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物の知く把握することは不可能になる︒と同時に︑一切の﹁いのち﹂の価値的平等や連闘が認識されてくることでも
ある︒ならば︑たとえ煩悩・欲望の制御が不可能であったとしても︑常に自己の分別心による﹁いのち﹂の線引きが
正しいか否かが﹁智慧の信心﹂によって反省を迫られるということになろう︒そのような﹁信心の行者﹂は︑必然的
に環境問題等の﹁いのち﹂に関する諸問題へ積極的に応答する主体となるのではないか︒そのような主体を生み出す
﹁真宗菩薩道﹂ともいうべき教学こそが現代に不可欠であると考えるのである︒
陸 ︵
1︶
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2 3
一九六七﹁現在の生態学的危機の歴史的起源﹂︵﹃機械と神﹄青木靖三訳︑みすず書房
所収
︶
︵2︶荒井献﹃聖書のなかの差別と共生﹂岩波書店一九九九年七月一O
コ 一
1二九二頁︑並木浩一﹁旧約聖書の自然観﹂・三好迫﹁新約聖書における自然観﹂︵上智大学中世思想研究所編﹃古代の自然観﹂創文社一九八九年二一月︶︑半谷高久・他編﹃人間と自然の事典﹂化学問人一九九一年一一一月二九八1
二 一
O六頁参照︒︵3︶拙稿﹁環境問題に応答しうる真宗教学確立の可能性﹂︵﹃印度学仏教学研究﹄第四八巻第二号・二000
年三
月︶
︵4︶真宗大谷派においては︑宗派の発行するパンフレット等には︑管見の及ぶ限りでは︑本願寺派のように﹁いのち﹂の語が頻出するものは少ない︒ただし︑大谷派教団に所属する研究者の記名入りの記事や著述には相当の使用例が見られ︵小川一乗氏・田代俊孝氏の見解等てその使用法︵この語の示唆する意味内容︶もかなり明瞭である︒これは本派・大派の教学に対するスタンスの違いが大きく影響しているものと思われる︒︵5︶前出拙稿﹁環境問題に応答しうる真宗教学確立の可能性﹂参照︒
︵6︶﹁科学時代の仏教﹄︵大蔵出版一九八四年一一一月一一頁l︶参照︒生物学辞典の﹁生命﹂の項目には︑最初に﹁生命とは︑生物の本質的属性として抽出されたものをいう﹂とあり︑その少し後に﹁しかし︑以上によって生命の定義が明確になされているかどうかには︑なお問題があり︑生命が果たして科学的概念とみなされ得るか否かは議論の対象となりう
る﹂とある︒また︑哲学事典の﹁生命﹂の項目には︑最初に﹁生命とは生物にのみ固有の属性﹂とあり︑その他に﹁刺戟に対する反応︑適応または調節︑生殖など︑生物の属性は多数ある︒そのいずれか一つをもって生命を定義する試みは︑すべて失敗に終わっている﹂とか︑﹁だが︑いずれにしても︑もっとも普通にいわれるところの生命と死は︑個体の体制的保持と崩壊を意味する﹂とある︒
︵7︶柳川弘士山氏も﹁生命の起源を探る﹄︵岩波書店一九八九年四月二四頁︶において﹁生命という一言葉は人間の思想や精神活動においても使われる︒だからその立脚点によりいろいろな定義が可能である︒たとえば︑生物学的︑物理化学的 一九七二年一一月
浄土真宗の﹁いのち﹂観
六九
浄土真宗の﹁いのち﹂観
七
。
な定義ゃ︑哲学︑宗教的な定義などである﹂と述べている︒︵8︶﹁お互いの︿いのち﹀のかがやきを見つめなおす生活﹂︵﹁自分さがしのボランティア|共生︵ぐうしよう︶の世界|﹂︶︑
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ちの軽視﹂﹁いのちの輝き﹂﹁・:人間の独善と騒慢に貫かれて︑あらゆる﹃いのち﹄をもてあそんだり︑:﹂﹁あらゆる生物の﹃いのちのはたらき﹄を軽視し︑それを犠牲にして省みない人聞は︑他の弱い立場の﹃いのち﹄や文化を踏みにじることになってきました﹂︵ブックレット基幹運動助3﹃環境問題念仏者として環境の破壊について考えよう﹂一九九六
年六
月︶
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運助本部専門委員逸見道郎一九九九年二月︶︑﹁・:﹃いのち﹂を育む﹃環境﹂問題や﹃家族﹂・:﹂﹁いのちの尊厳と平
等﹂
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﹁いのちを対象化し︑モノとしか見ず︑その結果役に立っか立たないかというところでいのちを扱い︑﹂﹁人間の都合による
いのちの選別﹂︵﹇臓器移植﹈法案の衆議院可決に対する声明一九九七年四月二五日︶︑﹁いのちの選別﹂﹁いのちの尊厳﹂
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︒
︵9︶前出拙稿﹁環境問題に応答しうる真宗教学確立の可能性﹂参照︒
︵ 日 ︶
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1ル他編﹃聖書思想事典﹄︵三省堂一九九九年一O月︑五五八!五五九頁︑八七一l
八七
二頁
︶︑
森島牧人﹁聖書の生命観︵演回悔子編﹃いのち|生命について考える﹄︑理想社︑一九九七年四月八了l
一三
六頁
︶
参照
︒
︵日︶新約聖書の特色としては︑﹁真の︿いのちとがイエス・キリストと結びつけて捉えられていることがあげられる︒︵ロ︶前出・森島牧人﹁聖書の生命観﹂八一l八二頁︵日︶さらに小川氏は﹁少なくとも︑お互いにだれかが死ぬことによって︑だれかが助かるという︑命のやり取りだけはやめたほうがいいということです︒ヒューマニズムによる人間同士の助け合いは︑生きているもの同士で助け合うという一線を超えるべきではないということです﹂という見地から﹁脳死﹂による臓器移植を批判しているが︑仏教的視点からは︑かような結論が導かれると考えられるので︑その見解に同意したい
02
仏教からの脳死・臓器移植批判﹄法蔵館一九九
五年
一
O月
参照
︒︶
︵M︶﹃浄土真宗聖典・七祖編︵註釈版︶﹄五五頁
︵日
︶﹁
行巻
﹂大
行釈
︒﹃
浄土
真宗
聖典
︵註
釈版
︶﹄
一五
七
l
一五
人頁
︵日︶佐々木宏幹﹃仏と霊の人類学﹂春秋社一九九三一年一月七五l
七六
頁参
照︒
︵口︶前出拙稿﹁環境問題に応答しうる真宗教学確立の可能性﹂参照︒
︵お︶キリスト教では︑その教義の根本に﹁神による創造﹂という世界観・人間観があり︑これと深く関係しているために︑いわゆる﹁人間中心主義﹂を直ちに否定することはできない︒そこで環境破壊の問題に応答しようとするキリスト教神学においては︑ジョン・パスモア
Co
宮司同国回目
05︶のスチユワ
lドシップ
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唱R
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唱人間は神のスチユワlドω芯唱恒三・神の代理人として︑他の被造物・自然に対する世話を任されている︑という考え方:::﹃自然に対する人間の責任﹄間瀬啓允訳︑岩波書店一九七七年参照︶や︑サクラメンタリズム
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SB
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日自然的要素を神の内在的な創造活動と捉え︑そこに尊敬と畏敬の念を求めることで︑自然に対する人間の責任ある倫理を基礎づけ︑さらに自然との共生を志向するもの:::﹃神の創造と科学の世界﹄塚田理・関正勝訳︑新教出版社一九八一二年参昭むなどがある︵村
田充
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社会
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会倫
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教技
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会論
序説
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晃洋
書房
一九
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年一
一一
月一
一一
一七
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一八
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間瀬
啓允﹃エコロジーと宗教﹂岩波書店一九九六年一一月四二l四八頁参照︶︒
︵M
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需品 位買 込