第 4 章 インド政策のはじまり―インド法制定後の課題
53 IOR/L/PS/2/1
92
年頃は、法制度上BOCが東インド会社をほぼ全般にわたって監督することになっているが、
実際には会社の影響力は依然として大きかった。つまり、BOC は法制度上、会社に対して 上位組織であるが、東インド会社は自身の権限の縮小を食い止めるべく実質的には政府の 監督強化に抵抗していたのである。しかし、BOC と会社はともにこのような対立を表面化 させることなく、内部協議を原則とした。また、BOC との連絡は会社の役員会および役員 会秘密委員会が行うが、会社には株主総会(General Court of Proprietors)が事実上かなりの 影響力を残していた。以下にみるようなダンダスによって会社との関係調整が計られた結 果、1790年代後半にもなるとBOCと会社との関係が安定しはじめたので、BOCは通常委 員会以外にあえて秘密委員会を設定する必要がなくなっていったと考えられる。
(2)個人的コネクションの強化
前項末尾でみたように、BOC 設立当初は東インド会社との関係は不安定であったので、
BOC は通常委員会のほかに秘密委員会まで設けて会社との関係強化に取り組む必要があっ た。東インド会社では、役員会のほかに株主総会がその運営に対して影響力を有していたが、
1784 年のインド法によって BOC との連絡は役員会に一元化された。そのため、直接的に BOC が株主総会の決定や会社内部の紛争に悩まされることはなかった。そこでインド法制 定後、ダンダスは、会社内部の個人的コネクションとりわけ役員会内の役員個人とのコネク ションの強化に注力した。ダンダスにとって幸いだったのは、会社側は内部抗争によって、
かつてのロバート・クライヴやローレンス・サリヴァンのような大物を擁立することは出来 なかったので54、従来からの会社役員関係者でダンダスと対等にわたりあうだけの個人を欠 いていた。さらに、従来会社の運営に絶大な影響力を有していた役員会の秘密委員会は、イ ンド法によって再編されたため弱体化していた。
東インド会社内の二大利害勢力はシティ利害(City interest)と船舶利害(海運族、Shipping
interest)であった。これら利害のイギリス政界での勢力を、フィリップスの著作巻末に付
されているデータを参照して、概観しよう。1784 年から 1833 年の東インド会社の役員は 110名で、そのうちシティ利害は29名、船舶利害は20名、私貿易利害は10名、インド利 害44名、不明7名である55。1780年から1834年までの下院におけるインド利害(インドと
54 クライヴは1774年に、サリヴァンは1786年に没している。少なくとも1785年までは先のマドラス知 事任命問題でも触れたように、サリヴァンを中心に会社は政府の実質的権限強化に対抗していた。
55 Philips, East India Company, Appendix II. なお、これは人数のカウントであり、同一人物が複数回 経験していても1名としている。図表2-2参照。
93
の関係が株式保有だけの場合は除外)を有する人物について彼が数えたのは 399 名である
56。その399名のうち、会社の役員経験者は57名である。フィリップスは、さらに14区分 に期間を区別し、それぞれの議員の選出区や与党支持か野党支持か等も付した詳細なリス トを作成している57(以下、図4-4参照)。
このリストによると、第一区分となる1780年10月から1784年3月において下院のイン ド利害関係者は71名であった。その71名のうち、国王軍(King’s service)ないし会社軍
関係者(Company’s service)をインド利害として33名、シティ利害ないし船舶利害関係者
を 31 名、その他7名としている。また、この第一区分の期間について、フォックス支持
(supported Fox)か小ピット支持(supported Pitt)かを付しており、これによれば、1783 年11月でフォックス支持31名(インド利害15名、シティ・船舶利害16名)、小ピット支 持11名(インド利害7名、シティ・船舶利害6名)、フォックス支持から小ピット支持へ動 いたのは12名(インド利害6名、シティ・船舶利害6名)となっている。1784年1月では フォックス支持26名(インド利害12名、シティ・船舶利害14名)、小ピット支持25名(イ ンド利害14名、シティ・船舶利害11名)を数えている。なお、1783年11月にフォックス 支持から小ピット支持へ動いた12名は、84年1月には全員小ピット支持のままであった。
このリストからは、1783年11月から1784年1月までの数か月の間に、インド利害関係者 のあいだで不利であった小ピット派が、その支持者数を増やし、フォックス支持者と小ピッ ト支持者はほぼ均衡するようになっていたことが見て取れる。
フィリップスは、第二区分として小ピット政権期の1784年5月から1790年6月を設定 し、インド利害関係者82名を数えている。その82名のうち、インド利害41名、シティ・
船舶利害34名、その他7名を数え、シティ・船舶利害関係者はほぼ同数だが、インド利害 関係者がその数を増やしていることがわかる。この第二区分以降では、政府支持か野党支持 かを付しており、政府支持38名(インド利害19名、シティ・船舶利害19名)、野党支持15 名(インド利害8名、シティ・船舶利害7名)となっており、圧倒的に政府支持者がその割 合を増やしている。
第三区分では、同じく小ピット政権期にあたる1790年8月から1796年5月を対象に、
インド利害関係者88 名をあげ、その 88名のうちインド利害52 名、シティ・船舶利害34 名、その他2名を数えている。第三区分の期間では、政府支持か野党支持かについて、1790
56 Philips, East India Company, Appendix IV.
57 Philips, East India Company, Appendix I.
94
年8月と1796年5月の時点それぞれで数えており、1790年8月では政府支持36名(イン ド利害19名、シティ・船舶利害17名)、野党支持25名(インド利害16名、シティ・船舶 利害9名)、1796年5月では政府支持33名(インド利害17名、シティ・船舶利害16名)、
野党支持26名(インド利害17名、シティ・船舶利害9名)となっており、政府支持が有利 であることは依然変わらないものの、野党支持者の比率が若干あがっている58。
ダンダスは、インド現地で活躍した社員が帰国すると、個人的な交流を深めて彼らのイン ド在勤時代のコネクションや専門知識を大いに活用させてダンダス自身や小ピットへの情 報提供や助言を求めた。帰国したばかりで、ロンドンではまだ強力なコネクションを確保し ていない人物にとって、小ピットやダンダスのような本国政界の大物政治家によるバック アップは帰国後の社内外における自身の出世に役立った。以下では、ダンダスの支援をもと に会社の頂点である総裁(chairman)59にまでなった2人の人物、デイヴィッド・スコット (David Scott, 1746-1805)とチャールズ・グラント(Charles Grant, 1746-1823)について具体的 事例を確認してゆこう。
デイヴィッド・スコットは、スコットランド北東部フォーファーシャーの地主ロバート・
スコット(Robert Scott, 1705-1780)の第10子として生まれ、13歳でセント・アンドリュース 大学の入学資格を取得した秀才であった60。優秀だが財のない、そして嫡男でない他の多く のスコットランド人同様、スコットは17歳で財を成すためにインドへ渡ることを決意した。
しかし、彼は東インド会社の社員としての推薦を受けることはできず、私貿易商人(private
trader)としてインドへ渡り、現地でパールシー教徒の事業家や東インド会社社員と共同し
て商業を行った。このように私貿易商人としてインドで商業に携わった者が、現地で東イン ド会社社員と共同して仕事に携わることは、決してまれなことではなかった。彼は、ボンベ イでエージェンシー・ハウスを設立した61。スコットを含む私貿易商人や東インド会社によ
58 本論文では1793 年までを主な対象としているため、以後の期間を対象としたフィリップスのリストの 分析は省略するが、第四区分以降は、対象期間がより細分化しており次のように区分されている。1796 年7月から1802年6月、1802年8月から1806年10月、1806年12月から1807年4月、1807年6 月から1812年9月、1812年11月から1818年6月、1818年8月から1820年2月、1820年4月から 1826年6月、1826年7月から1830年7月、1830年9月から1831年4月、1831年6月から1832年 12月、1833年1月から1834年(月表記なし)となっている。Philips, East India Company, Appendix I.
59 東インド会社の総裁は、毎年4月に選挙によって決められ、通常は前年の副総裁(deputy chairman)が 就任した。1783年から1834年までの総裁・副総裁のリストはPhilips, East India Company, Appendix III.
60 スコットについての基本情報はODNBのほか、C. H. Philips(ed.), The Correspondence of David Scott:
Director and Chairman of the East India Company relating to Indian Affairs 1787-1805 (London:
Office of the Royal Historical Society, 1951), Introduction.
61 エージェンシー・ハウスについては、確立した定義はないようであるが、18-19 世紀のインド各地で活
95
って、西部インドにおけるイギリスの貿易コネクションはこの時期にゆっくりと作り上げ られていった。しかし、ボンベイを中心とした西部インドでの貿易の拡大は、いつもマイソ ールやマラータといった現地勢力の軍事的脅威にさらされていたし、地方権力者の圧力に も脅かされていた。スコットは、こうした経験から、ボンベイでの貿易の生命線は、現地の 港湾と領域の支配にかかっていると確信するようになり、1770 年代にボンベイ軍に資金援 助を行っている。1786 年にロンドンに帰国してからも、スコットはイギリスが貿易から利 益を得るためにはその盾として領土支配が必要であると訴えている。その後、小ピット、ダ ンダスと親しくなったスコットは、ダンダスの支援をうけて1788年に東インド会社の役員 に選出され、さらに1790年には地元フォーファーシャー選出の下院議員となっている。
東インド会社の役員となったスコットは、社内の一大勢力である船舶利害と対立した。彼 らは、会社の船舶を独占的に監督し、貿易独占を脅かす私貿易商人を敵視していた。1795年 に副総裁となったスコットは、会社の船舶制度の改革に乗り出し、1798 年にはインド建造 船による経費削減をはかろうとしたが、彼は公に私貿易商人を支援していたことで同僚役 員から孤立していたためにこの改革は失敗に終わった。こうした会社内部の敵対関係は、イ ンドで総督ウェルズリー(Richard Wellesley [formerly Wesley], Marquess Wellesley, 1760–
1842)によって実行されたスコットとダンダスの攻撃的な政策、すなわち会社の領土拡張の
促進によってさらに激化した。スコットとダンダスの拡張政策は、会社の負債を増大させ、
会社の財政を脅かすものであったから、会社の既成利害の反発は強かった。
チャールズ・グラントは、1746 年、スコットランド北西部のインバネスシャーに生まれ た62。軍人の父アレクサンダー・グラント(Alexander Grant, ?-1762)の第3子であった彼は、
1758年に母を亡くし、1762年には父が戦死すると、16歳で孤児となった。スコットランド 北東部エルギンにいた父の弟ジョンの援助でエルギンの学校へ通った。早くに亡くした母 は敬虔な福音主義者で、彼を援助した叔父ジョンもまた敬虔なクリスチャンの生活を彼に 教えた。グラントは、1758 年にクロマティの船主で商人であったウィリアム・フォーサイ
動した欧米系総合商社のようなものと理解される。原語として 18 世紀末頃は Agency Houses よりも
Houses of Agencyという表記が使用されていたようである。邦語では「代理商館」や「代理商社」の訳
語が充てられたこともあるが、どれも訳語としては固定していない。松本睦樹「ベンガルにおけるAgency
Housesの形成 ―イギリス系私的資本の形成過程と東インド会社,1757-1800年」同志社大学経済学会『経
済学論叢』32(1983年)、156-218頁;Anthony Webster, ‘The Strategies and Limits of Gentlemanly Capitalism: The London East India Agency Houses, Provincial Commercial Interests, and the Evolution of British Economic Policy in South East Asia 1800-50’, The Economic History Review, New Series, 59-4 (2006), pp.743-764.
62 グラントに関する基本情報はODNBのほか、A. T. Embree, Charles Grant and British Rule in India (London, 1962).