前略
杜の都仙台での,それも素晴らしい気候のもとで行われた遺伝生 態研究センターでのワークショップでは,日頃私が考えてもみな かったような問題提起に基づいた討論に参加できたこと楽しく振り 返っております。 「微生物の環境適応に関する遺伝子群の解明」とい
う今回のメインテーマは私の日頃の研究テーマにぴったりと一致す るのですが,こんなにも異なった視点から上記のテーマを捉えられ ている一群の研究者:微生物生態学者の万々の存在を知り,驚くと 同時に私の無知を恥じております。従いまして,これから書ニケと している短い感想も,決して私が日頃から考えているようなもので はなく,突然突きつけられた難問に動揺してあらぬことを口走って いる,といった程度にお考え頂ければ幸いです。
ワークショップで議論された一つのテーマである「微生物生態学 者と分子生物学者の接点」を考えてみた場合,私の率直な印象は,覗 時点では両者が接点を見つけて歩み寄ろうと模索するより.b,同じ 微生物を対象としながらも異なる分野に属する研究者が,それぞれ
「どの様な立場」で「何を知ろうとしているのか」を,一応お互いの 立場を無視してぶつけ合う作業が必要かと思います。これは,何の 利害関係もない,そしてひょっとしたらお互いに歩み寄る必要のな い純粋な科学論的な議論ですので,世上に氾濫するポリティカルな
*ワークショップでの演題
=名古屋大学農学部
議論と異なり愉快なものになるはずです。このような観点から少し だけ私の考えと立場を述べさせて頂きたいと思います。
まず分子生物学者は材料と対象を選ばないといった一般的傾向が あります。昨日まで「微生物」を対象としていた分子生物学者が明 日からは「牛」を対象として研究を始めたとしても,誰も驚かない でしょうし,ましてや彼の不節操さを責めるものはおりません。従っ て,彼らは自分が対象としている生物が天然環境ではどこに住んで いるのか,どの様な生活環を営んでいるのかに関しては,ほとんど の場合に無頓着であるといってよいでしょう。かれらが興味の対象
としている「極く限られた生命現象の側面」と明確なかかわり合い がある場合のみ「環境」を問題にします。この点,分子生物学者は 生物の多様性と個性を無視することにより,唯一無二と思われる「生 命に関するメカニズム」を知りたがっているといえます。微生物生 態学者の方々にとって,ある分子生物学者が自分と同じ微生物を研 究の対象としているからといって,彼らに親近感を覚えるのは早計 かも知れません。なぜなら,分子生物学者は微生物という「生命の 形態と生きざま」そのものにでなく, 「たまたま」微生物が示す「生 命のメカニズム」という前者とは本来異質なものに興味を持ってい るかも知れないからです。その点で生態学にとって分子生物学は,は なはだうさん臭いものである可能性があります。
時として分子生物学者は,生命を様々な部品からなる機械仕掛の 時計のように考えたがる傾向があります。たとえどれほど多くの部 品からなっていようとも,その数は有限であるはずですから,その 部品一つ一つの彼割と相互の機能的関連を明らかにすれば,おのず と「どのようなメカニズムで時を刻むことができるのか」を明らか にすることができると考える傾向があります。これは古くて新しい 科学方法論の問題であり過去の科学論の中で幾度となく議論された 問題ではありますが,その意味で現在の分子生物学者は以前にもま して徹底的な機械論に立っているように私には思えます。言い訳を 言わせて頂けば,決して分子生物学者が機械論を心底から信奉して
水野 猛 77
いるのではなく,その弱点を知りつつも当面のストラテジーとして 積極的に取り入れていると言えます。この点も微生物生態学者の 方々とは些か立場を異にしている点のように私には思えます。この 点で,分子生物学者が明らかにした「生命のメカニズム」に関する 教科書は,含蓄と余韻にあふれる生命に関する叙情詩というよりは, 今後ますます,コンピューターグラフィックスで描かれたマンガ本 のような様相をおびるようになろうかと思います。私にとって,坐 命に関する叙情詩を歌い上げる役割は生態学者の方々の領分に属し ているように思えます。もちろん何時の日にか,このような「生命 の理解」に関する全く異なる表現法が統一される必要があることは 疑うまでもないこととは思いますが。
分子生物学者は「なぜ?, Why」という質問をタブー視する傾向が あります。彼らが問うているのは「いかにして?, How」であります。
もちろん多様な生命形態を目の当たりにする時,ついついWhyと いう質問を発したい衝動にかられます。しかし,彼らはWhyという 質問は自分の領分には属していないと割り切ろうと努めます。なぜ なら, Whyという質問は,「生命のメカニズム」の中に人間的価値観 を導入することになり,それはメカニズムとは無縁のものであるが 故に,分子生物学を推し進める上で危険であるとさえ考えるからで す。従って,生態学者の方々がよく発せられるWhyという質問に対 しては分子生物学者は全く無防備であり,ただ当惑するのみなので す。これは決して分子生物学の弱点ではなく,むしろ方法論を単純 に割り切っているという点で大きな強みとなっていると思われま す。この点でも,生態学者/の方々からみると分子生物学者は暢気で 無責任であるように見えるかもしれません。
分子生物学者は生命の多様性を捨てて, 「普遍性の抽象」に徹しよ うと努める傾向にあります。これも生態学者の方々には物足りない 点になるかと思います。現在では,このように「生命のメカニズム に関する抽象された普遍性の各論的記述」からなる膨大な分子生物 学に関する教科書が数多く出版されており,それらに目を通すこと
は我々分子生物学者にとってさえ大変なことです。しかしそれらを 読み終えた時,果して天然の環境の中でささやかにその生命の営み を育んでいる名も無き微生物に関して何かが分かるかといえば,覗 時点では絶望的であると言わざるを得ません。実際の個々の生物は, 分子生物学者が必死にすくい上げた「生命のメカニズムに関する抽 象された散文的理解」を横目に, 「それで俺の事が分かったつもりか よ」とあざ笑うがごとく悠々とした詩的を生き様を呈示するからで
す。
ここまで書いてみて,取り留めもないことを書き,また「微生物 生態学と分子生物学の接点を求めるにしてはいささか後向きの極論
になったと反省していますが,私は以上のような点を踏まえ,自分 の立場を次のように理解しております。分子生物学者とは, 「生命の 生き様の全面的理解」を企む無媒な研究者の集団ではなく,生命の ある「側面」を限られた「方法論」で,かつ物理学と化学を基礎と して機械的に抽象・理解しようと試みている集団である。従って,歴 史的に見れば分子生物学という分野は方法論に立脚して一次的に集 約された過渡的な字間分野でしかないのではないかと考えられま す。その点で,生琴学者の方々の立場に立てば,分子生物学はそれ に対して接近すべき対象ではなく, (自らの土俵を堅持したうえで) 取り入れるべき方法論と理解して頂ければと思います。それも,か なり強力で有効な手法である点は,手前味噌ながら保証できます。
さて,このような愚にも付かぬようなことを書き連ねましても,責 任の紙面は埋まりそうもありません。あちこちに書きなぐったこと のある散文で申し訳ありませんが,大腸菌という微生物が,実験室 の試験管内という環境で見せる興味のある一現象「浸透圧への応答」
に関して,分子生物学者が記述するとどのようになるかを例として 示すため,今回の講演の内容を要約させて頂きます。なお,以下の 内容を理解して頂くために必要と思われる図を一枚だけ挿入させて 頂きます。以下の内容に登場する主な役者はこの図に全て書き込ま
水野 猛 79
れておりますので,随時参考にして頂ければ幸いです。
(1) はじめに
大腸菌などに代表されるグラム陰性細菌の細胞表層構造は,枯草 菌などに代表されるグラム陽性細菌のそれとは異なり,細胞質膜の 外側に外膜構造を有している。大腸菌の外膜は,細胞表層機能や生 体膜にまつわる諸課題を研究するための優れたモデル系として広範
に研究されてきた。これらの諸課題には,膜構造の形成機構,膜蛋 白質の合成及びその制御機構,蛋白質の膜透過機構の研究などが含 まれており,それぞれに大きな成果が得られつつある。特に大腸菌 外膜蛋白質の合成制御機構やそれと関連した外界刺激の受容と細胞 内情報伝達機構などに関しては,この数年間に分子レベルでの解析 が飛躍的に進展した。これらの研究により,細菌における遺伝子発 現機構や情報伝達機構に関して普遍的で新しい概念が明らかにされ っっぁる。ここではこれらの点に関して,外膜蛋白質OmpF及び ompcの培地浸透圧に応答した合成制御機構に焦点をあてながら 紹介する。
(2)培地浸透圧に応答した外膜蛋白質の合成制御
一般に単一細胞で増殖する細菌は幅広い範囲で変化する外界の浸 透圧に適切に応答する必要がある。外界の浸透圧変化に対する様々 な細胞応答系に関しては,その生理的側面を中心に大腸菌などで比 較的よく研究されてきた。大腸菌における浸透圧に応答した諸現象 の中で,外膜蛋白質OmpF, OmpCの合成制御機構に関しては,特 によく研究が進んでいる。大腸菌外膜は比較的限られた数の主要構 成蛋白質からなっており,それらはそれぞれ細胞当り約105分子程 度存在している。その中でもOmpF, OmpCと呼ばれる蛋白質は主 要外膜蛋白質の代表的なものであり,親水性低分子物質の膜透過を 可能にしている孔を形成している。 OmpF, OmpCの合成量は種々 の培養条件で大きく変化することが知られているが,最も典型的に