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(1)対ポーランド侵攻作戦

次に、ドイツの電撃戦理論が実証された戦いについて論ずる。ドイツ軍が電 撃戦理論に基づいて初めて作戦を行ったのは、1939年9月1日に発動され た対ポーランド侵攻作戦であった。

この作戦でドイツ軍がポーランドを屈服させるために要した期間はわずか2 週間であり、それまでにない短期間で勝利した実績は全世界に電撃戦理論の威 力と優位性を示すことになった。

ドイツ軍がポーランド軍に対して短期間で戦勝を獲得するための条件は、ポ ーランド軍の動員が完了する前にポーランド軍を屈服させることであった。そ のためドイツ軍の作戦計画は、開戦時に招集されたポーランド軍の予備部隊が 集結予定地点に到着する前に国境付近の補給端末駅を越えヴィスワ川とナレー フ川を結ぶ線より西側で予備部隊を集結地点もろとも二重包囲することを企図 していた47

こうした作戦計画には、ドイツの第一次世界大戦における敗北戦後処理の結 果ポーランド領となった有力な工業地帯であるオーバーシュレージェン地方、

及び第一次世界大戦後国際自由都市となったダンツィヒの奪回含むものであっ た48

対ポーランド侵攻作戦でドイツ軍は、北方軍集団と南方軍集団の2個軍集団、

計150万の戦力を投入した。北方軍集団の司令官はフェードア・フォン・ボ ック(Fedor von Bock)上級大将で、その隷下にはゲオルグ・フォン・キュヒ ラー(Georg von Küchler)上級大将の第3軍とギュンター・フォン・クルー ゲ(Günther von Kluge)大将の第4軍があった49。第3軍は東プロイセンか ら、第4軍はポメラニアからそれぞれ出撃し、目標はポーランドの首都ワルシ ャワであった。

南方軍集団の司令官はゲルト・フォン・ルントシュテット(Gerd von Rundstedt)元帥で、その隷下にはヨハネス・ブラスコヴィッツ(Johannes Blaskowitz)大将の第8軍、ヴァルター・フォン・ライへナウ(Walter von Reichenau)大将の第10軍、ヴィルヘルム・リスト(Wilhelm List)上級大 将の第14軍があった50。各軍はシレジア地方から出撃し首都ワルシャワを中

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心に、ラドム、ブレスト・リトフスクを目指して進撃した。

空軍部隊はアルベルト・ケッセルリンク(Albert Kesselring)大将の率いる 第1航空艦隊とアレクザンダー・ローア(Alexander Löhr)中将の率いる第4 航空艦隊が参加し、作戦機各種合計で1,300機が投入された51

ドイツ軍の侵攻に対してポーランド軍はポモージェ、モドリン、ポズナニ、

ロッズ、プルースィ、クラクフ、カルパトの地方別に編成された合計7個軍を 投入して防衛に当たった。

ポモージェ軍は第9、第15、第27、第4、第16歩兵師団の5個歩兵師 団とポモルスカ騎兵旅団を指揮下に置き、第4、第16歩兵師団でヴスボート 集団、ポモルスカ騎兵旅団でチェルスク集団を編成していた52

モドリン軍は第1レギオン、第8、第18、第20、第33、第41歩兵師 団の6個歩兵師団とノヴォグロヅカ、マゾヴィエツカ、ポドラスカ、スヴァウ スカの4個騎兵旅団を指揮下に置き、第1レギオン、第41歩兵師団でヴィシ ュクフ作戦集団、第18、第33歩兵師団とポドラスカ、スヴァウスカ騎兵師 団でナレーフ集団を編成していた53

ポズナニ軍は第14、第17、第25、第26歩兵師団の4個歩兵師団とヴ ィエルコポルスカ、ポドルスカ騎兵の2個旅団を指揮下に置いていた。

ロッズ軍は第2レギオン、第10、第28、第30歩兵師団の4個歩兵師団 とクレソヴァ、ヴォウィンスカ騎兵の2個旅団を指揮下に置き、第30歩兵師 団とヴォウィンスカ騎兵旅団でピョートルクフ集団を編成していた54

プルースィ軍は第12、第13、第19、第29、第36歩兵師団の4個歩 兵師団とヴィウェンスカ騎兵旅団を指揮下に置き、第19歩兵師団とヴィウェ ンスカ騎兵旅団で騎兵集団を、第3レギオン、第12、第36歩兵師団でスク ファルチェニスキ集団を編成していた55

クラクフ軍は第6、第7、第23、第55歩兵師団の4個歩兵師団、クラク フスカ騎兵旅団、第1自動車化騎兵旅団の2個旅団、第21山岳兵師団、第1 山岳兵旅団からなる山岳部隊を指揮下に置き、第23、第55歩兵師団でシロ ンスク集団を、第21山岳兵師団、第1山岳兵旅団でビェルスコ集団を編成し ていた。地域別編成の7個軍の中で最も小規模であったカルパト軍は、指揮下 に第2、第3山岳兵旅団を置いていた56

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ドイツ軍の侵攻が開始された9月1日の時点でポーランド軍は120万人近 い戦力を有していたが、その大半は歩兵であり、機動戦力は第一次世界大戦時 と同じく騎兵であった。そのため、軍の機械化・自動車化は諸外国の軍隊に比 べて著しく遅れており、完全自動車化された部隊はごく少数に過ぎなかった。

さらに、ポーランド軍の装甲車両の保有量は少数で、運用法も確立していなか った。その上、保有装甲車両の大部分は軽装甲で、火砲ではなく機関銃を装備 した対戦車戦闘能力の乏しい豆戦車(タンケッテ)であった。また、それらを 集中配備された独立戦車大隊は第1、第2、第21独立戦車大隊の3個大隊の みであった57。独立戦車大隊以外を除く戦車部隊は中隊規模に分割されて歩兵 や騎兵の前進を支援する目的で各師団に分散配備されていた。

1939年9月1日午前4時55分、ドイツ軍は約150万の戦力で東プロ イセンからドイツ・ポーランド国境を越えて作戦を開始した。開戦当初、ポー ランド軍部隊は主力部隊を国境地帯に分散して配置していた58。それは、侵攻 するドイツ軍をドイツ・ポーランド国境地帯で撃破するためであったが、戦力 に縦深性がなく脆弱であった。

1939年9月1日、ドイツ軍は爆撃機のディルシャウ鉄橋に対して爆撃を 加え、翌9月2日には、ドイツ軍第3装甲師団はブラーヘ川を渡河して進撃を 続け、同日中にヴィスワ河付近へ到達し、ポーランド軍ポモージェ軍を包囲し た59

9月4日、ドイツ軍第3装甲師団は第21歩兵師団との提携に成功し、ダン ツィヒ自由都市から南へ延びるポーランド回廊の大部分を占領した。また、南 方軍集団戦区では9月4日に第1装甲師団、及び第4装甲師団と第31歩兵師 団がラドムスコを占領し、9月1日から4日までの約4日間で、ドイツ軍はポ ーランドの首都ワルシャワへの進撃路の啓開に成功した60

1939年9月5日、ポーランドのほぼ中央に位置するピョートルクフ・ト ルィブナルスキの南方でドイツ・ポーランド両軍の間に戦車戦が発生した61。 この戦闘でポーランド軍はドイツ軍に大きな損害を与えたものの、局地的な勝 利では戦局を挽回するには至らず、ポーランド軍防衛線は9月5日には崩壊し た。

1939年9月8日、ドイツ軍第4装甲師団はドイツ空軍による大規模な爆

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撃によってワルシャワの通信機能を麻痺させた後突入した62

翌9月9日、ポーランド軍はブズラ河流域でドイツ軍に対する反攻作戦を開 始した63。反攻作戦はドイツ軍第4装甲師団のワルシャワ突入によって遊兵と なったポズナニ軍を主力に実施され、一時戦況はポーランド軍優勢となったも のの、ドイツ軍は執拗な爆撃をよって、これを撃退した。

9月16日にはハインツ・グデーリアンの率いる第19軍団によって抵抗を 続けていたブレスト・リトフスク要塞への総攻撃が開始され、翌日には陥落し た。これによって包囲環が完成し、ポーランド軍は組織的な抵抗力を喪失し、

残存ポーランド軍部隊は9月27日に降伏した。

ドイツ軍は、約2週間という短期間でポーランド領土の西半分を支配下に置 いた。これには装甲部隊の発揮した機動力が果たした役割が大きかった。ドイ ツ軍は対ポーランド侵攻作戦において、装甲部隊の分散運用や、通常部隊の機 動力不足によって発生した装甲部隊の孤立などの課題を残し、不充分ながらも 最初の電撃戦を実行した。

(2)対フランス侵攻作戦

1940年に開始された対フランス侵攻作戦は、対ポーランド侵攻作戦より も、より完全な電撃戦に近いものであった。

1939年9月3日、ポーランドと同盟関係にあったフランス、及びイギリ スはドイツに対して宣戦を布告した。そこで、ドイツ軍は英仏両軍の速やかな 撃破を考え、作戦計画は戦略レベルでの奇襲と、奇襲の効果による短期間での 勝利が重視された深い森によってフランス軍が装甲部隊の行動不能地域と認識 されていたアルデンヌの森林地帯へ装甲部隊を集中投入し、英仏軍の意表を突 いた奇襲と装甲部隊の機動力の発揮で英仏軍の中央を突破し、ベルギー北部に 展開した英仏軍主力部隊、及び独仏国境地帯に構築された要塞群の背後への迅 速な進出による英仏各個撃破を作戦の基本方針に定めた64

対フランス侵攻作戦の最初の作戦計画は、1939年10月19日フラン ツ・ハルダー(Franz Halder)参謀総長によって立案された。これは作戦目的 を英仏軍の撃破と対英侵攻作戦の拠点となるフランス沿岸地域の制圧、及びル ール地方の確保とするものであった。作戦計画の目標は北からB、A、Cの3