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コーンウォリスのインド統治

ドキュメント内 18 世紀末イギリスのインド政策 (ページ 131-168)

前章までにみてきた小ピット政権のインド政策をインドにおける統治改革として実行し たのは、1786年にインド総督に就任したチャールズ・コーンウォリス(Charles Cornwallis, 2nd Earl and later 1st Marquis, 1738-1805)であった。本章では、コーンウォリスによって1786 年から93年までに遂行されたインド統治改革いわゆる「コーンウォリス改革」と、ときに

「コーンウォリス・システム」と称されることもあるその成果について考察し、それらが小 ピット政権のインド政策および帝国政策においてどのように位置づけられるのか検討して ゆく。従来の研究では、コーンウォリス総督期のインド統治改革については、英領インド史 ないし帝国史の枠組みで考察されてきた。伝記的研究も含めたこれらの成果は1、詳細な実 証研究としては高く評価できるものの、その基盤となったイギリス本国、とくに政治や行財 政改革との関連は十分に明らかにしてこなかった。そこで本論文では、小ピット政権のイン ド政策および帝国政策という文脈を意識しつつ、コーンウォリス期インドにおける諸改革 を考察してゆくことにしたい。ここでは、本国におけるインド問題をめぐる議論や、それに 関わって提示される政策は、現地インドですすめられた統治改革の単なる背景ではなく、あ くまで一連の改革として連動した論議であり政策であることを検証してゆくことになる。

本章では、第1 節でコーンウォリスの諸改革を概観し、第 2 節で本国におけるそれらの同 時代的評価を検討する。コーンウォリス改革の評価と批判を検討することによって、小ピッ ト政権のインド政策におけるコーンウォリスによるインド統治改革の位置づけを確認し、

小ピット政権のインド政策および帝国政策の再検討につなげたい。

1節 コーンウォリス改革

本節では、「コーンウォリス改革」といわれる1786年から93年の7年間にわたるコーン ウォリス総督期のインド統治改革を概観してゆく。第1項では、コーンウォリスの略歴や人 物像を確認する。また、インド総督就任に至る経緯も確認してゆく。第2項および第3項で 多岐にわたる統治改革について検討してゆくが、第2項では司法・行政・軍事といった主要 な改革と改革全般を貫くモラル・リフォームに着目し、第3項はもっとも重要な改革のひと

1 インド統治期に焦点を絞った研究は、例えば次の3点があげられる。W. S. Seton-Karr, Rulers of India:

The Marquess Cornwallis (Oxford, 1890); A. Aspinall, Cornwallis in Bengal (Manchester, 1931); F.

Wickwire and M. Wickwire, Cornwallis: The Imperial Years (Chapel Hill, NC, 1980).

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つである地税制度改革について焦点を絞って考察をすすめてゆく。

(1)コーンウォリスのインド総督就任

小ピット政権のインド統治改革を検討するために、まず確認しておきたいのは、現地イン ドでそれを実現する任を負った総督コーンウォリス個人のことである。後に詳述するが、コ ーンウォリスが諸政権にインド総督として望まれたことは、出自や経歴などを含めた彼自 身の人物にも由っているからである。

コーンウォリスは、七年戦争およびアメリカ独立戦争に従軍した軍人で、後者においては ヨークタウンの戦いでの敗軍の将としても知られている。彼の経歴上あまり知られていな いが大陸外交においても国王と政府の信頼のもと役を果たし、さらにインド植民地、アイル ランド統治にも関与した。フランス革命戦争(1793-1802)に一応の決着をつけたアミアン の和約(1802年3月)でも重要な役割を担った。

チャールズ・コーンウォリスは、1738 年 12 月にロンドンで第 1 代コーンウォリス伯爵

(Charles Cornwallis, 5th Baron and 1st Earl Cornwallis, 1700–62)の長男として生まれた2。 また、サー・ロバート・ウォルポール(Sir Robert Walpole, 1st Earl of Oxford, 1676-1745) の 義 兄 弟 で あ っ た チ ャ ー ル ズ ・ タ ウ ン ゼ ン ト (Charles Townshend, 2nd Viscount

Townshend, 1674-1738)が祖父であった。一族の起源は曖昧で、その名前や一族の紋章であ

るコーンウォールのカラス(ベニハシガラス)がコーンウォール地方との関係を思わせるも のの、おそらくアイルランド系といわれている。14 世紀にロンドンのシェリフ(州長官:

sheriff)となったトマス・コーンウォリス(Thomas Cornwallis, d. 1384)の息子ジョンがサ フォーク州(Suffolk)のアイ(Eye)に近いブロム(Brome)に一族の拠を置いた。同地に サー・トマス・コーンウォリス(Sir Thomas Cornwallis, 1518/19-1604)が、コーンウォリ ス家のマナーハウスとなるブロム・ホール(Brome Hall)を築いている。彼の孫サー・フレ デリック(Sir Frederick Cornwallis, d. 1662)はチャールズ1世のために戦い、王政復古後、

枢密顧問官(Privy Councillor)となった。彼が 1661 年に第 1 代コーンウォリス男爵(1st Baron Cornwallis of Eye)として授爵した。このようにしてコーンウォリス家は、17世紀半 ばまでには国王に対する格別の忠誠によって一族の地位を確立していった。

チャールズ・コーンウォリスの同名の父(1700-1762)は、チャールズ・タウンゼントの

2 以下、コーンウォリスの経歴については、主に次を参照。Seton-Karr, Rulers of India: The Marquess Cornwallis, ch.1; A. Aspinall, Cornwallis in Bengal (New Delhi, 1987).

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娘であった妻エリザベス(Elizabeth, d. 1785)を通じてウォルポールとの良好な関係を築き、

宮廷との関係も依然として良好で、1753 年にコーンウォリス伯爵(Earl Cornwallis)およ びブロム子爵(Viscount Brome)を賜った。これらの縁故は、弟フレデリック(Frederick Cornwallis, 1713-83)が1768年にカンタベリ大主教(archbishop of Canterbury)に選任さ れるのを助けた。

父の死去によって第2代コーンウォリス伯爵となる1762年までブロム子爵と称していた チャールズ・コーンウォリスは、名門イートン校に学んだ3。彼は、1753年から54年にイー トンに在学し、在学中にホッケーの試合で片目を負傷したが4、1756 年 12 月には陸軍に入 隊し、第1歩兵連隊の歩兵少尉(ensign)として軍事的キャリアをスタートさせた。また、

イタリアのチューリン士官学校(Turin Military Academy)で学び、その後、七年戦争のド イツ戦線で重要な役割を果たし優秀な軍人として知られることになるグランビー侯爵(John Manners, Marquess of Granby, 1721-70)の副官(aide-de-camp)としてミンデンの戦い(battle of Minden)を経験し、七年戦争に従軍した。1759年8月には第85連隊の大尉(captain)、61 年6月には第12連隊の中佐(lieutenant-colonel)に昇進した。

政治キャリアに関しては、彼は、一族の懐中選挙区(ポケット・バラ:pocket borough) であるサフォークのアイから1760年に下院議員として選出されるも、62年6月23日に父 が死去し伯爵位を継いだので上院議員となった5。彼は、幼少期より軍人としての成功を望 んでおり政治活動を好まなかったので、当時の政治史のなかで下院議員であった短い期間 中に彼の積極的な行動は基本的に見いだせない。そのうえ下院議員であった期間の大半は、

ドイツで軍務についていた。彼は、少将(Major General)に昇進した1775年の翌 76年には アメリカ独立戦争へ派遣された6

アメリカ独立戦争では、かのワシントン将軍としのぎを削り、彼自身の指揮した作戦は概 ね成功をおさめ軍功をあげた。だが、1781年 8 月から 10 月のヨークタウンの戦いにおい て、最終的に米仏連合軍に包囲され降伏し、敗軍の将としてその名を知られることになった。

3 イートン出身者として彼は、1790年にはカルカッタのニュー・イートン・クラブ(New Eton Club)に 参加した。

4 1755年にはケンブリッジのクレア・カレッジ(Clare College)へ。

5 シェルバーンと親しく、当初ロッキンガム侯爵に近かったコーンウォリスは、貴族としての官職には、

Lord of Bedchamber (1765-69)、vice treasurer of Ireland(1769)、枢密顧問官(1770)、ロンドン塔長官 (1771)などの職歴がある。

6 例えば1765年の印紙法に反対投票を投じるなど、投票記録などからアメリカ植民地への課税に反対して いたことがわかるが、彼は一貫して抵抗運動やそれに通じるような政策は認めなかった。彼は、

Declaratory Actに反対投票した5人の上院議員のうちの一人だった。

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この敗戦の際、捕虜となった彼は1782年1月に帰国しているが、83年9月の戦争終結まで 仮釈放の身であった。

なお、1768年に結婚していた妻(Jemima Tulikens, 1747-79)をアメリカ従軍中に亡くして いるが、彼は、家族を深く愛したことで知られ、このことは子供たち(Mary, 1769-1857と

Charles, 1774-1823)への愛情深い手紙が多く残されていることからもうかがえる。

アメリカ独立戦争の終結は1783年まで待たねばならないが、先に触れたヨークタウンの 戦いは、イギリスの敗戦を決定的とした。しかし、アメリカ独立戦争での軍歴は、後のコー ンウォリスの軍事的キャリアを妨げることはなかった7。彼がアメリカから帰国した1780年 代初頭は、アメリカ植民地の喪失によるイギリス帝国の再編期にあたる。後代からみれば、

イギリス帝国の核が西のアメリカから東のインドへ移行することは周知の事実だが8、当時 のイギリス政治におけるインド問題の展開は、第 3 章でみてきたように複雑で混迷してい た。同時にインドにおいても現地諸勢力との抗争が続き不安定で危険な状態にあった。こう したインド現地の状況からは次期インド総督には軍人が望ましいと考えられていた。また 当時のインドにおける統治機構は行政と商業が分離していなかったが、行政府としてはベ ンガルを頂点とし、マドラス、ボンベイの3管区におかれていた。これらの機構において長 らく蔓延る腐敗こそ、ロンドンの東インド会社本社やイギリス政府が今後のインド統治に 最も障害となると考えたものであった。それまで英領インドを統括していた東インド会社 は幾度も腐敗除去や社員の綱紀粛正を試みたが、現地における社内の内部抗争がそれを成 功させなかった。この問題の深刻さは、コーンウォリスの前任総督ヘースティングズの時に 浮き彫りとなった。総督ヘースティングズは、総督とカウンシラーからなるベンガル政庁に おいて、他のカウンシラーに対するキャスティング・ボートを有さず、内部対立はインド統

7 アメリカ独立戦争における彼の軍人としての評価は、イギリスだけでなくアメリカ史においても比較的 好意的である。例えば、アメリカ史の事典の類は概して次のような評価を共有している。非常に強力な政 治的縁故を有していたコーンウォリスは、実際にはこの敗戦の責任を問われず、代わりに、1780年から 81年のコーンウォリスの指揮した南方戦線にほとんど効果的に動くことが出来なかった軍司令官クリン トンにその責めが降りかかったというものである。すなわち、イギリスの敗因は、軍司令官クリントンに あって、コーンウォリスにはないという見解である。一例として、Paul A. Gilje (ed.), Encyclopedia of American History, vol.3 (New York, 2003), p.93.

8 帝国の西から東への移行(swing out)については、次を参照。Vincent T. Harlow, The Founding of the Second British Empire, 1763-1793, 2vols. (London, 1964); P. J. Marshall, ‘Britain without America: A Second Empire?’ in P. J. Marshall (ed.), The Eighteenth Century: The Oxford History of the British Empire, vol.2 (Oxford, 1988). マーシャルは、第一次帝国から第二次帝国への移行が18世紀末に起こっ たことは間違いないとしながらも、第一次帝国は19世紀以降にも併存していたとする。第一次帝国の中 心であった西インドは、アメリカ独立後もイギリス経済の中心であり続け、主に反奴隷制運動においてイ ギリス人の多大な関心を集めた。つまり、18世紀末には西から東への重心移動(マーシャルのいう“swing to the East”)は起こったが、それは大西洋からの完全な撤退(swing out)にはあたらないという。Marshall,

‘Britain without America,’ pp.571, 581. 本論文序論も参照。

ドキュメント内 18 世紀末イギリスのインド政策 (ページ 131-168)

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