第1倍
第2部 M氏よりE氏へ
細菌の染色体複製の調節機構:普遍性と多
様性*
吉 川 寛**
E さ ん へ
微生物生態学と微生物分子生物学の接点を探ることが出来ないだ ろうかとT.Hさんから相談を受けた時,微生物生態学のことは全 く無知な私は自分の好きな昆虫のことを考えていました。ご存じの ように昆虫にはテリトリーがあって住分けをしているものが沢山あ ります。身近なものではモンシロチョウとスジグロシロチョウが田 園地帯の畑地と原野とを住分けています。同じアブラナ科を食草と するのに前者が栽培種のキャベツやダイコンを好んで食べるのに, 後者はタネツケバナのような野性種を好むという食性をかたくなに 守っているからです。農薬が繁用されて,モンシロチョウが減少す ると野性種が僅かにみつかる住宅地にまでスジグロシロチョウが広 がっていますが,無農薬の推奨で再び山里に後退し始めていると聞 きます。食性の分化は種の分化にもつながります。アゲハチョウが 最も原始的なウマノスズクサ科を食性とする種類からミカンやクス ノキやパセリにまで食性を広げて多様な種に分科していることは良 く知られています。このように昆虫の生態と種分科の一因を食性の 分科による「住分け」に求めることが出来そうです。
多細胞で神経系を備えた昆虫の世界と単細胞の微生物の世界を比 べるのは乱暴で非常識ですが,微生物生態学の課題も「住分け」の 課題ではないかと考えたのです。蝶の種分化や住分けの課題に食性 の変化を介在させることによって分子生物学を適応できないだろう
'ワークショップでの演題
=大阪大学医学部
かと考えていた私に微生物生態学が「住分け」の課題として興味深 く写ったのです。もし私の希望的観測が正しければ,環境に対する 応答や適応,遺伝子発現とその調節,増殖制御,変異等のパラメー
タを介して分子生物学との接点を求めることが出来るかもしれない と思ったのです。
分子生物学の方も変貌しています。これまでどちらかというと MOLECULARばかりが大文字で目だっ‑ていましたが,ようやく本 来のBIOLOGYが見えてくるようになりました。最近目だった変化 は二つあるように思います。その一つは多様性の追求です。生物と 無生物を区別する実体としてDNAとその情報が明らかになった時 DNAを枠組みとする分子生物学が生まれたのですが,そのDNA の構造とコードの普遍性があまりにも見事であったため大腸菌を知 れば象も分かると言う迷言が生まれました。これが大いなる誤解で あっ・たことは真核生物の遺伝子構造の研究から明らかになり,種々 の生物を対象とした遺伝情報の多様性の研究が日の目を見るように なりました。その結果普遍性の根元であった遺伝コードにも例外が あり,進化が凍結されていないことが明らかになりました。このよ うな研究が30億年p生物進化の歴史を記録したDNA情報の理解 を一層豊かにしたことは吉うまでもありません。微生物の研究もそ の例外ではなく大腸菌一遍例の研究から枯草菌を初めとするグラム 陽性菌の研究の成果が実を結んで複稚な遺伝情報の進化に関する新 しい研究分野が開かれています。私達の染色体複製開始機構の研究 も普遍性と多様性の両面を明らかにすることによって細菌の間の進 化を論ずることが出来るようになりました。あとで詳しくお話しい たします。生態学では細菌の増殖が解析の対象となりますから,細 胞増殖制御の中心にある染色体複製に関する私達の研究は一つの接 点となると思います。
分子生物学の第二の発展は個々の遺伝子発現の解析から複数の遺 伝子群が関与する複雑な情報系の全体像の解明を目指すグローバル な研究が生まれたことです。免疫やリンフォカインや癌遺伝子の研
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究が華々しく報道されますが,真に基礎的な研究は細菌と酵母で進 んでいるのです。複数の遺伝子群が共通の発現制御を受けるレギュ ロンの発見,ある種の外的な刺激に応答して逐次的な遺伝子発現が 起こるステイミュロン遺伝子群,枯草菌胞子形成に伴う遺伝子発現 の転換と新遺伝子群のカスケード的な発現制御など,遺伝子の統括 的な機能に関する新しい概念が次々生まれてます。このような研究 の成果をみると,分子生物学の目標の一つである細胞複製の全過程 をDNAの情報とその発現の枠組みの中で理解することも細菌と酵 母では決して夢ではなくなったと思うようになりました。分子生物 学が分析的で統合的方法論を持たないという汚名や誤解はもはや返 上してもいいのではないでしょうか。分子生物学のこのようなグ ローバルな研究が正しく評価された時生物学のあらゆる分野との接 点が生まれるでしょう。微生物生態学も例外ではありません。シン ポジウムで報告された遺伝子の機能に関するグローバルな3つの優 れた研究は研究対象に対する手がかりを与えるばかりでなく,分析 から総合への研究方法のモデルとしても生態学との接点を作ること が出来たのではないでしょうか。
複製開始は細胞の顔
同じ単細胞微生物でも細菌は原核生物,酵母は真核生物で染色体 の構造や複製単位(レプリコン)の構成は全く異なります。細菌の 染色体は一個の環状のDNAで一つの単位として複製されますが, 酵母のような真核生物ではゲノムは染色体の数だけ0]直線状の DNAに分かれ,さらにそのひとつひとつが多数の複製単位に分割 されています。酵母のような比較的小型(平均100万塩基対)の染 色体でも数十のレプリコンに分かれていますからその全体像を把握 することは容易ではありません。そこで今回は最も簡単な真正細菌 の染色体に限って話をさせて下さい。
大腸菌や枯草菌の染色体は約400万塩基対の環状のDNAで,染 色体の特定の部位から複製が始まり2方向に進行し,開始点から約
180度の位置で終結します。複製を開始するには毎回新しく合成さ れたタンパク質が必要ですが,一度始まるとそれに続く重合反応は 自動的に進行して完成します。複製の終結と細胞の分裂には一定の 共役関係があるらしく,終結から一定時間後にこれも自動的に分裂 が起こります。即ち染色体の複製が始まると細胞は自動的に分裂ま で進行することになります。逆に言えばもし細胞分裂を阻止して細 胞の増殖を止めようと思えば複製の開栂を抑えなければなりません し,反対に増殖速度を増そうと思えば複製開始の頻度を上げなけれ ばなりません。このよう・に細胞の活力の強弱はそのまま複製開始の 強弱に反映されているのです。これが複製開始は細胞の顔であると いうゆえんです。ところで細菌細胞の中に染色体とそれよりはるか
図1・複製開始の2つのエレメントと複製開始シグナルのクローニング。
細菌の環状染色体の複製開始点(origin)とそれに働く開始蛋白 (initiatorprotein)とその遺伝子を模式的に示した。開始点を含む DNA断片に適当な薬剤耐性遺伝子を結び付けて元の細菌に導入す るとミニ染色体として増殖し,細胞に薬剤耐性を付与することが出 来る.耐性となった細菌を単コロニーとして分離し,ミニ染色体を 回収すると複製開始点を含むDNA断片をクローニングすること が出来る。
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に小さいプラスミドが共存することがあります。その様な時には染 色体とプラスミドの2種類のレプリコンはそれぞれ独自のタンパク 質によって開始が支配されていることが分かりましたので,複製開 始には開始点に存在するレプリコンに特異的なシグナルとそれに作 用する蛋白の2つの因子(エレメント)が必要であると想定されま した(図1)。前者をシス(に働く)エレメント,後者をトランス(に 働く)エレメントと呼んでいます。
さてこれまで書きました複製の性質は大腸菌と枯草菌に共通に観 察されました。この2種類の細菌は各々接合と形質転換というゲノ ムの遺伝的交雑法を備えているため微生物分子遺伝学を代表する細 菌となっていますが,ご存じのように大腸菌はグラム陰性,枯草菌 はグラム陽性で5Sと16SのリボソームRNAの構造の変化から細 菌進化の上では互いに12億年前に分岐したも1のと推定されていま す。従って,これら2種類の細菌に共通なことはおそらく真正細菌 の総てに保存されていると考えていいでしょう。即ち,細菌レプリ
コンとその顔である開始の機構の基本は細菌界に共通であろうと推 定されたのです。
複製開始の2つのエレメント:普遍性と多様性
シスエレメントはそれ自身で自律的複製をすることができるシグ ナル配列であると想像されましたが,予想どうり大腸菌の複製開始 領域から245塩基対の複製能力をもった配列がクローニングされま
した(図1)。この配列にクロランフェニコールに耐性の遺伝子を連 結し環状に閉じて,大腸菌に導入するとプラスミドのように細胞の 中で自己増殖し,細胞を薬剤耐性に形質転換させることが出来ます。
それでこの配列をoriC, oriCを含むプラスミドをミニ染色体と呼 んでいます。その後の研究でミニ染色体の複製にはdnaA遺伝子が 必要であること,その遺伝子の産物であるDnaA蛋白がoriC配列 の中に4回繰り返されている9ヌクレオチド(9mer配列)に結合す ることが明らかになり,大腸菌染色体の複製開始の2つのエレメン