• 検索結果がありません。

第3章 ソ満国境紛争

第1節 満州国の建国と国境問題

1932年(昭和7年)3月1日、満州国が建国された。満州国の建国式典 は同1932年3月9日、満州国の首都新京で挙行され、同1932年9月1 5日には日本との間に満州国の承認、満洲での日本の既得権益の維持、及び、

防衛戦力としての関東軍駐屯の承認を盛り込んだ日満議定書が締結され、正式 に日本との外交関係が樹立された。

満洲国の建国は1931年に発生した柳条湖事件に始まる満州事変の結果、

関東軍が満洲全土を獲得したことに端を発する。満州事変は、1931年(昭 和6年)9月18日夜半、奉天の北方近くの柳条湖で南満州鉄道が爆破された、

柳条湖事件から始まった。鉄道路線が爆破されると、爆破を実行したと考えら れた現地の軍閥、張学良率いる部隊(以後、張学良軍と呼称する)に対して、

関東軍は直ちに第2師団満洲駐留部隊(歩兵4個連隊基幹)と鉄道警備任務に 従事する独立守備隊(歩兵6個大隊基幹)からなる、約10,000名の戦力を 投入して軍事行動を開始した。対する張学良軍の戦力は正規軍268,000名、

非正規軍180,000名であったが、関東軍は少数の戦力で張学良軍を撃破し、

翌9月19日には北大営、及び奉天城を占領した186

関東軍の一連の行動に対し、日本政府は不拡大方針を決定し、参謀本部は関 東軍に対して軍事行動の即時中止を下命したものの、関東軍はこれに従わず軍 事行動を継続し、本渓湖、長春、営口といった満洲地方の各都市を陥落せしめ、

1931年9月21日には吉林をも占領した。その後、関東軍は勢力圏の更な る拡大を志向して北満への進出を企図したが、参謀本部は北満一帯をソ連の勢 力圏内であると認識し、関東軍の作戦に対するソ連の武力介入と、張学良軍・

ソ連軍の連合作戦への拡大を懸念して反対した。しかしながら、関東軍はソ連 が国内態勢の整備を優先し、関東軍の作戦に対して積極的な武力介入は行わな

62

いと判断して作戦を継続し、1931年11月19日に黒竜江省西北部の斉斉 哈爾(チチハル)を占領した。斉斉哈爾を失った張学良軍は奉天省西南部の錦 州で持久を試みたものの、1932年1月3日、関東軍の錦州作戦によって錦 州は陥落した。錦州陥落後、関東軍は黒竜江省南部の哈爾浜(ハルビン)を制 圧し、満洲地方のほぼ全土を勢力圏に収めることに成功した187

満州事変による関東軍の勢力圏拡大を経て建国された満州国の領土は、奉天 省(当時)、吉林省、黒竜江省、熱河省(当時)及び内モンゴルであった。満州 国の領土の大部分は社会主義国家であるソ連、及びその衛星国モンゴルと国境 を接しており、国境線は約4,800kmに及び、満州国は長大な国境線の大部 分でソ蒙両国との国境線未画定問題を抱えていた。満州国とソ蒙両国との国境 線未画定問題は満州国建国によって顕在化したものではなく、清朝・ロシア帝 国の時代から存在したものであった。満州国とソ連・モンゴルの国境線を擁す る各地域、即ち朝鮮半島、満洲、沿海州、モンゴル、東シベリアなどは、清朝 時代は清朝の影響下にあったものの、各地域の境界は不明瞭であり、国境と見 做された部分も厳密なものではなかった188。清朝・ロシア帝国間の国境線確 定交渉は19世紀を通じて何度か行われ、1858年にアムール河左岸、沿海 州の領有、及びアムール河の航行権をロシアに認めたアイグン条約が、186 0年にロシアによるウラジオストクの建設を認めた北京条約が清露両国間で締 結され、清露両国間における国境線未画定問題はアムール河、及びウスリー河 に沿ったものとし、清朝が広大な東シベリア、及び沿海州をロシア帝国に割譲 した形でひとまず決着した。しかし、19世紀に確定された清露両国間の国境 線は、清露両国間に流れる大河を境界としつつも、大河に浮かぶ中州、及び湿 地帯の取り扱いについては一切の規定がなく、更に国境線とされたアムール河、

ウスリー河の南端、及び西端には国境線画定の目標となる地物は存在しないな ど、清露両国間の国境線未画定問題を根本的に解決するものではなかった。ま た、清露両国間の西方における国境地帯であったモンゴルでは、清朝時代に設 定された行政区画と不正確な地図をもとに国境線が確定された189

清露両国間における一連の国境線画定交渉の結果、各国境地帯において不明 瞭な地形を横切って国境線が引かれ、現地ではそれに基づいて国境を示す標識 が設置されたものの、設置された国境を示す標識は時間の経過と共に劣化し、

63

一部地域では国境を示す標識が設置されないなど、清朝・ロシア帝国間の国境 線未確定問題は事実上解決しないまま20世紀を迎えた。こうした、国境線画 定に関する問題を潜在的に抱えた土地に建国されたのが満州国であった。

満州国の建国により、日本は社会主義国家であるソ連・モンゴルと事実上直 接国境を接することとなった。日本側はソ連との正確な国境線の画定を企図し、

1932年の日満議定書に基づき日本は満州国の防衛に責任を持つに至った

190。日満議定書に基づき関東軍は満洲全土へ駐屯し、朝鮮半島に近い部分は 朝鮮軍が防衛を担当した。

ソ連軍は1920年に特別極東軍を置き、増強を続けていた。ソ連は影響下 においていたモンゴルとも相互援助に関する紳士協定を結び、モンゴル軍はソ 連軍の援助を受けて増強された。

1934年までは小規模紛争期とされ、152回にわたる小規模な衝突はあ ったものの、個別に名称を与えるほどの規模ではなかった。それらの具体的な 内容は少数の偵察部隊の侵入、現地住民の拉致・連行、境界標識の自国有利の 地点への移動、ソ蒙軍航空部隊の領空侵犯などであった191

このような小規模紛争の頻発は満蒙・日ソ両国間の国境線画定問題に対する 認識の違いに起因する。日満側はあくまで国境線の確定を目指していたのに対 し、ソ蒙側はアイグン条約、北京条約、琿春界約によって国境線は既に確定済 みであると認識していた。

64