﹃ 正
と云って四つの部分から成り立っているものである︒こ
れら
一つ
一つ
が独
立の
作品
で︑
一つ
一つ
につ
いて
最初
に
表白段があり︑以下第一段・第二段・第三段と言う様に
章段を分けて講述がなされている︒その二週を一座と数
え四編あるから﹁四座講式﹂と一言われているのである︒
資料ーを見ると︑﹁正月祝坐中之法式﹂は現行のもの
とは異なるが︑﹁附法講署式﹂・﹁神祇講署式﹂・﹁熊野
署式﹂となっている︒さらに資料E
を見
てみ
ると
︑﹁
熊
野之
三段
式﹂
(﹁
熊野
講式
﹂)
とな
って
いる
様に
︑
一つ
の
独立している法要となっている︒このことから﹁附法講
塞式﹂・﹁神祇講署式﹂も本来は︑数段から成る独立し
た講式であったと恩われる︒そしてこの独立した三つの
講式を全て一段にまとめ︑﹁講客式﹂として組み込まれ
たものが﹁正月祝坐中之法式﹂となる︒このことから
﹁三
段式
﹂と
も呼
ばれ
る様
にな
った
︒この他に﹁愛染明
王講式﹂も内容が三段に分けられていて﹁三段式﹂と呼
ばれているものがある︒
文この法要の成立時期であるが︑熊野権現は元和十年 (一六二四)当山十三世正誉廓山上人の代に︑鬼門である東北のすみに鎮守様として勧請された︒そして資料
E
を見ると増上寺二十二世暁誉位産上人代(慶安三年l一
六五 O)
となっており︑大祭に使われた巻物である︒文
資料
I
の﹁附法講署式﹂中に増上寺の伝法の流れを記しである箇所に︑﹁中略││暁誉・遵誉・頓誉・森誉・乗
誉・贋誉和尚等也﹂とある︒贋誉上人は当山二十八世
(一 六七
五
1
一六
八 O)
であ るか ら︑
二ハ
五 O年から 六八
O年の間に成立したものと考えられる︒増上寺年中
49 ‑
行事資料中︑ただこの二点のみしか残されていない︒
現在勤められている三段式の本堂のしつらい︑式次第︑
衣体等を述べることにする︒荘厳については︑お正月と
いうことで本尊前にはおもち︑お花は松などの花を生け︑
おも立って変っているところはない︒しかしここで興味
深いことは︑外陣正面に外に向けて経机・礼盤︑そして
酒水器が置かれていることである︒又この法要には︑増
上寺職員が式衆を勤めるのでなく︑山内寺院諸大徳が出
仕されるのである︒又法要後︑別室にて御法主台下と親
しく新年のご挨拶を交し︑台下に大根料なるものを献上
される︒お年賀なるものでしょうが︑なぜ故このような
名がつけられたか︑これも興味有するところである︒ご
挨拶後︑境内諸堂{予を参拝し︑増上寺御歴代上人が記ら
れている安蓮社へ墓参される︒
衣体については︑御導師である大僧正台下は第一礼装
にて勤められ︑式衆である山内寺院の方々全員大五条
相当服・大紋切袴・中啓・荘厳珠数にて出仕されている︒
なぜ山内寺院の方々が︑大五条で出仕されているのか︒
山内寺院である芝組の名簿(東京教区の寺院名鑑)
には
︑
三部に分けられている︒このことは︑浄全十九巻を見る
と︑第一部﹁子院権輿﹂││塔頭寺院││・第二部﹁守
廟清務﹂││別当寺院││・第三部﹁別開蓮社﹂││な
にも属さない寺院・念仏道場の役割を果していた寺院l
!という様に分野別になっていた︒
又武
家時
代山
内に
は︑
声明長屋といって声明の達士が大勢住み︑文徳川家の大
法要等には大原なり黒谷より一流の声明師を招待して勤
められていた︒この様に法要はあくまでも専門分野の人 が勤め︑法要には七条以上とか︑簡単な法要は大師五条にて勤められていた様であるから︑大五条で法要を勤め
られていたことはないと考える︒山内寺院の方々は︑こ
の三段式には随喜か何かお手伝の様なかたちで出仕され
ていて︑そのなごりであろう︒
式次第については︑先づご入堂され外陣正面へ着かれ︑
払子を振らずに焼香三礼を行う︒そして伽陀中に酒水を
行う︒これは新しい年を迎えるに当り︑身も心も︑文こ
の世全てのものを酒浄するものである︒広開備に次き表
‑ 50 ‑
白を謂す︒この内容とは︑釈尊・阿弥陀仏・諸仏・三部
妙典・浄土祖師方より︑有難い教えを頂戴し︑又法然上
人のお教え︑士ロ水の正流を代々受け継がれてこられた浄
土歴祖︑並びに増上寺開山上人︑ご歴代の諸上人の遺業
に感謝をし︑報恩の誠を表わしたものである︒同時に増
上寺の伝法が浄土宗の吉水の正統を汲むものであること
を世に示すことを顕わしている︒そして浄土のお教えに
帰し︑伽陀を唱え︑礼拝を行じて共に浄土に生まれよう
というものである
︒次に唱礼の節にて維那が一唱一
礼し︑後に大衆が一唱一礼し報恩謝徳を表わす︒十四行
伺・自信伺・十念とつづき﹁附法講署式﹂が終了する︒
次に﹁神祇講署式﹂も表白から始まり︑日本国中大小神
抵等のご加護を戴き︑ご供養をするものである︒四誓伺
‑普済伺・十念で終る
︒﹁ 熊野 署式
﹂の 熊野 と書 いて
︑
増上寺においてはユヤと読ませる︒
一般 的に は︑ クマ ノ
と読まれている︒お能において︑熊野天鼓と言う題目が
あるが︑これをユヤテンコと読む︒これは読み癖である︒
これも文表白から始まり︑熊野権現様のご利益を戴き︑
国家隆昌︑万民豊楽をご祈願するものである︒心経三巻
をとなえ︑請護念伺・十念で終了する︒ここまでが外陣
の式であり︑これより内陣高座に移り︑ここで初めて払
子を振り着座する︒焼香三礼に合せ︑大盤八下が入り︑
三奉請・機悔伺・十念・開経伺・護念経・仏身観・御回
向(徳川家歴代尊霊並御一門尊霊)
‑摂 益文
・念 仏一 会
‑祝 聖文
・十 念・
総願偶・三唱礼(南無黒本尊阿弥陀如
来一切三宝庚大慈思)‑
送仏 備
・十
念し︑払子を振りご
退堂される︒これが現行の﹁正月祝坐中之法式﹂が全て
終了
する
ので
ある
︒
﹂こで正月の行事として︑法隆寺の吉祥天悔過とか︑
薬師寺に於ける薬師悔過と云う修正会の悔過法会を行じ
てい
る
︒しかし増上寺では︑仏法興隆・寺門繁栄・天下
泰平・万民豊楽・道業増上を願うこの﹁正月祝坐中之法
式 ﹂
1三段式ーを行じている︒この法要三段式は︑関東
十八檀林である茨城瓜蓮の常福寺・埼玉川越の連馨寺に
於いても古くには勤められていたようである︒今後機会
があれば調べてみたいと思う︒
51
参考文献
て
加藤章
一先生
古稀祈念論文集仏教民俗学会編
﹁輿教大師覚鎮の講式について﹂
松崎恵水先生
、
﹃四座講式﹄金田一春彦
﹃浄全﹄十九巻寺誌宗史縁山志巻三・巻四・
巻五 四
﹃増
上寺 史料 集﹄
資料
I
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