桂穴口六
図
108
東楼SB7802から出上 した主要 な斎 串
A2の
出
土
例
第V章
考
察
工具で一方向か ら切断 した ものである。 こうした切断痕 は、製品 として完成 したのちに意図的 に加 えられた ものである。西楼 出土の杭 をみてみると、杭 の中ほ どで切断 している様子が よく
わか る (図版132)。 また、切断痕 は東楼 か ら出土 した ミニチュア建築部材 に も認め られ る (図
108■ 〜14)。 これ らの ミニチェア建築部材 には小木釘痕が確認で きるので、一度 は組み上げ ら れていた もの と理解で きる。
この ように、かつて使用 していた製品にその後意図的に加 えられた切断痕 は、廃棄物 に特有 の痕跡 として理解で きる。つ まり、不要 になった木製品を意図的に壊 して廃棄す る、あるいは 杭 の ように切断 して小 さくす ることで抜取穴 に廃棄で きるように した と推定で きよう。
掘立柱 の抜取穴か ら出土 した状況 と切断痕 をもつ資料があるとい う事実 とを考慮す るな らば、
そこには東西楼の廃絶 に際 して不要 になった木製品 を廃棄 した狽↓面 を見 出す ことがで きる。 し たが って、杭や ミニチュア建築部材 を含め、不明木製品や木端 な ど大多数の木製品 もこうした 廃棄行為 を示す もの と理解で きよう。
祭祀行為
斎 串
A2が
まとまって西楼 か ら出土 したことは、 もっとも特徴 的な現象 の一つであ る。第一次大極殿 院東西楼 では祭祀具 の出土が非常 に少 ないなかで、唯一例外 的にこの斎 串A2の
みが多量 に出上 してい るのであ る。具体 的には、西楼 で は刀子形2点
(図107‑125・ 126)と刀形1点 (図107‑127)が形代 としての可能性があるのみで、一方の東楼で認め られる祭祀具 は人形 ・蔦形・刀形 といった形代が
9点
だけ となる (図1081〜
9)。この斎 串
A2に
ついては、次山淳がすでに検討 を加 えている。次山は斎 串A2と
柱穴 との密接 な関係 を指摘 してお り、 また一遺構 において複数枚の使用 を想定 している。次山の研究は東 院庭園地区の事例 を中心 としているので、新 たに判明 した西楼の斎串 も加 えて再検討 したい。
斎 串
A2は
平城宮 ,京 か らは3地
区8遺
構 か らの出土が確認 されている程度で (表20)、 きわ めて数が少 ない型式の斎 串 といえる。加 えて、斎串A2は
建物跡 にともなう傾向が認め られる。類例が少 ないので断言 は難 しいが、柱 ・礎石の抜取穴や地覆石の抜取溝 など建物の廃絶・解体 時の遺構か ら出土す る事例が多い。ただ し、建物の造営 に関連す る遺構 か ら出土 した事例 もな いわけではない。西楼 の柱掘方か ら出土 した
3例
である。いずれにせ よ、斎 串A2は
柱穴 と密 接 な関係が認め られ、類例の多寡か ら判断すれば、廃絶・解体 との関連性のほうが強い。さらに、 この斎 串
A2は 1棟
の建物か ら複数個体が出土す る傾 向にある。代表的な事例 を挙 げると、西楼SB18500では52点、東院庭 園地区の中央建物SB8490では9点
(『平城報告 』)、 同 地区の建物SB1770からは10点 (前掲書)が
出土 している。 また、平城京左京二条二坊六坪 の建 物SB6545からは50点以上 出土 しているようである (『奈良国立文化財研究所年報1971』)。 この よう に、いずれ も単一型式の斎 串が複数あるいは多量 に出土 していることか ら、斎 串A2は 1棟
の 建物跡 において同種多量の出土傾向が強い といえる。次 に問題 となるのが出土背景である。つ ま り、斎 串
A2を
用いる祭祀行為の性格 である。祭 祀具が多量 に出土 しただけでは、ただちに祭祀行為 を想起す ることは危険である。他所で使用 した祭祀具 をまとめて廃棄 した可能性 も想定 され うるか らである。平城京二条二坊 の濠状遺構 SD5100や SD5300な どか ら出土 した数十点の祭祀具 (『平城京左京二条二坊・三条二坊発掘調査報告』) が、そ うした可能性がある事例であろう。ただ し、西楼 の場合 には、 もう一つ考慮すべ き様相が認め られる。それは、柱抜取穴 イ六 と
9θイ
表
20
平城宮・京 か ら出土 した斎串A2‑覧
遺 跡 名 橋 名 時 期 点 数 参考文献
第一次大極殿院地区 西 楼SB18500 掘立柱抜取穴/掘方 8世紀中葉 52′点 本 書
茶褐色木屑層 整地層 8世紀前葉 占い
東院庭 園地区
中央建物SB8490 礎石抜取穴 8世紀後葉 9点
『平城報告 』
東西棟建物SB17582 ll■立柱穴 8世紀 前葉
占︹
東西オ東建物SB17700 掘 立柱 穴/地覆石抜取溝
/
礎石抜取穴/布掘地業 8世 紀中棄 小占 左京二条二坊六坪
建物SB6545 掘立柱穴
8世
紀 多 数 『η二辛R1971』東西溝SD5100 溝 8世 紀 中葉 ヽ占 F平城左京
二条二坊』
東西溝SD5300 溝 8世 紀中葉 占い
ロー を除 く、すべての柱穴か ら斎串
A2が
出土 している状況である。 このことは、単純 に斎 串A2を
まとめて抜取穴 に廃棄 した とす る想定 を否定 し、む しろその最終的な廃棄 に もある程度 の意図 を読み取 ることを可能 とさせ る。積極 的 に評価す るな らば、西楼の廃絶 ・解体時に斎 串A2を
柱穴 に埋 める祭祀行為 とで もいえよう。 もちろん、抜取穴へ埋 める前 に別の祭祀 を執 り お こなった可能性 は否定で きず、その実態の解 明 も困難である。この ように西楼か ら出上 した斎 串
A2に
ついて祭祀的な側面 を認め うるな らば、柱抜取穴 出 上の斎 串A2は
、建物の廃絶・解体時の祭祀 を示唆す る遺物 として評価することが可能 となろ う。D
斎 串A2を
用 い る 建 物 廃 絶 に と も な う 祭 祀 の 位 置 づ け西楼廃絶時には斎串
A2を
多量に使用する祭祀がおこなわれ、実態は不明であるものの、最 終的には各柱の抜取穴に斎串A2を
埋める祭祀行為 を推定で きた。 しか しなが ら、こうした建 物廃絶にともなう祭祀は一般的ではない。第一次大極殿院の東楼ではこうした祭祀が認め られ ないだけでなく、平城宮・京に視野を広げて もなお、同様の祭祀行為は東院地区や平城京二条 二坊六坪などの数例でしか確認できないのである。また、斎串は主 として井戸や溝などか ら出土する事例が多いことも考慮すると、以下の
3点
か ら西楼の廃絶にかかわる祭祀は特異な事例 と理解できる。すなわち、斎串のなかで斎串A2
が少数派である点、祭祀のなかで建物廃絶にともなう祭祀が数少ない点、建物 とのかかわ りの なかで斎串が用いられている事例が稀である点である。
とはいうものの、平城宮内および宮に近い京域 においてこの種の祭祀が執 りおこわれている 点は評価する必要がある。こうした斎串
A2を
用いた建物廃絶にともなう祭祀行為は、律令祭 祀のなかできちんと位置づけがなされてお り、派生的に執 りおこわれた祭祀ではないといえよう。確認事例は少ないが、奈良時代の中枢である都城でおこわれていた祭祀なのである。
E おわ りに
第一次大極殿院東西楼か ら出土 した木製品の様相 をみてい くなかで、そこには廃棄行為 と祭 祀行為 の両者が認め られることを明 らかに した。 と りわけ、西楼 か ら出土 した52点の斎 串
A2
が建物廃絶・解体時の祭祀 にともなうものであることを再確認 した。その祭祀行為 の実態 を詳 らか にはで きなかったが、同種多量の斎 串 を使用 した祭祀であ り、その最終段階 にはすべ ての 柱穴へ斎 串
A2を
埋 める行為 を推定 した。第V章
考
祭
9)
井戸 な どではその廃絶 時 (埋井
)に
祭祀が執 りお こわれ るこ とは従 来か ら指摘 されているが 建物の廃絶時に ともな う祭祀行為の存在 はこれ まで必ず しも明確 にはされてこなかった。建物 の建築時には地鎮祭祀が執 りお こわれることが明 らかになってい ることとは対照的である。建 物廃絶・解体 に ともな う祭祀の実態 は不明な部分が多 く、 また類例 も乏 しい。建物 にかかわる祭祀行為 は、律令祭祀 として中国 との関係 の なかで検討 を深 めるとともに、
日本国内における通史的な検討 も求め られ よう。直接 的な関係 の有無 は別 として、縄文時代か ら古墳 時代 において、竪穴住居等 の廃絶後 に石器の埋納や火の使用 (鎮火祭祀
)と
いった祭祀10)
行為が確認 されている事例があることは興味深い。
古代の律令祭祀では、井戸祭祀や河川祭祀などさまざまな形態の祭祀が知 られている。本稿 では、こうした律令祭祀の一形態 として、斎串
A2を
用いた建物廃絶時の祭祀 を位置づけるこ とがで きた。ただ し、このような祭祀が東楼では確認できない点や、平城官跡においても数少 ない祭祀形態である点など不明な′点も多ば。また、木製品だけではな く、出土遺物総体か ら祭 祀や廃棄 といった行為 を把握することも肝要である。いずれ も今後の課題である。黒崎
直1977「斎 串考」(『古代研究
J第
10号(財)元 興寺 仏教 民俗 資料研 究所 考古学研 究 室)。
西楼か らもミニチ ュア建築部材 の可能性 をも つ木製品が 1点 出上 している。柱穴ニーか ら の出土 (図107167)で、肘木の形態 に似 る。
ただ し、相欠 き仕 口や斗 を受 ける丸夫キ内穴 な どは認め られない。 ミニチュア肘木 とす るな らば、意図的 に切 断 されたか未製品 と考 えな ければな らない。
木製品の場合 には、埋没環境が遺存 に大 きく 影響す る。
今井晃樹 ほか2009「 東方官衛 地区の調査一第
429。 440次 」(『奈 良文化財研 究所紀 要2009』
奈良文化財研究所)。
破壊行為が廃棄行為 と常 に直結す るわけでは な く、祭祀的な性格 を帯 びる場合 もある。例 えば、弥生時代 や古墳 時代 の事例では、墳丘 墓や古墳 における青銅鏡の破砕行為や土器破 砕供献儀礼 な どは破壊行為 であ る とともに、
祭祀行為 としての側面 を確 か に もつ。 また、
器物 を副葬す る とい う行為 は、究極 的にはそ れ 自身が廃棄行為 である ものの、そ こには強 い祭祀的な性格 をもつ といえる。
次山
淳2007「柱 穴 と斎 串」(『考古学論究―
小笠原好彦先生退任記念論集―」)。
東院地区の東西棟建物SB17700の 布掘地業か ら 1点 出土 している事例がある。 しか しなが ら、下層遺構 が存在す る可能性 も指摘 されて
お り(次山2007)、 地業 か らの出土 とは断定 で きない ようである。 また、第一次大極殿院 西辺の茶褐色 木屑層か らも斎 串
A2が
2点出 上 している。8)注 1)お
よび北 田裕行2000「古代都城 におけ る井戸祭祀」(『考古学研究』第47巻 第 1号 考古学研 究会)。9)注 8)北
田論文お よび鐘方正樹2003『井戸 の 考古学』 同成社 。10)佐野
隆2008「 縄 文 時代 の住居 廃絶 に関 わ る呪術 ・祭 祀 行 為 」(『考古 学 ジ ャー ナ ル』
No 578(株
)ニューサ イエ ンス社)、 西原雄 大2003「 滋 賀 県 の焼 失住居 と弥生 ・古墳 時 代住居 にお け る鎮火祭祀 について」『考古学 ジヤーナルさNo 509(株)ニューサイエ ンス 社)、 近藤広2008「 弥生時代 にお ける柱穴 埋納遺物 について」(『王権 と武器 と信仰』 同 成社)な ど。
11)兵庫 県砂 入 遺跡 (藤田淳編1997『砂 入遺跡』
兵庫県教 育 委員会)・ 同県袴狭遺跡 (鈴木敬 二2000『 袴狭遺跡』兵庫県教育委員会)。 長 野県屋代遺跡群 (澤
昌英 ・寺内貴美子1998
『更埴条里遺跡 ・屋代遺跡群』(財)長野県埋 蔵文化財 セ ンター)などで、溝や土坑 などか ら斎 串
A2が
出土 している。全 目的に出土事 例 を集成 した うえで、地域 的な展 開過程 を検 討す る作業 が必要であろう。それを踏 まえて、律令祭祀 の展 開 と変容 を具体的に明 らかに し てい くことがで きると考 える。
7)
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