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8 9  は︑現世において

ドキュメント内 仏教福祉 No.10 (ページ 95-126)

﹁仏性﹂

を開顕させることを目的とす る(成仏を目指す)

のではなく︑あくまでも現世におけ る往生浄土が目的であり︑そのために仏の

いである念 ど

仏を称えることが第

一義なのである

( 4 )

法然上人における﹃仏の子﹄

以上のように︑法然上人における

﹁仏弟子

﹂・﹁仏

性﹂

を考察

してきたが︑両者に対する法然上人の姿勢は全く

異なるものである︒その内容を勘案すれば︑法然上人に

おける﹁仏子(仏の子)﹂を考える際にA

﹁仏

弟子

という意味と︑﹁仏性﹂を持つ者という意味のy

+

らの内容をもって定義すべきか明瞭であろう︒法然上人

は︑凡夫である衆生に仏性開発を勧めず︑釈迦弥陀二尊

の御心にしたがい︑称名念仏を行じ︑廃悪修善の生活を

心がけていくことを勧められているのである︒

つま

り︑

法然上人における﹁仏の子﹂は﹁仏弟子﹂に他ならず︑

念仏の生活の中に悪を止め善を修すという仏の願いにか

なった行いをする者こそ︑浄土宗における﹁仏の子﹂と

いうことが出来よう︒

そし

て︑

﹁仏の子

・仏子

弟子﹂という定義を明確にするならば︑﹁仏の子﹂とい

う表現自体を否定する必要はなく︑むしろ法然上人の御

教えを矛盾なく子供達に伝えていく際に︑大切な言葉と

して活用することができるのではないだろうか︒

三︑浄土宗の児童教化における﹃仏の子﹄の意昧

ここまで簡略ではあるが︑法然上人における﹁仏の

子﹂についてその概念を確認した︒この﹁仏の子﹂とは

広く﹁仏弟子﹂を指し︑仏道に向かうすべての生きとし

生けるものを対象としているため︑児童に対する特別な

呼称ではない︒しかし︑仏教における児童観は︑老若男

女を平等にみる仏陀の人間観に基づいて形成されるもの

90 

であり︑児童だけを特別な存在として取りあげないとい

()うまでのことである︒

そし

て︑

﹁仏の子﹂として行うべ

き修行は︑老若男女の別なく守るべきものなのである︒

浄土宗においては︑誰にでも易しく勤められる念仏を基

本としながら︑生活の中で悪いことをせずに

善い

ことを

行うよう心がけるというだけの︑きわめてシンプルな仏

さまとの約束を守ることが﹁仏の

子 ﹂

にとって肝要なこ

となのである︒

法然上人はその教えの中で仏の選び(選択)というも

( )

のを重視された︒迷える凡夫たる我々は仏さまの選びと られた修行を行えばよいのである

︒小賢しい衆生のはか

﹁仏

さま

言葉・仏さまの願い・仏さまのらいを超えた

こころ意﹂に順じていくことが︑児

童の場合においても大切な

ことにかわりない︒浄土宗における仏さまの言

葉と

は︑

()

法然上人が

﹃選択集﹄

に記された﹁浄土

三部経(﹃無量

寿経﹄・﹃観無

量寿 経﹄・﹃阿弥陀経

﹄)﹂

の御

教え

いわゆ

る往生浄土門を説く釈尊の

一 言 葉である

︒次に︑浄土宗に

え お す け れ る ば 仏 必 さ ず ま 救 のい 願 摂とい る と と は 誓 わ れ た

いかなる衆生もお念仏をお称

いわゆる阿弥陀さま

の御本願である︒そして︑浄土宗における仏さまの意と

は︑お念仏申す毎日をよい子に過ごすお約束を︑

しっ か

り守ってほしいとおもう仏の心︑いわゆるお釈迦さまと

阿弥陀さまから向けられた︑

おもい意である︒

浄土宗の児童教化においては︑児

達へ

いたらない私達への二仏の

のように法然上人が易しく説き示された仏さまの御教え

の肝要なところを︑

ただ﹁仏さまとのお約束

﹂として守

ってもら担えればよいのではないだろうか︒つまり︑浄土

宗の児童教化において︑﹁仏の子﹂たる児

に教えなく てはならないことは︑﹁

仏 さ ま と の お 約 束 ( 仏 語

・仏

願・仏意)﹂を守ることなのである︒

このように浄土宗における児童

教化においては︑法然 上人のやさしい導きをお手本に︑﹁仏の子﹂たる児童が しっかりと仏さまの

葉をいただき︑仏さまの願いにか ない︑仏さまの

意を承

けとるという︑仏さまとのお約束 を守る生活を理想とするべきであろう

具体的には︑仏 さまに手

を合わせてお念仏をお称えすることと︑日頃の

‑ 91 ‑ 生活の中で仏さまの悲しまれる悪いことをなさずに

喜ば

れる行いを進んですることに心がけてもらうのである

これは児童

にとって無理なく︑非常に大切なことを学

ことになるのであり︑なおかっ︑結果的には児

を往生 浄土の道へ教え導くことにもなるであろう

︒児童

教化に そ

たずさわる浄土宗教師としてこのような

﹁仏の子

を育

てる教化方法は︑基本的な浄土宗

教師のっとめを果たす ばかりでなく︑児

童達に仏さまの

言葉

を基準とした善悪

を教えることも出来る︑重

要な

味を持つものといえる

のではなかろうか︒

四︑浄土宗的児童教化の意義

これまでの考察により︑浄土宗的児童教

における

﹁仏の子

﹂を仏さまとの約束を守る子供︑と位置づけ︑

そのような﹁仏の子﹂を育てていく教化が大切であるこ

とを指摘した︒これはもちろん︑前述した児童教化の第

一目

的である︑阿弥陀さまの大いなる慈悲のもと︑明る

く・正しく・和よく︑健康な心を育むという︑人間形成

の一助となることを目指すものであり︑同時に︑児童達

の往生浄土を願い︑念仏を称えさせるという︑浄土宗教

師として基本的なつとめを果たすものである︒図示すれ ば次のようになる︑だろう︒

仏の子について

仏教全般における仏の子

図 2 

浄土宗における仏の子のお約束

浄土宗的児童教化

仏さまとのお約束 お念仏を称える 悪いことはせず 善いことを行う

往生が約束される.明るく︑正しく︑和よく生活をする心(健康な心)が育まれる

冒頭の疑問の②に︑幼児にお念仏を勧めることをどう

考えるかとあったが︑幼児も大人も関係なく︑

凡夫で

ある我々にとって念仏以外に救われる道がないからこ

Qd  

そ︑法然上人の説かれた念仏の教えを幼児や児

達 に も

おとりつ ︑

ぎするのである

なぜそのことを︑児童を対象 とした時にだけ変える必要があるであろうか

浄 土 宗 教 師にとって大切なことは︑我々凡夫に対して仏から示さ れた︑唯

一平等の救いである念仏を子供達にも勧めるこ とであり︑共々に称えることである

世の中のうつりか わりは老若男女を問わず︑死は老人だけに特別なことで

はな

く︑

供とて関係なく訪れる

︒だからこそ︑いつ何

時訪れるか分からないその時までに

お念仏を勧めるべ

きなのである

また︑幼児や児

童にとっ

て般若の教えや

波羅蜜など を事細かに説くことよりも︑自の前で死を迎え︑動かな くな った大切ないのちがどこへ行ったのかを︑念仏の教 えを通じて明確に説き示してあげることの方がはるかに

際的であるといえるだろう

仮に︑幼稚園や学校で共 に飼っているペットや観賞魚

︑ 児

達にとってかけが えのない存在が死を迎えたならば︑﹁僕たちの目にはは

っきり見えないけど︑

きっと仏さまは

達が心から称え

るお念仏の声を聞いて下さって︑大切な

OO

ちゃんを苦 しみのない素晴らしい極楽という世界に連れて行って下

( 初

)

さるはずです

そし

て︑

OO

ちゃんはいつも極楽から︑

仲の良か

った君達のことを見守ってくれるよ

だから しっかり一緒にお念仏をお称えしましょう﹂と説くこと が︑最も大切なことであろう

︒児童

遥は

この世で二度

と会うことが出来ず哀しいけれども︑先立った大切な自

分の友人が見守ってくれるという︑一

種の安心を得るこ とが出来るのではなかろうか

また︑この世では会えな

qd

n u  

 

いけれども︑

いつの日かお浄土で再会することができる と い う こ と を 伝 え る こ と も 大 切 な こ と で あ ろ う

さ ら この話に加えて︑今失ったこの﹁いのち﹂と私達の

﹁い

の+

は︑どちらも同じくらいかけがえのない尊い ものであることを説くことが出来れば︑児

達が哀しみ

の中に﹁いのち﹂の尊さを学

ぶことも可能なのではなか

ろうか︒

そして︑このように

を合わせてお念仏をする ことの積み重ねが︑大切な者を確かに救って下さる仏さ まの存在を児

達に感じさせることとなり︑自然に敬虚

()な態度と心を養っていくことになるのではなかろうか︒

このように考えると︑児童自身の往生浄土を願うことが

大切であることは言うまでもないが︑その他にも︑児童

が念仏や往生浄土の教えに学ぶところはとても多いとい

えるのである︒

児 童 教化における ﹁ 愚 者

の 自 覚

続いて︑児童教化における﹁愚者の自覚﹂について考

察を進めたい︒﹁愚者の自覚﹂とは︑周知の通り︑自ら

のいたらなさに目を向けることである︒自らのいたらな

さに気づけることが出来てこそ︑仏の教えを信じ︑他人

を慈しむ心を持ち︑自らを律し︑念仏の生活を送ること

が素直に行えるものであろう︒まことに﹁愚者の向覚﹂

や﹁凡夫観﹂は大切である︒しかしながらこれは直接

児童に説き聞かしてもなかなか難しい︒それは︑﹁愚者

の自覚﹂や﹁凡夫観﹂

の理

解に

は︑

その人のこれまでの

さまざまな経験や葛藤が大きな役割を果たしているから に他ならない︒幼児達にとっては︑いきなり﹁いたらな

いところがある﹂と言われてもピンとこない︒

やは

り︑

さまざまな経験を積む中︑自分にいたらない部分がある

ことを実感することで気づくものである︒そうであれば

こそ︑幼少期からの規範的な生活が大切なのであろう︒

幼少期に規範的な生活を心がけてこそ︑成長していく課

程で︑規律を守ろうと思っても守れない自分のいたらな

さに気づくことも出来︑大人になる時に凡夫観を身につ

( )

けることとなるのである︒浄土宗の児童教化において︑

‑94 

日頃から仏さまの悲しまれる悪いことをなさずに仏さま

の喜ばれる行いを進んですること(規範的生活)を教え

ることは︑児童にいつの日か﹁愚者の自覚﹂を持っても

らう意味でも大切なものといえる︒そして︑それは特別

に厳しい内容でなくても︑仏さまとのお約束を守る子供

﹁仏のチ﹂に対して︑仏さまとのお約束を具体的な形

で示すことが出来れば十分であろう︒

例え

ば︑

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