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﹄ の ﹁

ドキュメント内 真宗研究45号全 (ページ 36-63)

自 然

||親驚の視点から||

大 谷 派 山

田 恵

は じ め に

親驚は︑晩年の和語聖教において︑数多くの﹁自然﹂を用いるのであるが︑その思想的背景に﹃大無量寿経﹄の

﹁自然﹂があることは言を待たない︒例えば︑﹃浄土和讃﹄において︑﹃大経﹄の﹁自然﹂の教説を直裁に用いて浄土

の荘厳を讃詠しているし︑また﹃尊号真像銘文﹂においては︑願力自然と称される﹃大経﹄の﹁必得超絶去﹂以下の

2︶ 五言八句に詳細な注釈を施している︒更には︑この五言八句は︑現存する親鷺真筆の七幅の名号本尊の内︑そのコ一幅

にまで讃銘されているのであり︑この点から見ても︑親鴛がどれほど大切な教説としていたかが知られるのである︒

では具体的に親鷲は﹃大経﹄の﹁自然﹂をどのように読みとっているのであろうか︒小論では特に︑﹃大経﹄の﹁自

然﹂がどのような特徴を有しているのか︑そして親鴛以前の注釈ではどのように理解されていたのかを手がかりとし

て︑親鷺の﹁自然﹂理解を明確にしていきたい︒

﹃大

経﹄

﹁自

然﹂

の成立事情

漢語における﹁自然﹂とは︑本来老荘思想の﹁無為自然﹂を嘱矢とする言葉である︒それは﹁なすことなくおのず

からしかること﹂というように︑人間のはからい︑即ち﹁人為﹂を離れたところに真実を見出そうとする思想である︒

仏教が中国に伝来し︑盛んに翻訳︑解釈がなされた六朝時代は︑まさに老荘思想の全盛期であった︒いわゆる格義仏

教の時代であるが︑そのような思想的潮流の中で﹁無量寿経﹂が漢訳されていったことを︑まず承知しておくべきで

あろ

う︒

﹁無

量寿

経﹂

の漢

訳は

︑﹃

大阿

弥陀

経﹄

﹃平

等覚

経﹄

﹃大

経﹄

﹃如

来会

﹄﹃

荘厳

経﹄

の五

訳現

存し

てい

るが

︑﹃

大経

﹄以

前に訳出された﹃大阿弥陀経﹄﹁平等覚経﹂には︑それぞれ︑一八二カ所にも及ぶ﹁自然﹂の語が用いられ

ている︒これは両者の翻訳年代がまさに格義の時代に当たることを考慮すれば︑老荘思想の﹁無為自然﹂を反映した

用語であると容易に推測できよう︒現存する﹃党文無量寿経﹄には﹁自然﹂に相当する語が見出せないのであるか︵

M

おそらく漢訳の際に︑﹁自然﹂が付け加えられたものと想定できる︒﹃大経﹄の訳出年代は︑最近の研究では仏駄蹴陀

羅・宝雲の共訳とすれば︑紀元四二一年と推定されている札町︑格義終罵の目安でもある鳩摩羅什が没してまもなく

一四

七︑

の頃に当たると言える︒そのため﹁自然﹂の語の数も五十六カ所と︑前二訳に比すれば大きく減少しているのである︒

これは︑格義仏教が批判され︑正確な仏教理解が求められるという時代の潮流に即した変化を意味していよう︒さら

に︑完全に格義の時代から抜けた唐代の﹃知来会﹄は九カ所しかなく︑宋代の﹃荘厳経﹄に至っては一カ所もないの

である︒以上の事実は︑﹁無量寿経﹂の﹁自然﹂は老荘思想の﹁無為自然﹂に由来していることを如実に物語ってい

よう︒特に﹃大阿弥陀経﹄﹃平等覚経﹄の旧訳に見られる︑乱用されていると言っても過言ではないほどの﹁自然﹂

﹃大

無量

寿経

﹂の

﹁自

然﹂

﹃大

無量

寿経

﹂の

﹁自

然﹂

一 一

は︑訳出の時代背景を踏まえれば︑老荘思想の﹁無為自然﹂になぞらえて付加されたものと推定されるのである︒

ただ︑用語としては︑老荘思想の﹁無為自然﹂に由来するとは言っても︑その意味内容は﹃大経﹄独自の﹁自然﹂

であることは言うまでもない︒それは

﹃大

経﹂

全体

にわ

たっ

て見

える

﹁自

然﹂

の多

くが

︑﹁

自然

に﹂

﹁自

然の

﹂と

修飾

的様態を為しているところから言えるのである︒﹃老子﹄﹃荘子﹄における﹁自然﹂は︑人為を離れた理想的境地を意

味する﹁無為自然﹂の思想そのものが託された言葉であるから︑そのすべてが﹁自然なり﹂という実体的概念を示唆

6︶ する形になっている︒そこには体言や用言を修飾する形態の﹁自然﹂はない︒ところが﹃大経﹂では三毒五悪段を除

7︶ いてその多くが修飾的形態を為している︒それはいわば浄土の荘厳功徳の様態を表現することを担った﹁自然﹂であ

ると言うことができよう︒このような意味を持ったところに﹃大経﹄の﹁自然﹂の独自性があると言えるのである︒

﹃大

経﹂

﹁自

然﹂

の特

修飾的な用法が﹁大経﹂の﹁自然﹂の独自性であると先に述べたが︑では具体的に﹁自然﹂という言葉自体にどの

ような意味が託されているのであろうか︒﹁自然﹂とは﹁おのずからしかる﹂という意味であるが︑何が﹁おのずか

らしかる﹂かと言えば︑それは﹁自然﹂の語が担うところの教説に左右されると言える︒﹁大経﹄における﹁自然﹂

は︑その特色によって従来より無為自然・業道自然・願力自然の三種あるとされるので︑その定義に従ってみていく

﹂と

とし

たい

1︶ 

無 為 自 然

無為自然とは﹁一切の衆宝︑自然に合成せり﹂﹁身に濯がしめんとおもえば︑自然に身に濯ぐ﹂﹁自然に聞くことを

得ん﹂等というように︑浄土の荘厳功徳を修飾している﹁自然﹂である︒それは︑

いわ

ば﹁

ひと

りで

に﹂

﹁お

のず

ら﹂と訳すことが出来るように︑因果を超越したはたらきを示していると言える︒﹁自然﹂という言葉自体に老荘思

想の哲学的深遠な意味があるわけではなく︑浄土の荘厳功徳が﹁おのずからしかる﹂ものであることを表現している

言葉

であ

る︒

この﹁自然﹂は他の漢訳諸異本と比較してみると大きく異同がある︒特に﹃大阿弥陀経﹄﹃平等覚経﹄の旧訳の多

数の﹁自然﹂が︑﹃大経﹄に至っては大きく削除されているのである︒また削除されるだけではなく別の言葉に変わ

8︶ っている場合もある︒その多くが﹁自ら﹂という言葉であるが︑特に次のように﹁自然﹂が変化していることに注目

でき

よう

若有

ニ衆

J明信二傍智乃至勝智J

作ニ

諸功

徳﹂

信心

週向

︑此

諸衆

生︑

於二

七賓

華中

J

之頃︑身相光明・智慧功徳︑知ニ諸菩薩J具足成就︒

自然

化生

蜘扶而坐︑須央

︵﹃

大経

﹄﹃

真聖

全﹂

一・

四三

頁︶

このように﹃大経﹄においては﹁自然に化生﹂となっているが︑

此人

於二

蓮華

J結加朕坐︑忽然化生︑

﹃如

来会

にお

いて

は︑

︵﹃

如来

会﹄

﹃真

聖全

﹂一

・一

二O

頁︶

とあるように﹁忽然﹂となっている︒つまりここでの﹁自然﹂とは化生することが﹁おのずからしかる﹂ことを表現

しているが︑どのように﹁おのずからしかる﹂のかといえば﹁忽然﹂つまり﹁たちまちに﹂化生するという意味なの

である︒このように﹁自然﹂とは削除されたり︑また別の用語に置き換えられるように︑﹁自然﹂という言葉自体に

深遠な意味があるわけではなく︑浄土の荘厳功徳のはたらきを表現している言葉に他ならないのである︒無為自然と

称せられる﹁自然﹂の多くが﹁自然に﹂というように用言を修飾している形であることから︑その﹁自然﹂とは浄土

のはたらきを表現する役割を担っていると言えるのである︒

また︑無為自然は浄土が如何なる境界であるのかを表現する言葉であるともいえる︒﹁自然の音楽﹂﹁自然の七宝﹂

﹃大

無量

寿経

﹂の

﹁自

然﹂

﹁大

無量

寿経

﹂の

﹁自

然﹂

﹁自然万種の伎楽﹂﹁自然快楽の音﹂とあるのは︑浄土が﹁自然﹂の境界であることを示している︒ではその﹁自然﹂

の境界とは如何なる境界なのか︑親驚の自然理解を見てみたい︒

﹁自然法爾﹂の法語を見ると︑親驚は繰り返し﹁自然﹂とは﹁行者のはからい﹂ではなく︑﹁如来のちかい﹂であ

ると語るのであるが︑その﹁如来のちかい﹂とは︑と続けて次のように言う︒

ちかひのやうは︑元上悌にならしめむとちかひたまへるなり︒元上悌とまふすは︑かたちもなくまします︒かた

ちのましまさぬゆへに︑自然とはまふすなり︒かたちましますとしめすときには︑元上浬繋とはまふさず︒かた

ちもましまさぬゃうをしらせむとて︑はじめて蒲陀偽とぞ︑き?ならひて候︒みだ悌は︑自然のやうをしらせむ

れう

なり

︵﹃

定親

全﹂

三・

五五

l五

六頁

﹁如来のちかい﹂とは無上仏にならしめんという誓いである︒無上仏とは無上浬繋と同じく形がないので﹁自然﹂

とい

︑っ

つまり親驚の了解によれば﹁自然﹂とは無上仏・無上浬繋を意味するのである︒とくに﹁みだ仏は︑自然の

ょうをしらせんりようなり﹂の一文に注目すれば︑これは弥陀仏は無上仏︑無上浬繋を知らせる手だてであるという

ことになる︒この一文は﹁真仏土巻﹂に引かれた善導の次の文が基となっている

又云極集元鶏浬繋界随縁雑善恐難一生一故使下如来選一一要法一敬念一一嫡陀−専復専ι

又云

従=

悌一

遺遁

蹄一

一自

然一

自然

即是

・禰

陀園

元漏

元生

還即

異行

来準

止常

随=

悌一

誼ニ

得元

矯法

性身

又云

禰陀

妙果

競日

一一

元上

浬繋

己上抄出

︵ ﹃

定 親

全 ﹄

一−

一一

六二

|三

頁︶

浄土を﹁極楽無為浬繋界﹂とし︑﹁自然﹂とする善導の了解に導かれて︑親驚は﹁自然﹂を無上浬繋と了解するの

である︒親鷺はこの文を引くことによって︑真仏土が無為浬繋界であり︑﹁自然﹂の浄土であることを表そうとして

いるのである︒それは﹃高僧和讃﹄の善導讃において次のように詠っていることにも如実に表れている︒

五濁悪世のわれらこそ金剛の信心ばかりにて

ドキュメント内 真宗研究45号全 (ページ 36-63)

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