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eP 万三

日連事人の御生活を想像し来ると主︑聖人程一生涯を通じて︑父母に愛慕の情を捧げられし者は他

にあるまい︒﹁大孝は終身矢母を慕ふ︒﹂と︑古の賢者孟子の言︑今連人の身上に於て︑其の賃を見る

事が

出来

る︒

懐へば身延入山後一ヶ年︑文永十二年の二月十六日︑郎ち五十四回の御誕生日を迎へられし日であ

った︒懐かしの房州より海苔か届けられた︒包を披く問おそしご︑取b出して見れば︑幼虫時に見な

れし海苔と色形も同様で︑而かも其のま︑︑の香b︑幾度か聖人は手に取って慌ばれた事であらう︒聖

人父母の事を思浮べられて︑今は亡

3

雨親を思ひ出された時︑如何ばかb︑悲歌の涙に衣金潤遣れた

事で

ゐら

う︒

乙れにつりても翠人の大孝思親

ω

程が思ひ浮べられる︑御遺文の御異情を絹くに︑

﹁海苔一袋遺

9給

ピ畢

ヌ︒

︵中

略︶

郷ノ

事進

−一

思ヒ

忘ア

候ツ

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︑今

此海

苔ヲ

見候

−ア

ヨジナキ心思

出ア憂ク辛ジ︑片海市河小湊ノ磯ノ遁ニア︑背見シ海苔ナリノ︑色形昧ヒモ一翠フザ

y d

pナド我父母︑

替−アセ給ヒケント︑方連へナY

恨メ

ジサ

−二

摂モ

押へ

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﹂︵

縮泣

O八 八

之︑営時の切なる様が良く拝せられる︒更に聖人の追慕の御有様を推するに︑

﹁今回一生国へ川至−フネドモ︑サスガ態シクア吹ク風︑立ヅ場一回?デ毛東ノ方ト申セバ︑庵ヲ出デ︑身

ニフ

レ庭

4立チテ見Y

ナリ

﹂︵

全一

四一

八︶

在︒古語に︑胡.烏北風に寄り︑越烏南技に巣ふ之︑鳥獣すらかくの如し︑況ヤ人類−一於℃をやである︒

吹︿風立つ雲までも東の方と申せば庵を出で︑︑身にふれられし車人の慕郷の情︑如何に切令たりし

かを知る事が出来る︒それにても健主足らず︑進か煙波の問よbなりとも故郷の爾親の塚に回向せん

ものご︑九ヶ年の間五十丁の峨崖を一杖はだくして登られ︑建か伊豆︑相模の山々を越へて懐かしき

故郷を望めば︑水天芳霧ごして幽かなり︒あれ乙そ正し︿我が故郷小湊であるご︑眺められた時︑今は

思親の涙

映萱布致に巡りて

世に無主父母を思ひ浮べて追慕の涙に暮れたのであるoその地︑今にのこる身延山上︑霧立も寵る奥 之院思親閣であるo

今にして昔のま︑整え立つ蒜陀利の峯は︑六百五十飴年前の賃情を永遠仁物語る者である︒その峯を

朝な夕な仰ぎ見︑且登りて営時を追想する時︑我々は事人の御霊に鯛れ︑涙に潜する事︑が出来る︒聖人

の御霊は永遠に身延の峯に棲み給いて︑何時も思親の涙に暮れて居る︒

親思ふ涙︒其の涙こそ一切衆生を救はんとした翠人の慈悲に摘もた涙にあらずして何んであったら

O

父母ぞな主人主語りて登bけb我が袖ぬる︑孝の坂道

以 上

映畜布教に巡りて

*'・

歩と

数日来の雨つい︑きも︑今日はめづらし︿から

b

ご晴れた︒時は日増しに暑さを加へて来た七月廿三

H︑柴田宣惇部長並皐院敬授結城先生を始め︑私等映寄班の一行は︑佐世保曾舘を第一に︑長崎.佐賀︑

編岡︑熊本︑大分︑岡山︑山口の七牒に亘りてけ蓮大型人第六百五十遠忌紀念映書大宜悼の火蓋を切っ

たの

であ

った

一度其盤以立くや各地共前代未聞の大盛況を是し︑私達は皮重る毎に︑今迄にな主試練と経験を興

へられ︑八月三十一日迄約四十日聞に亘︒︑其の観衆約五万五千を越へ︑無限戚激の中に昭和六年度

夏季映畜布教の幕を閉ぢたのであったo 宗教は人類要求の最深慮に根

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した要求である︒時代は如何仁越化しようと宗敬の絶滅する時代は

決してない

03

っと何かの形式によって夏生するであらう︒今や我岡は思想財界共に︑日一日と哀れな

肢態に直面し︑人心恐々として一日も安きけ芭てはない有様に︑何を以て我︒宗教家ごして法衣をまと

以指導者となるものが不滅慰安と︑信頼とを輿へて行くか︒唯名春︑財産︑地位のみに頭を下げてよい

のか︑否異のモットーは我が日蓮翠人の宗敬であh異の堅質な信仰で・なくてはならないのである︒我

組建長の朝よb弘安のタに至る三十ヶ年の問︑あの忍難弘通は何のためであったか︑そして迷へる

我々に何を一不されたか︑それは乙︑︑に述ぺるまでもなく︑心の奥底迄深︿/\しみ渡ってゐるはずで

ある

映蔀布教に巡りて

Lf

. 三

映畜布教に巡りて

私は以下映畜宜停の一服勢を述べて︑簡単に巡教中の戚想を記して見たhv

ご思

ふの

であ

る︒

吾組棲一脚の伴窟︑天の霊山︑地の寂光土身延の御山よ

bの探遣で然も時代にふさわしい映書宣停であ

る︒居ながらにして身延山へ参詣しH蓮大聖人の御一代記を目の前仁拝し得ると言ふ事は何たる喜び

ぞ︑宗門の人やは勿論︑大多数は構門の人hyで︑夜七時の開催仁書食よb排常持表と言ム熱誠振b

に ︑

開催地毎にいつも満場立錐の飴地な主有様であった︒信仰ゐる人も無き人も又権門の老若男女主問は

ず︑五口日蓮大曇人と言へば他の開刷とは全然具り︑自然的に植えっげられた何とも一首ひ知れぬ敬慕と

骨骨敬の念がふか/\染み入ってゐるらしレ︒然し悲しいことには︑心にえが

3

又慕ってわても縁浅

くして大型人の御慈悲にすがb得ぬのは質に遺域ごせねばならねのである︒

乙一

︑に

φ宗教家は無縁 よb有縁に引

3

入れ宗組の慈悲を異に味得せしめねばならない︒恐らく九州のみではない現代の寺院

借侶は有難主宗姐の食を頂いて何ごして居るのか︒あまAV我憧な夢にふりつてはゐなレか︑

果し

宗姐に封し万分の一も御手俸が出来てお乙か︑各人が深く胸に雨手をあて\考へて見た時貨に汗顔に

堪へないものがゐる︒紙上の都合寺院の朕勢は略するが︑私達の願は︑今少し私利を去って本官に救

の慈悲者となって頂

3

度いのである︒信仰と言へば叉老人閑人の仕事の如く考へてゐる人々が多い様

でゐるがそれは根本的誤りでめって︑布教中各地の青年護法曾の方ゃの熱意ゐる活動に戚激した所も

多くあった︒然し未だ十

n?に若き青年男女よち意気ある信仰の亀鑑を︑すべての人々に徹底的に垂れき

しめてゐないことを痛切に残念ご思ったのである︒

開催中柴田信正並一行は日夜の苦闘に心身共に疲れ果て婚に陣頭に鰭れんとせし乙とも載回︑然し

吾組の加護と日親上人の九州民於付る忍難弘通の昔金偲ぴ︑叉観衆の熱と力とによって元気百倍し無

事に大周囲を告げる乙とが出来た︒殊じ法戟のたげなはなbしは︑現身延山執事長冷泉信正の御出生

地の長州萩である︒と︑は明治維新の大業にあづかっ

τ

をの名ある幾多傑士の輩出せし松下村塾の嘗

跡地である︒吉田松陰先生の勤王の大義は︑人も知る伊藤博文︑高杉普作︑木戸孝充︑久坂源内等の門下

の血と涙の奮闘に依つ

τ

なされ岡家の柱石として其名天下に響いたのである︒然ればその松下村塾は

堂々たるものかと思ひの外︑僅か六品目二聞の貧しい建物だ︒此みすぼらしい家よbあの大柱石が生れ

出でしかと思へば買に戚慨無量であるoとの史蹟よb見ても︑大和民族ごし

τ

恥し︿ない立振な人間 は︑高信優美な家よb出づるものではない︒若人の至誠努力こをすぺてを超越して堅貨なる立振な人 聞を築主上げるのである︒如何−い小さな串校にせよ決してなげ︿ぺきでない︒唯其内に育てられて行

c

若人の奮闘努力こそまつべ

3

である︒か︿の如く睦史に名高い萩町に於て五日姐大事人の勤王の大至

誠と相侯って︑観衆の熱するのは嘗然でなげればならね︒然るに︑樺門の寺院飯仁四十鈴ケ寺︑我が宗

映讃布教に巡りて

映高布敬に巡りて

門の道場僅か︸ケ寺︑

住職の奮闘も忍ばれた︒時は恰も八月三十

υ

︑幸か不幸か京都本願寺よbも

同日同時刻に於て︑蓮如上人一代記映書布殺が荻町別院に於て開小れた︒との二つの標的に︑新聞紙

上は勿論近郷近在の大衆は知何に注目したととであったか︒併し京都本願寺映画布教隊も心のま︑は

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す大衆の足を引主とめるととは出来なかった口七時の開催時刻に我が映畜布敬陣地には滞場立錐

の鈴地な

3

大盛況を呈し︑数千の大観衆は十一時終了迄一人ごして立去るものもなく大に面白を施し

たの

であ

った

一方別院の肢勢は僅か百人足らずであったといふ︒果して人々の脳挫には如何なる印

象が残されたであらうか︒乙うした乙とを寸分も誇るのではない︑ど乙までも大事人の御偉徳の深大

3

を戚じて目提めっ︑ある人々を逃

3

ぬ様死身弘法の法戟にはげまねばならねのである︒

時代の進歩と共に︑博道布敢に各宗とも奉って力を映畜にそ︑いで来た︒唯説教の手助としてセン

チメンタリズムの映畜をつ︿b ︑それを名付て宗教映毒ともてはやしてゐた時代は過ぎ去った筈で

ある︒而して映者塞術としての本質的な認識や−根本として本格的映毒心理を意識し︑そとに宗敬的金生

活を投出した異の宗致映毒が生れなくしてはならない時代である︒未だ宗敢映虫聞として東洋的趣味の

ある映蓄が生れない︒殊に我宗門の如

3

殉敬史民輝︿多くの人々を映書化して︑死身弘法の規範とし

ての鰹史と物語ったなら信仰の礎も盆々堅固になるだらうご思ムム︒従って説明に立つ人も誠心誠意

ドキュメント内 棲神 第拾七號 (宗祖六百五十遠忌紀念號) (ページ 178-187)

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