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の状況 につ いて もそれ は当てはまる。ロン ドンを中心 に雑誌や新聞が数多 く出版され始め,

そ うした出版物が流行 を形成 し

,媒

介す るメデ ィアとして機能 し始 めて いた。マケ ン ドリ ックは

,18世

紀 に刊行 された女性 フ ァッシ ョン誌 に掲載 されて いる銅版画 を指 して,「こ れ らのフ ァッション・ プ レー トは

,実

際の所 トレー ド・ プ レー トで あ り

,商

業的な プロパ ガ ンダ としてデザイ ンされて いた」 と述べてお り

,当

時の雑誌が読者 の購買を促す商業的 な メデ ィアとしての側面 を持 って いた ことを指摘 して いる176。 またベ ヴ リ 0ル ミアも

,雑

誌 中のイ ラス トを指 して 「これ らのイ ラス トか ら

,読

者 はいまロン ドンで何が着 られて い るのか知 った」 として

,雑

誌が ロン ドンの流行 を地方へ伝播 させ るメデ ィアと して機能 し て いた ことに触れている177。 こぅした定期刊行物の出版が本格化す るのは

,イ

ギ リス にお いて一般 に

1695年

の特許検 閲法(Licensing Act)が 廃止 されてか らである とされてお り,

そ の後

1712年

のスタンプ税法

(Stamp Act)が

施行 され るまでの間に, しば しばジャー ナ リズムの先駆 けであるとされ る リチ ャー ド・ スティール とジ ョゼ フ 0ア ディソンの『夕 トラー 』,『スペ クテイター 』を始 め多 くの定期刊行物が刊行 された178。

1712年

のスタ ン プ税法の施行以降,こ のよ うな出版物 の うちいくつかは姿 を消す ものの

,1731年

にはエ ド ワー ド・ ケイ ブによって『ジェン トルマ ンズ・マガジン』が創刊 され る。以後

200年

近 く にわた って刊行 された この『ジェ ン トルマ ンズ 0マ ガジン』を始め として

,18世

紀 に数多 く発刊 された雑誌や新聞は当時のコー ヒーハ ウス文化 の中で世論や流行 の形成 に大きな影 響 力を持 って いた179。 本稿で用 い られ る

L7は ,こ

うした雑誌の中で も特 に中流階層の女 性向 けに発行 され

,最

も成功 した ものである。

この

Lり

,主

た る読者層は中流か ら中流のやや下層までを含む女性であった とされて いる180。 しば しば 「ミ ドリング 0ソ ー ト」 と呼ばれ るこの階層については

,ピ

ーター・ ラ ス レッ トの 「一階級史観」181以

,主

に社会史 の分野でそ の析 出の試みがな されてお り,

176 McKendrick,Brewer&Plumb(1982),p。 48.

177 Lemire(1991),p。 171。

17817世

紀 末 か ら18世紀 の 出版 に関す る法 律 とそ の影 響 につ いて は,Siebert(1952)が 詳 しい。

都 市 部 にお け る彼 らの定義 は既 に合意 を見 つつ あ る と言 って 良 い。それ によれ ば,「ミ ドリ ング・ ソー ト」 とは 「独立 して商 売 を営 む世帯」 を中心 に構成 され てお り182,所得 の水 準 につ いて は年 に£

40程

度 を稼 ぐことが で きた 183,と ぃ ぅ もので あ る。地域差 が無視 で きな い当時 の社会 にあって

,す

べ て の地域 で この定義 が妥 当で ある とは言 い切れな いが

,少

くと も ロン ドンを 中心 と した都 市部 にお いて は妥 当な基 準 で あ る と考 え られ る184。 また,

「ミ ドリング・ ソー ト」 が社会層 として確立 され るため には

,経

済 的

,社

会 的特 質 とと も に 自 らが 自 らを上流 と も下流 とも違 う 「ミ ドリング 0ソー ト」 で あ る と認識す る必 要が あ る。 この 「階層意識」 の形成 に関 して

,例

え ば ジ ョン 。ス メイ ル は

18世

紀 の後 半以後 の 地域 社 会 にお いて

,閉

鎖 的な ク ラブや 集 会 で の社 交 が重 要 な 役割 を果た して いた ことを指 摘 して い る。 そ う した共 同体 へ の参加 につ いて は社会 的地位や ジェ ンダーが重視 され て お り

,限

定 され た場へ の参加 は ミ ドリング・ ソー トのアイデ ンテ ィテ ィを形成 した と して い る185。 また本 稿 で は特 に

,Lり

の 中心 的な読者で あ る商業 で成功 した父親 を持 つ ミ ドリン グ 0ソー トの女 性 につ いて触 れ る こととな るが

,17世

紀 の末 か ら

18世

紀 末 まで の彼女 ら の生活 につ いて も

,そ

れ を取 り扱 った業績 は既 にい くつか ある。 マー ガ レッ ト・ ハ ン トに よれ ば

,18世

紀 の 中流 階 層 の女性 は,知的生活 にお いて は未 だ教 育機 会 な どの面 で男子 よ りも不利 な立 場 に置 かれ

,ほ

とん ど選 択 の余地無 く手芸な どの伝統 的な教 育が な され て い た もの と評価 して い る186。 一方 で

,女

性 向 けの寄宿 学校 (boarding sch001)は 最 も初 期 の もので

16世

紀 末 か ら登 場 してお り

,18世

紀 以 降 には 中流 階層 の間 で子 女 を寄 宿 学校 へ 通 わせ る ことが 普及 し始 め る187。 男 女 の格 差 は

18世

紀 末 の段 階 で も未 だ存在 した もの の,

中流 以 上 の女 性 の社 会 的立 場 に大 きな変化 が 生 じ始 めて いた時代 で ある と言 え る。

当時 の女性 の社 会 的な あ り方 を考 慮すれ ば

,女

性 の結婚 観 とそ の社 会 的地位 との関連 に

182Barry&Brooks(1994), pp.31‐ 32.

183 wrightsOn(2002),p.290,「 彼 らは しば しば他 人 を雇 用 し

,被

雇 用者 にな る ことは ほ と ん どなか った。加 えて

,彼

らの ほ とん どは年 に£

40は

稼 ぐことが で きた」。 また

,関

,梅

,道

(1999),80頁

,「40〜

50ポ

ン ドとい う所得 水 準 は

18世

紀 の 中産 層 の下 限 を考 え る上 で重要 な境 界線 をな して いた」。

184特に ロ ン ドンの ミ ドリング・ ソー トにつ いて は,Earle(1989)を参 照。

185 smail(1994),p.186.

186 Hunt(1996),p。

99。

187ィ ギ リス の女子教育 を扱 った文献 も多 くある。女子 向けの寄宿学校 (boarding sch001) につ いて は

,例

え ばThompson(2003),pp.134‐

136な

ど。

注 目す る必要がある。そ して

,ミ

ドリング・ ソー トの析出 と共 に

,家

族や結婚 の有 り様 の 変化 も社会史 の主要なテーマの一つであった。ロー レンス・ス トー ンによれ ば

,16世

紀 か

18世

紀 にか けてのイギ リス社会では家族 のあ り方 に大きな変化が生 じていた188。

18世

紀以降の上流

,中

流の家庭で は

,結

婚相手の選択 につ いて

,両

親 よ りも当事者 同士 の決定 がよ り意味を持つよ うにな り

,さ

らにそ の基準 は社会的地位や資産 の水準 よ りも

,愛

情や 同伴者 として の意識 (companiOnship)へ と変化 した とされ る189。 ス トー ンの この議論 は 後 にやや批判 を受 けるものの190,現在 で も基本的 には支持 されて いる もの と考 えて良いだ ろ う。

18世

紀後半の段階 には既 にイギ リス社会 に興隆 し始めて いた ミ ドリング・ソー トは,

そ の内部で家族 のあ り方

,女

性 のあ り方の大きな変容 を伴 って いた。それ は旧来の もの と は異なっているが故 に

,新

たな アイデ ンテ ィテ ィが必要 とされていた と思われ る。以下で は,当時マスメデ ィア として機能 し始めて いた雑誌の中に,その意識 の変容 を見 出 した い。

4‑2『

レデ ィス 0マ ガジン』の概要

ケイ ブによる『ジェ ン トルマ ンズ・マガジン』の成功以来,『 レデ ィス・ マガジン (The Lady's Magazine)』 と命名 された雑誌 は副題の異なるものがいくつか刊行 されたが

,い

ず れ も短命 に終わ って いる191。 そ の中で

1770年

8月 にジ ョン0クー ト (John coote)192に よつて創刊 された

L′

,1部 6ベ

ンス という当時 と しては安価な価格 も影響 し

,中

流階 層の女性 を中心 とした読者層 に受 け入れ られて大きな成功 を収めた193。 誌面 の編集 は

,当

初 クー トと彼 の雇 った編集者が 中心 に行 っていた もの と思われ るが

,1771年

にクー トはジ ョー ジ・ ロビンソン (George RobinsOn)とジ ョン・ ロバーツ (JOhn Roberts)のパー ト

188 stOne(1977).

189 stOne(1997),pp。390‑404.ス トー ンは

,結

婚 観 や 家族 との関係 にお いて 当時 の女 性 が 伝 統 的な価 値観 か ら変化 し始 めた ことを指 摘す るが

,一

方 で

,当

時 の文学 に見 られ た ロマ

ンテ ィ シズム の影 響 を受 けて いた女性 の意 識 は

,現

実 には挫折 に さ らさ られ る ことが多 か った とも指摘 して い る。

190例え ば ライ トソ ン

(1991),1lo〜

113頁。 191 Adburgham (1972),pp.81‑83.

192α蹴 ″ によれ ば,クー トはサ セ ックス生 まれ の書籍 商で あった。

1757年

頃か ら書籍 業

を始 め

,い

くつか の雑 誌 を発行 して いる。

1936ベンス とい う価 格 は

,当

時 の雑誌 と して はか な り安価 で あ った。Rogers(1978),

ppe50‐

52。

ナー シップヘ

L7を

売却 して いる194。

1776年

にロバ ーツが没 した後 は

,L7は

ジ ョー ジ・

ロビンソンによ って 出版 され る こととな り

,後

年パ ー トナー シ ップ に加わ る兄弟 の ジ ョ ン0ロビンソン (John RobinsOn),息 子で同名のジ ョー ジ・ロビンソン (George Robinson) と共 に

L7の

出版を続 けて い くこととなる。世紀が変わ るまでは

,L7は

有 力な雑誌 と し

て発行 を続 けるものの

,1801年

にはジ ョー ジ 0ロ ビンソンが没 し

,1804年

には倉庫 の火

災 に見舞われた こともあ り

,破

産へ至 る195。 そ の後 も

Lり

の出版は続 け られ るが

,相

次 い で出版され る競合誌 との競争の中で

,1800年 ,1811年

に誌面の刷新 と値上げを行 った末,

1832年

に『 レデ ィス0ミ ュー ジアム』に合併 され

,62年

にわた って続 いた

Lり

の名 は姿 を消す こととなった。

誌面の編集 にお けるジ ョー ジ 。ロビンソンの役割 については必ず しも明確ではないが,

彼は当時の出版界では著名な書籍商であ り

,出

版業界 の名士 の一人であった196。 しば しば 巻頭文 には G.R.と の署名が付 されている ことか らも,誌 面編集 の方針 につ いては彼の影響 が感 じられ る197。 また

,18世

紀 半ば以降の出版業 は大 き く発展 した時代であ り

,書

籍 商は 成功が約束 された職業 の一つ と見な されて いたが198,出版物が売れなかった場合 には多 く の在庫 を抱える ことにな り

,書

籍業はハイ リス クな側面 も持 っていた199。 事業の成功 には 売上の上がる内容 を見抜 き,作り上 げる力量が不可欠であ り

,1804年

の倒産 には有能な書

194売 却 に際 して

,当

初 の印刷業者であった ジ ョン・ ウェブル

(John Wheble)が

売却 の 無効 を求 めて裁判 を起 こして いる。結果はウェブルの訴えは認め られず,『レデ ィス 0マ ガ ジン』はロビンソンとロバーツによって出版され る こととなった。

1771年

8月 号 に裁判 の詳細が記 されて いる。

195ロ ビンソンの破産 につ いては,Raven(2007),pp。296‐

299を

参照。

1961801年 6月 の『ジェン トルマ ンズ 。マガジン』に掲載 された長文の死亡記事 には

,以

下のよ うに記述 されて いる。 「ベイター ノスター通 りの自宅で

,多

くの人 に看取 られて著 名な書籍商のジ ョージ0ロビンソンが

65歳

で亡 くな った。彼は温和で誠実な人物であ り,

夫 として

,父

親 と して

,友

人 として惜 しむべき人物であったが

,よ

り惜 しまれ るのは公の 領域での活動一活字の世界 においてであろ う。

1780年

には,彼は個 人 としては過去無いほ

どの規模 の小売 りを営 んでお り

,1784年

には彼の兄弟,息子 とパー トナー シ ップを結んだ」。

ルθ Genノemanむ Magazノ″a VO.71(2), June 1801, pp.578‑580。

197ジ ョージ。ロビンソンが単独で

L7の

出版を行 うよ うにな った のは

1776年

か らで ある が

,そ

れ以前か ら主な編集作業は ロビンソンが行 って いた もの と思われ る。

1770年

の第 1 巻か ら第

3巻

まで は

,投

稿先 にはクー トの雇 った印刷業者のジ ョン・ ウェブル (John

Wheble)の

住所 が記 されて いるが

,1773年

の第

4巻

か ら

,表

紙 にはprinted fOr G。

RobinsOnの文字 とともに投稿先 にロビンソンの住所が記 されて いる。

19818世紀後 半の書籍業 につ いては

,コ

リンズ

(1994)が

詳 しい。

199 Raven(2007)′ pp.296‐299。

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