• 検索結果がありません。

E 5

5 5

8 B 倒 産

とい い︑

﹁現 在の 諸仏 が現 前に 現れ る三 味﹂ をい う︒ それ を﹁ 常行 道﹂ とい って いる から

︑善 導の 見解 はサ ンス クリ ット とは 異な る︒

これを七日から九

0

日間 とい う長 い間 休み なく 行じ る︒

﹁三 昧﹂ の理 解は

﹃観 念法 門﹄ と同 様で ある

︒﹁ 常行 道﹂ の出 典は

︑先 に考

察した天台智頭﹃摩詞止観﹄巻二上の四種三味中の﹁常行三味﹂の文を参照しているがω

︑智 頭自 身は

﹁常 行三 昧﹂ の出 典を

﹃般 舟

三味経﹄としているから︑経典にある本来の意味を智頭独自の解釈によって改変した︒善導は﹃摩詞止観﹄を参照したとはいって

いな いが

︑明 らか に智 頭の 理解 を知 って いた

k考

えら れる

︒﹃ 般舟 讃﹄ では

︑鷹 山慧 遠の

﹁般 舟三 味﹂ と智 頭の

﹁常 行三 味﹂ を参 照 し︑

﹁般 舟三 味﹂ は慧 遠の 見解 には 沿っ てい ない が︑ 自ら の教 学形 成に 用い た︒ 以上 を考 慮す ると

︑﹃ 観念 法門

﹄官 頭に 標梼 され てい る文 は︑

﹃般 舟三 味経

﹄に 依っ て﹁ 念仏 三昧

﹂を 明か すと はす るが

︑﹃ 般舟

讃﹄ を見 ると

﹁般 舟三 味﹂ も包 含し た意 味と 善導 は捉 えて いる

︒﹁ 観仏 三味

﹂﹁ 念仏 三昧

﹂︑ そし て﹁ 般舟 三味

﹂の 語を それ ぞれ で用 いていながらも︑特に何らかの明確な区別はつけていない︒ただひたすら浄土往生を願った善導の姿が浮かび上がる︒

﹃観 念法 門﹄ と﹃ 般舟 讃﹄ の撰 述の 前後 関係 は検 討し てい ない が︑ 様々 な経 典を 引用 する

﹃観 念法 門﹄ に対 して

﹃般 舟讃

﹄は 明確 な引 用は 見ら れな い︒

﹃観 経﹄ に傾 倒し てい るこ とは

︑内 容か らも よく 知ら れる

︒た だし

︑讃 文を 述べ てい ても

︑そ れに 基づ く行 儀 は見 られ ない

︒﹃ 観念 法門

﹄︑ そし て︑

﹃往 生礼 讃﹄

﹃法 事讃

﹄が 内容 的に 詳細 であ る︒ これ らの こと から 撰述 問題 の解 決の 糸口 と

なろうか守

では

︑﹃ 観経 疏﹄ の両 宗論 をど のよ うに 解し たら よい だろ う︒

﹁観 仏三 味﹂

﹁念 仏三 昧﹂

︑そ して

︑﹁ 般舟 三味

﹂の 三種 の三 味に つ いて 見る と︑

﹃般 舟讃

﹄は 前者 二種 の三 味は 語ら れて いな い︒

﹁般 舟三 味﹂ の語 が見 られ ても

︑慧 遠が 説く もの とは 異質 であ る︒ し たが って

︑﹁ 般舟 三味

﹂と いう 語を 用い てい るだ けで

︑善 導の 意図 する 三味 の思 想は

﹃観 念法 門﹄ で説 かれ てい るの が本 意だ ろう

︒ これ が﹃ 観経 疏﹄ に至 って 念観 両宗 論を 立て

︑そ れま での 三味 思想 を一 つに 集約 する

︒善 導は 観仏

・念 仏両 三昧 によ って 罪が 滅し

‑ 91  ‑

臨終おいて往生を得られるとした︒根底には︑往生を願う心が最も重要であると理解した︒この点は道縛と同様である︒すなわ

ち︑ 両宗 を立 てる こと は何 ら問 題で はな かっ た︒

第 三 項

﹃観経疏﹄における十念思想

善導の行儀体系と三味論に着眼し︑とくに︑行儀分と呼ばれる四部を中心に善導の念仏思想を考察した︒それにより善導

の精 微な 行体 系と 論理 が知 られ た︒ しか し︑

﹃観 念法 門﹄

﹃礼 讃﹄ に見 られ たよ うに

︑善 導が 求め たの は明 らか に上 品往 生で ある

‑92 ‑

それ故︑三味の理解は高度であり臨終見仏往生を説いているが︑それまでに至る行儀は厳格である︒しかし︑善導の十念思想は︑

これまでとは趣が異なる︒善導が﹁十念﹂を説くのは︑凡夫往生を容認するために説いたのか否かが問題となる︒曇鷲では︑﹃無 量寿 経﹄ 第十 八願 の﹁ 唯除

﹂の 文と

﹃観 経﹄ 下品 下生 の文 の相 違を 端緒 に︑

﹁普 く一 切の 衆生 のた め﹂ に何 故︑ 往生 を得 るの に相 違

があるのかという点から八番の問答が始まる︒道縛はそれを承けて︑﹃略論﹄の所説も取り入れ凡夫の往生行という点を問題に

した

︒そ

こで

﹁十 念﹂

﹁十 念相 続﹂

︑そ して

︑﹁ 念仏 三昧

﹂が 凡夫 相応 の往 生行 であ るこ とを 立証 した

しかし︑善導の十念思想は曇鷲・道紳とは異なる︒この点は︑すでに岡博士が従来の検討方法では問題のある点を指摘してい

る 伊

三祖は︑﹁十念﹂により師資相承しているが︑善導の十念思想は従来︑称名義として捉えられて︑﹁称念﹂を顕すとして定義 され てい る︒ この 点は 異論 のな いこ とで ある が︑

﹁十 念﹂ が何 故︑

﹁称 念﹂ を示 すの かに つい ては

︑取 り上 げら れる こと はな かっ た︒

﹁十 念﹂ の内 実を 明ら かに する こと に焦 点が 当て られ

︑思 想背 景に まで 至っ てい なか った

︒善 導は

﹁十 念﹂ は﹁ 十声

﹂と 読み 替え る が︑ 理由 につ いて は何 ら疑 問視 され るこ とな く︑ ただ

﹁称 名﹂ を指 して いる とさ れて きた

︒中 国三 祖の 中で

︑も っと も早 く﹁ 十念

の内実を明らかにしたのは曇鷲である︒道縛はその思想影響を受けているとはいえ︑﹁十念﹂をさらに固定概念化しており︑内実

については曇驚の思想を忠実に継承している︒善導では読替を施すことで︑あらたな十念思想を構築した︒善導が﹁十念﹂の内実

を定義した箇所は五部九巻を通じて見られない︒それは﹁十念﹂を﹁十声称仏﹂としたことで善導の十念思想は帰結しているから

である︒その思想が説かれる箇所が﹃観経疏﹄﹁玄義分﹂の別時意会通である︒先に考察したように︑道紳が﹃安楽集﹄巻上で会通

をし︑その影響を善導も受けているが︑あらたな知見も見出される︒

このように善導の十念思想は︑教学全体への影響が少なからず認められる︒中国浄土教では称名は易行であると捉えられて

きたが︑善導は称名念仏の重要性を強調し中国浄土教の基本概念を覆した︒善導が易行のみを説く高僧ではないのは︑彼の往

生伝を精査すれば知られることであるし︑今日︑たとえば︑牧田諦亮博士によって明らかにされているψ

﹁玄

義分

﹂に

は従

来の

un y

 

﹃観経﹄解釈を根底から見直す﹁古今措定﹂の文言が多く記されており︑会通には善導の苦心の跡が見受けられる︒代表的な別

時意会通も同様である︒

別時意会通は︑﹁玄義分﹂第六に﹁経論の相違を和会し︑広く問答を施し疑情を釈去す﹂とあり︑その中の第五番目にある︒

はじめに︑人が多宝仏を念じたならば︑無上菩提において退堕することはないという︒成仏の道理からいうと必ずすべての行を

完全に備えて成就するはずである︒どのようにして念仏一行でだけで成仏を望むことができるであろうか︒そこで念仏の一行だ

けで は成 仏は でき ない が︑ 万行 の中 の一 行で ある とい い﹃ 華厳 経﹄ を引 用す る︒ 功徳 雲比

Eは︑仏法の三味の中で念仏三昧という

一行 を知 って いる とい って いる が︑ 念仏 も重 要な 行で ある と述 べて いる

また﹃法華経﹄に一たび南無仏と称えたならば︑仏道を成就するとあるから︑先の文とどのように異なるのかを問う︒これに︑

論中称仏唯欲自成仏果︑経中称仏為簡具九十五種外道︒然外道之中都無称仏之人︑但使称仏一口即在仏道中摂︒削

と答 える

︒﹃ (摂 大乗 )論

﹄の 中の 多宝 仏を 称え ると いう のは

︑た だ仏 果を 成就 する から で﹃ 法華 経﹄ の文 は九 十五 種の 外道 と区 別 する ため であ る︒ 外道 の中 には 仏を 称す るも のは いな い︒ 仏の 名を 一つ でも 称え たな らば

︑そ れで 仏道 の中 に摂 まっ てい ると いう

このように善導は別時意でも成仏別時意については容認しており︑諸行を修する必要性を説いているが︑念仏一行︑すなわち︑

﹁念 仏三 昧﹂ が優 れた 行で ある とい うこ とを 述べ てい る︒

続けて善導の問題とするところは︑以下の往生別時意についての会通である︒人がただ発願のみで安楽土に往生するとあるが︑

‑ 94 ‑ 摂論 学派 の人 々は

﹃( 摂大 乗) 論﹄ の意 味を 解釈 する のに

︑錯 って

﹃観 経﹄ の下 品下 生の 十声 の称 仏と 今の 説が 類似 して いる から 往

生できないという︒一金銭が千金銭になるのは︑多くの日数を経て成るのだから一日で千金銭になるのではない︒十声の称仏も

同様であって︑遠い将来の往生行となるのであり往生はまだ得ていない

︒仏は悪を捨てて名を称えさせよとして述べた別時の意味

なの であ ると いう

︒こ こで 善導 は﹃ 阿弥 陀経

﹄を 引用 して

︑摂 論学 派の 説を 排斥 し︑

雄然仰願一切欲往生知識等善自思量︒寧傷今世錯信仏語不可執菩薩論以為指南︒若依此執者︑即是自失誤他也︒仰

と述 べる

︒善 導は

︑す べて の往 生し よう とす るも のた ちに よく 思量 せよ とい う︒ そし て︑ 仏語 を信 ずる べき こと を強 調し

︑菩 薩の

論に執われではならない︒これに執われたならば︑他人を誤らせると明言する︒善導の仏語に対する忠実︑実直さが知られる︒

そし て︑ 問答 が述 べら れる

︒問 答の 中で もっ とも 重要 なの が﹁ 願﹂ と﹁ 行﹂ の関 係に つい ての 会通 であ る︒ 往生 を得 よう と願 う者 は︑ 当然

︑行 を修 する

︒し かし

︑善 導は

﹁願

﹂と

﹁行

﹂が 共に 具足 して いな いと 往生 でき ない とい う︒ そし

て︑

﹁願

﹂と

﹁行

﹂の

意味

には

E

のよ うな 区別 があ るの かと 問う

︒﹁ 行﹂ だけ では 孤立 して 到達 する とこ ろは ない

︒﹁ 願﹂ だけ では 虚し く至 ると ころ もな い︒ 必ず

﹁願

﹂と

﹁行

﹂が 共に たす けあ って すべ てが 成就 する

︒﹃ (摂 大乗 )論

﹄に はた だ発 願だ けで 行に つい ては 論 じて いな いか ら遠 い将 来の 往生 行と なる のは

︑現 実の 意味 を述 べた ので ある と答 える

︒こ の次 に﹁ 願﹂ だけ では

︑何 故︑ 往生 でき な

いの

かと

問う

開他説言西方快楽不可思議︑即作願言我亦願生︑導此語己更不相続︑故名願也︒今此観経中十声称仏即有十願十行具

足︒云何具足︒言南無者即是帰命︑亦是発願廻向之義︒言阿弥陀仏者即是其行︑以斯義故必得往生︒ω

この 箇所 を古 来﹁ 六字 釈﹂ とい い︑ 親驚 が﹃ 教行 信証

﹄﹁ 行巻

﹂の 思想 に影 響を 与え たの はあ まり にも 有名 であ るか ら畑

︑詳 細に

言及する必要もないだろう︒善導は﹁十声称仏﹂には十願と十行が具足されているといい︑南無というのは帰命であり発願廻向

を意味する︒阿弥陀仏とは︑その帰命し廻向する様を行じていることといい︑願と行によって往生する︒

善導 は﹃ 観経

﹄の

﹁十 念﹂ を﹁ 十声 称仏

﹂と 明確 に述 べた

︒そ こに 十願 と十 行が 具足 され てい るこ とを 立証 する

︒摂 論学 派が

﹁十

FH

U 

Qd  

念﹂ を批 判し たの は﹃ 観経

﹄の

﹁具 足十 念﹂ を無 行と した のを

﹁錯 まり

﹂と いう

︒す でに

﹁具 足十 念﹂ では なく

﹁十 声称 仏﹂ とし ての 意 味が確立している︒そして︑願行が具足されているとしたが︑摂論学派は﹁十念﹂という点だけを問題にして﹁ただ十念だけを備 えた らよ い﹂ とい う程 度し か認 識し てい なか った

︒す なわ ち︑ 浄土 往生 しよ うと する 願い (十 念) だけ を具 足さ えし てい たら よい と

いう

意味

だっ

たの

だろ

う︒

このように善導は︑曇驚・道縛とは異なり︑﹁具足十念﹂を﹁十声称仏﹂と読み替えて︑その意義を終始強調する︒別時意会通

は︑摂論学派の論難を排斥するために十念思想を確立する必要があった︒しかし︑﹁成仏別時意﹂を善導は容認しているように︑

別時意すべてを批判の対象にしたわけではない︒摂論学派の説を参照しつつも︑会通の最後には︑

斯乃不可以言定義︑取信之者懐疑︑要引聖教来明︑欲使聞之者方能遣惑︒陥

関連したドキュメント