最初に確認しておきたいのは︑
﹁ス
ピ リチュアル
ぺイ
ンへの対応がスピリチュアルケアだ﹂とする定義の問題
(お )
である︒筆者自身も最近まで気づいていなかったのだが︑
このような定義
はスピリチュアルケアを媛小化させてし
土AF
﹀ つ ︐
︒
例えば︑頭痛という身体的ぺインがある
︒この頭痛へ
の対応として鎮痛剤の処方という身体的ケア
(も
しく
は キユア)がある
︒
軽く頭をぶつけたことによる一時的な 痛みならば︑撫でるという身体的ケアも有り得る
︒
方 で︑心理的原因による頭痛ならば心療内科にかかり︑心
理療法もしくは精神科領域で使用される薬の投与によっ
て治療されるかもしれない︒この場合は﹁身体的ケア﹂
と呼んでいいのだろうかつ‑
否
! 心理的ケア・精神的
ケアとするのが適切であろう︒筆者自身の体験としては︑
日本海に沈む夕日を
眺
めることで
(効果を期待したわけ
ではないが)肩こりなどの一
日の疲労︑すなわち身体的 ぺインが解消されたことがある
︒これも身体的ケアでは
なく
︑ スピリチュアルケアである
︒
他方
︑
7 3
スピリチュアルぺインへの対応としてはス ヒ リチュアルケア以外にはないのだろか?
(幻)
されていないが︑鎮静(セデ
l
シヨン)という方法があ
国内では承認 り︑これは身体的ケアと呼ぶべきである
︒家族内のトラ
ブルを解消することでぺインが緩和されるならば︑
そ れ
は社会的ケアである︒
心理療法によるケ
アも十分に有り
得る︒
このように︑
﹁ス
ピ
リチュアルペ
インへの対応がスピ
リチュアルケ
アだ﹂とする定義は
︑スピリチュアルケア
の一
部分もしくは
一側面を表しているに過ぎない
︒
ス ビ
リチュアルケアは︑HスピリチュアリティによるケアH
と捉える方が適切である︒
スピリチュアリティには実体論的定義と機能論的定義
(お )
があるが︑ケアを考える場合には後者を取ることになる︒
本論においてはスピリチュアリティを﹁人聞を通して感
じられる・表現される︑安定・
回 復
・成長をもたらす不
可視
・不可知な機能﹂と定義する︒先述の夕日によるケ
(鈎)アや︑﹁自然・
文 化
・芸術によるケア﹂さらに︑膜想や
宗教的経験によるケアもμスピリチュアリティによるケ
アH
として了解できる
︒
しかし︑医療現場というセツ
ティングにおいては︑対人援助としてスピリチュアルケ
アを捉えることも求められる
︒
本論でも基本的にこの
セッティングを前提とし︑対人援助としてのスピリチユ
アル
ケア
は︑
人聞を通して感じられる・表現される︑不可視・不
可知な機能に焦点を
当て
ながら︑相互の内面の力動
性によって自分らしさの安定・回復や成長を支援す
(初 )
λご ﹂
t ζ
と定義する︒
出力
E E ω ‑ 5
一は元来キリスト教用語︑だが︑﹃岩波キリスト教辞典﹄によると﹁神学用語としてこの表現が積極的
な意味で用いられたのは二
O
世紀初めから︒キリスト教 内の霊的伝統の相違や他宗教の神秘的伝承との出会いが契機になって注目され︑今日では霊性神学も生まれてい
(引)る﹂という
︒ ﹃ キリスト
教神 学事典﹄では︑﹁このことば
は︑人々の生活に活性を与え︑超感覚的な現実に触れる
ことを可能にする態度︑信条︑行為などを指すものとし
7 4 ‑
て︑近年︑大流行をみている
︒
英 語 の 告
ω
石EE
一がそ一 ( ロ ) のような意
味を常に持っていたわけではない
﹂とある︒
( お ) (
泌)
例えば︑永見勇は
﹁霊
の 働き﹂︑窪寺は
﹁聖
霊
の働
き﹂
︑
(お)伊藤は﹁インマヌエルである神(常に神がおられる)﹂
(お)﹁
神の隣在
﹂︑ジョン・B・カブKは﹁人間の内面にお
(幻
) (
お)(ぬ)ける神の働き﹂﹁神の恩寵﹂﹁神の受肉の現臨﹂と表現し ている︒
では仏教ではどのように表現できるのだろう か
﹁同様の表現としては︑﹁法(与吉 ?
ヨミ
a g
一ヨ 吉 山 ) の 顕現﹂﹁ご縁・仏縁﹂﹁阿弥陀仏の本願力
﹂ ﹁
三密加持﹂﹁入
我我入﹂﹁一念三
千﹂︑または人間に備わるものとして
﹁仏性
﹂﹁
法性
﹂﹁
自性
﹂﹁
ア
l
ラヤ識﹂などが挙げられる
だろう︒宗派ごとに表現も用法も異なるが︑共通して用
い ら れ る と す れ ば
﹁ 法
﹂
で申 め
λ
ご つ
︒
だ か ら と い っ て
由 主 ﹃
E ω
一石を﹁法性﹂
と訳すことには問題がある
︒
ぜな
ら昌
三円
己主
の∞
Z
の訳語が﹁法
的ケ
ア﹂になってし
まうからである
(ビ
ハ
l
ラ実践者ではなく弁護士を呼ぶことになってしまう)︒
ちなみに︑台湾の樺恵敏は
(川刊)性﹂と訳している︒ケアの方法論は︑初期仏教経典の四
覚
念住に基琳胞をおいた隈想であり︑宗教への信頼が保たれ
ている台湾では効果的だと思われるが︑世俗化した日本
の病院での実
践はかなり難しいであろう
︒
さて︑ここで課題としているのは訳語ではなく︑臨床
におけるケアについての仏教的理解である︒かつて筆者
は︿如
来 蔵 へ の 信
解﹀
︑縁
起︑
四無冠心という術語に
よってスピリチュアルケア援助者の姿勢について︑次の
(引)ようにまとめている︒ 対象者との出会いは偶然ではなく︑援助者にとっても修養の機会と捉えることができ︑対象者の苦悩は四無量心の修習によって援助者の苦悩となる︒援
助者は︑自他の如来蔵の実有・問題解決の可能性
問題解決の結果における功徳を信じるべきである︒
な
﹂れ
をビ
ハ
l
ラ実践者︑すなわち仏教を基礎としたスピリチュアルケア援助者のメタスキルとして捉えることが
できる︒
メタスキルの甑養という点において注目され
(必)る︒村川治彦によると︑
‑ 75 ‑
膜想
も︑
一九七
0
年代にハーバード大学のベンソン博士の超越隈想の研究がきっかけとなり︑
八
0
年代にマサチューセッツ大
学のジョン・カヴアツト
Hジンが︑
﹁ マ
イ ン ド フ ル 膜 想
﹂
に よ っ て
2 5
自
﹁旦
己主
ODの一定の効果が得られたという研究成果を発
表した︒両氏とも宗教的色彩を取り除いている点で︑
般への普及に影響を与えている︒エリザベス・キューブ
ラ!日ロスと共に死に逝く人のケアと教育に燐わったス
テイーブン・レヴアインによってスピリチュアルケア
に膜想法が取り入れられている︒村川は﹁スピリチュア
ルケアにおいて︑膜想は患者の心をリラックスさせるだ
ケアする側が﹁ただそこにいる﹂ために必要
( 刊 日 )
な訓練を提供してくれます﹂と述べている︒
けで
なく
︑
五
ス
ピ
リチュアルケアの構造
対人援助としてのスピリチュアルケアの目的は︑﹁自
分らしさの安定・回復や成長を支援すること﹂である︒
そのために︑スピリチュアリティの安定・
回復
・成長を
もたらす機能に焦点を当てながら︑対象者の物語に耳を
傾け︑感情の揺れに寄り添いながら︑互いの内面におい
て轟くスピリチュアリティを感じ︑その轟きに沿って対
象者の思いを支持・明確化・対陣する︒
スピリチュアルケア専門職には︑スピリチュアリティ
の琵きを感得するスキル(もしくはメタスキル)が求め
られる︒
そし
て︑
その琵きの源泉を把握することで︑
ピリチュアルケアの構造が見えてくる︒図七は︑源泉を 八つのカテゴリーに分けて︑超越的次元・現実的次元
内的次元に配置したものである︒
中央の﹁わたし﹂は﹁人間としての意識(自意識・自
(H明)己理解)﹂である︒周りの①
t
⑧は便宜
的に分類してい
るが︑個別の感覚としては︑いくつかの要素が共通して
いるものとして了解されているかもしれない︒
例え
ば︑
A氏にとっては①と②の区別がつけられずB氏の場合
は③と⑦が区別できない︑ということはあり得る︒悟り
を開いたならば︑究極的にはすべてのカテゴリーにおけ
76 ‑
るあらゆる存在もわたしも一体であると体感できるので
あろう︒区別・分別するという思考は︑仏教的には歓迎
されないことであるが︑ものごとを理解するには便利な
方法である︒
窪寺の図一‑図二を基礎としつつ
(﹁
わた
し﹂
と
⑦③
の関係)︑河の図四と大下
の図五にも現実
的次元の提
示
という点で通じるところがある︒筆者の図七は︑超越・
ス
現実
・内的の三次元をより具体的に示している点︑
そ し て︑諸カテゴリーから
﹁わ
たし
﹂
への
矢印
が︑
スピリ
チュアリティの安定・回復・成長をもたらす機能を表現
している点が特徴的である︒
端的
には
︑
﹁ わ
たし﹂を支
党婚約には あらゆる
r
{j在Jが「わたしJ
と一体 現実的次 元
内的次 元
スピリチュアルケアの構造(谷山)(45)
図7
えている諸存在を八つに分類したものである︒
例え
ば︑
C
氏は①と②と⑧によって支えられていた︑D
氏は④と⑤だった︒このような様々な人たちに出会った臨床経験
こそが︑この図を考案するに至った基礎にある︒以下に
解説を加える︒
超越的次元を
⑥⑦ )⑧ の三
カテゴリー
に分
けた ︒まず⑥
については︑例えば︑仏教の法(ダルマ︑ダンマ)がこ
れに含まれる
︒⑦
は人格的表現︑⑥は機能的表現として
‑ 77‑ 区別することもできる︒こうすることで︑例えば経典や
聖書のことば︑哲学や思想︑座右の銘なども︑⑦から独
立して⑥として理解することができる
︒ ﹁
おかげさま﹂
﹁ご縁ですね﹂という表現の裏に想定され得るものも合
まれる
︒宗 教 学 者 の 岸 本 英 夫 が 表 現 し た
﹁宇宙の生
命力﹂といったものもこれに
当た
る︒
⑧
は日本人特有の神観念に基づいている
︒日本人に
(灯 )
は﹁神様﹂的存在であり︑普段は子とって﹁ご先祖様﹂
孫を﹁見守る﹂存在でありながら︑供養を怠ると子孫を