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Secondary Shrines(sessha or massha)

ドキュメント内 隠岐の文化財-横書.indd (ページ 57-60)

1−2  ルート47 松江と出雲大社

9 Secondary Shrines(sessha or massha)

摂社、末社

10 A library(bunko)

 文庫

11 A Tresure-house(hozo)

 宝庫

12 One or more Places for Offerings(shinsenjo)

 神饌所 

13 A Gallery(kwairo)

 廻廊

14 A Dancing-stage(bugaku-dai)

 舞楽台

15 A Stable

16 An Assembly Hall

 神祜殿

17 Gates

八足門

3) 浜田と萩

これらの港は、松江航路の途中に寄港するでしょう。

浜田 

(

宿屋、道具屋

Dogu-ya

、浜岡

)

は、美しい湾に続いて位置します。

1872

年、町を半壊させた大地震によって特記されます。

2,000

人を超す人が地

震で亡くなりました。

[

浜田から瀬戸内海の広島に至る街道があります。約30里もしくは旅程3日ほ どの距離にあります。道のりははじめ起伏が多く、険しい丘を越え、人家も稀です。

しかし、人力車は道幅内を通行することができます。三坂峠(

Mizaka

。訳注

]

瑞穂町市木)は、石見国と安芸国の境ですが、同時に日本海側と瀬戸内海側の分 水嶺となっています。可部への12里の道は、ほとんど下り道で、そこから平坦 な4里の道が、広島の郊外へとつながっています。

]

萩(省略)

1−3  ルート48 隠岐諸島     

隠岐は島後と呼ばれる大きな島と、三つの小さな島、知夫里島、西ノ島、中ノ

島(原文

Nakashima

)、―まとめて島前と呼ばれます―からなります。主要な町

は島後の西郷で、伯耆の境から汽船で

39

里、

95

マイルの距離にあります。公的 には、隠岐島は島根県の一部です。隠岐島の名前は、明らかに「沖合にある島々」

を意味しています。

遠くて、めったに訪れることのない小さな群島ですが、その名前は古くから国 の年代記に登場しています。『古事記』の中で、最も面白く、かつ知られているお 話の一つは、因幡の白ウサギの物語です。利口な白ウサギは、たまたま隠岐に居て、

本土へ帰る海の道を欲しがっていました。そして、ワニ

(

サメ

)

を一列に並ばせて、

橋として利用しようとしました。

歴史時代に下ると、後鳥羽上皇は武家政治を転覆させて、正当な支配権を回復 させたいという気持ちに駆られました。しかし、北条義時(

1163-1224

)に敗れ、

島前の海士郡アマコオリに流されました。流刑の何年か後、延応元年(

1239

)に

亡くなりました。お墓は今でも見られます。約80年後、御醍醐天皇は、北条氏 一族によって西ノ島の別府へ流されましたが、すぐに脱出に成功しました。

隠岐は中世の時代を通して、いつも争いの現場となり、ある封建一族から別の 一族に力ずくで奪われました。この諸島では自給自足することができません。特 産物はイカで、時には信じられないほどたくさん獲れます。住民は3万人を超え、

特有の方言を話します。

以下の記述は、明治

25

年(

1892

8

月に隠岐を訪問したラフカディオ・ハー ン(

Lafcadio Hearn

)からの私信です。さらに詳しい情報を希望する読者のた めに、

L

.ハーン著の『

Glimpses of Unfamiliar Japan

』(『明治日本の面影』)

に言及しておきます。

私は、多くの人々が隠岐に行こうとしない理由は、かつて乗った船では一番乗 り心地が悪かったのですが、粗末な小さな汽船のせいだと思います。しかし、船 は速くて強く、境から95マイルの距離を5〜6時間で航行します。

出雲と伯耆の山脈が視界から見えなくなるにつれ、隠岐島の高い断崖が視界に 入ってきます。群島へ船を進めると、人ははじめ、生命の営みの印を目にするこ とができません。 ― 畑や道どころか、倒れた樹木さえありません。 ―ある のは、薄暗くやせた植生で覆われた、濃青色の海から切り立った傾斜が続いている、

剥き出しの灰色の崖。それでも、ここには美しさがあります。

知夫里島、西ノ島、中ノ島の三島でつくられた内海へ汽船が航走するにつれ、

海水はガラスのように見えてきました。汽船は、最初に知夫里島の知夫里村と呼 ばれる小さな村に接岸します。そこは突然視界に入ってきます。

隠岐の漁師たちが山積みの干物魚の下に御醍醐天皇を隠して、漁船で脱出を図っ たのは、この村からでした。

「それから、船は西ノ島の浦郷に進みます。― そこは、家々が全て海に面し、

海底からの海水が突きあがる石造りの波止場がある、とても古風な趣のある小さ な町です。私は宿屋

(Watanabe)

で食事をしました。豪華な夕食に全く驚きまし た。私は日本のどこでも、こんなに美味しい食事を摂ったことはありませんでした。

値段はたったの7銭でした。中ノ島の菱浦は、船が停まる次の港です。半円形を した波止場は、澄んだ海に面しています。建物はとても奇麗です。最高の宿屋は 岡崎旅館です。私は、全体から見て、隠岐群島の風景は、自慢げに語られる瀬戸 内海のそれよりも、はるかに素晴らしいと思います。

島と島の間からの一瞥、海峡の入口、高い崖の間から見える優しく青い眺望は、

とても美しいものです。すべてが高貴です。水田はほとんど眼にすることがあり ません。汽船は、8里の危険な海を横切って、島後へ向け菱浦を発ちます。途中、

松島、大森島、数々の小さく、小高く、険しい無人島を通過します。一部の島の 景色は、とても素晴らしいものです。際立って目立つ海食洞がいくつかあります。

島後は、近隣(島前)と同様に、険しくでこぼこしています。

「西郷港はとても大きく、逆オメガ(ωギリシア文字)形で陸に広がり、回りは 高台に囲まれています。景色は、隠岐のすべての港と同様に、美しいものです。

西郷の一部は小さな川、八尾川に沿ってあります。川は湾や河口を奇妙な線で結 んでいます。それで、通りはヘビのように曲がりくねり、かなりの距離になります。

西郷には、ほぼ1

,

000軒の家があり、住民5

,

000人と推定されます。人力車は、

まだここでは走っていません。しかし、島固有の小型品種の馬が多くいます。牛 肉もあって食事が美味しい最高の宿屋は、いなよし(

Inayoshi

)です。

町は数年前に全焼しましたが、完全に再建されたので、きれいで新しいです。

湾の深度が浅く不便だと不満を言われます。しかし、西郷は忙しく、繁栄してい る港です。一度に300隻の船が、湾内に浮かんでいるのが見られるかも知れませ ん。ロシアや英国の軍人が西郷を訪れたことがありました。しかし、私は町に居 住した最初の外国人です。町の外には水田が少し広がっています。

町の上の丘に、浄土宗に属する、新しくてきれいな善立寺(西町)があります。

富裕な町民から寄進されました。壇鏡滝

(

西郷から5里

)

のように、地域で祀ら

れている場所がいくつかあります。しかし、そこの山道はひどく悪く、すべて見 えるものは岩と山です。西郷近くの聖地・津井(さい)の池で、隠岐名物の黒い石、

有名な馬蹄石(黒耀石:割った際、馬のひずめの形に割れるところから「馬蹄石」

ともよばれる。)が見つかります。ジェット形の美しい品が切り出されます。」

訳注] 馬蹄石・黒耀石=火山岩の種類。灰色、黒色で半透明、ガラス光沢に富む。断口は 貝殻状。石器の材料となる。

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