﹁仏性﹂
を開顕させることを目的とす る(成仏を目指す)
のではなく︑あくまでも現世におけ る往生浄土が目的であり︑そのために仏の
誓
いである念 ど
仏を称えることが第
一義なのである
︒
( 4 )
法然上人における﹃仏の子﹄
以上のように︑法然上人における
﹁仏弟子
﹂・﹁仏
性﹂
を考察
してきたが︑両者に対する法然上人の姿勢は全く
異なるものである︒その内容を勘案すれば︑法然上人に
おける﹁仏子(仏の子)﹂を考える際にA
﹁仏
弟子
﹂
という意味と︑﹁仏性﹂を持つ者という意味のy
﹂+ り
B
らの内容をもって定義すべきか明瞭であろう︒法然上人
は︑凡夫である衆生に仏性開発を勧めず︑釈迦弥陀二尊
の御心にしたがい︑称名念仏を行じ︑廃悪修善の生活を
心がけていくことを勧められているのである︒
つま
り︑
法然上人における﹁仏の子﹂は﹁仏弟子﹂に他ならず︑
念仏の生活の中に悪を止め善を修すという仏の願いにか
なった行いをする者こそ︑浄土宗における﹁仏の子﹂と
いうことが出来よう︒
そし
て︑
﹁仏の子
・仏子
﹂
仏
弟子﹂という定義を明確にするならば︑﹁仏の子﹂とい
う表現自体を否定する必要はなく︑むしろ法然上人の御
教えを矛盾なく子供達に伝えていく際に︑大切な言葉と
して活用することができるのではないだろうか︒
三︑浄土宗の児童教化における﹃仏の子﹄の意昧
ここまで簡略ではあるが︑法然上人における﹁仏の
子﹂についてその概念を確認した︒この﹁仏の子﹂とは
広く﹁仏弟子﹂を指し︑仏道に向かうすべての生きとし
生けるものを対象としているため︑児童に対する特別な
呼称ではない︒しかし︑仏教における児童観は︑老若男
女を平等にみる仏陀の人間観に基づいて形成されるもの
90
であり︑児童だけを特別な存在として取りあげないとい
(幻)うまでのことである︒
そし
て︑
﹁仏の子﹂として行うべ
き修行は︑老若男女の別なく守るべきものなのである︒
浄土宗においては︑誰にでも易しく勤められる念仏を基
本としながら︑生活の中で悪いことをせずに
善い
ことを
行うよう心がけるというだけの︑きわめてシンプルな仏
さまとの約束を守ることが﹁仏の
子 ﹂
にとって肝要なこ
となのである︒
法然上人はその教えの中で仏の選び(選択)というも
(お )
のを重視された︒迷える凡夫たる我々は仏さまの選びと られた修行を行えばよいのである
︒小賢しい衆生のはか
﹁仏
さま
の
言葉・仏さまの願い・仏さまのらいを超えた
こころ意﹂に順じていくことが︑児
童の場合においても大切な
ことにかわりない︒浄土宗における仏さまの言
葉と
は︑
(お)
法然上人が
﹃選択集﹄
に記された﹁浄土
三部経(﹃無量
寿経﹄・﹃観無
量寿 経﹄・﹃阿弥陀経
﹄)﹂
の御
教え
︑
いわゆ
る往生浄土門を説く釈尊の
一 言 葉である
︒次に︑浄土宗に
え お す け れ る ば 仏 必 さ ず ま 救 のい 願 摂とい る と と は 誓 わ れ た
いかなる衆生もお念仏をお称
いわゆる阿弥陀さま
の御本願である︒そして︑浄土宗における仏さまの意と
は︑お念仏申す毎日をよい子に過ごすお約束を︑
しっ か
り守ってほしいとおもう仏の心︑いわゆるお釈迦さまと
阿弥陀さまから向けられた︑
おもい意である︒
浄土宗の児童教化においては︑児
童
達へ
︑
いたらない私達への二仏の
のように法然上人が易しく説き示された仏さまの御教え
の肝要なところを︑
ただ﹁仏さまとのお約束
﹂として守
ってもら担えればよいのではないだろうか︒つまり︑浄土
宗の児童教化において︑﹁仏の子﹂たる児
童
に教えなく てはならないことは︑﹁
仏 さ ま と の お 約 束 ( 仏 語
・仏
願・仏意)﹂を守ることなのである︒
このように浄土宗における児童
教化においては︑法然 上人のやさしい導きをお手本に︑﹁仏の子﹂たる児童が しっかりと仏さまの
言
葉をいただき︑仏さまの願いにか ない︑仏さまの
意を承
けとるという︑仏さまとのお約束 を守る生活を理想とするべきであろう
︒
具体的には︑仏 さまに手
を合わせてお念仏をお称えすることと︑日頃の
‑ 91 ‑ 生活の中で仏さまの悲しまれる悪いことをなさずに
喜ば
れる行いを進んですることに心がけてもらうのである
︒
これは児童
にとって無理なく︑非常に大切なことを学
ぶ
ことになるのであり︑なおかっ︑結果的には児
童
を往生 浄土の道へ教え導くことにもなるであろう
︒児童
教化に そ
たずさわる浄土宗教師としてこのような
﹁仏の子
﹂
を育
てる教化方法は︑基本的な浄土宗
教師のっとめを果たす ばかりでなく︑児
童達に仏さまの
言葉
を基準とした善悪
を教えることも出来る︑重
要な
意
味を持つものといえる
のではなかろうか︒
四︑浄土宗的児童教化の意義
これまでの考察により︑浄土宗的児童教
化
における
﹁仏の子
﹂を仏さまとの約束を守る子供︑と位置づけ︑
そのような﹁仏の子﹂を育てていく教化が大切であるこ
とを指摘した︒これはもちろん︑前述した児童教化の第
一目
的である︑阿弥陀さまの大いなる慈悲のもと︑明る
く・正しく・和よく︑健康な心を育むという︑人間形成
の一助となることを目指すものであり︑同時に︑児童達
の往生浄土を願い︑念仏を称えさせるという︑浄土宗教
師として基本的なつとめを果たすものである︒図示すれ ば次のようになる︑だろう︒
図
仏の子について
仏教全般における仏の子
図 2
浄土宗における仏の子のお約束
浄土宗的児童教化
仏さまとのお約束 お念仏を称える 悪いことはせず 善いことを行う
‑往生が約束される.明るく︑正しく︑和よく生活をする心(健康な心)が育まれる
冒頭の疑問の②に︑幼児にお念仏を勧めることをどう
考えるかとあったが︑幼児も大人も関係なく︑
凡夫で
ある我々にとって念仏以外に救われる道がないからこ
フ︼
Qd
そ︑法然上人の説かれた念仏の教えを幼児や児
童
達 に も
おとりつ ︑
ぎするのである
︒
なぜそのことを︑児童を対象 とした時にだけ変える必要があるであろうか
︒
浄 土 宗 教 師にとって大切なことは︑我々凡夫に対して仏から示さ れた︑唯
一平等の救いである念仏を子供達にも勧めるこ とであり︑共々に称えることである
︒
世の中のうつりか わりは老若男女を問わず︑死は老人だけに特別なことで
はな
く︑
子
供とて関係なく訪れる
︒だからこそ︑いつ何
時訪れるか分からないその時までに
お念仏を勧めるべ
きなのである
︒
また︑幼児や児
童にとっ
て般若の教えや
六
波羅蜜など を事細かに説くことよりも︑自の前で死を迎え︑動かな くな った大切ないのちがどこへ行ったのかを︑念仏の教 えを通じて明確に説き示してあげることの方がはるかに
実
際的であるといえるだろう
︒
仮に︑幼稚園や学校で共 に飼っているペットや観賞魚
等
︑ 児
童
達にとってかけが えのない存在が死を迎えたならば︑﹁僕たちの目にはは
っきり見えないけど︑
きっと仏さまは
君
達が心から称え
るお念仏の声を聞いて下さって︑大切な
OO
ちゃんを苦 しみのない素晴らしい極楽という世界に連れて行って下
( 初
)
さるはずです
︒
そし
て︑
OO
ちゃんはいつも極楽から︑仲の良か
った君達のことを見守ってくれるよ
︒
だから しっかり一緒にお念仏をお称えしましょう﹂と説くこと が︑最も大切なことであろう
︒児童
遥は
︑
この世で二度
と会うことが出来ず哀しいけれども︑先立った大切な自
分の友人が見守ってくれるという︑一
種の安心を得るこ とが出来るのではなかろうか
︒
また︑この世では会えな
qd
n u
いけれども︑
いつの日かお浄土で再会することができる と い う こ と を 伝 え る こ と も 大 切 な こ と で あ ろ う
︒
さ ら この話に加えて︑今失ったこの﹁いのち﹂と私達の
﹁い
の+
り
﹂
は︑どちらも同じくらいかけがえのない尊い ものであることを説くことが出来れば︑児
童
達が哀しみ
の中に﹁いのち﹂の尊さを学
ぶことも可能なのではなか
ろうか︒
そして︑このように
手
を合わせてお念仏をする ことの積み重ねが︑大切な者を確かに救って下さる仏さ まの存在を児
童
達に感じさせることとなり︑自然に敬虚
(引)な態度と心を養っていくことになるのではなかろうか︒
このように考えると︑児童自身の往生浄土を願うことが
大切であることは言うまでもないが︑その他にも︑児童
が念仏や往生浄土の教えに学ぶところはとても多いとい
えるのである︒
五
児 童 教化における ﹁ 愚 者
の 自 覚
﹂
続いて︑児童教化における﹁愚者の自覚﹂について考
察を進めたい︒﹁愚者の自覚﹂とは︑周知の通り︑自ら
のいたらなさに目を向けることである︒自らのいたらな
さに気づけることが出来てこそ︑仏の教えを信じ︑他人
を慈しむ心を持ち︑自らを律し︑念仏の生活を送ること
が素直に行えるものであろう︒まことに﹁愚者の向覚﹂
や﹁凡夫観﹂は大切である︒しかしながらこれは直接
児童に説き聞かしてもなかなか難しい︒それは︑﹁愚者
の自覚﹂や﹁凡夫観﹂
の理
解に
は︑
その人のこれまでの
さまざまな経験や葛藤が大きな役割を果たしているから に他ならない︒幼児達にとっては︑いきなり﹁いたらな
いところがある﹂と言われてもピンとこない︒
やは
り︑
さまざまな経験を積む中︑自分にいたらない部分がある
ことを実感することで気づくものである︒そうであれば
こそ︑幼少期からの規範的な生活が大切なのであろう︒
幼少期に規範的な生活を心がけてこそ︑成長していく課
程で︑規律を守ろうと思っても守れない自分のいたらな
さに気づくことも出来︑大人になる時に凡夫観を身につ
( 明 記 )
けることとなるのである︒浄土宗の児童教化において︑
‑94
日頃から仏さまの悲しまれる悪いことをなさずに仏さま
の喜ばれる行いを進んですること(規範的生活)を教え
ることは︑児童にいつの日か﹁愚者の自覚﹂を持っても
らう意味でも大切なものといえる︒そして︑それは特別
に厳しい内容でなくても︑仏さまとのお約束を守る子供
﹁仏のチ﹂に対して︑仏さまとのお約束を具体的な形
で示すことが出来れば十分であろう︒
例え
ば︑