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御遺文蒐集史上に於け 3 上古三聖

御遺文蒐集史上に於け 3 上古三聖

主 産

義 遜

此に上古三事といふのは身延に於ける上古の−ニ型で︑即も身延の保代の三翠中最も上古に位する︑

日朝︑日立︑け停の三翠をいふのであ

ι

︒五口等は前披に於て﹁身起の御異践に就て﹂迅ぺた故に︑次

で身延を中心とする御書録内外の蒐集に就

τ

迷ぺて北たい︒若し御真蹟に就ては前披に於て︑歴代の

中興三師に就

τ

︑朝意博三師ご︑重逗乾の三附を以て共に.身延山に於ける御遺文蒐集時代の雨三師

と見︑後の脱省亨の三師を以て保存時代

t

見たが︑若し御異院を離れた御遺文そのものごしては︑中

興の三三師の中︑最初を蒐集時代︑次を刊行時代︑後を流布遁時代と見べ

3

であるから︑今は正し︿最

初の蒐集時代仁就て述べることにする︒

市して身延一山に於ける︑御遺文中心の蒐集刊行の事貨は︑これ身延のみに就て見る時には身延の

それであるが︑乙れが頓て宗門に於りる︑御遺文編輯史上の動きごして見ることが出来る︒随って今

遮ぷる所は.濁b身延一山の事賃ばかh︐でな︿︑同時代に於ける宗門的の事業であり︑殊に行皐朝師 の知きは︑此の点に就ては宗門に於付る︑一大動功者として見ねばならねのであるo特に古来銭内外

の蒐

集の

史貨

が︑

濁・

9録内の最初にある﹃御書目録後記﹄の文に支配せられて︑その史買の研究を等

閑に附した戚がある︒而して事減五四三年に入寂した︑紀州戚磨寺十八世の勇猛鹿師の︑﹃組書編輯考﹄

のみ此の問題に貢献し翻がたあるつ即も御書の編輯に就℃は︑古来日昭の執筆と稗する﹃御者目録日

記事﹄には﹁宗姐御入滅の後には︑定めて無道心の悪人等が出で︑︑︑怒に謀者そ作って御存と稀して︑

世間の人遣を惑はすに依て︑去る弘安六年二月の頃から内φ

俸達

して

一周忌ぞ期して所持の御者を

持ち

寄り

一百四十八遁を以て御者主決定し︑目録を作り︑その他のものは御者であっ℃も︑六老常

一同の内諾を経て御者と定むぺきである﹂ξあるのである︒而して之れに弘安六年大才葵

44

十月十二

日﹂と記し︑且つ六老慣の署名が連記し

τ

あるのである︒故に此の第一周忌の時の一四八通を以て録

内と

し︑

之れに漏れたものを三周忌に蒐集して録外と定めたといふが︑これに劃して勇猛鹿師は︑各

十義を畢げてこれを疑ひ︒且つ録内目録の原本に就て

蓋し以るに六聖の結集鑑定の遁暑は︑其意後皐の疑惑を鍋︿に在︒突︒宜しく者を延山に留めて其

信を奨むべき也︒菅﹁目録﹂のみ然るに匪ず︑亦営に其全般営貯留すぺし︒而て既仁無しお︒後人

御遺文蒐集史上に於ける上古三雲

御遺文蒐集氏ょに於ける上古三翠

ζ

の思惟に出つるとふ想ムベし︒﹃租書編輯考﹄

といひ︒叉録内外名目に就て︑

蓋し内外相針の立名は同時に有るぺ主也︒若し異時と言はば︑銭外の目有台てよb録内と名っくぺ

き也︒録外の立名英︿んば則

L

亦録内の目無かるべし︒内外己に立たや本数決定せゃんば︑則も通 署某の家に在bと言ふとも︑以て証となすに足らゴるなb︒況や其帯無きをや︒故に六暑の通暑は

後世の仮托たる乙ご醸し失︒亦内外の題制後世に出る乙吉昭然たり︒ハ全上︶

といひ︒更に録内の編輯に就之︑事減十有除年の正安の頃よb︑糊︿異端の設が現はれ︑百年頃

R7

を出

すに

至・

0︑臆永の頃型滅には御許の偽作が盛になって来た故に︑二三の哲匠が磐風の蔚生

を悲んで︑密かに相約し陰かに珍蔵する加者を崇め︑且らく一一山入通を以て完峡として︑篇目を定め

名を六事に嫁して偽防に備へたのが︑今日の所謂録内であって︑その後口決相承の諸篇を蒐めたもの

が録外であるといふのである︒

如上の設に依れば昌一一減百年頃︑二三の哲匠か御詐偽作の欝風に鑑み

τ

︑珍臓の組者金索め一四八遁

を符

て︑

乙れが篇目を定めて六事の蒐集に擬したものが︑録内の御書ごいふのである︒

吾等は組書中鋭内の編輯に就ては︑粗ぽ上越の鹿師の設に讃する者であるが︑今且ら︿その設を別に

して︑身延膳代を巾心とし℃御書の蒐集に閲して述べる乙とにする︒今日身延山に曲概する御書の歴代

寓本中︑最古のものとしては︑先づ第二世の佐渡阿閑梨日向型人の︑﹁安岡論﹄の潟本を初めごし

τ

︑ 第三組日進事人﹃御書寓本﹄一日加が︑これに攻﹁ものである︒而して此の中には

一︑立正観抄

元徳二年第本

一︑自佐渡闘人之中給御書

迫仲

一切

詩人

見ニ

聞之

有志人々互語之

て 武 蔵 殿 江 揺 御 書 下 案 日蓮房叉佐渡闘え被遁候て後雨三年も候℃者可ν

=御

免−

候︒

若承

℃被

=具

下−

候人

も︑

若殿原

之中にも死罪などに被ν行事も候ごてか様に申候︒叉御領之御錦惑かるべ︿候聞か様に申候︒

九 月 十 四 日

左 衛 門 尉 頼 綱 在 列 次 良

E

兵 街 殿

文永八年九月十五日到来

承=

三郎

太郎

一武

臓殿

御在剣

御遺文蒐集史上に於けるよ古三連

御遺文蒐集史ょに於ける上古三翠

一︑

佐渡

閤流

入借

日運

引率

弟子

等巧

一一

惑行

一之

由有

一一

北︵

間一

︑此

行之

企甚

以奇

位也

︒自

今以

後於

一一

相随

一︑

文 永 十 年 十 二 月 七 日

沙 彼借之輩者可

ν

レ加

ニ畑

誠一

︒猶

以令

=違

犯一

者可

ν被二日比進一夫名之両所候也︑何執達如ν

依 智 六 郎 左 衛 門 尉 殿

一︑御赦免之蹴

日蓮法師御勘気事所レ被ご免許一候也︒

文 永 十

年 二 月 十 四 日

 

1T 

藤 左 衛 門 入 道 殿

一︑武蔵前司殿御教書案

御赦免蹴

宮北

!J'IJ  長

!J'IJ  平

j

!J'IJ  文

永 十 一

兵 部

日蓮法師御勘気事有ニ御免許一之由所ννν候也︒早可レ被ニ赦免一之由候也︒何執達如件

年 二 月 十 六 日

承 行

ヌ定

山 域 兵 衛 入 道 殿

一︑最蓮房御返事

二月廿八日

一 冗

徳 二

年 第

一︑願偽未来記文永十年後

者一

月十

二日

御書

元徳

二年

て種

ι γ

災難起御勘文事

右九篇一審会三十二枚で︑青表紙で朝附の御書目録と同一体載で︑右の中御書としては﹁立正観抄﹂

﹁全

迭献

﹁法事行者値難事迫仲﹂

﹁関

備未

来記

﹁災難封治抄﹂の七篇があるo

その後善・皇院・叡・位・串・延の諸師にも︑勿論多くの御書の潟本があったらうが︑今此に明

記す

るこ

とは

出来

ぬ︒

斯く

て活

師一

冗徳

二年

寂禦

滅四

九年

後七代百三十年を経℃︑事減一八O年の寛正二

年に︑第十一代の行皐朝削が身延仁入山せられたのである︒斯くて朝師入山以来︑伽藍の方面に於て

は両谷の地の狭陸を感じ℃︑現今の地に移建したといふが︑叉近時の一一説仁は村松海長寺九世出師の

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ア ﹂ El EE FU  

文明

六年

甲午

地震

於一

一延

山一

ν之︒身延山事︒大嬰人御草創之諸堂地悉損減成ご河原一畢︒日朝塞人

御建立之御塔競落︒坊中等悉流失︒今之御堂地日朝悪人再興関興之山也︒

とあるは海側身延修串中の事貨で︑時に村松海長寺は海山酬の厄に遇ひ︑身延の地震のため山津波の厄に

御法文蒐集・奥上に於げる上古三塁

御泣文蒐集史上に於ける上古三禦

擢b︑西谷が悉く河原に化したのに原因する苫もいふが︑若し果し

τ

後設の如くであれば︑朝師入山後

十四年期滅一九三年の事になるのである︒

執れにもせよ朝師現今の身延の素地を遣ったばかbではなく︑御真蹟の蒐集は勿論︑御書の蒐集に

杢力を住がれて.現に朝師の其寓本ごして︑身延文庫に珍蔵せられるもの.録内外合して二百三十八

通を戴ふるのである︒且つ自らこれを註せられて︑その講録免る﹁朝削見聞﹂は︑五大部外二十一章に亘

b.四十四巻の多きを加へるのである︒

以下朝師の御書蒐集に就て越ぷるに先ちて︑若し朝師以前に就て乙れを見れば︑中山の富木常師の

﹃本

骨骨

聖歌

録﹄

永仁

七年

翠減

一八

の六

十七

篇︒

衣で

一服

帥の

﹃本

隼事

敬録

﹄康

永三

年一

増減

六三

の百

五十

篇に

づ指を屈しねばならぬ︒勿論右のニ録は御塾教目録であるが︑叉御番目録とも鬼倣きる︑のである︒こ

の他には墨減五一年に入寂せられた︑富士興師の﹃富士一跡門徒御存知事﹄宗会一嵐山門集に見る︑五大部

外﹁

下山

抄﹂

﹁取

要抄

﹁四

信五

品抄

﹁本

掌問

答抄

﹁唱題抄﹂の十抄を掲﹁るもの︑外︑未だ目

録ご稀すべきものは無い様である︒

乙れに夫﹁ものとしては型滅一八

O

年即ち寛正二年の著と砕する︒矢張中山門流に屈す本成川賞

の﹃宮家宗旨名目﹄であるが︑乙れには既に三大部五大部︵上四九左︶の日を出し︑下巻の初には

﹁上帖には題放の法門︑悉く大綱を以て之を沙汰し詑る︒此帖には大型人の御作の御者の︑銭外録内

の分別︑六老借の御事︑同じく御化道の終りを載すべき品﹂

︵下

初︶

J

いひ

﹁御書目録﹂に依b録

内を百四十八通を定め︑録外に就ては

借て銭外の御書は載を知らや︒若し載を知らば録内同前なるべし︑云々惣

ι

て御舎の蚊七百余帖ご

一再支不審也︒乃至抑目録最初は何御書ぞや︒答云︿﹁立正安岡論﹂也︒

といへば︑若し朝仰の身延御入山を寛正二年とすれば︑既に此の時中山門流には録内は︑一百四十八

通整足して居たのである︒而して﹃宗旨名目﹄にその名目の見ゆる録内御書は︑計五十五通でとれは

五大部等主始めとし

τ

﹁取

要抄

﹁題

目抄

﹁唱

題抄

﹁開立正意抄﹂乃至一 i四思抄﹂等の︑宗義

に聞係ある重要御書で︑その大意︑御述作の年丹︑封告衆等に就℃の略併である︒併し乍ら銭外に就℃

は録内同然といひ︑御書の総数を七百おといふに就ては不審なbごいふ如く︑七百中百四十八の録内

を除

いた

五百五十篇の録外があることは︑勿論不審であるが︑﹁宗国円名目﹄中に見ゆる銭外の御書

は︑全体で衣の十八一過に外なら自のである︒

御泣文蒐免虎上に於げる上古=一塞

ドキュメント内 棲神 第拾七號 (宗祖六百五十遠忌紀念號) (ページ 58-66)

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