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第2章 ソ連版電撃戦

第1節 独ソの軍事協力

1920年、ドイツ軍内にソ連との軍事協力を担当するロシア担当特務班が 儲けられた。ロシア担当特務班は、1921年以降経済協力団体に偽装してソ 連との接触を続けた。独ソ両国軍の非公式の接触は翌1922年にソ連軍将校 のドイツ軍兵務局(参謀本部)訪問として結実し、独ソ両国軍の代表者による 会談が実現した。

約2年間にわたる水面下での交渉の結果、1922年4月16日にイタリア のラッパロで独ソ両国間の国交再開と経済協力の推進を目的としたラッパロ条 約が締結された110

このラッパロ条約には、同年7月29日に秘密協定として付属条項が締結さ れ、独ソ両国は軍事協力を開始することになった111。その内容は次の三つで あった。

①ソ連国内におけるドイツ向け軍需品の生産

②ソ連領内での試作新兵器のテスト、将兵の訓練、及び成果の共有

③独ソ参謀本部の協力

ラッパロ条約による独ソの軍事協力は、ドイツ軍からはソ連軍へ軍事技術とド イツ式軍事学の提供、ソ連軍からはソ連領内での軍事技術のテストと訓練及び、

その成果の共有であった112

1924年、ラッパロ条約秘密協定に基づき、ヴォロネジ近郊のリペツクに 空軍基地が開設された。リペツク基地はドイツ軍新型機のテスト、及びパイロ ットの教育訓練が行われた。リペツク基地にはソ連軍連絡将校が常駐し、地上 勤務要員はソ連軍兵士が務めるなど、独ソの協力態勢が確立されていた113。 1926年、独ソ両軍の間で戦車学校に関する協定が締結され、カザンに戦

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車学校が開設された。カザン戦車学校での訓練は1929年から開始され、検 証のための演習は独ソ共同で行うなど、独ソ両軍の密接な協力の下で訓練が進 められた114

カザン戦車学校では、新型戦車のテストも重要な活動であった115。カザン 戦車学校開設当初、ソ連軍はイギリスから輸入した最新戦車、及びソ連国産戦 車をドイツ側の訓練用に提供し、ドイツ側もドイツ本国から農業用トラクター に偽装した試作戦車を持ち込み、テストを繰り返した。ドイツ側はドイツ製試 作戦車のテスト結果等の技術や情報をソ連軍に提供していので、ソ連軍はカザ ン戦車学校でドイツの最新の軍事技術や運用思想を享受することになった。

以上のような独ソ両軍の軍事協力によって、ソ連側が得た最大の成果はドイ ツ式軍事学の理解であった。ソ連軍は独ソ両軍の参謀本部の協力によって実現 した参謀将校の相互訪問や軍事使節団の交流によって、ドイツ式軍事学を修得 した。

独ソ両軍将校の相互訪問は1925年に開始され、ドイツ軍将校とソ連軍将 校が両軍の大演習に互いに参加し、研修を行った116。また、ソ連軍将校のド イツ軍への留学プログラムも開始され、ソ連軍将校は陸軍大学校でドイツの各 種軍事理論を修得し、ソ連へ持ち帰った。

ドイツで研修したソ連軍将校には、後に「ソ連版電撃戦」理論を確立したト ハチェフスキー自身が含まれているばかりか、トハチェフスキーの副官や、ト ハチェフスキーと緊密な関係で、後にソ連国防人民委員部に入る人物も含まれ ていた。トハチェフスキーの副官とは後に白ロシア軍管区司令官となるイエロ ニム・ウボレヴィッチ( Иероним Уборевич)であり、ソ連国防人民委員部に 入る人物はイオナ・ヤキール(Иона Якир)であった。

ウボレヴィッチとヤキールはドイツ陸軍大学校で教育を受け、当時の国防人 民委員であったクリメント・ヴォロシーロフ(Климент Ворошилов)に当時 のドイツ軍の練度や自身が参加した大演習の模様、ドイツとソ連の軍事協力に 関する今後の可能性などの詳細な報告書を送っている117

訪独したソ連軍将校への教育は、陸軍大学校のみならず各種軍学校、公文書 館、図書館等での研修を始め、大演習への参加や作戦・戦術・航空・兵站など の各部門での実地訓練、ドイツ軍将校と合同での兵棋演習なども行われた118

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ソ連軍は、1920年代を通して行われたドイツとの軍事交流で、戦車、航 空機に関する最新の軍事技術と軍事のプロフェッショナルとして必要な近代的 な戦略思想を修得した。それらの技術と知識は、その後の「ソ連版電撃戦」理 論の構築に大きく貢献した。

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