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第 4 章 ノモンハン事件(1)

第2節 7月の戦闘

ノモンハン事件における5月の戦闘は5月31日に日ソ両軍がハルハ河地域 から戦力を撤収したことにより一旦終結したものの、ソ連・モンゴル軍は次の 戦いに向けてハルハ河地域での戦力の増強を続けた。その際、ソ連・モンゴル 軍部隊の越境行動は継続して行われたが、日ソ両軍は小規模の戦闘を行うに留 まった。

(1)航空戦

1939年6月の戦闘は、地上戦から航空戦に移った。ノモンハン事件勃発 の時点で、モンゴル東部に展開し、5月の戦闘に投入されたソ連軍航空部隊は 第100混成飛行旅団であった。第100混成飛行旅団の任務は地上部隊の支 援であり、指揮下に第22戦闘機連隊、第70戦闘機連隊、第38高速爆撃機 連隊、第150混成爆撃機連隊を有していた。第100混成飛行旅団の装備し た航空機は、戦闘機(И-15/И-16)101機、高速爆撃機(СБ-2)8 8機、偵察襲撃機(Р-5)17機の、合計206機であった232。この時モン ゴル東部にあった航空機基地は、戦場となったハルハ河地域から約300km 西のバイン・トゥメンのサンベース(コードネーム:レニングラード)基地、

とタムスク(コードネーム:キエフ)基地であった。ノモンハン事件勃発後、

バイン・トゥメンとタムスクには航空基地に加えて兵站基地も開設され、ソ連・

モンゴル軍の作戦行動を支える拠点となった。

表7 第100混成飛行旅団の戦力 所属部隊

第22戦闘機連隊 第70戦闘機連隊 第30 高速爆撃機連隊

第150 混成爆撃機連隊

装備機種 数量

戦闘機(И-15/И‐16) 101機 高速爆撃機(СБ‐2) 88機

偵察襲撃機(Р‐5) 17機

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合計 206機

(ディミタール・ネディアルコフ『ノモンハン航空戦全史』218頁を元に著者作成)

ノモンハン事件勃発当初、サンベース基地、及びタムスク基地に展開してい た第100混成飛行旅団の各部隊の搭乗員は飛行時間の不足から練度が低く、

特に戦闘機搭乗員の練度不足は著しかった。第70戦闘機連隊所属の搭乗員は 平均飛行時間60~120時間程度で飛行経験に乏しかったうえ、空中戦に必 要不可欠であった各機の連携に基づく戦技も習得していなかった233

さらに、保有航空機の充足率と稼働率の低さも深刻な問題であった。ノモン ハン事件勃発時点での第100混成飛行旅団の航空機充足率は、第150混成 爆撃機連隊で約74%程度、第70戦闘機連隊で約60%程度であり、爆撃機、

戦闘機ともに大幅に不足していた。また、第70戦闘機連隊における航空機の 稼働率は約35%であった。こうした事実から、第70戦闘機連隊では保有す る戦闘機の大半が実戦できない状態にあった234。こうした状況から、第10 0混成飛行旅団は戦闘に耐えられる状態ではなかった。

練度不足、航空機充足率と稼働率不足のソ連・モンゴル軍航空部隊に対して、

5月の戦闘での日本軍航空部隊の搭乗員は高い練度を維持し、高性能の航空機 を装備したうえに高い充足率と稼働率を維持していた。このような優位性から 5月の戦闘で日本軍航空部隊は航空優勢を獲得した。その航空優勢はハルハ河 地域の戦場上空での局地的なものだけではなく、ソ連軍後方地域も含めた全般 的なものであり、航空戦の主動権は日本側が握った。

5月の戦闘で日本軍航空部隊が獲得した全般的な航空優勢によって、6月下 旬には日本軍航空部隊がバイン・トゥメン、及びウンドゥルハンにあったソ連・

モンゴル軍兵站基地、及び航空基地に爆撃を加え、日本軍航空部隊は史上初め の航空撃滅戦を実行するに至った。

第100混成飛行旅団が5月の戦闘で被った損害は、戦闘機17機、爆撃機 6機、偵察機2機、搭乗員17名及び地上要員4名の喪失であった235。5月 の戦闘で第100混成飛行旅団が航空優勢を獲得できず、日本軍航空部隊に苦 戦した事実は、第57特別軍団司令官フェクレンコからモスクワに宛てた報告 書でも言及されている。その内容は、第100混成航空旅団は搭乗員の練度、

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保有機材の質ともに日本軍航空部隊に劣ったことから作戦地域における航空優 勢を確立することができず、本来の任務である地上部隊の支援を充分に遂行で きなかったというものであった。

地上における日ソ両軍の戦闘が一旦終結した1939年6月、ソ連空軍司令 部は、地上戦の主導権獲得に必要な戦場上空での航空優勢の獲得を目指し、航 空部隊の大幅な増強を行った。航空部隊の増強は豊富な実戦経験を有する搭乗 員と地上要員を現地へ派遣することから始まった。1939年6月の航空部隊 増強でハルハ河地域に派遣された搭乗員は22名で、それぞれスペイン内戦や 日中戦争に義勇兵として参加して豊富な実戦経験もち、うち11名はソ連邦英 雄の称号を授与された精鋭たちであった。増援要員は22名の精鋭搭乗員に加 えて26名の熟練地上要員を加えた計48名で、司令官にはソ連空軍副司令官 のヤーコフ・スムシュケヴィッチ(Яков Смушкевич)中将が任命された。1 939年5月29日、増援要員一行はモスクワでブリーフィングとヴォロシー ロフ国防人民委員との面会を行い、ザバイカル戦線軍司令部のあるチタへ空路 で移動した後、6月4日に新鋭戦闘機でタムスク基地へ進出した236

第100混成飛行旅団に対する増援は、ザバイカル戦線軍航空部隊からも行 われた。ザバイカル戦線軍からは1個混成飛行連隊がハルハ河地域に派遣され たほか、20mm機関砲を搭載した新型のИ-16戦闘機15機からなる飛行 中隊が派遣されてサンベース基地に展開した。モスクワ、及びザバイカル戦線 軍から増援部隊が派遣された結果、第100混成飛行旅団の保有する作戦機は 318機まで増加し、その結果第100混成飛行旅団の指揮下の部隊は第22、

第56、及び第70戦闘機連隊、第38高速爆撃機連隊、第150混成爆撃機 連隊、及びソ連軍、モンゴル軍襲撃飛行隊であった。

第100混成飛行旅団の各部隊は、タムスク基地を拠点に活動し、さらに監 視・警報・連絡網を構築した早期警戒体制確立と、防空戦闘に当たる迎撃機運 用のため、ハルハ河西岸各所に建設された前進飛行場を使って戦闘を展開した

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増援部隊派遣による保有航空機の充足率・稼働率の向上と航空部隊運用施設 の整備が急ピッチで進められたのと同時に、5月の戦闘でソ連・モンゴル軍航 空部隊が航空優勢を獲得できなかった原因である搭乗員の練度の向上にも多大

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な労力が投入された。搭乗員の練度向上のための施策は、編隊空戦の戦技の研 究と集中的な訓練の実施であった。それまでソ連空軍は、搭乗員の練度よりも 使用する戦闘機の性能が重要であると考え、航空技術の発展と育成に注力して きたが、日本軍との戦いを通して、空中戦における編隊各機の連携と適切な空 中指揮といった搭乗員の技能の重要性を認識するようになった。こうした認識 に基づき、モスクワから派遣された22名の熟練搭乗員の教官が集中的に実施 した訓練の最大の目標は、個々の搭乗員が僚機との連携を意識し、航空機の性 能を最大限引き出すことであった。このような熟練搭乗員による指導は、経験 不足の若い搭乗員たちに空中戦のテクニックを付与して練度を著しく向上させ たばかりか、士気を高揚させた。

航空戦力の増強は、ソ連・モンゴル軍だけではなく、5月の戦闘で航空優勢 を確立した日本軍でも実施された。関東軍は入念な航空偵察から得られた情報 をもとに、ソ連軍航空部隊増強の兆候を察知し、航空部隊を再編成して第2飛 行集団を創設した。

第2飛行集団は宝蔵寺久雄少将を飛行集団長とし、指揮下には第7、第9、

第12飛行団があった。第7飛行団は飛行第1、第12、第15戦隊からなり、

九七式戦闘機23機、イ式重爆撃機12機、九八式直協偵察機8機、九七式司 令部偵察機6機を有していた。第9飛行団は指揮下に飛行第10、第61戦隊 からなり、九七式軽爆撃機6機、九七式司令部偵察機6機、九七式重爆撃機1 2機を保有していた。第12飛行団は指揮下に飛行第11、第24戦隊を置き、

九七式戦闘機55機を有していた。第2飛行集団の保有した航空機の機数は1 28機であった238

第2飛行集団の各部隊はハルハ河地域から東方約600kmのチチハル、1 60kmのハイラル、40kmのカンジュル廟の航空基地を拠点に活動したほ か、ハルハ河東岸に建設された10個所の前進飛行場に展開し、ハルハ河地域 における戦闘で地上部隊の主導権確保に貢献すべく、継続的な支援を行った。

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表8 第2飛行集団の編成と戦力

飛行団 所属飛行戦隊 装備機内訳・数量

第7飛行団

飛行第1戦隊 九七戦:23機 イ式重爆:12機 九八直協/九七司偵:計14機 飛行第12戦隊

飛行第15戦隊

第9飛行団 飛行第10戦隊 九七軽爆:6機 九七重爆:12機

九七司偵:6機 飛行第61戦隊

第12飛行団 飛行第11戦隊

九七戦:55機 飛行第24戦隊

装備機合計 128機

Dimitar Nedialkov, Japan Against Russia in The Sky of Nomonhan, p.36 を元に著者作成)

5月の戦闘の後、日ソ両軍の航空部隊が質的・量的増強、及び搭乗員の練度 向上を図った結果、6月以降のハルハ河地域上空における航空戦は、それまで 以上に激しいものとなった。6月22日、日ソ両軍の間にノモンハン事件勃発 後最も激しい航空戦が発生した。この日の戦闘は、日本軍による偵察とソ連軍 警戒網に対する攪乱攻撃から始まった。同日15時、ソ連軍は九七式戦闘機1 8機接近の報を受けてИ-15戦闘機、及びИ-16戦闘機を計24機からな る2個飛行中隊を出撃させた。この2個飛行中隊は間もなく会敵し、激しい空 中戦の末3機が撃墜された。この後から間もなく、九七式戦闘機約60機の日 本軍航空部隊が再度来襲し、これに対してソ連軍は計84機のИ-15戦闘機、

及びИ-16戦闘機で邀撃した。この日のハルハ河西岸のバイン・ツァガン台

地、及びバイン・ホシュ台地上空ではこの日最も激しい空中戦が展開された。

ソ連軍航空部隊はこの戦闘に計34機のИ‐15戦闘機、及びИ‐16戦闘機 を投入して飛行第24戦隊第1中隊と交戦し、日本軍航空部隊による太陽を背 にした奇襲によって戦闘開始後8分でИ‐15戦闘機10機とИ‐16戦闘機 8機を失った。しかし、戦闘の中盤以降は日本軍戦闘機が搭載弾薬の大半を撃