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わたしのくすり箱 絵本の窓から眺めたこと 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

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わたしのくすり箱

絵本の窓から眺めたこと

My Medicine Cabinet

Views from the Windows of Picturebooks

石 原 敏 子

ISHIHARA Toshi

More than forty picturebooks were brought to the author while she was in hospital for treatment of cancer. The paper tells how picturebooks supported her in the struggle with fear caused by the disease, and talks about the medicinal effect picturebooks may have.

The picturebooks referred to in the paper include Errol Le Cain’s Mr Mistoffelees with Mungojerrie and Rumpelteazer, Margaret Wise Brown’s Good Night, Moon, Antoine de Saint-Exupéry’s The Little Prince, Verma Aardema’s Bringing the Rain to Kapiti Plain, and so on, along with works by Japanese artists, such as Mitsumasa Anno, Ryusuke Saito, Heijiro Taki, and Hideko Ise.

キーワード

絵本 , Errol Le Cain, Margaret Wise Brown, Antoine de Saint-Exupéry, Verma Aardema, 安野光雅 , 斎藤隆介 , 滝平二郎 , いせひでこ

0  はじめに

 2008 年春から夏にかけて、国内研究員として、絵本や児童文学についての研究を進め、日本 各地の絵本館などを巡る数ヶ月を過ごした。その後、盛夏、S状結腸癌であることが判明した。 それ以前の数ヶ月、いつまでも消えない疲労感と、時々感じる下腹部の痛み以外、自覚症状も なかったので、癌告知は青天の霹靂であった。かつて子宮頸癌を発病したことがあったが、そ れからほぼ十年たった今、癌は、もはや私にとっては身近なものではなかった。

 一度目の癌の時には、初めての大きな病気であったため大いに動揺し、「癌」という言葉に死 の恐怖を感じた。人間の生は死と隣り合わせであること、すなわち、毎日生きることは毎日死 につつある過程にあること、と頭では理解していたものの、実際、死の可能性が眼前に大きく 研究展望

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開かれたとき、私の気持ちの混乱はどうしようもなかった。魂の訓練ができていないことを痛 感せざるをえなかった。

 そのあと、治癒していく過程で、魂の訓練には何が必要かわからないまま、心の平安を求め ていろいろな方面の本を読み進めた。そのうちに、心地よく感じる空間を見つけ出すことにな った。それは、児童文学と絵本の世界であった。こうして、この数年間は、絵本や児童文学と 共に、多くの時間を過ごすこととなった。

 そうした中での今回の癌告知である。果たして前回より魂の準備ができていただろうか。医 師との面談において、「手遅れではないが、初期ではない」「転移している可能性もある」とい う言葉に衝撃を受けながらも、以前より冷静に状況を把握しようとする自分がいたことを記憶 している。

 それでも、今回の入院に至るまで、やはり自分の気持ちに大きな揺れが現れた。そんなとき 自然と手が延びたのは、以前からよく読んでいた数冊のお気に入りの絵本であった。絵本が私 を支えてくれることに気づき、今回は、絵本を持って入院しよう、一日一冊絵本を病室へ届け てもらうことにしよう、と決めた。

 こうして、絵本に寄り添った入院生活が始まることとなった。

 入院前に、病院へ持っていく絵本のリストを作ろうと思い、数冊の絵本のガイドブックにあ たってみた。「○○のときに読みたい絵本」という項目別に絵本を紹介するものである。しか し、どれを見ても「死の不安と闘うときに支えとなってくれる絵本」に類する項目はなかった。 それならば、自分の感覚で読んでいくしかない。与えられた本をどう読むかを実践していくこ とで、自分の気分にあった読書が出来ると考え、家族のものに選書を頼むことにした。(選書と いっても、我が家の書棚からであるので、私の選書をすでに経ていることになるのだが。)  いろいろな絵本(40 冊ぐらい)が病室に運ばれ、そのときどきの私の回復状態や気分によっ て、心の中にすとんと入るもの、いつまでもその温かさの残るもの、あるいは、読みづらく受 け入れるのが難しいものもあった。以下において、病床にあった私を支えてくれた絵本を取り 上げ、その特徴を指摘した上でその意味を考え、そこから絵本の効用を明らかにしたい。

1  絵本の魔法の世界

Mr Mistoffelees with Mungojerrie and Rumpelteazer, by T. S. Eliot, with pictures by Errol Le Cain. ( Faber and Faber, 1990 )

 この絵本は Errol Le Cain の最後の作品で、死後に出版されたものである。T. S. Eliot の Old

Possum’s Book of Practical Catsから二篇の詩を選び、それに絵を配した本である。すでに、

ル・カインは、エリオットの同作品中の別の詩をもとに、絵本 Cats を制作しており、彼独自の 猫の世界を描いていた。

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 Mr Mistoffelees は、“a magician”(魔術師・手品師)だ。黒猫の黄色に光る鋭い目が、見る 者を引き付ける。トランプの首飾り、赤いリボンの付いたシルクハット、輝く月と星の付いた マントを身にまとい、おしゃれだ。エリオットによると、この猫の身のこなしは“vague and aloof”で、まさにその通りにル・カインはこの猫を描き出している。猫の自信満々の様子がよ く伝わる。星のマントの変身もおもしろい。テーブルクロス、マント、ステージのカーテンと 変化する。この星と月の黄色が、黒猫の輝く眼と映し合って、この猫の神秘性を増している。  ページ上の絵と言葉のバランス、空白の使い方、ある見開きでは、左ページに人間をシルエ ットで描き、その右ページには、子猫たちを白いページの上に黒で配した色の妙。全篇で 60 行 しかない詩の描写から、これほどまで魅力的な絵物語を作り上げるル・カインの想像力に、感 服せざるをえない。

 入院前の研修旅行で安曇野のちひろ美術館を訪れ、その収蔵庫で、黒猫の原画を見せてもら った。一目見ただけで、私はル・カインの絵の魔法に捉えられてしまった。彼は、「イメージの 魔術師」とよばれており、細密画を思わせる精密で優美なイメージを作り出す画家としてよく 知られている。

 ル・カインのこの作品は、彼が当時患っていた癌からくる激しい痛みに耐えながら制作され たと、読んだことがある。1)彼はどんな思いでこの作品の絵を描いていたのだろうか。絵を描 き、想像の世界に身を委ねることで、現実の自分の今ある状況を越えたかったのだろうか。絵 本制作は、彼にとって、別世界に遊ぶ手段だったのかもしれない。別世界への旅の切符として の絵本は、入院前および入院時の私自身の気持ちにも、有効に働くものであった。

 「今回の入院生活では、ル・カインの黒猫の導きを受け、絵本の魔法の世界に入っていくこと にしよう。」( 8 月 11 日の日記)

2  眠れない夜

2 — 1   『おやすみなさいのほん』 マーガレット・ブラウン / 文,J. シャロー / 絵,いしい ももこ / 訳(福音館書店,1962, 2007 )

 どのページにも、平安のうちに眠る動物たちが描かれている。ゆったりと静かな眠りに身を ゆだねる動物たちの寝顔。最後には人間のこどもが描かれ、これら全てのものの上に「神の加 護がありますように」という祈りが続く。

 この絵本をはじめて開いた時、その配色の珍しさ(ピンク、グリーン、茶色)や、イメージ の描き方になじめず、違和感を覚えると同時に、どこかで出会ったような感じがしてならなか ったことを思い出す。しかし、何度も読み・見ているうちに、心地よく感じるようになった。

「ねむたい○○たち」というリフレインが作り出すリズムと、幸せそうな寝顔のくり返しが、読 むものをも眠りへといざなってくれるようだ。後日、Barbara Bader の American Picturebooks

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from Noah’s Ark to the Beast Withinを読むことで、シャローがメキシコ生まれの祖父の影響 でマヤやアステカ文化・芸術、そしてメキシコの壁画に強い関心を持っており、彼の絵の描き 方にそれらの特徴を彷彿とさせるものがあると気づかされた。それこそ、わたしが最初に抱い た感覚の原因であったと理解するにいたった。(265⊖276)

 この絵本の偉大なところは、読むものの心を静めてくれるという点にあるだけではない。心 を拡げてくれるところに、その魅力のかぎがある。ねむそうな動物を描くページの間に、眠っ ているものとして、帆掛け舟やエンジンが含まれている点に注目すべきであろう。生物と生物 の間にはさまれた、無機質な機械を描いたこのページに、一瞬戸惑いを覚える読者も少なくな いだろう。それでいて、読者の読みは、自然と次のページへと進んでいくから不思議だ。考え てみれば、こどもにとっては、動物も機械も存在としては同じものなのだ、ということに気づ かされる。こうしたこどもの認識の仕方をもう一度取り戻すとき、おとなもこの絵本に描かれ ているような静かな眠りを、再び容易に手にいれることができるようになるのかもしれない。  「皆、眠っている。一番無防備な状態にある彼らを見ていると、見ているものまでが穏やかな 気持ちになる。

 今日も、静かに眠りたいです。そして、明日も。明後日は手術です。」(8 月 12 日の日記)

2 — 2   『おやすみなさい おつきさま』 マーガレット・ワイズ・ブラウン / 文,クレメン ト・ハート / 絵,せたていじ / 訳(評論社)

 手術後数日して届けられた絵本である。手術前から読んでいた『おやすみなさいのほん』の 作者マーガレット・ワイズ・ブラウンが文を書いている。テキストは前作よりもさらに簡潔な ものとなり、子うさぎの部屋の中や外にあるものを挙げたあと、それらに「おやすみなさい 

○○」と声をかけていく、単純なフレーズのくり返しだけで構成されている。クレメント・ハ ートが絵を担当しており、前作のジャン・シャローとは、描く方法や色使いにおいて、大いに 異なっている。はっきりとした輪郭を持ち、濃い緑と赤と黄色の原色を基調とした絵が、子う さぎの部屋を魔法の小部屋に変身させている。暖炉の上の置時計から、このストーリーには一 時間の経過があることがわかる。

 まだ眠りにつくことのできない子うさぎが、ベッドから自分の部屋にあるなじみあるものに、 おやすみの挨拶をしていく。呼びかけの対象は、部屋の中のものにとどまらず、部屋の外にあ る月や星へとつながり、子うさぎの感覚は大きな宇宙へと拡大していく。また、彼は、耳にす る音にも呼びかける。身近なものから部屋の外へ、そして大きな存在へとつながっていくとこ ろは、前作と似ている点である。自分を取り巻くさまざまなものに対して、軽やかにおやすみ が言える。何とも穏やかな心になれる。

 手術後ということもあり、この絵本は、私を心穏やかな眠りに導いてくれた。

 私の手元にあるのは、この絵本の出版 50 周年を記念する版で、絵本と共に、この作品の成り

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立ちを説明するエッセイが収録されている。これを読み、ブラウンおよびハートの制作の秘密 を知ることも、この絵本を読む楽しみを増してくれるものだった。

2 — 3   『アルフィとくらやみ』 エロール・ル・カイン / 絵,サリー・マイルズ / 文,ジル ベルトの会 / 訳(評論社,2004 )

 大人が絵本を読むことの重要性を指摘されている柳田邦男氏の仕事をとおして、入院前から 多くの本に出合わせてもらっていた。『大人が絵本に涙する時』において、ル・カインの『アル フィとくらやみ』が挙げられている。この絵本に関して、入院中のわたしの読みは、氏の指摘 されることとは少し異なるものだったので、それを紹介したいと思う。

 柳田氏は、『大人が絵本に涙する時』において、ある看護師の次のような経験を取り上げてお られる。彼女は、ある患者が消灯後に眠れずに一人ベッドに座っているのを見たとき、その人 の不安な心を見た思いがした、ということである。この患者さんが感じていたような不安な気 持ちを和らげる方法として、氏は絵本を読むことを勧め、「眠れぬ夜に読む絵本」を数冊挙げて おられる。その中の一冊が、『アルフィとくらやみ』である。

 この絵本は、「イメージの魔術師」ル・カインの作品であるので、イメージによる魔法の世界 を期待していたわたしは、現実に近い描写に違和感を覚えた。しかし、どことなくなじめない 感じは、絵の描き方に対してだけではなかった。

 ストーリーは、暗闇を擬人化し、それと仲良くすることで、登場人物の少年が暗闇に対する 恐怖を克服するというものである。少年アルフィの前に、暗闇は「くらやみくん」として姿を 現す。くらやみくんは、光の前では見えなくなるだけで、実は、昼も夜も自分と一緒にいるこ とを知らされ、いつも友達がそばにいることで、アルフィは安心を得るのである。

 柳田氏によると、この絵本の作家、サリー・マイルズは、イギリスの歌手、女優であり、演 劇の脚本や演出をも手がけていたが、47 歳で病気になった後は演劇の仕事を離れ、子どもの本 作りに専念したということである。彼女自身も眠れぬ夜をすごしたことであろう、と柳田氏は 推測されている。

 さらに続けて柳田氏は、暗闇を人格化しアルフィとくらやみくんを友達にしてしまうという、 ファンタジーの世界を作った彼女の想像力を高く買い、「暗闇が怖いものでなく、いつもそばに いるやさしい心の持ち主だという発想に、私は闘病中の作者の思慮の深さを感じ感銘を受けた」

(62⊖63)と述べておられる。

 しかし、実際にわたしが病院の消灯後の暗闇に包まれたとき、そのときに生まれてくるさま ざまなことに対する恐怖は、この絵本の作者による暗闇の存在の説明では払拭できるものでは なかった。むしろ、わたしは、この絵本に、光と闇、生と死が同居していること、すなわち、 生と死が表裏一体であるという、常に私の頭から離れることのない認識を、強く読み込んでい たのである。(もちろん、自分が病気でなかったら、そして死をそう身近に感じることがなけれ

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ば、こういう風には読まないだろうとも思っていたが。)はたして患者さんたちは、この絵本の ファンタジーの世界にやすやすと入ることができるかどうか、疑問を感じた。

 暗闇をも友達にしてしまうアルフィ、あるいは、作者の想像力は、当時のわたしには欠けて いたようだ。可視・不可視性の説明により暗闇を論理的に手なずけることよりも、マーガレッ ト・ブラウンの絵本に見られる「ねむたい ○○」、「おやすみなさい ○○」といった、短い 句の反復によるやさしい祈りに似た言葉や、脈絡なく自由に空間を移動する視点に身を委ねる ことが、私にとっては救いであったと言える。

 退院後、『おやすみなさい おつきさま』の英語版を読み返し、オリジナル版では、この眠り に誘うリズムが押韻により補強されていることを確認した。“And two little kittens/ And a pair of mittens”や、“Goodnight bears/ Goodnight chairs”という具合である。単調なリズムのく り返しに、音のくり返しが加わり、読者の耳により心地よいものとなり、心を落ち着かせてく れる。こういうものこそ、体力のない体にもすんなりと入って来てくれるのだろう。

3  自分への講義

3 — 1   The Little Prince, by Antoine de Saint-Exupéry. Translated by Richard Howard.

( New York: Harcourt, Inc., 2000 )

 今回の入院を告げられた時、病院へ持っていくものとして第一番に用意したのが、この本だ った。今まで何度読んできたことだろう。人を愛すること、ものごとを深く見つめること、人 生を真の意味で生きることなどについて、読者のその時その時の心のありようによって、いろ いろなことを示唆してくれる大切な本だ。『星の王子さま』が伝えるメッセージは、入院生活の いろいろな場面で、鮮明に浮かび上がってきた。

 病室にある飾りボードを白板に見立て、その前に立ち、母と姉を聴衆として、私は手術直前 まで『星の王子さま』についての講義(のようなこと)をしていた。この本の第一章について である。象を飲み込んだウワバミを外から描いた絵を見て、それを帽子と思う大人の認識の仕 方と、その中身まで見通す心の眼を持つこどものそれとの違いを説明している有名な箇所だ。 この部分は、「大切なことは目に見えない」という、本の後半で王子がきつねから受け取る秘 密、そしてこの本が伝える最も重要なメッセージと、密接に関わっている。さらに続けて、作 者は、魂が本来あるべきところに帰ってしまった後、私たちの肉体は単なる抜け殻にすぎない、 とも言っている。この共感すべきサン=テグジュぺリの考えを自分の言葉で語りなおしながら、 家族がわたし自身の状況をこうした文脈の中で捉えることを願っていたのだ。はたして二人が わたしの意図を理解してくれているかどうかは、わからなかった。後日確かめたところ、二人 は、『星の王子さま』の本の内容によって、わたし自身の状況を説明しようとしているとは、全 く気づいていなかったようだ。二人には伝わらなかったが、わたしにとっては、自分を納得さ

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せるために必要な、自分に向けての必死の講義であったのだ。

 また入院生活の別の場面で、『星の王子さま』のエピソードが思い起こされることがあった。 手術前、腸内をきれいにするため、何度も下剤を飲まされた。結腸がほぼ詰まっているため思 うように薬が効かず、どうしても上に戻してしまう。何度も吐いては、ミネラルウオーターで うがいをする。水がこんなにおいしいと感じることは、それまで無かった。また、手術後三日 間は点滴のみで、四日目に許可が出て水を一口含んだ時には、最高においしいと感じたものだ。  どうしてあんなにおいしいと感じたのだろう。今思うと、単に生理的に体が水を欲していた からという理由だけではない。それは、王子さまの砂漠での経験と類似するところがある。王 子さまが砂漠で飲んだ水は、とてもおいしかった。それは、パイロットと二人で砂漠のなかを 一晩中探し回り、やっと見つけた井戸からパイロットが汗して汲み取ってくれた水だったから だ。王子とパイロットの心と心のつながりが、砂漠の水を命の水に変えたのだ。それと同様に、 医師や看護師の献身的な医療行為を裏付ける、患者に対する強い責任感(ちょうど自分の星に おいてきた花に対する王子の責任と同類のものであろう)や、私の苦しみを共有し励まし続け る家族の愛情が、単なる水を砂漠の民に与えられたマナのように甘美な飲み物に変えてくれた に違いない。

 さらに、『星の王子さま』は、夜空にも現れた。王子は地球を去るに際し、パイロットが自分 の不在を悲しむことがないように、次のように伝えていた。自分の星は小さいので、どの星が 彼のものかはパイロットにはわからないだろう。そのため、星の上で王子が笑っているのを聴 こうとすると、パイロットにはどの星も笑っているように見え、たくさんの笑う星を手にいれ ることになる。王子のことを考えることによって、今まで存在もしなかった素晴らしいものが 生まれ、世界が一転するというのである。大切にしていたものが心の中に残り、記憶として立 ちあがってくるプロセスを、美しいイメージで見事に描き出す心動かされる場面である。  皆が寝静まった病棟で眠れない夜を過ごすとき、たくさんの星をいだく夜空を見上げ、王子 の笑い声を聴くべく耳を澄ますことが幾晩もあった。そうすることで、暗闇の恐怖の世界は一 転し、静けさをたたえる悦びの世界へと姿を変えるのであった。

3 — 2  Cloudland, by John Burningham. ( London: Red Fox, 1996 )

 両親と山登りに出かけていた、この絵本の主人公 Albert は、誤って崖から落ちてしまう。両 親は彼が死んでしまったと嘆くが、アルバートは、雲の上に住むこどもたちに救われる。雲の ベッドに寝かされ回復したのちは、雲のこどもたちと、空でさまざまな遊びを楽しむ。しかし、 しばらくして両親のことを懐かしく思い出したアルバートは、家に帰らせて欲しいと天の女王 に頼む。次に目が覚めると、彼は自分の部屋のベッドにいて、側には彼を見守る両親がいた。  John Burningham が描く雲のこどもたちは、無垢な笑顔を浮かべ、羽こそ持っていないが、 ゆったりとした白い服を身にまとい、まるで天使のようだ。死が、ここで描かれるように、天

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上で天使と遊ぶことのようであるとすれば、それは決して恐怖ではない。むしろ、よろこびと して受け入ることができる、と手術前の私は思ったものだ。もし、万が一、私が生還すること がなかったとしても(病気のときは、否定的に考える傾向が、どうしても普段より強くなって しまう)、天上で天使とこどものように遊べるならば幸せだと、言い聞かせたかったのだろう。 この絵本を読むことで、The Little Prince の場合と同様に、私は、入院・手術前の死の恐怖を 越えようとしていたに違いない。

 バーニンガムは、この絵本のために、空に浮かぶ雲の写真を自身で撮影し、そこに絵の具で 絵を描き、また、こどもの絵を貼り付けたりしている。この手法により、現実の空を背景とす ることで、天上のこどもたちの遊びの世界との微妙な距離感が生まれる。そこにありそうに見 えながら、実は現実とは異なる、そんな異次元の経験を描き出しており、そのおかげで、天上 の遊びの、この世を越えた雰囲気を伝えることに成功している。

4  自然の中で存在する自分であること・存在の大きな鎖の一環

Bringing the Rain to Kapiti Plain by Verna Aardema, with pictures by Beatriz Vidal.

( New York: Scholastic, 1981 )

 以前からお気に入りの絵本である。今回読み直してみて、自然においては全てのことがつな がっているということを再確認した。自然の中に自分があるという認識が、入院前の死の恐怖 から救ってくれていた。私にとっては、重要な絵本である。哲学書でもなく、宗教書でもない、 絵本が、入院前の混乱する私の気持ちを落ち着かせてくれる役割を果たしていたのである。  ストーリーは次のようである。緑豊かで、たくさんの動物が住むアフリカのカピティ平原を、 ある年旱魃が襲う。この土地が、青年 Kipat により旱魃から救われる様子が語られる。

 雨を含んだ大きな雲が出ている。カピティ平原を覆う雲。

 枯れて黄色くなった草が生えている。草には頭上の雲からの雨が必要だった。あの 雨を含んだ大きな雲。カピティ平原を覆う雲。

 飢えと渇きに苦しむ牛がいる。牛は雨が空から降って来るように、モーモーと鳴い た。枯れて黄色くなった草が、緑に戻るように。草には頭上の雲からの雨が必要だっ た。あの雨を含んだ大きな黒雲。カピティ平原を覆う雲。

 牛の群れを見張るキパットがいる。彼の牛は、飢えと渇きに苦しんでいた . . .

 このように、テキストは続いていく。ちょうど、マザー・グースの“This Is the House that Jack Built”(「これはジャックの建てた家」)のように、関係代名詞節の積み重ねなどにより、 説明文が膨らんでいく。

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 ついに、キパットは、わしが落としてくれた羽で矢を作り、その矢で雲を射ることで雨をも たらし、大地には緑とともに動物たちが戻ってくる。のちに彼は家庭を持ち、今では、その息 子が牛の世話をしている。

 以前、授業で、学生たちとこの絵本の全篇を声に出して読んだことがある。同じ句がくり返 し現れるので、徐々にスピードを上げて読んだ。周りの人の声を注意深く聞き、共に声を出し て読み合うなど、私たちは滅多にすることはない。この経験がもたらしてくれる喜びは、予想 外に大きなものだった。読み終えたとき、クラスは達成感と高揚感に包まれた。当時の私には、 文を積み重ねてストーリーを作っていくうまさと、それを読む楽しみが、単純に面白く感じら れた。この本のテーマ ― 自然の中におけるものごとの連鎖 ― は、頭で理解してはいたもの の、今回読み返し、初めてこの事実を実感することになった。

 自分は自然という大きな存在の鎖の中の一つの環であるということが、ひしひしと感じられ たのだ。今日私はここにいるが、もしかすると明日は物理的にはここに存在しないかもしれな い、どちらにしろ、それは自然のめぐりの中の一場面であり、どちらも自然という大きな全体 の中で、それなりの意味がある出来事である、ということが心から納得できたのである。  この絵本では、見開き全面にカピティ平原がパノラマで捉えられ、自然が大きな時間の流れ とともに移っていく様子が描かれる。用いられている色にも注目したい。豊かな草や木の緑か ら、旱魃の茶色へ、わしの降り立つ空の水色、不気味に漂う雲の灰色、そして再び実りの緑へ と、悠久の時が、プリミティブ・アート風に描かれる様式化された人間や動物たちのコントラ ストで映し出され、見るものの心に深い印象を残す。

 アフリカの民話を語り直し、このテキストを書いた Verna Aardema は、後日病院の私の手元 に届けられた Why Mosquitoes Buzz in People’s Ears? の作者でもある。1976 年のコルデコッ ト賞を受賞したこの作品では、絵の担当は異なるが、テキストは、上に取り上げた Bringing

the Rain to Kapiti Plainと同様に、「ジャックの建てた家」風の句の積み重ねで構成されてい

る。アフリカのジャングルでは、いかに動物たちの行動が互いに影響し合い、つながっている かを説明するものであり、自然界における連鎖というテーマがこの本でも強調されている。ど ちらも、アフリカ民話の持つストーリーの力強さで、自然における人間存在の位置をしっかり と再確認させてくれる。ともに、心に留めておきたい絵本である。

5  希 望

Ferdie and the Falling Leaves by Julia Rawlinson, with pictures by Tiphanie Beeke. London: Gullane Children’s Books, 2006, 2007 )

 かつて、『葉っぱのフレディー』という本が、生命の循環を説き、多くの読者の心を捉えたこ とがあった。Ferdie and the Falling Leaves を手にしたとき、一番に頭に浮かんだのは、『葉

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っぱのフレディ』だった。Rawlinson は何を伝えようとしているのだろうか、気になりつつ、ま だ読んでいない絵本だった。

 秋が近づき、子ぎつねファーディの大好きな木が葉を落とし始める。木のために葉を守って やろうとする彼の努力もむなしく、終には、風がすべての葉を落としてしまう。ファーディは 最後の一葉を家に持ち帰り、ベッドに寝かせ看病する。翌朝早く、彼が木に会いに行くと、枝 にはつららが下がり、それが朝日に輝きキラキラときらめいていた。まるで魔法が生み出した ような光景だった。

 絵本は、こうしたファーディの幼い心の動きを、かわいらしい子ぎつねの絵とともに描き出 している。正直なところを述べると、絵本全体がこどもっぽいと感じ、普段なら私の好みでは ない。しかしながら、入院中にこの絵本を読んだときには、大いに気に入った。その理由はど こにあったのだろう。

 考えられる一つの理由は、自分がそのとき置かれていた状況との接点である。本文中にある 二つの場面に注目する。一つは、葉を落とし始めた木を見て「病気じゃないかな」と心配する ファーディに対し、母親は「大丈夫、秋だから」と声をかけているところだ。もう一つは、フ ァーディが最後の一葉を持ち帰り、小さなベッドを作って寝かせ、看病するところである。こ れら二つの病気についての言及から、〈病い〉という同じ境遇にある自分をストーリーに投影す ることで、本に対して親近感が増したのであろう。その上、どちらの場面も、それぞれ、病気 を否定するもの、そして癒そうとする行為を描くものであるから、私には無意識のうちに心強 く思えたに違いない。

 もう一つの理由は、〈死〉についての考察と結びついている。木から葉が落ちたとき、ファー ディは、リスやはりねずみが冬の巣作りのために葉を持ち去ろうとするのを見て困惑し、やめ させようとしている。このファーディの取る行為は、一見彼の子供っぽさを強調しているだけ のように思われる。しかし、実はこの場面は、この絵本の伝える重要なメッセージと密接に結 びついているのである。木が葉をすべて失ったあとの、最後の場面を見てみよう。太陽の光に 輝くつららを付けた木を見たとき、リスやハリネズミが葉っぱを持って行ったことに、ファー ディが再び言及している点に注目する必要がある。「リスさんと、ハリネズミさんが、葉っぱを 持っていてもいいんだね」と言うファーディに対して、木は枝をふるわせてうなずいてくれる。 ここに、ファーディの認識が、時間を経て変化しているのが見て取れる。すなわち、落ちた葉 は自分の一生を終えその役目を終えてしまったかのように見えるが、実は、他者の役に立つ方 法があるのだということに、彼は気づいたのである。言い換えれば、彼は死の意味を捉え直し たのである。さらに、この場面からは、木はすべての葉を失っても輝くことができるというこ と、すなわち、自分の大切なものを他者に与えることにより、一層輝くことができるというこ とを読み取ることができる。ひととき希望を失ったファーディの喜びは、どれほど大きかった であろうか。そして、ファーディを通して、読者も彼の希望を共有することになるのである。

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 わたしの持っている絵本は、ペーパーバックの廉価版である。紙も上質のものではなく、色 の出方もそれほど美しくなく、印刷も鮮明とは言えない。(ハードカバー版と、どれほどの質の 違いがあるのかはわからないが。)そうしたページが続き、最後から 2 枚目の見開きまで来たと き、ページ一面に銀粉がちりばめられているのを見て、息をのんだ。輝きだけではなく、紙の 上に盛り上がった質感も効果の一つだ。今までのページとは打って変わって、太陽に輝く氷柱 を付けた木を立ち上がらせる見事な技法に驚かされると同時に、葉の死を乗り越え、翌春の生 命の還りに対する希望が生まれてくるのを感じた。

6  楽しく遊ぶ

6 — 1  『旅の絵本 VI 』 安野光雅 / 作(福音館書店,2004,2007 )  8 月 13 日(水)はれ (手術前日の日記から)

 「これは、安野光雅氏の〈旅の絵本シリーズ〉の第六巻で、デンマークを扱っている。デンマ ークの風景の中に、アンデルセンのおはなしの場面がひそかに描き入れられている。本の最後 の数ページに載せられた安野氏自身による説明を頼りに、アンデルセンのいろんなおはなしか らの場面を見つけていくことができる。絵本の楽しみが幾層にも倍増される、よく出来た本で ある。

 しかし、この謎解きのような読み方が、少し面倒なときもあると思う。今の私のような状態 にある場合は、何も考えずに、絵の中の人々の暮らしを楽しむといい。いろんな事をしている 人々がいる。いろんな暮らしが描かれている。そんな中で、自分を自由に遊ばせてみるのもい いだろう。

 安野氏には『蚤の市』という絵本がある。蚤の市でいろいろな道具が売られているところを 描くものである。今の私たちの生活の中にある細々したもの、あるいは、普段の生活ではお目 にかからないものまでが、数多く並んでいる。なにか掘り出し物がないかと興味を持って蚤の 市を散策するときのワクワク感と、「旅の絵本」でさまざまな風景の土地を旅し、その地に住む 人々の生活を知る楽しさは、似ているようだ。病院のベッドだけが自分の自由な空間である私 にとっては、自由に想像の世界を旅することは、今の自分に許された最大の贅沢だ。

 今年の四月の第一回研修旅行で、津和野にある安野光雅美術館を訪れ、多くの原画に触れた。 細かく描き込まれた人々の暮らしや自然の風景、また、一転してシンプルでモダンなデザイン の本の装丁などを見て、この絵本作家の大ファンになった。いろいろな作品を楽しんでみたい。 この旅のシリーズの六巻目は、この春アンデルセンを少し勉強する機会があったので選択した のだが、シリーズの他の絵本も手に入れたいと思う。

 今日は後の解説を読んでいる根気はもうないので、パラパラ見て止めることにする。」

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6—2  A Child’ s Portrait of Shakespeare, by Lois Burdett. (Ontario: Firefly Books, 1995, 1998 )

 この本の著者は、20年以上カナダ、オンタリオの小学校で教鞭をとり、子供たちに Shakespeare が身近な存在となるように、さまざまなプロジェクトを行ってきた。この本(絵本と呼んでも よいだろう)は、シェークスピアの生涯を簡単に説明する著者によるテキストと、プロジェク トで生徒達が描いた絵や文章から成っている。

 こどもたちは、シェークスピアの視点から、あるいは、彼を取り巻く人達の立場から、この 劇作家の人生に起こった出来事を伝えていく。具体的には、彼の誕生を喜ぶ父の日記、劇団が 町にやってくる興奮を伝えるシェークスピアの日記、当時多くのこども達の命を奪い、人々を 震撼させた黒死病の説明、成人してからのシェークスピアとアンとの間で交わされたラブレタ ー、二人の結婚を伝えるニュース、彼の率いる劇団を宮廷へ招待するエリザベス女王の手紙な どがある。おかげで、読者は、この劇作家の人生を多様な側面から捉えることができ、ワクワ クしながら読み進めることができる。また、絵に描かれた人物の衣装や建物の時代考証もしっ かりしており、正しい情報を伝えると同時に、子供たちの用いる鮮やかな配色に、読むものの 心も躍る。こども達の想像力の豊かさに驚かされる。さらに、時折見られるこどもたちの単語 のつづり間違いも微笑ましい。たとえば、“. . . the marriage was a huge sikses!” “We had a big selebrashin!” “His plays were spicktakuler.” などを読むと、舌を噛みそうになって難しいこと ばを発音しているこどもたちの声が、聞こえてきそうである。

 この様に、シェークスピアの人生が、こどもたちの感受性で捉えられ、新鮮なものに生まれ 変わっている。とても楽しくこの偉大な劇作家に近づくことができ、そして、こどものエネル ギーを分けてもらうことで、元気になれる本である。お勧めのお薬の一つだ。

 こどもたち、ありがとう。そして、彼らの想像力を刺激し、能力を引き出してくれたバーデ ット先生、ありがとう。

 私の病室の窓から見える向かいの保育園から、庭で遊ぶこどもたちの元気な声が時折聞こえ てくる。先生の掛け声にあわせて、こどもが歓声をあげながら走りまわっているようだ。その 声にエネルギーをもらう日々が続いた。

7  他者への思いやり

7 — 1   『ハリネズミと金貨』 V・オルロフ / 原作,田中潔 / 文,V・オリシヴァング / 絵

(偕成社,2003,2008 )

 森の小道で一枚の金貨をひろった年取ったハリネズミは、そのお金で冬ごもりに必要なもの を買おうと考える。しかし、実際には、食べ物や衣服は他の動物がプレゼントしてくれること になり、金貨を使う必要はない。

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 何故皆が彼にそんなに親切にしてくれるのかは、最後に小熊が蜂蜜のビンを持って来るまで 明らかにされることはない。2)蜂蜜のビンは、彼が小熊にいつもおはなしをしてくれるので、そ のお礼として母親が持たせたということだ。ここから、ハリネズミは、この様に、いつも他者 に優しく接してきていたにちがいないことが、容易に想像される。母熊が感謝のお礼をするこ と、そして、小熊が冬眠する前に挨拶に来るという点に、ハリネズミの気持ちが一方通行では なく、しっかりと他者に受け止められていることが明らかである。この気持ちの行き来こそが、 このストーリーを心和むものとしている最大の要因である。

 結局、ハリネズミが金貨を使うことはなかった。そして、彼の最後の行為も重要である。彼 は、誰かの役に立つかもしれないからと、その金貨を、見つけた元の場所に置いていくことに するのである。この行為にも、他者への思いやりが見られる。

 このストーリーのキーワードは、やさしさである。それは、見返りを一切求めず与えるとい う姿勢がはぐくむ、心の柔らかさであろう。ロシアの V.オルロフの原作をもとに、この絵本の 文を書いた田中潔氏によると、ロシアでは「100 ルーブリより 100 人の友をもて」という諺が あるそうだ。今日の私たちの社会では貨幣を媒体とすることなしに生活することが出来ないの は言うまでもないが、そうした状況においても、心と心のつながりをより大切にするように、 このストーリーは読者を導いてくれる。

 最後のページには、暖かい部屋の中でプレゼントに囲まれ、ベッドで安心して眠っているハ リネズミが描かれている。やさしさに包まれたとき、ひとはこんなに平安でいられるのだ。治 癒の過程にある私には、このハリネズミを包む隣人のやさしさが心に滲み、とても穏やかな気 持ちになった。

7 — 2   『おじいさんの小さな庭』 ゲルダ・マリー・シャイドル / 文,バーナデット・ワッ ツ / 絵,ささきたづこ / 訳 (西村書店,1997,2008 )

 入院前に研修旅行で訪れた安曇野ちひろ美術館で、この絵本の表紙の原画を見た。当時、企 画展『世界の絵本作家展 II』が開かれており、その中で二番目に気にかかった絵(一番目は、 このペーパーの最初に取り上げたル・カインの黒猫の絵)が、バーナデット・ワッツによるこ の表紙の絵だった。いろいろな種類の花々に囲まれ、お茶とケーキをそばに置き、ゆったりと 煙草をふかしながらおじいさんがベンチで憩っている。この絵を見ていると心が落ち着く。帰 ってすぐに、絵本を注文した。

 おじいさんの庭には、バラ、マーガレット、つりがね草などの花々が、そして、草の間には、 タンポポやひなぎくが咲き乱れている。鳥もたくさんやってきて、さえずっている。

 おじいさんの庭に接して、隣人の大きくて立派な庭があり、そこには、花々が整然と植えら れている。この庭のことを知ったおじいさんの庭の小さなひなぎくは、隣の立派な庭で咲きた いと思う。おじいさんはその願いを聞き入れ、こっそりとその花を隣の庭に植えつける。しか

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し、隣人はその花を見つけると、引き抜いてゴミ箱に放り投げてしまう。ナイチンゲールが持 ち帰った枯れかけのひなぎくを、おじいさんは植え直す。「ありがとう」と言うひなぎくに、お じいさんは「ゆっくり、おやすみ」と声をかける。

 手術後この本を読み、回復期にあった私の心と体の隅々に、まるで乾いた大地に水が滲みこ んでいくように、人のやさしさが行きわたっていくのを感じた。まわりの人に素直に「ありが とう」と言いたい。そして、「ゆっくりお休み」と人に優しい言葉をかけられるようでありたい と、心から思う。ただただ、やさしさに満ちた絵本。この絵本も、私のくすり箱に入ることと なった。

 ちょうど、看護を補助してくれる方が、夕食前にお茶を運んで下さるとき、いつも部屋に絵 本がならんでいるのを関心を持って見ておられた。声をかけたところ、絵本が大好きというこ とで、何冊かをお貸しした。絵本をきっかけに、話が進み、病人と看護人というのではない関 係が生まれた。また、看護師の中にも、こどもが成長したので絵本は読まなくなったがもう一 回読んでみようかしら、と言う方がおられ、その方とも絵本を通し、病気以外のおはなしをす ることができた。心にいつまでも残るストーリーに出会い、だれかに読んで聞かせたり、また、 他の人に紹介する。そうすることで、幸せが二重にも三重にもなっていくのを感じることとな った。

7 — 3  『モチモチの木』 斉藤隆介 / 作,滝平次郎 / 絵 (岩崎書店,1971,2008 )

 この絵本は、上記の二冊の作品とは趣が大いに異なるが、他者への思いやりというテーマは 同じである。手術後、大切な一冊となったものである。

 おじいさん(じさま)と二人で暮らす五歳の豆太は弱虫で、夜中に小屋の外にあるせっちん に一人で行くこともできない。そこに立っている大きなモチモチの木が、夜には大手をひろげ たお化けに見える。ある晩、じさまは豆太に、その日は山の神様のお祭りで、夜中にモチモチ の木に灯がともるが、勇気のある子供しか見ることが出来ないと言う。豆太は自分には無理だ と思っている。

 その夜、じさまは腹痛を起こす。苦しみ呻くじさまを助けたい一心で、豆太は怖いながらも、 医者を呼びに村まで走る。

 薬箱を持った医者に負われて峠道を登ってきたとき、豆太は、枝々の細かい所に灯がともり、 モチモチの木が明るく輝くのを目にした。

 斉藤隆介の文は無駄が無く、じさまと孫のそれぞれに対する愛情、子どもの恐怖と勇気を、 簡潔にそれでいて丁寧に書いている。そうしたストーリーに、滝平二郎の切り絵がぴったりと 寄り添っている。モチモチの木に灯りがともるページを除き、黒を基調とし、色の数を非常に 少なく限定し、背景などの余分な情報を切り捨て、登場人物と木の描写だけに焦点をしぼるこ とで、印象的な場面を作りだすことに成功している。豆太を胸に抱くじさま、じさまにしがみ

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つき安心する豆太を描く表紙の絵は、一度目にすれば読者の脳裏に焼きつくことだろう。紙か ら切り取られて浮かび上がる顔の表情や体の動きが、その時々の二人の気持ちを実に見事に表 現している。少ない線と色で、これほど豊かに人間の心を表現するインパクトの強い絵本は、 他に例がないと言っても過言ではないだろう。

 入院前は、この本を幼い子どもが勇気を獲得するストーリーとして読む一方で、私の関心は、 おじいさんが助かることに集中し、薬箱を持ってかけつけてくれる医者の姿に安心感を覚えた ものだ。手術後読み直してみると、そこには、以前には読み落としていた、もっと深いことが 書かれているのに気づくことになった。すなわち、勇気はやさしさから生まれるということだ。 勇気は、本来人の心に潜んでいるのであろう。言語は異なるが、英語の“courage”という単 語が、もともとはラテン語の“cour-”“cor”「心臓」という語と「場所」を表す“age”から なり、「心のあるところ」と言う意味の合成語から生まれたことが、それをよく示している。心 の中に本来備わっている勇気が、切羽詰った状況において、やさしさによって発動されるので あろう。人間の行動のもとには、やさしさがあるということを、この絵本のおかげで再認識す ることになった。

 「にんげん、やさしささえあれば、やらなきゃならねえことは、きっとやるもんだ。それをみ てたにんがびっくりするわけよ。ハハハ」という、おじいさんのことばと笑い声に大きな力を もらった。

8  再 生

8 — 1  『雲のてんらん会』 いせひでこ / 作(講談社,2004 )

 手術の翌日から、まだ文字を読む元気がない私に、母や姉が絵本を読んでくれた。その次の 日からは、回復も順調で、私自身も絵本の読み合いに参加することができるようになった。私 が声に出して読んだ第一冊目は、いせひでこの『雲のてんらん会』だった。空にかかるいろい ろな雲が紹介され、その時々の作者の思いがつづられている。当時、ベッドから窓の外の空を ながめ、雲の形を見て遊んでいた私の気持ちに通じる絵本だった。ベッドの頭部を上げ、おな かに本が触れないようにして、おぼつかない読み方ではあったが、自分の声が他の人に届くと いう、普段では全く気にも留めないような出来事に、心を深く動かされた。人の声はやさしい と、再確認することにもなった。

8 — 2   The Christmas Miracle of Jonathan Toomey, by Susan Wojciechowski, illustrated by P. J. Lynch. ( Massachusetts: Candlewick Press, 1995, 2002 )

 手術後しばらくは、長い本が読めなかったが、ある日(8 月 22 日)家から届けられたのは、 英語で書かれた大部な絵本であった。英文で書かれた本を読むのは、手術前に読んだ The Little

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Prince 以来だった。運よく、The Christmas Miracle of Jonathan Toomey には、CD が付い ていた。グラミー賞にノミネートされた俳優 James Earl Jones が朗読している。時折挿入され る程よい効果音が、ストーリーを軽やかに運んでくれる。深く重みがあり、また、暖かさを感 じさせる声に導かれながら、耳と目でストーリーを追った。

 妻と子供を亡くした後に移り住んだある村で、ジョナサン・トゥーミーは木彫で生計を立て ている。他人との付き合いを拒む彼は、村のこどもたちから“Mr. Gloomy”(陰気さん)と呼 ばれていた。そんな彼のところに、未亡人 McDowell 夫人とその息子 Thomas が、クリスマス を祝うために、厩でのキリストの誕生の場面の飾りを彫って欲しいと頼みに来る。この依頼を しぶしぶ引き受けたトゥーミーは、羊、牛、天使、賢者、と順に彫っていくが、作り手の気分 を反映して祝祭の趣きに欠ける。その度に、キリストの生誕を祝う彼らは心からの喜びに満ち ているはずとトーマスに言われ、そのように作っていくことになる。トーマスの純真さが、ト ゥーミーの心を縛っている鎖を解き放していく。キリストを抱いたマリア像を彫る段にいたっ ては、今まで見ようともしなかった亡き妻と子供の写真を取り出し、二人をモデルにして、幸 せそうな母子像を完成することが出来た。

 このストーリーは、トゥーミーとマクドウェル親子の間に暖かい関係ができ、各々の再生が 始まる様子を、適度な情感と共に劇的に描き出し、最初から最後まで読者の心をつかんで離さ ない。この作品が、ケイト・グリナウェイ賞や、ウェイ・クリストファー賞をはじめ、さまざ まな賞を受けているのも納得がいく。登場人物の再生と、自分の病気からの回復が重なり、自 身の再生を確認する契機となった作品である。

9  心が外へ向く

9 — 1  『せかいいち うつくしい ぼくの村』 小林豊 / 作(ポプラ社,1995,2007 )  以下に挙げる二作品は、それまで読んでいた絵本とは、明らかに趣を異にしていた。どちら も小林豊作で、アフガニスタンでの戦いをテーマにしたものである。手術後しばらく経つまで、 これらが届けられなかったのには、家人の配慮が働いていたに違いない。

 花の咲き乱れるパグマン村の春、果物がたわわに実る夏の風景、バザールでの人々の行きか い、村人の暮らしが、豊かな色合いで描かれている。そこからは、さくらんぼやすももの香り、 バザールでの食べ物やじゅうたん、本の匂いがただよってくる。少年ヤモは、父とバザールへ でかけ、果物を売る。その売り上げで羊を一頭買い、村へ連れて帰る、というストーリーであ る。

 このアフガンの村や町の人々の豊かな生活に、影のようにつきまとっているのは、戦争であ る。ヤモの兄は、戦争に行って不在であること、春には帰って来ると言っていること、また、 バザールでさくらんぼを買ってくれた人が戦争で足を失ったということが語られ、それぞれ短

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い記述でしかないが、読者に不安感を抱かせる。

 最後の見開きは、読者に大きな衝撃をもたらす。夕ぐれの薄暗がりの中に、開かれた家の扉 が描かれ、中の光がもれている。(一つ前の見開きでは、得意げに羊を引いて帰ってきたヤモを 村人が迎えるが、彼らの家には灯りが灯され、内部は黄色に輝いている。暖かい家庭の様子が 窺える。)四角に浮かび上がる暖かい黄色の光。その黄色で切り取られた四角い空間を背景に、 羊を連れて帰ってきた満足そうな父と、彼を向かえる母の幸せそうな姿が描かれている。前景 に伸びる黄色の光の中には羊がおり、羊の前後にヤモと幼い弟がいる。ヤモは、羊に「バハー ル(春)」という名前を付ける。兄が戦争から帰ってくる日を待ち望んで。「はるは まだまだ 1 ねんちかくも さきです」としめくくられる。

 この見開きの右ページは、一面、黄色に塗られている。左ページの色、またその前の見開き の黄色と同調である。暖色の黄色は、パグマンの村の人々の生活の暖かさを象徴していた。し かし、右ページに配されたたった三行のテキストが、その象徴の意味を完全に裏切るのである。

この としの ふゆ、

村は、せんそうで はかいされ、 いまは もう ありません。

 戦争の悲惨さを、これほど衝撃的なやり方で伝える絵本は少ない。本文中に流れる二本の線

― 心豊かな生活を送るパグマン村の人々の懸命の努力に対して、その生活を根底から覆して しまう戦争という暴力 ― が、ひそかに並行して進みながら、最後には、後者が前者を覆すこ ととなる。この絵本は、戦争が起こりつつあるという現実とその悲惨さをこどもにもわかるよ うに、生活に密着した形で捉えて伝える重要な作品と言えるだろう。作者自身がこの国を訪れ、 立ち寄った村で出会った人々。その村が後日破壊されるということがあったそうだ。

 「なぜこの本が今の自分に効くのか。中島梓さんもどこかで書いていたと思うが(当時、わた しは、彼女の『ガン病棟のピーターラビット』を読んでいた3))、戦争や自然災害で命を奪われ てしまう恐怖などと比較すれば、自分が癌に直面し、想像上の死と立ち向かう恐怖など、ほん の小さなものにしかすぎない。すなわち、自分の命を病気で失う恐怖を、戦争というより不条 理なかたちで命を失う恐怖との対比で捉えなおすことが出来るからだ。このアフガニスタンの 失われた村や失われた命を前にするとき、病気の前で弱音を吐く自分の、なんと卑小なことか。  ちょうど、この絵本を読んだ夜に、テレビのニュースで、NGO 団体「ペシャワール会」の方 が拉致(のちに殺害)されたという報道を知り、ショックだった。これが、現実なのだ。それ に比べて、病気なんて。」(8 月 28 日の日記)

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9 — 2  『ぼくの村に サーカスがきた』 小林豊 / 作(ポプラ社,1996,2007 )

 上に取り上げた絵本と同じ作家による作品で、ここでも、パグマンの村の人々の生活が扱わ れている。

 収穫の秋を迎えたこの村にサーカスが来て喜ぶ人々を、オレンジや茶色をふんだんに用いて 明るく描きだす表紙が、まず読者を引き付ける。ページを開くと、冬には雪が少なかったため 収穫は豊かではないが、それでも、人々が生活を楽しんでいる様子が伝えられる。(この雪への 言及が、ストーリーの最後のアイロニーをより強力なものとすることになる。)しかし、そんな 中で、ヤモの友人ミラドーの父は戦争に行って帰って来ないことが語られ、彼が吹く父の笛の 音が秋の夕暮れに漂い、寂寥感をかもしだしている。読者の耳に聞こえるもの哀しい笛の音と、 黄昏の紫色の色調とがあいまって、戦争が生み出す悲哀が、この絵本の基調になることを予想 させる場面が続く。

 サーカスがやって来る日、村は興奮に包まれる。一日だけの露天市、テント小屋での見世物、 観覧車などの乗り物で、普段味わうことのない楽しみを満喫する村の人々の笑顔が何ページに もわたって描かれる。そんな楽しい一日が終わり、「たのしかったね」「ぼくたちの村はせかい いちだ!」という(ヤモとミラドーのものと思われる)言葉に、村人みんなの気持ちがあらわ れている。ミラドーは、戦争で引き裂かれた心を歌う歌に合わせて吹いた笛の腕を認められ、 サーカスに参加することになり、彼らと一緒に旅立つ。どこかで父親に会えるかもしれないと いう希望を持って。

 村では冬への準備が始まり、ある日、雪がふる。空から落ちてくる雪を見上げる人、はしゃ ぐこどもたち、家の中で暖かく談笑する人たち、みな楽しそうだ。雪は来年の豊作を約束して くれるものだからだ。しかし、つぎの見開きを開くと、左ページには、降りしきる雪を前景に、 その向こうに村の廃墟が灰色で描かれている。そして、右ページには、この冬にこの村が戦争 で破壊され、村人たちは疎開していったことを伝えるテキストが下方に見られるのみである。 豊作をもたらしてくれるはずだった雪、すなわち、自然がこの村の人々の味方になろうとして いるのに、なんと皮肉なことであろうか、愚かな人間の行為がその道をふさいでしまったので ある。

 この絵本が前作と異なるのは、最後に次のような希望の言葉が添えられている点である。「で も、ふゆのあと、かならずはるがくるように、バグマンの村はみんなのかえりをじっとまって います。」クライマックスとしては、前作の方が衝撃的で、戦争の悲惨さをより強力に伝える点 で、効果的であったと考えられる。しかし、第二作目では、アフガンの未来に対する作者の希 望がより切実なものとして表出しているのであろう。希望が現実になることを切に願ってやま ない。

 戦いを扱う二冊の絵本を読みながら、私自身は、〈病室〉〈病院〉〈病気〉という囲いの中に安 全に守られている。まるで、繭の中に身を潜める蚕のように。そうしていることは快適であっ

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た。いつかこの囲いから自ら出なければならないときが来ることは理解しているものの、でき ることならその時期を先送りしたいという気持ちが無意識のうちに働いていたようである。し かし、現実を正視するよう、社会の中へとわたしを引き戻す役割を果たしくれた、絵本二冊で あった。

10 ライフ・スタイル

10— 1   『ターシャ・チューダーの世界:ニュー・イングランドの四季』ターシャ・チュー ダー / 文 , リチャード・ブラウン / 写真,相原真理子 / 訳 (文藝春秋,1996,2008 )  姪からお見舞いにもらった本である。自然に咲く花をいつでも楽しめるよう、Tasha Tudor の庭の花で一杯の、この本を選んでもらった。

 ターシャのバーモントでの生活がよく伝わる素晴らしい写真集である。写真家リチャード・ ブラウンが、彼女の家に一年間通い収録した彼女の言葉と日常生活の断面を美しく切り取った 写真が、見る・読むものの心を充足感で満たす。彼女が淡々とした語り口で、自分の生活を語 っているところが素敵だ。「かなり大部で病人は重すぎるが、言葉、写真とも大いに楽しんだ。 よく効きました。」と 8 月 28 日の日記に書いている。

 この挿絵画家のライフスタイルは、羨ましい限りだ。シンプルで自由で、自分を取り巻く環 境すべてに満足している。バーモント州の大きな土地に、息子の助けを借りて十八世紀風の家 を建て、自分で庭つくりをし、動物と暮らし、古いものに囲まれ、絵を描き、食料や衣類もで きるものは自給自足するという生活を送っている。こうした、自然のサイクルに抗うことなく、 それとともに生きていくという生活の仕方は、現代に生きる多くの人が失ってしまったもので ある。町の本屋に、ターシャ・チューダーの絵本のみならず、彼女の生活を紹介する言葉や写 真集が並ぶコーナーが設けられ、多くの読者を引き付けているのも、納得のいくところだ。  チューダーが送る、自然と直接につながる生活が持つ意義は、私の以前からの愛読書、The

Secret Gardenの作者が伝えているものでもある。父母を亡くし心のバランスを失ってしまっ

た少女、母を事故で亡くし、父から愛情を受けることなく育ち、自分を信じることができなく なってしまった少年、そして息子に愛情を向ける方法を見つけることのできない父親、それぞ れが、自然の力によって治癒していく様子を生き生きと描いた 20 世紀初頭の作品だ。人間と自 然との関係が薄れつつある今日、この小説の評価が再び高まってきているのは、まさに「自然」 な流れであろう。

 また、病院の売店で偶然手にした梨木香歩の『西の魔女が死んだ』も、同様のテーマを扱っ たものである。学校という環境に適応することが出来ない思春期の少女が、祖母(「西の魔女」 と呼ばれている)と生活を共にすることで自然の力を感じ、免疫力を再び高めていく。その過 程で、性・愛・死・魂について大切なことを学んでいくのである。現代の社会に生きる人々が

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求めているものはなにか、を如実に描き出す作品で、最近映画化されたという事実からもその 人気のほどが窺える。

 チューダーの生き方の根底には、常に自分のまわりによろこびを見つけるという姿勢がある。 それは単純なことのように思われるが、実はとても難しいことだ。彼女が引用している、フラ・ ジョバンニの言葉「世の中の憂鬱は影にすぎない そのうしろ、手の届くところに喜びがある」 が忘れられない。負の想像力に捉えられてしまうことの多い私は、この言葉にとても力付けら れる。

10— 2  『おじさんのかさ』佐野洋子 / 作(講談社,1978,2008 )

 「手の届くところにある喜び」を見つけることの大切さは、同じころに読んだ『おじさんのか さ』でも言われるところである。

 大切にしているかさを使用せずに大事にしているおじさん。こどもから、かさに入れてと言 われてもしらんぷり。そのこどもたちが「雨がふったら ポンポロロン、雨がふったら ピッ チャンチャン」と帰って行くのを見て、おじさんもそれが本当かどうか試してみたくなる。実 際にかさをさして雨の中を歩くと、こんな音がしてうれしくなる。

 「一見風変わりに映るおじさんだ。しかし、自分の身の回りを見回すと、このおじさんのかさ に類するものが、多くあることに気づく。本来楽しむことができるものなのに、実は、こちら がその喜びに気づいていないということが、往々にしてあるようだ。こどもの「ポンポロロン、 ピッチャンチャン」を感じる心があれば、雨の日も楽しいだろう。いろいろな小さなことに喜 びをみつけるのは、こどもの得意とするところである。おとなは、それを忘れてしまっている だけなのだ。そんなこどものような気持ちを持てば、もっと多くのことが楽しめるだろう。」(8 月 30 日の日記)

10— 3   『喜びの泉:ターシャ・チューダーの言葉の花束』ターシャ・チューダー,食野雅 子 / 訳 (メディア・ファクトリー,1999,2008 )

 喜びとこどもの心とのつながりについては、ターシャの絵本がよく描くところである。ここ では、上記の写真集と同時期に読んでいた『喜びの泉:ターシャ・チューダーの言葉の花束』 を取り上げる。彼女の人生の指針になった先人の言葉に、彼女が絵を付けたアンソロジーであ る。

 この絵本のまえがきで、チューダーは、この本は、自分に大きな喜びを与えてくれた言葉と 情景を描いたものであると、述べている。彼女に幸せを与えてくれたシェークスピア、コール リッジ、エマーソン、トゥエイン、ソローなどの言葉に、幼いこどもたちが自然の中で屈託な く遊ぶ姿を捉えた、チューダーのやさしい水彩画が添えられている。かつて、彼女の絵は懐古 的で必要以上に甘ったるく思われ、わたしは彼女の作品に違和感を抱いていた。しかし、今回

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読み返して見ると、ことばと絵の関係が意味深く、示唆されるところが多い。引用された先人 の言葉は、それぞれ意味深いものであるが、それだけ読むと抽象的なメッセージで終わってし まうこともある。しかし、そこにこどもの遊ぶ情景を添えることで、喜びを知る方法やその本 質が、より具体性をもって伝えられることになる。こどもたちと自然や動物たちとの交歓の中 に、おとながどこかに置き去りにしてきた、喜びを感じる心が生き生きと働いているのが見え る。その心にこそ、人生を生き抜く際に必要な力が秘められていることが伝わってくる。のち におとなにより発見し直され、おとなの言葉で捉えられる、生きていく上での重要な知恵は、 実はすでにこどもの心の中に、核のように存在していることがわかる。

 ここで取り上げたチューダーの二冊の本のどちらにも、共通して引用されているソローの言 葉がある。自分の「信条」、自分の人生を「集約」する言葉、と彼女が言うものである。「自信 をもって自分の夢へ向かってすすみ、自分が思い描いたような人生を生きるように努力すれば、 予想外の成功がえられるだろう。」

 「自分が思い描いたような人生を生きるように努力する」とは、こころに留めておきたい忠告 である。自分の生活を省み、それが本気でできていないような私には、今もう一度確認してお きたい点だ。「自分が思い描いたような人生」なるものを、明確にする必要がある。

 これからもいろいろな絵本を読み、絵本を中心とした生活を作っていきたい、と思っている が、果たして、どんな風にしたいのかは未だに不明だ。それを見つけていこうとすることが、

「思い描く人生」を作っていくことなのかもしれない。それは、プロセスなのだろう。ターシャ にしても、彼女の庭を作るのに数十年かかったのであるから。彼女がバーモント州の土地を絵 本『コーギビルのむらまつり』で得た印税をもとに購入し、自分の思い描く生活を作り始めた のは、56 歳のことだった。偶然にも、今のわたしと同じ年齢だ。自分はどういう生活を求めて いきたいのか、自問が続く。

 以上、ターシャの最近の生活について、現在形で書いてきた。実は、彼女は、2008 年 6 月に 他界していたことを、このペーパーを書く段階で知った。そのニュースに衝撃を受けたが、そ の一方で、彼女は自然に戻っただけで、今もあの庭にいるはずという気が強くする。そのため、 彼女の今を表すのに、過去形を用いない方が自然であると判断したことを付け加えておきたい。  ベッドの左右、枕元、足元に、自然の持つ力をたたえる本を置き、自然の力に包まれながら、 庭に育つ植物のように、自分のからだが復活していくのを感じていた。

11 最後に

 入院中、いろいろな絵本に出会った、あるいは、再び出会ったものもあった。集中力が低下 しているため、細かい字で書かれた長いストーリーなどは手におえない。絵本は、文字も少な く、絵が多くを語り、読み合いをするにも完結性があってよかった。

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