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m〕 程度と考えられ

ドキュメント内 4章 考 (ページ 54-58)

る。

柱 間装 置 は、 身舎 のみ で あ る妻室 に倣 えば、板 扉 と壁 に復 元 で きる。桁 行

3間

で あ る東北殿 お よ び西 ゴヒ殿 で は東端 か西端

の どち らか一箇所 が扉 口 図¬

後殿復元 〔等角投影図〕1:200

に想定 される。東西掘立柱塀 SA13020に 設けた通路の位置を踏まえれば、東北殿では東側、西 北殿 では西狽Iが扉口となろう。桁行

4間

の後殿 は、東室に倣えば 2間 ずつの

2房

であった可能 性があ り、身舎の両端を扉口に復元できる。 また東室にみ られるように、正面の壁面に連子窓 を設 けていた可能性 も十分に考えられる。架構 は梁の上に本叉首を組んで棟木を支える、切妻 造で最 も簡単な構造である。

4‑4‑2‑4 

築地塀 ・廊

築 地 塀 の

  

兵部省の四至を限る築地塀は基底部の幅が

5尺

〔1,48m〕 で、『延喜式』に記 された規格 によ 復

  

 

れば築地塀本体の高さを10.5尺 〔3.lm〕 程度に復元できる。上端部の幅は

3尺 2寸 5分

〔0,961

m〕、須柱 を用いず、築地の上に直接梁をのせて架構 を設けたと考えられる。

軒 の 出 の

  

築地心か ら外側におよそ7。5尺 〔2.22m〕、内側 に約5.5尺 〔1.63m〕 のところに両雨落溝があ 復

  

 

るが、 これほど軒の出があったとは考えにくい。内側の雨落溝にわずかに軒がかかる程度 とす

れば、軒の出は築地心か ら4.7尺 〔1,39m〕 程度に復元で きる。

廊 の 復 元

  

廊 は、築地塀の内側に高さ10cm程度の低い基壇 を造成 し、その上に礎石建ちの側柱 を設けて いる。柱間寸法は桁行・梁行共11尺 〔3.25m〕 、基壇の出は側柱心か ら

3尺

〔0.89m〕 で、軒の 出を3.7尺 〔1.09m〕 程度に復元できる。側柱筋の柱間は基本的に吹放 しで、区画塀 との取 り付 き部分 を壁 としていた可能性がある。

片 廂 廊 案

  

従来、廊は築地塀に差 し掛ける片廂廊 に想定 されてきた。 しか し片廂廊では屋根勾配か ら板 葺に しか復元 し得ず、また板葺に一般的な

3寸

勾配にした場合、軒高がおよそ

1.9m程

度 と低 く

なって しまう難点がある。廊への改4笏が東門の改築 と一連 とすれば、築地塀 を単廊 として屋根 を大 きく改I少した可能性 も考えられる。

 

 

  

単廊 に復元する場合、ほぼ同規模の建物 として法隆寺回廊が参考にできる。法隆寺回廊 は天 平19年 (747)以前に完成 したと考えられる、古代の回廊 としては唯―の現存遺構である。 これ

44 

建築遺構の復元

に倣 えば、外側の側柱筋 を築地塀、内側の側柱筋 を吹放 しとした築地単廊 とで もい うべ き姿 に 復元で きる。架構 は、築地塀 と側柱 の上部 を虹梁で繁 ぎ、その上 に叉首 を組んで棟木 を支 える。

軒高 は

3m程

度、組物は平三斗、軒 は一軒 に想定 される。廊 は、各門を基準 にその両脇 に設定 された とみ られ、四隅や門の部分 には廊 を設 けていない。単廊では、四隅や門の取 り付 き部分 で屋根 の切 り替 えが頻繁 に生 じ、納 ま りが複雑 になって しまう難点がある。

このように現時点では、構造上は片廂廊集 。単廊案共に一長一短があり、どちらかを成集と する決め手はない。ここでは両案を併記 し、後考を待ちたい。

図¬

廊復元

 

片廂廊案(上)・ 単廊案(下)〔等角投影図〕 1:200

2θ7

西門の復 元

東門の復元

第 4章 考 察

4‑4‑2‐

東 門 。西 門

西門 SB13040は 、西面築地に開 く礎石建ちの棟門である。柱間寸法は11尺 〔3.25m〕 、扉口は 唐居敷を用いた板扉に復元できる。基壇は築地塀の雨落溝の中に張 りだして設けられているが 基壇化粧の痕跡は確認できず、築地塀の基底部 と上面を揃えていたと考えられる。屋根は築地 塀 を切 り上 げた切妻屋根で、軒の出は築地塀の屋根 より若千大 きい 5尺 〜

6尺

〔1.48〜 1.77 m〕 の間に想定 される。

創建当初、東門は西門と同様の棟門

SB13730Aで

あったが、途中で人脚門SB13730Bに 改築 さ れた。改築後の東門の柱間寸法は桁行の総長27尺 〔7.98m〕、梁行の総長14尺 〔4.14m〕 で、桁 行の中央間が13尺 〔3.84m〕、他の柱間がすべて

7尺

〔2.07m〕 等間である。 自然石一段積の基 壇で、基壇の出は柱筋か ら4.5尺 〔1.33m〕、基壇の高さは10側程度 と低 く復元できる。

人脚門を復元する場合、古代の類例として法隆寺東大門と東大寺転害門が参考にできる。こ の

2棟

の共通点に倣えば、切妻造で内部を三棟造とした三間一戸の門に復元できる。軒廻 りは 平三斗の二軒、軒の出は

5尺

〔1.48m〕 程度、架構は二重虹梁暮股である。この他に隅の間が正 方形平面であることに注 目すれば、法隆寺西院の経蔵・鐘楼のような楼造、すなわち楼門の可 能性 もある。

図¬

東門(棟門)・ 区画塀復元 〔等角投影図〕 1:200

4‑4‑2‑6 

区画塀

兵部省の中を区切 る区画塀はすべて掘立柱 を芯 とした土塀で、基底部の幅が

2尺

強 〔0.6m〕

程度の外見上は築地塀 と相違ない姿に復元できる。基底部は瓦片を致 き並べて見切 りとする。

基底部の幅か ら考えれば、高さは四周を巡る築地塀の半分程度で、6〜

7尺

〔1.77〜 2.07m〕 に 想定される。架構は須柱 を用いず、掘立柱の上部に梁桁を組んで設けたと考えられる。軒の出 は SA13020に ある雨落溝から2尺 程度 〔0.59m〕 と考えられる。また、区画塀に設けられる扉回 は区画塀の規模か ら考えれば、穴門ではな く棟門であろう。

の と 造 門 1

構 脚

伊 部 八 類 上

4‐

建築遺構 の復元

図119 東門(八脚門)復元 〔等角投影図〕1:200

1)奈

良回立文化財研究所1993F平 城宮発掘調査 報告XIV』 p137〜p144。

2)た

だ し、実際は東西長がやや長いことが既 に 指摘 されている。(奈良国立文化財研 究所1993

「式 部省の調査

 

第229・ 235次F平城宮概 報 1992年度』p17)。

3)前

掲注 3のp17〜p23。

4)東

大寺法華堂 に関す る諸問題 は、『奈良六大 寺大観 東大寺一」1970岩 波書店、p35〜 p42を 参照 した。

5)法

隆寺伝法堂 に関す る諸問題 は、『奈良六大 寺大観 法隆寺五』1971岩 波書店、p23〜 p28を 参照 した。

6)前

掲注 3のp21。

7)奈

良 回立 文化 財研 究所1997「式部省 と兵 部 省」F平城宮跡資料館図録』p27。

8)興

福寺東金堂は応永22年 (1415)の 再建だが、

天平以来の伝統 に したがい、復古的な意図をも って造 られた とされる。(『日本建築史国集』彰 国社1994、 p134)。

9)秋

篠寺本堂は建築技法か ら鎌倉時代初期の建 立 に位置づ けられているが、擬古的な要素が強 く、奈良時代以来の伝統 を色濃 く反映 している とされる (『大和古寺大観 第五巻』1978岩 波 書店、p13〜p16)。

10)奈良目立文化財研究所「秋篠寺調査概要」『奈 良 国 立文 化 財研 究所 年報1965』 1965、 p2〜p

4。

11)法隆寺食堂は天平19年 (747)の「法隆寺流記 資財帳」 に記 された政屋 に相当する遺構 と考え られている (『日本建築史国集』1994彰回社、

pl16)。

12)海 竜王寺西金堂に関する諸問題は、『大和古寺 大観

 

第五巻』1973岩 波書 店、p101〜 p104を 参照 した。

13)法 隆寺細殿に関する諸問題は、『奈良六大寺大 観

 

法隆寺―』1972岩 波書 店、p73〜 p75を参 照 した。

14)金堂の両脇 には、明治初年 (1868)ま で西金 堂 と東金堂が相対 して建 ってお り、兵部省 にお ける正殿 と東西第一堂に類似 した構成 をみせ る。

15)奈良時代の僧房に関する諸問題は、浅野清 ・ 鈴木嘉吉1957『奈良時代僧房の研究

 

奈良目立 文化財研究所学報第 4冊 』 を参照 した。

16)東 室・妻室に関する諸問題は、『奈良六大寺大 観

 

法 隆寺―』1972岩 波書店、p63〜 p69を参 照 した。

17)木工寮の項の築垣 に、本径 5尺 5寸 に対 し高 1文 1寸 5分 、本径 4尺 5寸 に対 し高 1丈 、 と の記述がある。 これ らの比率 を参照 して本径5

尺の場合 を算出 し、

 5分

単位で四捨五入 した。

18)廊を片廂廊 に復元する根拠 は、平安宮の兵部 省についての『西官記』の記述による(本書「第

4章

11官

衛名の同定」の項参照)。

19)古代の回廊の遺構では倒壊 した状態で発掘 さ れた山田寺回廊があ り、詳細 な復元検討が され ている (奈良文化財研究所2002『山田寺発掘調 査報告』p457〜p470)。

20)法隆寺東大門と東大寺転害門の比較検討 は、

奈良文化財研究所2003『国宝東大寺転害門調査 報告書』p59による。

2θ9

第 4章 考 察

4‑5  平城宮内の平面構造

4‑5‑1 

平 城 宮 内 の 官 衛 区 画

4‑5‑1‑1 1よ

じめ に

前章までに、本書の報告対象のうち、上層官衛が兵部省であることを明 らかにしてきた。平 城宮跡の発掘調査 にあって、これまでに一つの区画 としてまとまった遺構状況が明らかにされ た中で、具体的な官司名がほぼ確実に判明 した事例は、兵部省 と対の形で造営 された(上層の)

式部省、その東隣の一郭にある(上層の

)神

祇官西院とその下層の (前

)式

部省、さらにその 東に隣接する一郭にある(上層の)神 祇官東院といった、平城宮東区朝堂院南方から平城宮東南 隅にかけての一帯に展開する官衛区画のほかには、平城宮の西辺で確認 された、左馬寮 と右馬 寮 とに比定されている二つの大 きな区画の存在をあげることができるにとどまる。官司名が確 定できないまで も、さまざまな状況証拠から、ある程度推測 しうる官行区画 もある。

いずれにしても、兵部省官行の確認は省クラスの官衡の全貌が判明した最初の事例である。

また初めて左右対称の整斉な殿舎の配置状況が確認 されたことも、重要な意義をもつ。ただし、

この点については、後述するように、内裏東方の「導積官衛」 と呼ばれている官衛区画内の下 層遺構群が、主殿、前殿 を中心にして左右対称に脇殿が配置 されたコ字型建物配置であると、

かつて紹介 されたこともあ り、まだ十分な検証が尽 くされたわけはない。あるいは「省 クラ ス」の官行規模や建物配置が類型化されるほどに発掘資料が蓄積 されているのかどうかについ

ドキュメント内 4章 考 (ページ 54-58)

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