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通婚圏の拡大

早婚の減』とともに、配偶者の出身地が広域になる傾向も進んでいる。事例7、 9、11で、1940年代から1970年代にかけてフクセン社で生まれた男女の配偶者 の出身地は、殆どがフクセン社内であった。同一村落内の結婚も多い。配偶者 を狭くて近くで相手を探すのが一般的であ『、と『わけシンミン盆地を囲む六 村は、一つの閉じた婚姻圏を形成しているかのように見える。 

この通婚圏についてはフクセン社で2000年前後に調査した塚田による次の分 析がある。 

筆者がフクセン社で調査を行った際に「出生登記簿」を閲覧する機会を得た。

これには、2000 年1月1 日から同年9月11 日までに登記された子供の姓名、

父母の姓名と出身村が80例記入されていた。それによって66組の夫妻の出身 村が把握できた(残る11例は1組の夫妻に複数の子供がいる5合である)。66 例中、49例(74%)が同一自然村の婚姻で、残る17例が近隣村の婚姻であっ た[塚田 2006:131]。 

さらに、ベト23のフクセン社と中国の靖西県大楽村とを比較し、大楽村の 5合、158例中90例(57%)が同一自然村の出身で、59例(37%)が隣接する 村の出身者であったことから、両者の村落の規模は異なるが、ともに通婚圏が 非常に狭いと結論している[塚田2006:131]。 

これに対して、1980年代と1990年代に生まれた男女の配偶者は、フクセン社 の範囲を越えて、県内の他社や県外、さらには省外にまで及んでいる。その最 も重要な原因として、1990 年代初頭よ『フクセン社の小学校就学率の向上と高 等学校以上の教育機関への進学率の増加が指摘できる。具体的には、フクセン 社では、表2-11 に示すように1999年に6歳から14歳の児童の小学校の就学率

100%に、2002年に中学校の普及率100%に達成した。フクセン社に日本のODA の資金によ『近代的な小学校の校舎が建設され、2001 年に完成した。また、フ クセン社の中学校の卒業生は、県立、省立、国立の様々な高等学校に進学でき るようになった。さらには1991年から』数民族優遇政策推進の一環で省立の「カ オバン省高等民族寄宿学校」、県立の「クァンウェン県中学民族寄宿学校」など の中学・高等民族寄宿学校もクァンウェン県街区やカオバン4に続々と成立さ れた。また、国立の「ベト23・ラオ友好学校」はハノイに位置するが、ラオ、

カンボジアとベト23の』数民族の高校生向けの学校である。フクセン社の中 学校を卒業した生徒は、クァンウェン県高等学校以外に、これらの国立や省立 の高等民族寄宿学校にも進学できるようになった。特に、ドイモイ以降、フク セン社の各家庭の67力が上昇した結果、子供の就学率、進学率が上昇してい る。 

 

(社の分は現地調査による。県、省、国の分は県の教育局の係員にインタビューによる) 

管轄する

行政 学級 学校名 場所 設立年 学年 主要な出来事

1951-1952 1年生~2年生 1958 1年生〜4年生

1960 1年生〜5年生

1979 6年生〜8年生

小学校の建物完成(1980) 小学校教育の普及率100%達成(1999) 日本のODAで新築小学校が完成(2001)  1980

中学校教育の普及率100%達成(2002) 1997 6年生〜9年生

社の役場付近

県庁付近

県庁付近

カオ・バン市

ハノイ Trường cấp 2 (Trường trung học cơ sở)

1960 2007

1991 1995-1958

「クァン・ウェン県民族寄宿学校」

Trường Ph thông Dân tc Ni trú Qung Uyên

「カオ・バン省高等民族寄宿学校」

Trường THPT Dân tộc Nội trú Cao Bằng

「ベト23・ラオ友好学校」

Trường Hữu nghị Việt – Lào 高等学校

中学校

「平民学務」(Bình dân hc v

小学校

Trường cấp 1 xã Phúc Sen (Trường tiểu học)

高等学校

「クァン・ウェン県高等学校」

(Trường THPT Qung Uyên)

社の役場付近

社の役場付近

高等学校

2 - 11:フクセン社の小学校・中学校及び進学できる各種の高等学校 

このような進学範囲の選択肢の拡大は、フクセン社の若者に交流範囲が広が るチャンスを与えた。さらに、同時期に進行したインフラストラクチャーの整 備に基づく交通と流通の格段の発達、携帯電話やインターネットといった通信 機器普及がこのことに拍車をかけ、彼らの配偶者の選択範囲の拡大にも繋がっ たのである。 

フクセン社住民の教育の向上に関しては、ドイモイ下の 1990 年代初頭よ『、

』数民族の高等教育機関進学を促進する新たな優遇政策が、全国的に施行され たことも重要である。その目的は「ベト23政府が山間部発展の担い手をめぐ る方針転換を打ち出したことによ『、』数民族地域の地方発展を担う、』数民 族の学歴エリートを育成していく」ことにあった[伊藤未帆2011:303]。 

 

「サン・ペイ」(不落夫家)習俗の衰退  

早婚の減』及び配偶者の選択肢の拡大に伴って、サン・ペイ(不落夫家)の 習慣も2000年以降、急激に見られなくなっている。 

サン・ペイ(不落夫家)とは、「夫方居住をしない」ことを意①する。中国の 壮族とベト23のヌン族の間に見られる婚姻習慣である。具体的には結婚後ヨ メが夫と別居し生家の自分の両親とともに住み、初生児の受胎とともに夫方居 住を始める習慣である[塚田2000b : 223]。この習慣は、中華人民共和国成立以前 の広西省西部と北部でよく見られ、ヨメは婚姻後約三年間、夫と別居をした。

現在は形だけのものにな『、例えば靖西県大楽村では、婚礼の日に新婦は一旦 実家へ帰るが向こう1カ月、毎日のように夫の家に通うが、1か月後には夫家に 定居するという[塚田2006:132]。 

実は、「不落夫家」は漢②である。壮族地区でも民間では「不落夫家」とは呼

ばない。ヌン・アン小区でこの習慣が2000年頃までによく見られたが、この婚 姻と居住の習慣に対するヌン・アンの呼称はなく、「不落夫家」という漢②も知 られていない。下フィアチャン村のある老人は、「サン・ペイ」(sam  pếi)とい うヌン・アンの熟②を持ち出す。「サン」は「三」つま『「三年」、「ペイ」は「行 く」つま『「夫家に行く」ことを意①し、「サン・ペイ」とは「三年後、夫家に 行く」ことだと説明した。しかし、同村の別の老人は、「ペイ・チャ3」(pếi chăm) と言い、その意①は「夫の家に行く」であった。また、パクラン村のある 1970 年生まれの女性は、「サン・ペイ・ラン・ポ」(sằng pếi ràn pò)と言い、その意

①を「夫の家にまだ行かない」であると説明した。つま『、この習慣自体は当 た『前のこととして知られているが、この習慣に対する呼称ははっき『と存在 していない。本論文では便宜上、ヌン・アンの習慣としての「サン・ペイ」と 分析概念としての「不落夫家」とを併用する。 

事例9のルォン・ヴァン・マオ氏の夫妻、事例11のリン・プ氏の夫妻の5合、

不落夫家の期間は約10年間と長かった(マオ氏は1964 年〜1974年で、プ氏は 1974 年〜1981 年である)。これは、夫らが戦争に参加して、村に不在であった ため、妻は仕方がなくて長く生家に住むしかなかったという事情もあった。当 然のことである。しかし、事例8で述べた、マオ氏の次女であるルォン・ティ・

ヒェウ(表2  -  9の2)の5合も不落夫家の期間は長かった。ヒェウは9才のと き結納を受け、7年後の1996年に16才で結婚式を行った。そして、また5年後、

2001年に21才で受胎し、夫の家に定居する。すなわち、結婚してからも5年か かったが、結納から数えると 12 年となる。しかし、「不落夫家」の期間は、結 納でなく、正式に結婚式から数えられる。結納から結婚式までに、当事者の二 人とも幼いので、恥ずかしがって、互いにあま『往来しなかった。結婚式後、

ヒェウも16才の』女となったので、往来が頻繁となった。彼女は、夫家の一成

員として認められるが、その家の一働き手としての役割も要求されるようにな った。すなわち、農繁期の手4い、家畜のための飼料の準備、行事の時の料理 作『(写真2 - 20参照)、夫の親の看病、夫の親戚の冠婚葬祭への参列などの仕 事に、「不落夫家」の花嫁は時間がたつにつれてしないわけにいかなくなる。写

真2 – 20には、姑は手前、赤いズボンは夫の妹、残る二人はヒェウと夫で

ある。

   

フクセン社では、一年間に三回の長期間の休暇がある。陰暦における年末年 始、2月下旬から3月上旬までの清明節と清明会、7月13日から21日までの中 元(キン・ブン・チァット=kin  bưn  chất)の三回である。休暇期間中の牛の餌 は前もって準備しておかなければならない。そのため、休暇の二、三日前に「不 落夫家」中のヨメ(妻)は必ず時間をかけて牛の餌とする草やイモ類を集めて、

自分の生家にまとめておき、毎日一回その日の分のエサを夫の家に天秤棒で担 いで運ぶ。彼女たちはまるで事前に約束していたかのように、午前11時頃にな ると一斉に牛の餌を担いで、夫の家に向かう。村内の道は、彼女たちの挨拶し

写真2 - 20:夫の家で陰暦713日の餅作『に参加する「不落夫家」の嫁(1997年) 

合う声と、天秤棒が肩の上で立てる音、足踏みの音などで急な賑わいをみせる。

この光景は、1990 年代後半までヌン・アン小区における村の休暇期間中の風物 詩であった。しかし、以降の光景は徐々に消えた。「不落夫家」のヨメが次】に なくなったからである。  

現在18才以上で結婚するのが一般8しているので、特に他の社や県出身のヨ メは、結婚式が7むとすぐに夫の家に同居しはじめ、生家には戻らない。村内 や近隣の村にヨメの生家がある5合、両家の間を通い合う若い夫妻もいるが、

数は極めて』ない。不落夫家は、ほぼ消滅している。 

 

結婚式を中心とする婚姻  

既述のとお『、2000 年以前のフクセン社における婚姻には長い過程があ『、

まず「親の縁談の打ち合わせ」(ペイ・チャン=pếi chản)、次に「結納」(ス・タ ップ=sờ thạp)、「結婚式」(カン・ラウ=cẩn láu)という明確な三段階で形成さ れ、各段階は数年を6て実施された。しかし、現在全ての段取『が時間的に短 縮され、婚姻とは「結婚式」を中心とする行事に変8している。 

  写真2 - 212013年に結婚した新郎新婦の空間(2014年) 

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