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永享十三年三月二日筆主鏡澄生年サ

於武州仙波星野山無量審寺悌蔵房談議所観音講稽古時比賞代之断

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後代之所用お之志重々

也故佐無二之諮心令書・お経後見詩人召不便首題廻肉所作也

第一鯵嘉吉三年九月日筆者三位公

第二終嘉吉三年八月日筆者大抽出公

第三鯵

第四絡嘉吉三年八月目録者鏡澄生年廿ニ

第一務嘉吉三年作月祭蹟合合用窓御稽古人数

加賀律附︑常陸徐州︑兵部公︑上野阿︑周防公︑雲阿国防︑

永享十二年八月四日

殿

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第五絡永享十二皮甲年八月六日

武州仙波悌歳房伐傍般議也豆州鏡澄十九オ

四 究 主

第五彩水字十二年戊巾四月十日鏡澄生年十九

於武州仙波郷無量議寺山王祭躍之時42百之前地帯京都妙蓮寺和泉公後筆

五 港

仙波=テハ口海法印ト巾候骨掃海法印第六代血中者

右此抄者至徳丙寅十月日良慶法印伐山口口口院立義御案立有之此案立之中随所用抜書致之虞

永亭十三年三月日筆者鏡澄生年廿 也錐御出来立挙出同日日此抄之分口口口口仰此抄ニ同銀トノ或ハムトノハ良慶之御用也

祭樟稽古之時書之畢

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第二終永享十三年正月十四日 第五絵筆者鏡澄生年二十

武州仙波例燕房談義所初厳令用令書怨畢

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永享十三年正月サ三日

身 義

H月額普講川口忍詮乙鏡澄生年十九

身 義 一 巻

終永享ナ二年太才庚申十一月廿九日

道心如傘跡令書店新本領宇多故仁定多韻字務字可布之後見人善開山食首題廻向所作也

南無妙法蓮華経

筆者鏡澄生年十九

南無慈恵大師

1主

華 文 句 第 九

法 義

文安二年四月四日

武州毛立郡平方卿道徳之島書乙了

港 直

開 書 談 経

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口口年五月十日害総培

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仙波無量議寺傍減目W之談所置本口場

願者後見之入閣高率口口近心首題一認可有御廻向者欺口口前後能々可校ム有者也

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諦 義

永享十二年八月七日枕事者鏡澄生十九オ

武州仙波品開厳房談議所初搬出師用意書お之結後見之人首題一認可宥廻向者欺︒

本闘者京都商社大官妙覚寺正行院乙住人大輔公

永享十三年四月廿四日

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一一八

被 接 義 案 立

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ヨ よ

・ 文 句 第 十 抄

五月十六日

備前公

W和泉大締公

和泉三阿公

小崎公

巳上繁を厭はず織々編めたのは︑一は上人惇の資料蒐集こ︑二は上人の著述に於ける態度︑三は上人

の勤勉努力等を窺んが品川めである︒珠期の如く未だ世に知られざる身謹り動静が接見せられ︑著述に於

ても現代人の如く︑皐の錆に非らずして︑行の錦であり︑信の潟である乙とち解b︑其の精進の程も

奥書の羅列は何より証明し

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居る︒此外文正二年六月十一日藻原より真俗品川五人参詣の記事の如主は︑

身延奉拝囲最古有一の資料であb︑之れがまた鳴矢しでもあらう正思ふ︒

︵ 完 ︶

延 獄 墓 碑 私 考

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古 屋

忍は先に身延の停訟を蒐集して刊行してみた︒そして今︒こLに身延山中の主なる武家関係の基について記そうとしてゐる︒

甚に漠たるもので汗額ではあるが︑こうしたことが少しでも何等かの川になるならば有難い︒永い隠史を有してゐる身延の山

中には様々その研鎌さるぺき事物を蔵してゐる︒それ等ωものが研究されて宇がては﹃身延隼﹄ともいふべき組織体係を兵へ

る様

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なる日を望んで宇まない︒

徳川氏関係の墓碑

家康の側室おまんの方の碑塔が姐廟域に在る︒紀水雨家の組である乙ごは言をまたない︒大野山の墓

は死後建立されたものであるがこれは生前︑三十九歳︵慶長十九年︶の時に建立したもの︑註一u碑銘は日

乾上人の撰︒碑の正面は全部風化されて︑左側一義右側にかけ

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碑銘を存する︒嘗時は蓮華院と稽し

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珠院

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一 一 九

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識等はその寄港による主たるもの︒その博記等は別頭統記︵二五舎に見らるる︒造塔の営時は頼宣は構

中勝頼房は擢少時であった︒主ざして徳川氏一門の本宗に劃する信仰は養珠院を組として生れたもの

が多

い︒

上の山丈六堂附近︑国光庵上に徳川家光の側室頓正院妙喜日国夫人の墓がある︒

俸は

統記

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に載せら人名僻書徳川綱重の僚下にも見える︒統記に﹁妙純益画不労諦徹﹂とある耗の信者︑甲府宰

相綱重の生母口綱重の子豊綱即ち順正院の孫は.持軍綱吉に養はれ六代の将軍職を縫いだ︑家宣がそ

れである︒持軍の組母としての順正院は遺骨を身延に納められ百日問︑生りる人三して給侍供養せら

れて後葬られた︒順正院の骨は始め浅草宰龍寺へ納め衣仁増上寺へ葬られ後仁遺命の迅b身延へ改葬

されたもの︑碑の台座凶方に註五︶銘を存す︒天和三突亥季七月二九日の卒︒

家宜の弟は越知川氏稲葉家を縫いで伊勢守正音ざ稀し其母即も綱重の側室の某碑を建てた︑組廟域に

在b示敬院妙枯日珠の文字が刻されてゐる︒組廟域には倫ほ曾津松平家保科

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之の生母滞光院法紹日

嘉大姉の墓碑があb正之のハ設六︶建立にか︑る︒滞光院は秀忠の側室︑別頭統記サ五に暮俸が載せら れ℃ゐるa曾津松平家は現在子爵である︒

紀州徳川家関係の墓碑

紀州頼宣の室は加藤清正の女泊林院静秀司芳夫人で本宗の信者たるとと言をまたない︒側室帰心院法 勇目盛大姉も信者︑その生子組純は伊橡両僚の城主︑上之山の滞心院の基は頼純の子頼致の遣はm

徳二年九十才の高齢で浸してゐる︒紀州家些域には頼宣の女で松平定兵衛へ嫁した松志院︑紀州九代

治貞の母善修院を始め芳林院観樹院遠紹院等の碑を見る︒身延山に碑はないが伏見王女で二代光貞へ

降嫁した天真院︑即も安官と稀したゐ方も大信者であった︒

紀州家より分れた伊珠西保松平家は服純の墓碑が一基猫立して︑源性院殿顔空日純大居士の銘が議

み得

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墓前

には

hTの藩主が献じた燈龍が整列し℃ゐるo相純は承臆三年に従四位上左近衛構少将左 京太夫に任ぜられ︑寛文十年西候披三国石に封ぜられ︑後︑代φ左京太夫に任ぜらる\例となったo

現在は子傍である︒頼純の他︑新純の室︑情性院事子息霊妙院天間院の基を見る︒

水戸徳川家関係の墓碑

水戸朝房の室︑久昌院心周目匂大姉︑光聞及び読州松平服重の生母︑別頭統記ハサ五きに見ゆる︒梢房は

寛文元年七月久昌院は周年十一月に菟じその十三回忌に光閏は常陸に久日目寺を建立してゐる︒久昌院

は私論ケ靖定と贈られた矯め又靖定山雄那守芭もいふ︒加廟域にある墓碑は背面の♀七︶丈字に依

b讃州加重の建立にか︑る事を知る︒身延臓の心越蹄師筆画党問讃の混梁固は久昌院主日提の鎮め久昌

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寺へ納められたものヤ明治十一年鑑削代に薩師の註八﹀周旋で身延へ納めたものである︒

尾張徳川家関係の墓碑

上の山五重塔附近に尾張四代吉誼の室︑瑞鮮院殿天山勝光日揮大姉の墓碑がゐる︒九健闘白輔賓の姫︑

亨保十六年に菟じた︒

京極家関係の墓碑

姐廟域仁丹後宮津城京極高庚の室︑宗光院昌柴日慈大姉の墓碑が在る︒備前池田輝政の女︑二代時軍

秀忠の養女となb高度に嫁した︒現在の高津本妙寺は秀忠菩提の縛めに喜光院が創したもの︒高度は

高知の衣子︑高知は近江蒲生郡よb出で信州伊那十高石を領し︑闘ケ原役後に宮津城に封ぜられ十二

高七千石を得︑長子高過の後胤は現在子俸を賜はってわ︒高度の子高圃は寛文入年事故に依b封営除 かれ奥州南部に還され︑弟高勝に五千俵を賜って家名を躍がせた︒墓は高闘の門誌・

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造立にか︑る︒

松山久松家関係の墓碑

久松家は菅原道具の後胤で永紘三年に松平性に改名し︑

あったが京極高庚の女︑即も書光院の娘が松山十五高石松平えき三代定舶に嫁するに及んで家をあ 明治維新に久松性に還元した︒代々浮十.宗で

げて本宗の信者ごなつ台︑養仙院了築妙護H立大姉がそれで︑上の山丈六堂下に墓碑が在る︑元和三

ドキュメント内 棲神 第拾七號 (宗祖六百五十遠忌紀念號) (ページ 122-178)

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