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V道の源流

ドキュメント内 30_book2-1 (ページ 144-148)

曇驚

の往生論註に於ける認総論

往生記の総合的研究

持土宗初期の六時礼蹴

藤之寺孜

現浄土宗教学院理事

藤 堂 お 俊

= ‑

凶 全

円 相

峰 助 旭 雄 大 雨 竜 界

一一

枝樹

陵普

牧 達 雄 野 榊 柴 山 英

岡 本 野

秀 者

E

肯 啓 竜

雄 純 彦 ;匙 海

十 九

号 ︿

昭 凶

十 人

・ =

‑ 三

十 )

法然

上人

の持

戒問

題山

正考

法然院文書の研究

l f

特に忍政の時代を中心として

l

中世後期・近院初断の知恩院主

京都

門中

‑越の宗教体験

宗派 商品 識に 関す る調 査研 究

芹 近 中 宇

川 藤 井 尚

全 信

第二十号(附四十九

・ ご

・ 三

十 )

近世における法然上人遺跡巡拝について

法然上人と平重衡︿

その 一)

皇学所への献本について

野 嗣 伊 田 藤

博 徹 真 良 通 称 孝 哲 秀 務 唯

線 純 真 稲阿

覚順

︹教 学院 長﹀

・塚

本普

隆︿

研究

所長

・佐藤省雄︿主幹﹀・

服部英淳

門東部主任

γ

伊膝真徹ハ阿部主任﹀・

恵谷隆成

・佐藤良

智・

竹中信常

・坪井俊映

・戸松啓真

・中村康隆

・暗

雲ロ 慈海

・藤

原 弘 道

・藤原了然

・松

l b 冊 誠廉

・古屋道雄(常任)

浄土宗教学院書記

四 東 部 部

宮林昭彦

・佐藤行信

・阿川文正

・丸山博疋(現

平 祐 史

・香川孝雄

・伊藤唯真

・成出俊治

・高橋弘次(現

)

付 録

近世仏教学の確立は︑さかのぼると明治維新における腐仏毅釈運動の大いなる嵐に刻する危機意識が礎となり︑仏教給

法のための党限的動きが︑やがて教学の近代化へと通じたのである

廃仏授釈の痛撃も︑ひとえに僧侶自身の堕落による当然の結果として厳しく以省し術悦して

持戒

竪同

を強

く主

相官

し︑

仏教本来の面日に立ちかえって仏教

渡持復興を叫ばれた人に︑福岡行誠上人がおられた︒明治高僧伝中の第一人者とし

て ︑

宗の

泰斗

﹂︑

法の

仲代

l と仰がれた禍

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行日間上人は﹃釈門新規三策﹄を著わしてつぎのよ

に述

てい

る︒

﹁仏家の廃仏を悲しむは︑寺町哨の破綾まかなしむに非ず︑衣食の

ずるを悲しむに非ず︑官録を失するを悲しむに非ず︑

唯天人に此至善の道を失するを悲しむなり︒僧侶の興法を念じ︑路仏を防ぐ︑只此れが為なり﹂

一般僧侶の歎き悲しみは︑市随仏鍛釈の嵐によって寺務が破援され︑衣食に窮せしめられ︑世俗的な権威の失墜に向けら

れていた

しかし︑行誠上人は︑こ

ような形骸

亡失には目もくれず︑仏道の紡神の失わ

んこ

とを

悲し

んで

︑町

内法

生の道こそ︑僧侶の理想であることを刷明にしているのであるυやはり同時代に養此徹定

k

人も

仏教不可斥論いを著し

て︑仏教の軽んずべきでないことを力説し

仏教界の官起に大きな力を与えられた︒

浄土宗の教学界は︑近世において華々しい活胞を続け

仏教学界を

リ ー

ドするとともに︑そたはまた全円本仏教会の除

目の的でもあった︒かかる歴史的なあゆみが

現代の浄土数学界の蓋盤にあるところから︑とくに付録として︑近世浄土

教学界のあゆみと

浄土宗教学院の直接関係物故の諸先生の事絞を記録としてとどめることとした︒

139 

11111'1111IIf1I'I11I1II附""111111 1",川町f1Ilh川"引1111'1 IIlIlIrlI剛 山111'If1INIIII"..11I川1III'"IIIIIIIIII';n剛 山 川11111111111'¥,川州11111'111

教 学 の 近 代 浄 土

刀ミ

主主~

あ ゆ み

諸政を一新して新しい政治体制をうちたてようとした明治新政府は︑宗教に対しても祭政一致・神仏分離を旗印に

画期的な政策をとろ う

とした

︒ 明治元年︑政府は神仏の混清を拙閉じて神祇事務局をおき

翠二年︑教務職取調局を設

けて太政官のヒに神祇官を位置せしめ︑やがて神祇官は神祇局と改める︑というように︑神道を基調とした国家主義

を鮮明にうちだしていった︒同五年︑﹁僧侶ノ肉食妻帯蓄繁勝手タル ベ キ﹂布令

.

か出され︑商字も付けなければな ら

なくなった︒この布令が出されたことにより︑僧侶自身の意志によって行動できるようになった︒向由意志によって

行動できるようにな っ

たことは

教問からの離脱を容易ならしめたことを意味している ︒ こうして教凶組織は内部か

ら崩壊するきざしがみえたばかりではなしに︑神紙省が廃され教部省がおかれると︑一一一条の教則︑十七兼題が定めら

れて︑僧侶にも教導職として︑これを総ぜしめた ︒ 湘上寺に神仏合併の大教院が置かれたのも︑この年の と

と で

あ る

本 噂

阿 弥

陀 如

米 は

徳 川

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代 将

軍 の

軒 高

廟 台

徳 院

廟 に

移 さ

り に

須 弥

一 塩

に は

神 鏡

‑ かおかれて天御中主噂が犯られ︑注

連縄がはりめぐらされて造化三神の神殿と呼ばれた ︒ 三門前には白木の鳥婦が立てられ

僧侶は神官の衣服を身にま

とい神棚酬を供し︑僧侶でありながら仏教本来の教義信仰を説くこともできず︑ひたすら敬神主義を立布しなければな

ら な

っ た ︒

こうした弾圧は︑やがて仏教を衰滅せしめるものであるとして仏教界から反撃を受けることになったが︑

ζ

うした

140 

IIlIlIn,IIIIIIIIIIIII'lnnJU'hllllllllnll'hllll脚 川 叩 川111"111)1111111111.,剛削1111'1111Inllll...;1I1II1川11'.11111111附"・1111111111111'1111111問,.IJltmnll',;

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とき浄土宗でも反抗と自戒の運動がでてきた︒その先達となったのが

餐鶴徹定

福田行誠

であった︒徹定は﹃仏教不

可 斥

論﹄を箸わして仏教の軽んずべからざる所以を力説する一方︑当時の新しいイデオロギーとして穆入されてきた

キリ旦ト教に対しても

E K

耶論

﹄﹃ 破挺 ハ子 子

﹄など︑多くの著述をものして防衛につとめた︒徹定が外に向って仏教

の雛縫を説いたとき︑行U酬はむしろ教団の内部に向って自粛と反省を求め︑近代社会における僧侶として戒律生活と

学問への芯向を説き

宗門将米のために学校を経営し宗徒の養成にカをつくすべきこ

とを教

ホしている︒二人は前後

して知恩院住職となり管長となるとともに︑他宗の先覚者たちと協力し各宗同盟会を組織して正法の縦護と宣揚につ

とめたが

こうしたて人の正法俊典の熱泣は背年宗伯をふるいたたせる契機となった︒

値林制度の

一 路

︑梢上寺山

内および知恩院にそれぞれ勧学院が役買

︑山口に講

学場が設けられ

東凶の勧学e

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院はその後東部あるいは商部の宗学校

大学林と改称されたが

︑微定

のもっとも期待した学僧は岸

上恢嶺

であり

時行誠は諸宗共立の英話学校の創立を企て

てい

︒岸上は﹃税法惟

策﹂の名著を残して閉山治十八年凶十八歳の活き

で没した

彼は﹁早くから宗学的不振を変えて

明治=年ごろから浄土米教健を東西丙部に設立せられんこ

女主

張していた教学人﹂であった︒その潔陶をうけた人たちのなかから

彦明

桑門秀攻

川柳

芳純

円・

大門

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康らが出て

い る

i

大学林が設けられた当時の歎替は︑西部が智相竪雄︑東部は黒

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田真洞

︑黒川

は智積院弘現平

高山

寺旭

雅に

師事

て株柑を学

んだ学 者であったが︑時たまたま起った行政的東丙分立

よって生じた抗争を教学の一向で一ったらしめた

功績は大なるものがあった

︒二

十年七月1浄土宗学則t が定められ

地上寺山内天光院に浄土宗学本校︑京京

京都

・ 山

長野

鎮西

仙台

変知

大阪に支校がおかれた︒浄土其宗大谷派で行われた海外留学制度は静十

ZM

でも係

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‑ ‑

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刑され︑三十一年九月荻原得定が博物学研究のためアメリ肯合衆闘へ派遣されたのを皮切りに︑翌三十二年七月には

おおむね

9 l a

︐ ︑ む 主

概 旭 乗

が南方仏教研究のためシャムへ

︑続いて

荻原雲来

波辺海旭

矢吹康郎らが由喜干している︒また内地備学

剰のカらが︿位制度も設けられ

︑比

山・高

野山

法隆寺など諸所で研究に従事し

もの八十余名に達したが

その鳴欠は

岡村学

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ゅ ん

であ

った

州IIn~'"ln酬 111'1011111・川'"川II1nn・".酬 nllnlll,川111111'"111111111" ,,,,111川11'1.1 11111111111" 州川川"剛1111',, 1111剛 111'.・"・1111111 1'10111・m目 111'1....

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二十八年 七 月 ︑ 専門科唯識部を卒業した 渡辺海旭・荻原雲 来

・ 望

月 信

亨 は

︑ 九月内地積学生となり ︑ 渡辺は比較宗

教学

︑ 荻原は印度仏教史 ︑ 望月は天台学を専攻することになった︒望月は比叡山に登り

︑ 五

智院に起居し ︑ 清水竜山

( 日 蓮 ︺

・ 大

森 禅

戒 ︿

曹 洞

・ 福岡実頴 ・ 末広照省(天台)らとともに天台学を学んだが ︑

荻 原

・ 波辺は ︑

ドキュメント内 30_book2-1 (ページ 144-148)

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