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ダンダスのインド政策

ドキュメント内 18 世紀末イギリスのインド政策 (ページ 104-131)

本章では、ピットのインド法が1784年に制定されて以後の小ピット政権によるインド政 策について、主にヘンリ・ダンダスを中心に考察してゆく。ダンダスは小ピット政権におい てインド政策を担った人物であるが、前章でみてきたように、必ずしも当時から批判されて いたように独裁的にインド政策に関与していたとは言い切れない。小ピット政権によるイ ンド統治改革は、第6章でみてゆくように、インドにおいては新総督チャールズ・コーンウ ォリスによって推進される。では、イギリス本国ではどのような施策が講じられていたので あろうか。第1節では、1787年から88年のインドへの正規軍派遣論争を中心に、インド軍 再編の問題を考察する。ここでは、直接的には軍事的問題をも考察することになるのだが、

この問題をめぐる論争には、本国でインド関連問題についての決定権をめぐる政府と東イ ンド会社との熾烈な対立が包含されていたことが明らかになるだろう。つづく第2節では、

第1節での東インド会社との対立を経て、ヘンリ・ダンダスが徐々にインド問題における政 府の決定権を強化してゆく点を「インド財政」の考察から探ってゆく。第1節および第2節 で検討する問題は、ともに第 6 章以下で検討されるインドにおける統治改革と密接に関連 していた。ダンダスは、コーンウォリスからもたらされるインド現地の情報を本国下院で展 開する自身の主張の論拠にしていた。このことは、イギリス政界におけるコーンウォリスへ の信頼の高さを背景にしているが、同時にダンダスが自身の情報源をコーンウォリスであ ると謳ったとき、BOC とインド政庁との間の密な連携をアピールしてもいた。他方でコー ンウォリスが、BOCの監査を受けた東インド会社役員会からの指令とは別に、BOCないし 政府によるインド政庁への直接連絡はインド法上で認められていなかったにも関わらず、

ダンダスとの私的通信文を用いて政府の意向を確認していたことが第 6 章で確認される。

このように本章と次章とをあわせて、1780年代後半から90年代前半にインド統治改革がイ ギリス本国と現地インドの両方で密接な関連をもって進められたことが示されるであろう。

以下、本章では主に本国での施策を中心に考察をすすめてゆく。

1節 インド軍再編の試み

本節では、1787年から88年にかけてイギリス正規軍をインドへ派遣するにあたって主に 小ピット政権と東インド会社の間で起こったひとつの論争を中心に、ダンダスのインド政 策を検討してゆく。ここで着目する正規軍インド派遣論争という事例の背景には、1780 年

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代前半に本格化する「インド軍」統合の問題がある。18 世紀後半のインドでは、現地勢力 との抗争の裏にフランスの脅威がイギリスに重くのしかかっていた。アメリカ独立後の新 たな帝国の核となるインドを防衛するうえで、1780 年代後半に発展した「インドにおける イギリスの軍隊」(armies in India)いわゆる「インド軍」(Indian Army)の重要性は急速に高 まった。そして、その重要性の認識は、インドだけでなく、ロンドンでも広く共有されるよ うになっていった。

最初に「インド軍」という語について整理しておきたい。18 世紀後半のインドには、東 インド会社軍とイギリス正規軍とが併存しており、それぞれ「会社軍」、「国王軍」(his Majesty’s Troops, King’s troops/forces)と呼ばれた。「インド軍」という表現は、小ピット政 権期の 1786年から 93年までインド総督を務めたコーンウォリスの任期頃から使用される ようになっていた。このことは、後述するように、インドにおいてコーンウォリス総督期に 会社軍と国王軍を「インド軍」として統合する構想が、より現実のものとして現場でも意識 されはじめたことを意味する。一般に、インド軍についての歴史学的研究は1857年以降を 中心としており、それ以前はあくまで「東インド会社軍」として扱われ、併存する国王軍に ついてはほぼ等閑視されている。しかし、コーンウォリス総督期より「インド軍」という記 述や概念はたしかに存在しており、さらに国王軍のインド派遣に関する論点は、当時のイギ リスの軍隊にとっても帝国政策にとっても重要な意味を有していた。

本節では、第1項でまずインドにおける軍隊についてその概略を整理したうえで、第2項 においてインド軍統合の問題と正規軍インド派遣論争とを詳細におってゆく。そして第3項 において、これらの展開のなかでダンダスがとった施策がいかなる構想に基づき、何を志向 していたのか考察する。

(1)インドにおけるイギリス兵力の展開

〔会社軍の発展〕

18世紀末の「インドにおけるイギリスの軍隊(兵力)」については、既存研究でほぼ未整 理の状態にあると言わざるを得ない。まず、東インド会社軍について当該期までの発展の経 過と当時の基本構成などを確認してゆく1

1 以下、インド軍についての基本的情報は主に次による。Captain Raffter, Our Indian Army: A History of the British Empire in the East (London, 1855?); J. W. Fortescue, Military History: Lectures delivered at Trinity College, Cambridge (Cambridge, 1923), pp.150-200; R. Callahan, The East India Company and Army Reform, 1783-1798 (Cambridge, Mass., 1972).

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東インド会社の商館を警備していた商館警備隊(factory guards)は、いわゆる「インド軍」

の起源といわれている。この商館警備隊は、17世紀頃よりイギリスの管区(presidency)であ るマドラス、ボンベイ、ベンガルの各管区で独自に軍隊として発展していった。管区ごとの 警備隊が、1668年からボンベイ、1746年からマドラス、1756年からベンガルという順に東 インド会社軍としてそれぞれ発展し、整備されていった。三管区司令官制といわれるように、

管区ごとに軍司令官がおかれ、最後に発展したベンガルの司令官が1756年以降には東イン ド会社軍の最高司令官とされた。

18 世紀半ば頃に、それぞれの軍隊はインドでの不断の戦争によって急速に拡大していっ た。とくにベンガル軍は、その財政的・政治的重要性からも大いに発展した。議会への報告 書によれば、1763年でボンベイ軍2,550名、マドラス軍9,000名、ベンガル軍6,680名、総 数18,230名が、およそ20年後の1782年では、ボンベイ軍15,000名、マドラス軍48,000名、

ベンガル軍 52,400 名、総数 115,400 名にまで急増した。さらに 1805 年には、ボンベイ軍 26,500名、マドラス軍64,000名、ベンガル軍64,000名、総数154,500名と、その後も拡大 し続けた2(図表5-1参照)。

このような会社軍の発展は、財政上の理由から准大尉(subaltern)と大尉(captain)の増大に よる下級士官を中心になされたので、会社軍は「サバルタン・アーミー」(army of subalterns) と呼ばれた3。軍全体の構成は、圧倒的に歩兵(infantry)とくにセポイによっていた。つまり、

会社軍の多くがインド人であった。なかんずく初期の18世紀においては、ヒンドゥーが多 か っ た 。 ま た 、 ヒ ン ド ゥ ー の 軍 の 3 分 の 2 な い し 軍 の か な り の 部 分 を バ ラ モ ン

(Brahman/Brahmin)が占めたように高位カーストに属する者も多かったため4、海外・外部

派遣に対する反発は当初から強く、大勢の脱走兵を生み、問題化した5。こうした問題から

2 Reports from Committees of the House of Commons, 1715-1801 [以下RCHC ], 15vols. (1803-1806).

3 178412月の士官数は、大佐(colonel)7名、中佐(lt.colonel)19名、少佐(majaor)64名、大尉189名、

准大尉790名であった。Fort William-India House Correspondence and Contemporary Papers relating thereto [以下FWIHC ], XV, pp.390-391. 図表5-2参照。

4 FWIHC, XIX, p.10.

5 脱走兵の問題については、白人兵士の問題としても重大事項であった。インドに限らず帝国の「虜囚」

に着目した独創的なリンダ・コリの著作は、インドを扱った第三部のうち多くの紙幅をインドへ渡った 白人兵士にあて、彼らが実際に現地勢力や他のヨーロッパ勢力に捕われた以外に、「帝国の虜囚」「イギ リス国家の奴隷(自国の虜囚)」として詳細に検討している点は大変興味深い。また、彼ら白人兵士の 多くがイギリスの労働者階級出身の兵士で、本国人の彼らに対する態度などからも「白い顔をしたサバ ルタンたち」とも表現している。Linda Colley, Captives: Britain, Empire and the World 1600-1850 (London, 2002), pp.314-320〔(中村裕子、土平紀子訳)『虜囚―1600~1850年のイギリス、帝国、そし て世界―』(法政大学出版局、2016年)、418-425頁〕. 1785年のカルカッタでは、毎月30人の白人 兵士が脱走したとされ、情報や技術の流出の点からインド諸勢力へのイギリス人の脱走が問題視され た。FWIHC, XV, p.507; Colley, Captives, p.319(訳書、424頁). さらに19世紀初めには、脱走はむ

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ムスリムのリクルートが検討されていた6。インド人はコストが安く、現地の言語・習俗・

宗教も熟知し、概して勇敢であったため、時にはヨーロッパ人以上に軍へ貢献した7。 白人については、17世紀から18世紀において、クリンプス(crimps)といわれるあっせん 業者によってイギリス本国で誘拐まがいのリクルートが行われていた8。このようにしてリ クルートされた兵士の大半は、インドに到着する前に死亡したといわれ、兵員確保は非常に 困難だった9。インドまでの長く危険な航海だけでなく、インド現地での熱病などによる病 死によって、高い死亡率が記録されている10。そこでインド現地でも徴募され、ヨーロッパ 人部隊は、ポルトガル人やフランス人をはじめとする様々な人種の混在する構成となった。

例えば、1760年に南インドで活躍したアイル・クート(Sir Eyre Coote, 1726-1783)率いる イギリス軍は、セポイのほか、スイス人、ドイツ人、アメリカ人、フランス人、カリブ海域 の黒人、イギリス人、アイルランド人から成っていた11。当時のイギリス陸軍もコスモポリ タニズムを特徴としたことを思い浮かべれば、このようなインドの東インド会社軍の白人 部隊の人種的多様性は、さほど驚くに値しないであろう。彼らヨーロッパ人は、基本的に砲 兵と歩兵に配属された。

会社軍は連隊に二個大隊、さらに大隊に八個中隊で編成された。連隊長は大佐で、中隊長 は大尉から中尉であった。一個大隊には将校が22名から23名であり、会社軍の特徴は、上

しろインドにおける白人部隊の特徴となった。Colley, Captives, p.319(訳書、425頁).

6 とくに海兵部隊(marine corps)は、海を越えて従軍できるようイスラム教徒のインド人水兵(lascar)から 主に徴募する方針がうちだされるようになっていた。FWIHC, XIX, p.10.

7 著作『虜囚』のなかでリンダ・コリは、先住民を大量に動員することでインドにおける自国兵士の少なさ を補ったことを述べる際、「さらに、そしてマイソール戦争が実証したように、そのような形で補充され た兵士は概して勇敢に戦い、必要があれば、東インド会社やイギリスの支配のために命を投げ出した」と 加えている。Colley, Captives, p.307(訳書、407頁).

8 Arthur N. Gilbert, ‘Recruitment and Reform in the East India Company Army, 1760-1800’, Journal of British Studies, 15-1 (1975), pp.91-93. ギルバートが指摘するように、残念ながら東インド会社クリン プスの活動についてほとんどわかっていない。東インド会社軍に限らず兵員補給のためのあっせん業者 クリンプスは 18 世紀においては比較的一般的な存在となっていた。海軍の例については、以下を参照。

角山栄、川北稔編『路地裏の大英帝国―イギリス都市生活史』(平凡社、1982年)

9 軍務以外に従事する東インド会社の社員でさえ、1707 年から 1775 年の間に従事した 645人のうち約 60%がインドで亡くなり、任用されてから数年のうちに死亡した。同世紀の終わりでさえ、インド駐在の 兵士の4人に1人が毎年死亡した。P. J. Marshall, East India Fortunes: The British in Bengal in the Eighteenth Century (Oxford, 1976), pp. 217-218; Colley, Captives, pp.251-252(訳書、332-334頁).

また、コリは、自国兵士の徴兵の困難、死亡率の高さと関連して、インドにおけるイギリス軍のなかで少 年兵が稀でなかったことを指摘している。このことは、適任の大人の新兵が供給できないためであり、

1779年の東インド会社新兵のほとんど3人に1人が16歳以下だったという。Colley, Captives, pp.321-322(訳書、428-429頁).

10 例えば、1760年には一隻の53名のうち33名が航海中に死亡し、同年の他の一隻では61名のうち43 名がインドまでの航海を生き残れなかった。Gilbert, ‘Recruitment and Reform’, p.92.

11 Colley, Captives, p.318(訳書、423-424頁).

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