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ドキュメント内 出会い・信頼・安らぎ (ページ 158-197)

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10頁。この語のうちに、「偶然一必然者」の構造が見られ       (『偶然性の問題』288頁 参照)

      ,

 B 〈決断〉の自由

 われわれは、〈宗教的決断〉を呼応的決断と考え、〈汝〉とく我〉との出 会いとして、また〈光〉とく闇〉という二つの深淵の響き合いであると考え てきた、〈汝〉とく私〉とを接点として二つの深淵が接触するところに、わ れわれがこれから取り扱う〈決断〉の独自の性格がある。

(1)〈大行〉の概念

15x一

 〈汝〉とく我〉との間に絶対の断絶のないところでは、真の呼応関係は成 立しない。真の呼応関係においては、〈招喚〉は常にく驚異〉をもって聞か れる。〈本願招喚〉とく帰命〉との呼施的一致を成就させるのは、「即是其 行、であり、この〈行〉においてく選択本願〉が顕現すると縫はいうぐ?

 親旧にとって「よき人」法然は、〈還相廻向〉の菩薩であった。親攣は、

法然を大勢至菩薩の顕現と信じ、疑いなく悔いなく、その教えに随順した。

即ち、〈本願招喚の勅命〉は、法然として親攣に出会ったのである。

 法然と親攣との出会いは、後者に「踊躍歓喜」の法悦をもたらし、牢固と して抜き難い信頼を生じさせたことは既に述べた。しかし、『歎異抄』にお       (2)

ける唯円の悩みのように、こうした感情には必ず弛緩が来るものである。こ の点について、武内は次のようにとちえる曾即ち、信仰においては歓喜は第 二次的なものにすぎず、むしろその感情の崩れるときにこそ、純粋に自己の 本質を自覚することができる、そこで、〈宗教的決断〉は、〈決断〉として 自己を自覚する。これは、〈決断〉が反復されることにほかなちないe「念 々不断の念仏の大行」とは、この〈決断〉の反復の具体的な姿である。いか なる感情(法悦)をも打ち超えたこのく大行〉において、〈証なき証〉を打       tg)

ち立てたことの自覚が「往生一定のたのもしさ」である。

 「唯信の宗教」においては、〈信〉とく証〉とは絶えず分裂している。し かも、この分裂・対立において、両者は補足しあい、統一なき統一を保持す

る。この分裂と統一との相即が、〈:大行〉の概念なのである。

(2)〈賭〉としての決断

 われわれは、本節の冒頭で、親旧の信心が〈賭〉の性格をもっていること

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を指摘しておいたのであるが、〈宗教的実存〉の賭ける〈決断〉とは、〈未 来〉そのものに自己を引き渡すことである。現世においては、〈未来〉その ものの来る日はないが故に、われわれはく未来〉に賭け続けなければならな い。〈賭〉(決断)のこの終生的な性格は、同時にこのく賭〉がく実存〉の 全存在であることを示すものでもある。

 〈証〉せられる日のない〈未来〉は、〈未来〉そのものとして〈現在〉に 将来し続けている。〈実存〉は、〈現在〉においてこれと出会う。否、将来 されたく未来〉そのものは、〈実存〉としての自己となり続けているのであ る。この意味においてく賭〉(決断)は、〈証〉を〈現在〉に将来し続けて いるということができる。しかも、〈賭〉としてのく信〉は、あくまで〈証

〉と分裂・対立している。

 武内がしばしば用いる「将来」という語は、次のように解されている。「

将来」はく未来〉として、「未だ来ない」こと、つまりく現在〉とく未来〉

との断絶性を意味している。従って、〈現在〉においてこの「未だ来ない」

ことが除去されることはないのである。

 このようなく未来〉が、〈現在〉との断絶・対立のままでく現在〉に将来 上、〈現在〉に自己を出会わせ、その絶対的超越性によってく現在〉を震瑠

させっつ、己に従うか否かのく決断〉を迫るのがく宗教的実存〉のく賭〉で ある、と武内はいうのである。即ち、武内のいうく未来〉は、絶対的超越者 としてのく汝〉をさしているのである。

 「真の意義の超越者は、常に同時に時間的性格をもち、「将来」であるこ とも注意せらるべきであろう。何となれば、〈実存〉はあるものではなく、

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常になるものである。故に、真の意義のく未来〉を自己の全存在のうちに常 に将来することがなければ、本来、〈実存〉は成立することができない.(S?

 武内は、〈未来〉そのものを次のように分析している。

(a)〈未来〉そのものが考えられるためには、過去・現在・未来の連続が

〈現在〉によって断たれ、〈過去〉とく未来〉とが〈現在〉によって対立さ せられる必要がある。〈決断〉のく断〉は、それを意味する。将来する〈未 来〉は、〈現在〉において帰来する〈過去〉と交互に媒介しあって、〈現在

〉のく決断〉を成立させているのである。また、われわれがく未来〉と自己

(〈現存在〉)とを同一視するく証〉の立場に立ち得ず、あくまでも将来す るく未来〉に生きようとするとき、〈現在〉のく決断〉がく未来〉から自己 を断絶させるのに、〈過去〉の契機が媒介しているのである。

(b)〈未来〉そのものは、超越者として、〈現存在〉を根底から揺さぶり、

既往の「虚無のまどろみ」から目覚めさせ、〈実存〉へと高揚させる。この ことを、われわれは第十九願の解明の際、死の不安と「発菩提心」(決断)

との関係として考えてきた。言うまでもなく、死は〈未来〉そのものの一例 にすぎない。われわれく現存在〉をその根源である「無の深淵」へ導き、〈

現存在〉を既往(過去)から切断する働きは、すべて〈未来〉そのものに由 来している。

 それは、常に〈不安〉を伴う。不安のうちにのみ、〈現存在〉の「無の深 淵」が暴露される。〈未来〉は常に不安なる未来としてのみ、〈決断の現在

〉に将来しているのである。親旧の「世々生々に迷いければこそありけめ」

という業感にも、「地獄は一定すみかぞかし」という不安が結合している。

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(c)〈決断の現在〉は、実は既往(過去)から時熟したものであって、不 安の顕わにする罪障性、有限性において、自己の被投的(過去的)な此岸性 を痛切に自覚している。そのく過去〉を媒介として、〈未来〉から自分を断 絶させている。〈本願の招喚〉は、ただ信ずるよりほかにない。〈信〉にお いては、未だく証〉は存在しないのである。「未だない」ことを明瞭に自覚 しつつ、〈未来〉(本願)を信ずるものは、自己のく現在〉に、〈証〉を将 来させているのである。

 こうして、(b)で述べたく未来〉のもつ否定性によって、〈煩悩〉(執 着)が洗い浄められ、〈実存〉が自己の全存在を獲得したとき、初めてわれ われは、自己の全存在をもって〈本願の招喚〉に賭ける(決断する)ことが できる、と同時に、(c)で述べちれた「未だく証〉は存在しない」ことの

自覚が存在する。この未来がもつ二相の相即によって、〈宗教的実存〉のく 決断〉はく賭〉と呼ばれるべき構造をもつのである。

(3)前念命終・後念即生

 われわれは、〈無〉の前に立ち、〈無〉に浸透されることが深くなるにつ れて、ますます賭ける(決 vする)ことに後悔なく生きる。そして、自己に 拠たく未来〉そのものをく実存〉の全内容とする新しい宗教的生命と

して生まれ変わるのである。それは、〈未来〉と出会う前とは全く異なった 生きかたである。そして、〈宗教的実存〉は、死して生まれ変わったという        (6)

自覚を持っている。これが、親鷺のいう「前念命終・後念即生」である。

 もちろん、これはく証〉を意味するものではないし、「成仏」でもない。

あくまで〈廻向〉されたものに生きるのである。

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  「惑染の衆生、ここにして(仏)性を見ることあたはず、煩悩におほは るるが故に。……安楽仏国にいたれば、即ち必ず仏牲を顕す、本願力の廻向 によるが故に∫勉

 註

(1) 『親攣全集』48頁 参照。

(2) 上掲書 678頁 参照。

(3) 『教行信証の哲学』149頁  『親攣と現代』140−146頁を参  照。

(4) 『親攣全集』679頁

(S) 『教行信証の哲学』152頁。そこにおいて武内は、ヤスパースのい  う「超越者」はく将来する未来〉であることが明ちかにされていないと  批判している。ヤスパースの強調する空間性と、ハイデッガーのいう時  間性とが「真に相即するのは、〈信〉とく証〉とを弁証法的に統一する  唯信の宗教においてではないか、と説いている。

⑥  『親攣全集』130頁

(7> 上掲書 238頁

 C 他力

 われわれは、既にく称名〉が本願力との出会いであり、〈招喚〉とく帰命

〉との呼応的一致であり、〈大行〉であることを見てきた。そして、店答す るわれわれの決断(賭)がく将来する未来〉に自己の全存在を賭けることで ある点を明ちかにした。

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 今やわれわれは、〈他力〉とはく将来する未来〉に全存在を委託すること であると規定することができるであろう。

(1)即得往性

 聖道門の「即身成仏」に対比して、浄土門の「信楽開発」による飛躍的転 入を親攣は「即得往生」という言葉で表した。この言葉は、第十八願の願成 就文「あちゆる衆生、そのく名号〉を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念 せん、至心に廻向せしめたまへり。かの国に生まれんと願ぜば、即ち往生を 得、不退転に住せん。…・IP)に拠っている。

 親攣は、この文を解して次のように言っている。

 「〈聞其名号〉といふは、本願のく名号〉を聞くとのたまへり。〈聞〉と いふは、本願を聞きて、疑う心なきをく聞〉といふなり。また〈聞〉といふ は信心をあちはす御のりなり。〈信心歓喜乃至一念〉といふは、〈信心〉と は如来の御ちかひをききて、疑う心のなきなりe……〈一念〉といふは、信 心を得る時のきわまりをあちわす言葉なり。……〈即得往生〉といふは、〈

即〉はすなはちといふ。ときをへず、日をもへだてぬなり。またく即〉はっ くといふ。その位にさだまりつくといふ言葉なり。〈得〉はうべきことを得 たりといふ。真実信心をうれば、すなはち無 光仏の御心のうちに摂取して、

すてたまはざるなり……おさめ取たまふ時、すなはちとき日をもへだてず、

〈正定 の位〉につき定まるを、「往生を得」とはのべたまへるなりρ,」

 「信楽開発の時剋の極促」とともに、〈信〉は不退のものとなり、「金剛 不壊の信心」となるが、われわれはその時、「無上渥繋の極果」と呼ばれる 真実の〈証〉を獲得するのではない。将来において「無上浬繋の仏性」を悟

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