4.1 はじめに
光波帯において,波長/周波数可変光源は,センシング,イメージングから分光計測 に至る様々な光計測の場面で活用されている[107].一般に,広帯域周波数可変,高速か つ速度可変な周波数掃引,狭線幅,高出力などの特性が要求され,それぞれのパラメー ターについて性能向上が進められてきた.THz帯においてもやはり,周波数可変光源は 極めて重要なデバイスである.1.1で触れた通り,THz帯には物質固有の特徴的な吸収 スペクトル構造(指紋スペクトル)が多数存在し,従ってそれら指紋スペクトルに直接 アクセスできるTHz帯の周波数可変光源への期待が大きい.狙った通りの周波数に精 確にコントロールできる周波数可変THz光源によれば,指紋スペクトルを使って,ラ ベルフリー,すなわち前処理無しで非接触・非破壊・非侵襲に物質同定が行える.この ようないわゆるTHz分光法は,国内では,東京大学の水島三一郎らの電波分光学研究 [108],あるいは大阪大学の吉永弘らの熱型光源を用いた遠赤外分光装置の開発[109]か ら続く伝統的な分野でもある.吉永,三石らは左記の装置を改良,フーリエ分光器へと 発展させ,遠赤外領域(=THz 帯)で先駆的な分光研究を展開した[110].その後,超 短パルスレーザーを用いた,THz-TDSが開発され,感度が大幅に向上,THz波をビー ムとして取り扱うことで,分光イメージングへと発展した.一方で,物質の特定状態へ の励起や,超高分解能分光にはやはり単色性の高い周波数可変THz光源が必要である.
このような中,本研究で取り上げるis-TPG光源は高輝度・広帯域周波数可変なTHz光 源であり,THzギャップ周波数領域での分光計測応用に適した光源と言える.実際に,
これまでにも is-TPG 光源を用いた分光実験は複数報告されている.2003 年川瀬らは 封筒内に隠された薬物検出にis-TPG光源を使用し,MDMA,アスピリン,メタンフェ タミンの指紋スペクトルを用いた画像(空間パターンおよび濃度情報)取得と物質識別 に成功した[111].本成果が研究コミュニティーに与えたインパクトは極めて大きく,
2019年時点で論文の被引用回数は1289件に達している.続いて2006年R. Guoらは is-TPG光源の高分解能性(<100 MHz)をガス分光計測で実証[112],2007年には気圧 変化に伴う水分子の回転遷移の計測に成功している[113].2008年高島らは火災現場で の有毒ガスセンシングを想定し,建築材料からの反射波を用いたN2O ガスの検出可能 性を示した[114].2016年瀧田らは0.7-4.7 THzの6オクターブを超える広帯域で分 光計測を実証した[115].2016 年加藤らは THz 波パラメトリック過程を発生(周波数 下方変換)および検出(周波数上方変換)に用いることで,70 dBを超える極めて高い 計測ダイナミックレンジでのTHz分光を実証した[116].以上のようにis-TPG光源を 用いた分光計測は数々の魅力的な成果を生み出してきた.しかし,いずれの実験におい てもTHzスペクトル取得速度が1 Hz未満に制限されていたため,経時変化を伴うよ
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うな計測対象については適用困難であった.この課題に対し,2017 年村手らは多波長 同時注入法によるワンショットでのTHz分光計測を実証した[117].励起光のパルス繰 り返し周波数(50 Hz)の更新レートでスペクトル情報が取得できるため,リアルタイ ム動画として分光計測が行える.この技術はis-TPG光源の活用場面を拡大する上で極 めて重要な成果である.しかし,多波長を同時注入するためには装置が複雑となり,さ らに波長間での利得競合により,各THz周波数の出力和が低下,出力比が不安定化す るという新たな課題に直面した.よって本手法によっては,同時発生する複数周波数の THz 波を周波数軸上で近接させることが困難であると考えられる.以上のような is-TPG光源ベースのTHz分光計測システムの開発状況,およびそれらのTHz分光計測 への適用状況を鑑み,本研究では,is-TPG 光源の周波数掃引速度の高速化に着目し研 究に取り組んだ.本章では提案手法のコンセプトについて述べた後,実証実験の結果と 考察を記す.
4.2 設計
4.2.1 高速化のコンセプト
is-TPG光源から発生するTHz波出力を高速に周波数掃引することを考える.is-TPG
光源では,2.7で示した通り,注入波長の切り替えによって周波数選択を行っている.
従って高速化手段としては
(1)パルス内で注入波長を切り替える方法
(2)パルス毎に注入波長を切り替える方法
以上二種類の方法に大別することができる.(1)の方法では,波長チャープしたパルス 注入光を導入する.励起光のパルス時間幅(~サブナノ秒)で周波数掃引が完了するた め,究極的に高速な周波数掃引が実現可能と考えられる.しかし,高出力化,高安定化 には障壁が高く,現時点では実現困難と判断した.一方(2)の方法では,パルス繰り 返し周波数(PRF: pulse repetition frequency)が高速な励起光源,および波長掃引繰 り返し周波数(SRF: scanning repetition frequency)が比較的高速な注入光源を組み 合わせることで実現可能で,is-TPG 光源の高輝度特性を維持できる点で優れた方法で あると考えられる.速度限界は励起光源のPRFに依存する.第3章で検討した通り,
is-TPG光源におけるPRFの現時点での最高速度は100 kHz(10 μs)である.本光源
を適用した場合,周波数掃引点数𝑁点のTHzスペクトルを取得するのに要する時間𝑇は
𝑇 =10 × 𝑁 μs 表される.例えば,1000 点のスペクトルを計測するのに要する時間は
𝑇 =10 ms(100 Hz)であり,従来比二桁以上の高速なTHz分光計測が可能となる.
以上のようなコンセプトを実現する一形態として,図 39 に,PRF = 𝑓𝑝𝑢𝑚𝑝の励起光 源(下段)と,SRF = 𝑓𝑠𝑒𝑒𝑑の注入光源(上段)の間のタイミングチャートを示す.ここ で,∆𝑓は𝑓𝑝𝑢𝑚𝑝と𝑓𝑠𝑒𝑒𝑑の周波数差,𝑡0は励起光と注入光の初期時間差であり,いずれも
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PCからのデジタル制御が可能であるとする.この構成では,注入光の掃引波長の一部 のみが励起光のパルス幅と重なり,アイドラー光に対する注入光として機能する.換言 すると,励起光のパルス幅がスペクトルフィルターとして働き,パルス幅の時間内で瞬 時的な光注入,周波数引き込みが行われる.この構成に依ると,∆𝑓 を設定することで 任意の繰り返し速度 𝑓𝑇𝐻𝑧= ∆𝑓 (= |𝑓𝑝𝑢𝑚𝑝− 𝑓𝑠𝑒𝑒𝑑|) にて出力 THz 波の周波数掃引が可 能となる.または,∆𝑓 = 0とし,𝑡0 を設定することで,任意のTHz周波数を自在に発 生することが可能となる.なお,1回のTHz波周波数掃引内における周波数掃引点数𝑁 は,𝑁 ∝ 𝑓𝑝𝑢𝑚𝑝⁄∆𝑓 で表される.すなわち,掃引速度 𝑓𝑇𝐻𝑧 と周波数掃引点数 𝑁 はトレー ドオフの関係にあり,計測場面に応じた適切なパラメーター設定が必要である.
その他の実現形態として,図40にPRF = 𝑓𝑝𝑢𝑚𝑝 の励起光源(下段)と,SRF = 𝑓𝑠𝑒𝑒𝑑 の注入光源(上段)の間のタイミングチャートを示す.この構成では,注入光の1回の 波長掃引の間に複数の励起光パルスを与える.図39の構成が 𝑓𝑝𝑢𝑚𝑝 と 𝑓𝑠𝑒𝑒𝑑 の周波数差
∆𝑓 を設ける非同期を前提としているのに対し,図40 の構成では基本的に𝑓𝑝𝑢𝑚𝑝と𝑓𝑠𝑒𝑒𝑑 を同期させる.すなわち,𝑓𝑝𝑢𝑚𝑝= 𝑛 × 𝑓𝑠𝑒𝑒𝑑 のように設定する.本構成によれば,注入 光源に比較的低速な波長掃引光源が使用でき,その意味で有望な手法と言える.しかし,
周波数掃引パラメーターの制御性について,図39の構成が∆𝑓の電子的制御で自在に操 作可能であるのに対し,図 40 の構成では図中に示した波長掃引スロープ𝑘の機械的な 制御が必要となる.すなわち制御性の観点で,図39の構成に優位性がある.もちろん,
図40の構成において,∆𝑓 を設定することも可能であるが,得られたデータの後処理が 複雑になる.以上のような理由から,本研究では図39の構成を選択した.
図39 高速THz周波数掃引のコンセプト図1.
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図40 高速THz周波数掃引のコンセプト図2.
4.2.2 システムの構成
前節で述べた高速化のコンセプトを実現するためには,∆𝑓(= |𝑓𝑝𝑢𝑚𝑝− 𝑓𝑠𝑒𝑒𝑑|) および 𝑡0の精密な制御が必要となる.すなわち,タイミングジッターの小さな励起光源,比較 的高速な波長可変注入光源,およびそれらの間のタイミング制御が発振THz 周波数を 決定するための重要な要素となる.
第3章でも説明した通り,従来のis-TPG光源では励起光源として,受動Qスイッチ 動作のマイクロチップレーザーを使用してきた.サブナノ秒ジャイアントパルスが発生 可能であるため MOPA における主発振器として好適であるが,一般に PRF 100 kHz において約100 nsのタイミングジッターを有する[118].PRFを減速すると,さらにタ イミングジッターが増加するため,上記コンセプトへの適用は困難である.そこで本章 では,提案手法を実証するための励起光源として,利得スイッチング(GS: gain-switching)動作の半導体レーザー(GS-LD)を検討した.電気パルス発生器を使った 非常に簡素な構成から安定した光パルス列が得られ,同期が容易,PRF可変,波長可変 といった優れた制御性のためにシステムの実用性向上の面でも大変有用である.通信や イメージング応用の場面では,自然放出光(ASE)雑音に起因するタイミングジッター
(数ps)が問題となる場合もあるが,is-TPG光源の励起光パルス幅が数 100 psであ
ることを鑑みるとその影響は軽微であり,従来のマイクロチップレーザーとの比較では 時間軸上で3桁以上のジッター抑制効果が期待できる.
また注入光源としては,従来のis-TPGで使用してきたECDLの代替として,MEMS
(micro-electro-mechanical system) 技 術 を用い た 高 速 波 長可 変 面 発光 レ ー ザ ー
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(MEMS-VCSEL: MEMS tunable vertical-cavity surface-emitting laser)を検討した.
成熟した半導体プロセス技術の活用により,近年MEMS-VCSEL光源の性能は飛躍的 に向上しており,第5章で述べるOCT計測用途等での活用が広がっている[119], [120].
MEMS-VCSEL は共振器長が波長程度と極めて短い(~1 μm)ため,縦モード間隔
(FSR: free spectral range)が広く,縦単一モード発振が可能である.また,MEMS ミラーの機械的振動によって共振器長を制御,発振波長を掃引するが,短共振器長であ るが故に,従来の ECDL と比較して高速かつ広範囲な波長掃引が容易に実現可能であ る.波長掃引の線形性や繰り返し安定性に課題はあるものの,サンプリングの工夫次第 では十分に補正可能である.
図41 is-TPG光源およびTHz波計測システムの概略図.
図41に開発したシステムの概略図を示す.励起光源としてはRMSタイミングジッ ター10 ps 未満の GS-LD を使用した.本研究では,ファンクションジェネレータ
(WF1984; NF Corp.)によって,PRF 10 kHzの矩形波でこのGS-LDを駆動した.
THz 波発生に十分な励起エネルギーを得るためにファイバーアンプと固体アンプを組 み合わせた独自の光増幅器を製作し GS-LD の光増幅を行った.GS-LD およびその光 増幅については次節で詳述する.
アイドラー光への光注入光源としては,MEMS-VCSEL 光源(HSL-1-10; santec
Corp.)を使用した.今回使用したMEMS-VCSEL光源は,縦シングルモードのレーザ
ー発振を,1064~1074 nmの波長範囲でモードホップフリーに掃引可能であり,繰り 返し速度は10 kHzのものを選定した(図42).YDFA(YAD-200-PM; IPG Photonics
Corp.)を使用し,MEMS-VCSELの平均出力は175 mWに光増幅して使用した.