 をそれ らが現実 にあ るがままに捉 えよ うとす ること
とはあ りませれ ところが、もろもろの人間科学においては、客観的な理解 とは通例、
もろ もろの主観的 な表現 を含む人間活動 を提 えることを意味 します。逆説 は、科学者
である人間たちが、他者たちの主観的表現 を客観的に捉 えるために、 自らのもろもろ
の主観的 な偏 りを発揮 しな くてはな らない、 とい うことにあるよ うです。 これは、一
見、もろもろの人間科学が直面 しなけれ ばな らない逆説的な課題のよ うに思われま丸
このジ レンマを解決す るために既 に用い られている幾つかの戦略 を考察 した後に、 こ
の問題に立ち帰 ることに しま しょう。
Ⅲ
. 不
適切な戦略の 四つ のタイ プ→ 主観性・主体性の除去 このジレンマに対す る判 りきつた解決の一つ は、他者の主
観性 。
主体性は関係 ない と単純に宣言す ることです、一一一 この場合 、使 われ る言葉
は通常、意識あるいは経験ですが、一一一そ して、限定 された諸条件の下での他者 の
顕在的な行動 を分析す ることへと進んで行 くことです。 アメ リカの行動主義者、」ohn
B. ht s on( 1912) とB. F. Ski r l ner ( 1953) は、 このアプ ローチを使 いま した。行動主義者
の [ 心理学史上の
] 運
動 は、意識や主観性。
主体性の端 的な おut r i ght ) 否 定ではな
かつたこと、他者の行動の科学的な分析に意識は必要 ない、 とい う一つの否定に過 ぎ
なかったことに、 ご注 目くだ さし、 しか し、行動主義者たちは、彼 らの科学的仕事 に
おいて経験あるいは意識 を自らが使 うことは否定 しなかつたのです。そ うでなかつた
とした ら、[ たとえば、ねずみの
] 迷
路での正 しい曲が り方や誤 りを、そのような出来事の気づきな しに、 どのように して観察できたであ りま しょう力、
彼 らが支持 したのは、大胆な一歩
et r O
ke) で
はぁ りま したが、 しか し、ジレンマに対す る理論的な解決ではあ りませんで した。問題 に対す る真 に理論的な解決 を仕上
げる代わ りに、彼 らは、 もろもろの 自然科学のある基準 に無批判的に忠実であること
を選 んだのです。す なわち、その基準 とは、科学の諸対象 は観察 され なければな らな
い、 とい うものです。そ うして、心理学 とい う科学のために必須のデータを提 えた と
の信念の下に、彼 らが研究 しつつ ある動物たちの行動 を、客観的な反応へ
と還元す る
ことに進んで行 つたのですじ しか しなが ら、基準 として彼 らが用いた科学の理解 は、
人間 と諸事物お よびその諸過程 との関係 に基づ くもので した。そ して、事物 は、基本
的に、主観性・主体 隆が欠如 してい る実体 として、定義 されているのです。そ こで、
かれ らが動物たちを研究 している状況 ( 場面
) は
、 もろもろの 自然科学がそれに基づいて発展 し、その もろもろの戦略、手続 き、諸概念を作 り上げた、その基礎 となつて
いる理論的状況 ( 場前 には、正確には適合 していなかったのです。いずれにせ よ、
行動主義者たちの行動に対す る態度 は、主観性・主体 性を除去 してはいません。それ
は、単に、それ を考 えることを拒否 しただけなのです。結局の ところ、動物たちは、
彼 らが迷路を習得 した り、 自ら賞を獲得す る学習 を した りす る場合には、知覚的経験
その他の主観的経験 を生 き抜いていたのは確かなのです。行動主義者たちがもし異 な
つた動機 をもつていた とした ら、ただ動物たちの顕在 的な客観的行動だけでなく、そ
の表現 性 ( ex「es s i venes s ) を 記述す ることが出来ていた ことで しょう。事実、行動
とい う言葉その ものが、既に、一つの理論的還元なのです。明 らかなことは、主観性。
論的解決ではあ りませれ さらに、主観性・ 主体性の無視 は、実は、それの除去 には
な らないの観 その貢献をはつき りとは認めないまま、それを用いることなのです。
ちよつと寄 り道 をいた します と、私は、心理学の原初的関心は、他者 の「
表現曲
に向けられ るべきである、 と主張 したい と思います。なぜな ら、表現性 こそは、心理
学者に反応可能な、最 も具体的で、特定の、相貌的 な現前だか らです。 もちろん、心
理学者もまた、 自らの帥 で相貌的な「諸印象」で反応 します。そ して、心理学者
の最初の仕事は、ほ とん ど同時に、他者の表現の豊か さに向けて開かれていることで
す。そ して、 自分 自身が受 けた印象の複雑 さを明瞭イヒさせ ることです。それは、適切
に縮小 された心理学的態度 を とるためなのです。心理学 とい う科学が始めなくてはな
らないのは、ま さに、「
表現=FF2」 expr es s i on― れ
r es s i on) の
弁証法 と共に なのです。 この点については、 ここでは、これ以上展開することはできません。主観性・主体性を除去 しよ うとするのは、行動主義者たちだけではあ りません。脱
構築主義者た ちは、実際には、主観性・主体性を仮定 しています
bし
か し、その後で、彼 らはそれを完全に取 り除こ うとす るのです。しか し、今度 は、社会文化的諸要因が、
主観性。主体性を取 り除 くのに使 われ るのですも この戦略のよい実例 は、Cul l er
( 1991, pp. 77- 78) に よって提供 されています
b彼
は、次のように言つています :・ … ひ とたび主観・主体がその場に位置づき、ひ とたび彼が分析的領域の中心に確
固 として確立 され たな ら7よ 人間諸科学の仕事は、主観・主体の脱構築化の仕事 と
なる。言い換 えれ│よ主観・主体の把握を
i l uる
慣習 の諸々のシステムによつて諸々の意味を説明す るとい う仕事 となる。ある言語の一話者は、その言語の音声学的お
よび文法的 システムを意識的 に気づいているわけではなし、 しか し、彼のもろもろ
の判断や知覚は、それ らのシステムによって説明 されることになるのである。主
観・主体は、行動 を支配 している、自分 自身の心理的経済について、あるいは、洗
練 された社会的規範のシステムについて、必ず しも気づいているわけではなし
、 主
観・主体は、その構成要素へと分解 され、それはまた、慣習の個人間関係 システム
であることになる。主観・主体は、その機能がそれを通 じて作用す る多様なシステ
ムヘ と帰属 させ られ るに従つて、分解 されるのである。フー コー 00uc aul t ) が書
いているよ うに、精神分析、言語学、人類学の研究者は、主観・主体を、その欲望
の諸法則、その言語の拡 その行為の諸規員J 、 あるいは、その神話的お よび想
像的談話の戯れ との関係において、「
脱 中′
H
ヒ
」 してきたのである。主観・主体 と世界のこの区別は、変化 しうるものであって、ある時点での知識の さまざまな布置、
お よび、それ と同時代の諸学問に依存 してお り、・・口
、以前は主観・主体に所属
していた ものが削 りとられ、ついには、主観・主体は、意味の中心あるいは源泉 と
してのその場所 を失 うに到 つている。主観・主体が、全 く超主観・超主体的なもろ
もろの麓成システムヘと脱構築化 され、分解 され ると、自己あるいは主観・主体は、
ますます、一つの構成概念、すなわち、慣習の もろもろのシステムの結果、である
確かに、この脱構築主義者の視点には、一つの真理があるとは言え、私には、ある
一つのよい事が [ 偏つて
] あ
ま りにも多過 ぎる [ 状態に置かれている] 、 とい うよ うに見えます
`
確
力ヽこ、私たちは、社会、歴史、言語、文化、心理学等などによつて、
す つか り影響を受 けています
bし
か し、主観性・主体性には、還元不可能なことは何も無いので しょうか
? Cul l er
で さえ、こう言 つています「多様なもろもろのシステムは、それ を通 じて作用す る」 と。 この
「
それ は、単に、その他のシステムで し
ょうか
?
それ らを一緒にま とめてい るのは何で しょう力、これ らの文化的影響の総てが強力 であることは認めるとして も、もし、主観性・主体性が他の「慣習のもろも
ろのシステム」に還元 され るとした ら、主観・主体内におけるそれ ら影響の交差作用
の意味は、何であ りうるので しょう力、 もし、固有の中心が無いのだ とした ら、そ
れぞれがそ うである ところの特有の統一性は、如何に して構成 され るので しょうか?
私の心理学が私の [ 個人的な
] 歴
史 と相互に干渉 しあ う場合、脱構築主義的視点 においては、その実存的係留は何処にあるので しょうか
?
さらに、中心化の転置 鰭諧換 え
) は
、中′可 ヒの除去 と同 じではあ りませれ 私 はむ しろ、これ ら総ての諸要因を、主観性・主体性の中心化活動の、完全な決定 とい うよ りは、それへの影響 として、理
解 したい と思 うのです。主観性・ 主体性固有の中
` Ⅳ
囲 を完全に除去 しよ うとす る
努力は、行 き過 ぎなので 九
間主観的・ 間主体的な次元についての私たちの関心 と調和するな ら、私たちは、研
究者の中心化機能に関 しても間 うことができますじ彼あるいは彼女が研究 しつつ ある
人間の主観性・主体性 を、彼 あるいは彼女 自身の主観性・主体性には手を触れないで
いなが ら、縮小 しよ うとす るその彼あるいは彼女の動機付けは、何によつて説明され
るので しょうか
?
脱構築主義者は、彼 あるいは彼女は、彼 あるいは彼女に影響を及ぼ しているあ らゆる社会文化的影響力 の単なる所産である、 と認 めるので しょう力、
この決定論的社会文化的環 こそは、ま さに、ドス トエフスキーの地下室の男が抗議 し
た ところのことです。主観性・主体性の鍵 となる含蓄 ( 内包 : c onnot at i on) は 、 もろ
もろの経験 を、それが如何に一つの独 自な視点へと総合す るか とい うことなので 九
脱構築主義的アプローチは、中心化機能 と共に、主観性・主体性の統合的機能も、そ
れに代わるものを見いだ さないままに、除去 して しま うのです。
b) 推
測 ( I nf er enc e) と しての主観性・主体性 主観性・主体性を説明 しよ うと実際に試み る戦略 も幾つかあ ります。 しか し、それは、明 らかに不適切な仕方で、なので
す。そのよ うなアプ ローチの一つは、主観性・主体性を一つの推測 として認 める、 と
い うものです。Ki mbl eは 、現代の心理学者ですが、このアプローチの実例です。心理
学は一つの 自然科学であるとい う見解を弁護す るために書かれた小 さな本 の中で、
Ki mbl e( 1996) は 、主観性0主体陛への彼のアプ ローチを示 していますき彼 は最初 にこ
う述べています。一つの科学になるとい う心理学の夢は、百年昔 と較べると、我々の
時代に実現 され る可能性は高まつている、 と。そ して、彼はこ う書いています
にi mbl e, 1996, p. i x) : 「 この議論
…
は、心理科学は科学のもろもろの規員1に従
わなければな らない とい う、忘れてはな らない注意 で始まる。つま り、決定論的で、
経験的で分析的でなければな らない [ とい う注意である] 。 」 経験的 とい うことの
意味を仕上 げる中で、Ki mbl e( 1996, p. 2) は 、次の ように断言 します。「他者の心の知
識 を含む、世界 についての知識が 、科学に相応 しいのは、公共的 な観集に基づいてい
る場合だけであるとい う命題・・・・、入手可能な唯―の公共的事実は、生体が為す
物事 と生体がそれ らを為す諸状況、つま り、もろもろの刺激 ともろもろの反応、であ
ります。」 と。それ故、心理学的諸現象が従わな くてはな らない科学の基準 を最初 に
確立 した後、科学 とい うものは観察可能なものだけ しか扱 うことが出来ない と述べて、
Ki mbl e( 1996, p. 19) は、こう書いていま丸
心理学には、主観的諸概念を合法的にす る一つの方法があ りますЪ それ は、そ
れ らの概念を、この科学の公共的なデータか ら、つま り、それ らの概念が生起
した諸反応 と諸状況か ら、引き出されたもろもろの推測 として扱 うことです。
もしあなたが、誰力功ミ他の人を殴つた り、あるいは、接吻 した りす るのを見た
とした場合で も、あなたは、その人物の敵意あるいは愛 清を直接には観察す る
ことはできませ ん。しか し、これ らの行為がある状況の下で起 こつた場合には、
それ らの行為を、そのような [ 敵意あるいは愛情 とい う
] 私
的な状態の表現 として解釈す ることは理に叶つていま九
Ki mbl eの見解は明 ら力ヽこ次のことを示 しています。すなわち、彼のタイプの心理学 は、心理学に本来的 に属 している諸現象に対 して忠実である以上に、ある歴史的文化
的に確立 された、科学 の意味に対 して忠実である、 とい うことで 九 ′L理学的諸現象
が科学の諸基準に適合す るよう手を尽 くす ことには極端な用心が見 られ る一方、それ
らの基準 自体 を受 け入れ ることについてはある素朴 さが見 られ るので九 何散
kと
私たちは間わな くてはな りません、
Ki m
bl e
は、可能な限 り厳密に感覚的所与 として定義 された観察可能な ものに、知識の基礎を限定す ることを必要だ と考えたので しょう
か
?
彼は私たちに告げますじ物理学的 ( 物質) 諸
科学 6hys i c al s c i enc es ) と して理解 された科学は、その基準を要請する、と。 しか し、物理的 ( 物働 諸科学は、主 観性・主体性のような現象に対処する必要がこれまで全 く無かつたのです。 この戦略 は、諸現象を尋問す るとい うより、諸現象に命令するのです。それだけでなく、Ki mbl e が他者を観察する場合、彼 自身の主観性・主体性の役割については、推測をするので しようか、それ とも、彼 自身が現実に経験するので しょうか
?
もし彼 自身が経験す るのであれば、どのような根拠に基づいて、彼 自身の経験を許容可能なのものとして 受け入れ、そ して、他者には、それを許 さないので しょうか?
もし彼 自身の内にそ れを推測す るだけだ とすると、如何なる基礎にもとづいて、彼 自身の推測の正確 さを 確認する ( 妥当とする) の
でしょうか?
私たちが自らに進んで受け入れることより も、貧 しいことしか他者には無い とすることは、それ も、還元論的 eeduc t i oni s t i c ) なのです。扱 うことを回避す るもう一つの方法は、それを一つ の副現象であると考 えることによ
つて、あるいは、単純に、身体のある他の部分あるいは神経中枢組織の活動の効果 と
考 えることによるもので 九 中枢組織 とその機能 を扱 う多数の研究があ ります。 こと
1期肖についての研究が あ ります。それ らは、共に観集可能あるいは記録可能なのです。
そ して、そのよ うな観察可能なもの と経験あるいは行動 とを相関 させ ようと試み るも
ので 九 しか し、厳密 に心理学的 な視 点か ら見 るな らl よ それ らの諸研究は、見当違
い
“
i s di r ec t edl で あるよ うに、思われます。例 え│よ 生鳴 醜 学者のSc hnei der and
Tar s hi s ( 1975, p. 3) は次のよ うに書いていま丸
これ らの分野総てにおいて基礎をな している仮定は全 く同 じです。すなわち、
務掟υ γ 薄
" 夕
移疼蒙 縦ての行為、縦
`
の
感嶽 約 葱曜り
' こ
′ よ それ ′ こ彩床 ι
( 身
夕力 で産に つている、あ る, 解猶 危 採 裏 あるい′ ま→ シ ガ%
吻
甥 解 ワ塘ろ、とい うものです。そ して、それ らは、結局は、神経系 の化学的かつ電気的諸性
質を巻 き込んでお り、…
00、
如何なる外的 な行動的出来事が起 こりうる以前に、
特定の組合せのパ廃滅出来事 ( 生物化学的かつ電気化学的な
) が
、まず起 こらなければな らなしゝ 外的な行動の基礎を成す これ らの内的な出来事 こそが、生□ い理学
者たちが研究す ることなのです。 ( イタ リックは原著による)
心理学者たちな ら、行為、感 清、思考の [ 生理学的
] 基
礎に、とい うよ りは、行為、感 情、思考その ものに、 [ 彼らの研究を
] 集
中させ るであろ う、 と恐 らくお考えになることで しょう。 しか し、 [ 御田 理 学者の研究の
] 焦
点は、心理学に とい うよ りは、生理学にあるのです。それに加 えて、そのよ うな身体的出来事の記録が反映 している
のは、主体 としての身体の活動か、あるいは、客体 としての身体の活動か、 とい う問
いは、問われていないのです。
もちろん、生理学的心理学的諸研究は継続すべきで 九 それは、脳 の機能の理解は
重要だか らです。 しか し、そのようか研究は、学際的であ り、主観性。主体性に焦点
を絞 った研究に対 して補完的 ( 補足的
) な
もの と見なされ るべきで、代替 と見な されるべきではないのです。今 日の問題 は、心理学的度献が 、弱 く未分化であることがよ
りしば しばであること
t Er w
i n St r aus ( 1966) が
かつて申しま したように、「人間が考えるのであって、脳 が [ 考えるのでl 劇 はない」のです。彼 はまた、こ う指摘 し
ま した。総ての脳研究には、少 な くとも二つの脳 が存在す る、一つは研究 されている
脳であ り、これは、 どうい うわけ力、 推測 され るか記録 されている。 もう一つは、研
究者の脳であ り、 これは、正常に働いていて、それ には器具や機械装置が取 り付 けら
れていない、 と。
d) 主
観性・主体性の物質化 はei f i c at i O
n) 主
説性・主体性の不適切な把握に関する最後の戦略 は、主観性
0主
体性は客観化あるいは物質化できるとい う考 えです。 も
ちろん、それは出来ます。しか し、その諸手続きは、主観性・主体性の歪 曲なのです。
なぜな ら、それ らの手続きは、主観性3主体性が生き られてい るがままには捉えない
か らですこそのよ うな状況の下では、主観性。主体性は、尋間 され [ 探究 され
] る
と い うよ りは、有 りあるいは無 しとして指 し示 されるか、ある研究に含み込まれているあるいは除外 されている複数の質の一つ を持つているか どうかが、指 し示 され る [ だ
けな
] の
です。この戦略の一例は、Feni ngst ei n, Schei er and Buss( 1975) に よつて考案 された 自己
意識 を測定す る尺度です占彼 らは、 自己意識の個人差を評価す るための尺度 を開発す
ることを望みま した。そ して、彼 らはこ う述べています。最初の一歩は、「自己意識
の領域 を構成す る行動 を同定す る」ことであった、とCeni gns t ei net al . , 1975, p. 523) .
彼 らが 自己意識の一つの指標 ( 指し示す もの
) と
して行動 を用いていることに注 目することは興味深い ことです。それは、あたか も、外的 な表れな しには、 自分 自身につ
いて気づ く ( 意識す る : awar e of ones el f l こ とが出来ない とで も言 うかの うよ うに、
なのです。この基準が問題をは らんでいることは、直ちに見て とることができます。 な
ぜ な ら、彼 らが用いている分類の二つは、「
内観的行動」 と「自分 自身を思い描いた
り、想像 した りす る傾 向」だか らです。 ―
は、 どのよ うに して、これ ら二つの間
の差異 を行動的に区別す ることが出来るで しょう力、 彼 らは、この区別 をす るのに、
言語的表現を用いた とは言つていないのです。彼 らの戦略は、また、 自己意識は、決
定的な時に、現前す ると想定 していますが、 しか し、彼 らの手続きは、この事実を保
証は していないのです。 さらに加えて、意識の状態その ものは十分に複雑で あつて、
ほ とん どの場合、一次元以上 [ の内容
] を
含んでいるのではないで しょう力、ともかく、これ らの研究者たちは、大学生たち [ を被験者 とす ること
] に
よつて、一つの尺度 を開発 し、それ を、大学生たちでテス トして、医学博士たちを評価す るのに用いた
のです。因子分析によつて、自己意識の二つの異なる状態を定義する三つの因子を提
供 していますЪ それ らは、公共的 自己意識、私的 自己意識 と社会的不安、です。これ
らの尺度上で、人がある尺度点を得 ると、その尺度点は、その人が異なる諸状況の下
で、 どのように成功す るかを解釈するのに用い られ、その状態に因果的説明が割 り当
て られています。 ここでの、大 きな想定は、被検査者た ちがその尺度による検査を受
けた時点 と、彼 らの諸課題を遂行する時点 との間には、連続性があるとい う前提です。
この想定を支持す る証拠は何 も提出 されていません。
これ らの研究者たちは、彼 らが この研究を行つた時彼 らはどの意識状態にあったか
を、報告 もしていませれ 自分たち自身に、この尺度 を施行 しなかったのです。それ
は、その他の意識状態が、この研究を行 う上では、より関係があるか らなので しょう
か
?
彼 らの研究の参加者についても、同 じことが言えないで しょうか?
ある状況下でのある意識状態の物質化は、それが、 もう一つの状況で も支配的で強力 であ り続
けるだろ うとい うことを、保証は しないのです。
主観性。主体性を扱 う、以上四つの戦略のどれ もが、基本的に無効で無力です。どれも、
主観性・主体性をひ どく還元 ( 減少
) さ
せあるいは縮小しているからで九 では、なぜ、るので しょうか
?
それ らの魅力は何なので しょうか?
私がそれを知つているかどうか、確かではあ りませれ しか し、私が信ずるところでは、それ らの戦略は自然諸科学の戦略
と手続きを使倣するために発明されたので した し、心理学が一つの自然科学であると無批
判に受け入れ られ ことで、使われ続けているのです。■
ul l ■・■ ■ t 性
のような現象にとつ
てのその様な戦略の適切性の問題は、■MI l ■・主体性を客観的に研究することを試みる中
では、複数の明瞭な難点があるとい う気づきにも力功わ らず、概 して、主開 醜 学によつ
ては、提起 されては来なかつたように思われま丸
Ⅳ 。誇張 された主観注・ 主体性
主観性。主体性に、それが受 けるべき正 当な注意 を払つている、が しか し、また、
恐 らく誇張 された仕方で強調 している、そ うした二つの視点 は、社会構成主義 と超越
論的現象学です。それぞれを、簡潔に、検討 しま しょう。
a) 社
会澤誠機郵議 二人の機 ′峰 、Smi t h and t t c ki e( 1997, p. 309) が 、定数
るところによれ│よ 社会構成 劇 主義は、次のように述べますし 暉 ´ が住み着い
ている現実は客観的 に与 えられてはいなし、 それは、我々ひ とリー人によって、そ し
て、我 々総てによつて、構成 されている。我々は、我々の知覚を他者 と照合すること
によつて、現実についての我 々の見解 を検証す ることを求める。 ことに、我々 と重要
な諸関係 を共有す る、あるいは、同 じ集団の構成員である、そ うい う他者 と、照合す
ることを求める。」言葉を変えれ7よ 彼 らの見解は、社会的に共有 された見解の一致
が、我 々に とつての現実を、
2燿
ブる」 とい うものです。 イ タ リック1渕詐罰von Cl as er s f el d( 1995, p. 1) は 述べています。急進的構成 [ 築
] 主
義は、「知識 とい うものは、 どのよ うに定義 され よ うとも、人々の頭の中にあ り、思考する人間は、彼または彼女の経験 を基礎に、彼 または彼女が知 ることを構成する以外に選択の余地は
ない とい う仮定か ら、出発す る」、と。それゆえ、この見解では、世界 についての我々
の経験 に関する決定的な最終の言葉は、個人的あるいは社会的にせ よ、主観性・主体
性に、明け渡 されている、 とい うことにな ります。 しか し、この見解は、世界につい
ての我々の網験総てを現実に説明できるで しょうか
?
結局の ところ、もし、「我々の経験に基づいて」 とい う句を完成 させ るな ら、「世界の 勧 」 とい う語 をカロえ
な くてはな らないで しょう。私たちの見解を照合 しなけれ ばな らないのは、他者ばか
りでな く、世界の さま ざまな 「所与」 とも、なのです。 腑動 ヽこ、
] 錯
誤は起 こります。 しか し、それ らのすべてが、社会的諸要因によるわけではあ りません。そのよう
な錯誤の経験 を、解釈 システムが定常に保 たれ るように、合理化することが出来るこ
とは、理解できます。 しか し、そのことが、本当に、客観的 な分析の必要を排除する
で しようか? Kel l y( 1955) の術語「解釈的」
( " c O
ns t r ual " ) の
ほ うが、そのよ うな現象を説明す るには、ずっと優れているよ うに、私には思われま丸 とい うのは、こ
の語 は、人が反応す るあるタイプの所与が、そこか ら生まれ る解釈 に対 してある制約
を与えていることを、含意す るか らですし最後に、社会的な合意は、現実そのものを、
とい うよ りは、現実の意味を構成す ると言 うほ うが、ずっと賢明
( 慎重
) で
あ りま し9
よ り。
主観性・主体性に究極的な力 を与 える第二の見解は、超越論的あるいは構成的現象
学 として知 られていますし この見解においては、主観性・ 主体性にはある水準があつ
て、その水準では、相互主観的で人間の主観性・主体 性の特定の形態に限定 されてい
ない、 とされます。つま り、世俗的 Cwor l dl → な影響 を免れてお り、総ての意味構成
の究極的な源泉である、 とい うのですじ私たちに とつて幸いなことに、この水準の主
観性・ 主体性は、哲学の前提条件であると見な されていて、主観性・主体陛に関す る
私たちの世俗的な諸問題の助 けにはな らないのです。 とい うのは、人間諸科学におい
ては、主観性・主体 性は、世俗的なそれだか らです。人間諸科学は、世俗的な事柄や
他の人間たちと能動的に関わ り、それ らヤ響 され る、人間主観・主体を扱 うのです。
世俗的 な主観性 。
主体性を肯定 し承認することは、必ず しも、超越論的視 点を否定す
ることではあ りません、 しか し、それを受 け入れ ることを強い られ ることで もあ りま
せん。私たちは、 この超越論的問題 を解決 しな くて も、人間諸科学の水準での私たち
の仕事に携わることが出来 るのですЪ とはいえ、そのよ うな哲学的視点があるとい う
ことに気づいていることは大切です。
さて、これか ら、主観性・■ ■l 性に対するより釣 り合いのとれたアプローチである、 と
私が信 じることを表現することを、試み ることにしましょう。
V. 主
観性・ 主体性への適切なアプ ローチ仮に主観性0主体性動 溜撻: を学 んでいることが示 されたのだとします と、それは、
他者の主観性・■Fl 性 が観察可能でないことと、私たちの時代においては、知識の獲得
は出発点が観察可能性に置かれている経験的基準によって進められているからなのです。
そこで、主観性。主体性の問題の根源和 ヽめるべきであるとするなら、直面すべき最初
の問いは、世界のある種の現象は見えないあるいは非感闘的であるかもしれない、と認 め
ることができるか どう力、 とい う問いなの戴
. 知
識を獲得 した とい う主張に何の感覚的根拠も無いけれ ども、でも獲得 していると気づくような、そ うい う知識獲得は、あるで し
ょうれ この問いに対 して、肯定的な答えを出 している現象学者が何知 斗ヽますЪ そこで、
この問題に関係がある、現象学文献に見出される、四つの鴎 咄こついて論 じたいと思いま
丸
■ と 物
的
l Real ) 対非
事
物
的 ⊂
r r eal ) :H
us s er l ( 1983) は
、ここに、幾つかの洞察を提供 して くれています。彼は、空間、 時間の中で現前 ●r es ent s i t s el う し、因果性によつて規定 されている対象 l obj ec t )なら、どんなものでも、「事物的」
O
eal ) と
呼びます。これが、典型的な経験的対 象 として、通常、理解 されているものです。これ1劫日えて、経験的対象の一つの重要 な特徴は、それ らが、常に、見えl appear anc es ) を通 じて現前する、とい うことです。 そのような場合は、対象全体を一度に見ることは決 してあ りません。そ うではなくて、 経験 している人は、 日に見えていない諸局面もその対象に属 していると断定 ( 肯定的 に仮定) し
なが らも、そのような対象のプロフィールあるいは諸局面を知覚するだけです。言葉を変 えれ! よ 現実の対象の知覚は、その志向 されている対象の感 じを良 く
掴 むには、た くさんのプロフィールの総合を要す るのです。ある現実の対象を良 く把
握す るには、複数の異なる見えl appear anc es ) が必要 とされ るのです。しか し、Hus s er l
は、意識的行為 は、その行為 とは独立な非事物的
Cr r eal ) な
対象 を把握することが出来る、 とも主張 しています。それ らには、現実的な諸対象の諸特徴の うちの少 な く
とも一つが欠落 しているのです。そのもつ とも強力 な事例 は、観念 とか数学的 な対象
です。例 え│よ 正義の観念 とか ピタゴ
ラス定理のようなものです。それほど強力では
ない事例 もあ ります。 これ らを、Hus s er l は依然 として「経験的」 と名づけているの
ですが、 しか し、 固 ` 場髪カリガ
' ―
i n常、超越的な対象 を含意 している一一 二
ではな くて、
[ 欄
」H
赫
亀―一■ 主観・主体によつて生 きられているもの一一一 とい う意味で経験 と相関 しているとされます。例 えば、夢 は、時間的ですが空
間的ではあ りません。意味は、因果性によつては規定 されていません。観念は空間の
中にはあ りません。それゆえ、夢、意味、観念 は、事物的な対象では無いで しょう。
強度に非事物的な対象のもう一つの特性は、見えによつて、見えを通 して、現前す る、
つま り、射映によつて現前するのではない、 とい うことです
: そ
れ らは、直接に現前します。 このことは、吟味する必要のある多種多様な局面は無い とい うことを含意 し
ています
L唯
下の視点性は時間的なもので 九 今朝の朝食 を思い出す場合、それが純粋 な現前であるカイ メー ジと混在す る現前である力ヽこかかわ らず、ただ一つの仕方で、
私には与え られています。それ をしつか りと保持 して、その周囲を歩 くこともできま
す。もちろん、時間を掛 ければ、さらに詳細な点を展開す ることが出来ますЪ しか し、
それ らの詳細 もまた、ただ一つの仕方でのみ、現前するのです。 ときには、望んだ詳
細 を得 ようとして も、抵抗に出会 うことさえもあ ります。そ して、 もし、記憶にイメ
ー ジが混在 していない場合は、そのよ うな現前1胡J の視点 をどうやつて得 ることがで
きるのかを知 ることは さらに一層難 しくな ります。感覚的でな く見えを欠いた対象の
直接的気づき ( 覚知
) を
得 ることができるとい うことを確立す るための もう一つの仕方は、人が 自分 自身の ことを意識す る仕方に訴えることで 九 人 は、 どのよ うに して
自分 自身の意識を経験す るで しようか
?
私たちは、意識を見 ることも、聞 く、嗅 ぐ、味わ う、触れ ることも、 しません。それ ばか りか、意識は、空間的に現前することも
あ りません し、原因
=結
果関係ですべてを説明す ることも出来ませ れ 私たち自身の経験を反省す るとき、これ らの経験の直接的な、非感覚的、見えを通 じてのではない
把握が、存在す るのです。Hus s er l は、これが、私たちが主観性・主体性を知る仕方
なのだ、と示唆するのです。事実、Hus s er l ( 1989, p. 69) は、こ う書いていますじ 「
主
観的 。
主体的なものは、 しか しなが ら、事物的なものに反対 している ( すなわち、事
物的なものに対立 している) 、 一つの非事物的なもの Gn i r r eal i t y) である。事物 的なもの と非事物的な もの ( i r r eal i t y) と は、本質的 には、現実 ( 事物的なもの
) と
主観性・主体性 とい う形式て、共存 している。それ らは、一方では、相互に互しヽこ排
除 し合 うが、他方では、既に述べた よ うに、本質的に、互しヽこ他 を必要 とす るのであ
る」
. ■
・ul l ■・主体性の現象は、確立されている経験科学的手続きに対する一つの挑 戦を提起 しています。しかし、それは、この現象を否定する理由にはならないのです。 ブラックホールは、同 じことを物理学者たちに対 して為 したのです。 しか し、物理学
者 たちは、それ らを否定す るよりは、む しろ、それ らをより良 く理解すべくその挑戦
を受けたので した。 それは、ブラックホールでエネル ギーが現れ る仕方が全 く予期外
の ものであ り、エネル ギーについて知 られていた総てのことに反 していたにも拘わ ら
ず、そ うだったのです。
「
非事物的なもの」 ( i r r eal ) の話題に関わつて、主観性・主体性の諸問題 に真正
面か ら対面 した もう一人の思想家は、Mer l eaul Pont y( 1968) で した。彼は、古典的哲学
か ら引き渡 されたもろもろの分割の大部分、その中には主観 ( 主的
=客
観( 銅
の区別 が含 まれていますが、それ らを乗 り超えることを試みたのです。私たちが議論
していた問題への彼の批判的コメン トは次のよ うなものです。「0・ 。生きている身
体が内部な しの外部 になった一方で主観性・主体性は、外部な しの内部 となつた。・・」
帷r l eauッPOnt y, 1962, p. 56) 。 彼が言つていたのは、科学の過度の客観主義が、主観・ 主体の過度の内部化 を導いた結果、両者の間に如何な る関係 も不可能になつた、 とい
う事実を指 しているのです。これ と対照的に、Hus s er l は、事物的なものと非事物的
な もの とは、本質的に、互しヽこ他 を必要 とす る、ことを力説 していま した。それ らの
間には、ある関係がなければな りませれ あるところで、Mer l eauッPont y 0968, p. 215) は、この関係 を、次の よ うに表現 していま丸
意味は月えない う″ あるが、 しか し、 この見えない ものは見えるもの と矛
盾す るものではなし、 見えるものそれ 自体が見えない骨組み をもつているのであ
り、見えることか ない もの[ t he i n―vi s i bl e] は 見えるもののひそやかな裏面なの
であつて、それは見えるものの うちで しか現われず・ 0。
それは見えるものの戦
列の ラらにあ り、それは見えるものの うちに ( 透し模様で
) 描
きこまれているのである… 肌 メル ロ。ポンテ ィ著、滝浦静雄・本 田元訳『見えるもの と見えない も
の』みすず書房、
1989年
、311ペ
ー渕 ( 強調 は康警による)Mer l eau―Pont yの、知覚 と感覚的経験の再生の関す る強調は、見 えるものの内部の見 えない ものを明示的にす ることを試み る課題 と関係 しています。 しか し、もし、それ
が正真正銘「見えない」 ものだ とす ると、 どのよ うに して、為 され うるで しょうか
?
Sal l i s ( 1973, p. 56) によれヤよ 「見えるもの としてではなく、せいぜいの ところ、見
えるものに属す るもの として、自らを示す よう仕向けることが出来 る[ だけである] 」。
その仕方は、形 も色 も無 くては、絵画 の意味は提示す ることが出来ない、その一枚の
絵画の意味が、キャンバスの上の形 と色に属 しているように、です。 こうして、
Mer l eau Pont y の見解では、見えるもの と見えない ものとの間には、互しヽこ他への所
属性があるのです。私たちの主題に関わつては、 このことは、主観的。主体的な もの
と客観的・
客体的なものに、一つの所属性があるとい うことを意味 します。主観的 な
ものを除去 した り回避 した りす るとい う問題ではな くて、主観的な ものにどのよ うに
近づいて、それが、自らを現すよ うに ( 現れるよ うに
) す
るか、とい う問題 なのです。こ
れは主観性・主体性を、科学的企てを含む、その企ての総てにおいて、使 う人間に
とつては、不可能な課題であつてはな らないはずです。
2) 原
因=結
果 ( 諸) 関
係 対 志向的 ( 諸) 関
係 も う一つの重要な区別 は、原因=結
果関係 と志向的関係 との間の区別です。 自然諸科学は、常に、原因=結
果関係 を探 し求めます。実験室の構造そ のものが、この前提に基づいています。つま り、もし
可能な ら、総ての他の諸要因を一定に保 ち、そ うして、独立変量の従属変量介の効果
を観察せよ、 とい うわけです。
現象学者に とつては、原因
=結
果の諸関係は、人間の内部で も、人間にも、確力ヽこ起 こ ります。 しか し、 この関係 は、他 を排除するものではあ りません。人間は、志向
的お よび動機的 ( 現学的な意味で、心理学的 な意味ではない
) な
諸関係 も経験 します。志 向性 とは、意識の諸イテ為は、それ らの行為 とは独立の諸対象に向けられているとい
う事実を指 します。主観。主体が、 もろもろの志向的行為の源泉です。このことは、
主観。主体は、 自らについて反省す ることが出来 るばか りで無 く、常に、世界 とその
諸対象に向けて方向づけ られてい る、 とい うことを意味 します。「
主観・ 主内 とい
う言葉は、そのような行為の源泉 としての身体を含みます。それゆえ、主観・主体の
観念 ( l dea) は 、意識の観念 よ りも広いのですしそ して、身体主体 もまた、志向的な
ので 九 すなわち、身体は、世界に向 う、諸能力 、諸力、諸運動の中心なのです。そ
れは、また、空間的方向づけ l or i ent at i on) の 中心で もあ ります。
しか しなが ら、原因
=結
果関係 とは異な って、志向的関係は、事物的なeeal ) 関
係 ではあ りません。事物的な対象 との私の志向的な関係は、その対象を変化
( 変容:
nl odi f yl させ は しません。私がす本の樹木を知覚する場合、その本は、前あったその
ままです。その樹木 は、空間の中にあ り、時間の中にあ り、その諸特性は、多 くの要
因の効果 として説明す ることが出来ます。私のその本の知覚は、時間の中で起こり、
一定の空間的方向付けを要 します。
他方、私の知覚には、ある因果的諸過程が関わ りますが、それ らは、私の知覚の総
てを説明す ることはできません。知覚には、特定のプロフィール と主観的意味が含 ま
れ るか らで 九 さら1動口えて、後になって、私は、その本 が不在であって も、その木
を思い出す ことができます し、その同 じ意味に現前す ることが出来ますじ次のように
言 うこともできま しょう。世界の中の諸対象 l obj ec t s ) を 私が知覚 しても、その対象
を変化 させ は しないけれ ど、その対象へ
の関係 は、私の主観性・主体性を変化 させ る
ことが出来 る、すなわち、知識が獲得 され うる、 と。主観性。
主体性が知識を獲得す
ると、主観・主体は、活動 を通 して、世界 とより良 く交渉す ることが出来る、が、獲
得 され る知識そのものは非事物的な ( i r r eal ) 結 果なのです。
3) 基
体[ 実質] ( s ubs t anc e) 対 同一性 ( ェdent i l yl :事物を扱 う自然諸科学は、「勤 ( s ubs t anc e) と い う語 を、その相関語である 町昌
内
l c c i dent s ) と
い う語 とともに、用いることが容易であることに気づ きま した。「
基体」は、ある事物に本質 ( 内在
) 的
に属す ること、それ をそれ と成す もの、を指示 します。「偶然」 とは、随伴 ( 偶然
) 的
( c ont i ngent ) な 諸特性で した。 しか しなが ら、主観性・ 主体 性を理解す るということになると、同一性 edent i t り がょ り良
い語である、 ことに主観性。
主体性を統合するものについて語 ることが問題である場
合 には、そ うであるとい うことを、Mohant y( 2000) は、 どち らか といえば納得の行 くよ
うに、論 じています。同一性 もまた、基体 とはかな り
異なる諸特性 を指示 します.
Mohant y( 2000, p. 841は
、主観, 主体の同一性は予 め与え られてはお らず、継続的に繰
り返 し再建 されなければならず、それは決 して完結 しない、 と書 き留めていますし人
の究極的な同一性は、人生の経過 を通 じて確立 され る同一性の さまざまな水準あるい
は、特定タイプの同一性の中では、比較的高い序列に位置す る同一 性なのです。同一
性 の達成は非事物的、あるいは、見えない ( i nvi s i bl e) のです。
4) 超
越的 l Tr ans c endent ) 対 内在的Cm
m
anent ) : こ
れ らは、私たちが大まかに 「外的」 l out er ) と 「内的」 ( i nner ) と 呼んでいることに対 して、Hus s er l
が使っ
ている用語です。超越的対象は世界の中にあって意識の一部 ではあ りませんじ内在的
対象は、その対象 を経験 しつつ ある行為と同 じ意識の流れに
属 している対象で 九 森
の中のある木は第一のタイプの対象の一例です
: そ
の同 じ木 の記憶は第二のタイプの一例で 九 こ
れ らの二つのタイプの対象が経験 され る場合、つま り、森の中の現実の
本 と同 じ木の記憶 とが経験 され る場合、それ らは、意識の志向的対象 とな り、そのよ
うなもの として、それ ら両者は、それ らを現前 させ る行為か ら独立
[ 原文には
i ndependent とあるが、恐 らく、dependent の 誤 りであろ
う。訳者
] で
はあ りませれHus s er l に
よるこのことの証明は、ある対象が内在的であろうと超越的であろ うと、多
様な諸行為がその同一の対象 を把握できるという事実です。内在的な諸対象 に関 して
は、このことは重要な事実です
Lと
い うのは、そのことは、それ に続 く表現行為によつて内在的な志向的対象 を他者にコミュニケー トできるとい うことを意味するか らで
す。このことは、対象が事物的であれ、経験的あるいは非事物的であれ、成立す るの
観
さて、これ らの区別で備 えて、私たちは
、元の問しヽこ立ち戻 ります。次の条件を満た し
なが ら主観性・主体性に接近す るには、
人は、どのよ うにすべきであろ うか
?
つま り、それ [ 主観性
0主
体性
] を
最適な仕方で理解す るために、それが現前する仕方に忠実であ り続 ける、 とい う条件です。たった今行つた四つの区別 に関 して言えば、主
観性・主
体性に接近す る際の歴史的困難の主要な困難 とその理由は、理解 された主観性・主体性
は、最 も包括的 に四つの区別の総てに渡つているということです。身体化の故 に、身体
化 した主観性・主体性は基体的であ り、原因
=結
果諸関係に冒 され易 い事物的超越的対象である、と言 うことができま丸 しか し、今述べた命題の強い経験的な諸特性か らは、
身体化 した主観性・主体性は外れて er ai l s of f t O s us t ai n) 、 志向的諸関係 との内在
的非事物的同一性 を維持す ることになる、とい うのも、同様に真実なのです。後者の諸
特性は、心理学が 自然科学 となって以来用い られた もろもろの方法論によって最 も傷つ
け られて来た諸特性なのです。具体的な 日常生活は、こ
れ らの諸対立をかな り上手に結
合 させているよ うに思われ るのに対 して、厳密 な
科学的諸方法は、一層の困難 を抱えて
いるよ うに思われるので九 この等式の頑丈な経験的な側面には、長い歴史があ ります