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図
110 1期
殿舎地区西半 にお ける丸瓦・平瓦 の出土量丸瓦 ・平瓦 の 出 土 量
総 瓦 葺 説
喜
棟
説
第V章
考
察
次 に、SB17870の柱抜取穴 とその周 辺か ら出土 した九瓦 と平瓦 の出土量 に注 目したい (図 110。 本報告で対象 としているSB17870を 含 む殿舎地区西半全体 (西面築地回廊を除く、以下同様)
においては、九瓦が423 62kg(13kg/100∬)、 平瓦が826 06kg(26kg/100∬
)出
土 している。一方、SB17870周辺 に限定す ると、九瓦が289 5kg(90kg/100∬)、 平瓦が535 04kg(167kg/100∬
)出
土 し てお り、100m2ぁ
た りの重量で比較す ると、SB17870周 辺では殿舎地区西半全体 に対 し、実 に6倍
か ら7倍
の比率で九 ・平瓦が出土 していることになる。 さらに、SB17870の柱抜取穴出土 瓦 に限定す る と、九瓦が241.00kg、 平瓦が456.98kg出土 してお り、殿舎地 区西半全体 の2分
の1を 超 える瓦が、この柱抜取穴か ら集中 して出土 したことがわかる。
この ように、SB17870の 柱抜取穴か らは、
6130B‑6718Aや
丸・平瓦等がかな り集 中 して出土 してお り、特異 な様相 を示す。 これは、 Ⅱ期建物解体時 に、SB17870の柱抜取穴 に瓦が廃棄 さ れた結果 と考 えられ よう。 これ らの瓦が本来、 どの建物 に使用 されていたか を知 るすべ はない が、 もっとも可能性が高いのは、SB17870自 体である。一つの解釈 として、 これ らの瓦の多 く がSB17870に 使用 された ものであ り、SB17870が、6130B6718Aを
軒先 に用いた総瓦葺の建物 であつた可能性が想定で きる。このSB17870は、規模 も大 きく、 Ⅱ期 の主要 な建物の一つである。 しか し、 Ⅱ期の他の主要 建物 と比べ る と、柱穴の大 きさ・深 さ等 はそれほ ど異なった状況ではな く、小澤が指摘す ると お り、著 しい荷重 により柱が沈下 した痕跡 もな く、入念 な根 固め を施 した り礎板 を用いるな ど、
柱 の沈下 に備 えた様子 も認め られない。 また、出土 している
6130B6718Aは
比較的小型の軒 瓦であ り、甍棟 に適 した もの といえる。 したが って、 もう一つの解釈 として、 これ らの瓦 は、SB17870を 含 む周辺の Ⅱ期建物群 に使用 されていた ものが、SB17870の柱抜取穴 に集中的に廃 棄 された ものであ り、SB17870は総瓦葺ではな く、他の Ⅱ期建物群 と同様 に瓦 を多 く使用 しな い屋根、た とえば
6130B6718Aを
甍瓦 に用い、棟 にのみ瓦 を葺 く等、の建物 であった可能性もあろう。
SB6663
掘立柱建物SB6663は、正殿SB7150を 挟 んでSB17870と 対称 の位置 にある建物であ り、遺構 の詳細 についてはすでに『平城報告 』 において報告 されている。 このSB6663の柱抜取 穴や周辺か ら出土 した軒瓦 は きわめて少 な く、わずかに
6133A〜 Cが 3点
、6732A'Cが
16点 出上 しただけである。 この状況 はSB17870の様相 とは大 きく異 なってお り、出土量か ら判断す る限 り、た とえば甍棟以外 に、瓦 を使用 しない ような屋根 を想定すべ きである。ただ し、 この 61336732の セ ッ トは通常 の軒瓦 の大 きさであ り、特 に6732A・ Cに関 しては東大寺 の軒先 を 飾 っていた もの と何 ら遜色 のない大ぶ りな瓦である。 したが って、瓦の形状か ら判断す る と、寛棟 には適 していない ことになる。 さらに、対称の位置 にあるSB17870が総瓦葺 と解釈す るこ ともで きることか ら、 このSB6663も 総瓦葺である可能性 を指摘 してお きたい。
その他の建物
残 り25棟 の建物 に関 しては、全体 の残存状況が よ くないことに加 え、 まとまっ た量の瓦が出土 していない ことか ら、建物周辺か ら出土 した瓦か ら直接、屋根 の復原 にまで踏 み込んだ議論 をす ることは難 しい。正殿であるSB7150に 関 して も、瓦 に関す る情報量が少 な く、
屋根 の状況 については不明 といわざるを得 ない。
ただ し、全体 として瓦の出土量が少 ない ことか ら、瓦の使用量その ものが少なかった と考 え ざるを得 ない。 したが って、少な くともこれ ら建物群 を総瓦葺の屋根 に復原す ることは困難で
,′孝
あり、たとえば甍棟以外に、瓦を使用しないような屋根であったと想定しておく。
D そ の他 の瓦
最後 に、軒瓦以外 の瓦 について も若千の検討 を加 えてお く。
九 ・平瓦や隅木蓋瓦 を除 く道具瓦 は、第一人大極殿 院所用 と考え られるものが ほ とん どであ り、 Ⅱ・Ⅲ期 に新 たに製作 ・供給 された と考 え られ る ものは きわめて少ない。 これは、本来の 使用量が少 なかったか、
I期
の第一次大極殿 院所用瓦 をⅡ・Ⅲ期 に再利用 した可能性 を考 えて お きたい。九 瓦
報告 した丸瓦 は、全体 の出土量 か らすれば ご く一部である。 しか し、第一次大極殿 院 出土の九瓦 は きわめて斉一性が高いため、 これに よって概 ね全体像 を示す ことはで きた と考 え る。す なわち、粘土板 を杵状 の模骨 に巻 き付 けて成形 し、肩部 に粘土 を付加す ることによって 玉縁 部 を作 る。そ して乾燥後 に
2つ
に分割す るが、工具で完全 に半裁せず に一部破面 を残す こ とが多 い。そ して凸面 に横方向のナデ調整 を加 えるが、一部 に縦方向のナデ調整 を加 える もの が あ る。報告文 中の九瓦1〜8(図
版94・95)が
それ に相 当す るが、同様の特徴 を もつ瓦が 出 土丸瓦 の大半 を占めていることか ら、 これ らが第一次大極殿 院創建期の九瓦 と想定 される。なお、九瓦9・ 10(図版96)のように玉縁部が先端 に向か ってす ぼま り、平面形が台形 をな す ものは、奈良時代後半の ものである可能性があ り、 Ⅱ期 の西宮所用瓦であった とみ られ る。
また、凸面 に横方向のハケメ調整 を施す丸瓦13〜16(図版97)は藤原宮で用い られていた もの であろ う。
平 瓦
平瓦 に関 しては全形 を復原で きた もの を中心 に報告 したが、 これ も丸瓦 同様、 きわめ て斉一性 の高い ものである。特 に、平瓦1・
2(図
版99)のような裁頭 円錐形 (台形)の
桶 を用 いた粘土板桶巻 き作 りの ものが大半 を占める。 また、平瓦3・4(図
版100)は 円筒形 (長方形) の桶 を用いているが、それ以外 は平瓦1・ 2と 比べ て技法的な差異がほとん どない。 したが っ て、 これ らの特徴 をもつ瓦 は第一次大極殿院創建期 の平瓦 と考 えられる。このほか、恭仁宮で用い られた平瓦である平瓦
4や
、一枚作 りの平瓦8(図
版102)な どが あ るが、 この種の平瓦 は全体 として少数である。特 に、一枚作 りの平瓦 はⅡ期所用 の もの と想定 されるが、軒瓦の出土量 と比較 して も、その数 は きわめて少 ない。また、特殊 な平瓦 として大型で厚手の平瓦が相 当数 出土 している (平瓦5〜7)。 その一部 に は、平瓦
7(図
版102)の ように両面 に縄 叩 きの痕跡があ り、兵部省 な どか らの出土品に類例 が あ る (『平城報告 』)。 しか し、 これ らの平瓦 に組 み合 うような九瓦や、軒九瓦・軒平瓦 は確 認 されていない。なお、平瓦6(図
版101)に は、凸面の側縁寄 りの付近のみに、側面 に平行 して 色調 の異 なる部分があ り、風蝕痕 とみ られることか ら、肌憂斗 として使用 された可能性が指摘 されている (『平城宮第一次大極殿の復原に関する研究Ⅳ瓦・屋根』)。 この種の平瓦 の用途 を考 え る手がか りとなろう。
鬼 瓦
前述 したように、第一次大極殿 院地区か らは平城宮式鬼瓦 I ttAだ けが 出土 している。
これは平城宮 にお ける最古型式であ るため、 これ らの鬼瓦 はいずれ も第一次大極殿 院の創建 期 、す なわち
I‑1期
に用い られた と考 えられる。本報告では6点
を報告 している (図版104)が
、 現状 で第一次大極殿 院地区全体か ら15点出土 してい る。 これ らは回廊 の四隅や南 門SB7801、創 建 期 の 丸
瓦 奈 良時代後 半 の 丸 瓦
一 枚 作 り
大型 で厚手
第V章
考
察
後殿SB8120、 あるいは東西楼 に も使用 されていた可能性があろ う。 ただ し、正殿SB7200につ いては、大棟 に鬼瓦ではな く、金属製の鴎尾が用い られた可能性が指摘 されている (『平城報告
J)。
隅木蓋瓦
これ まで第一次大極殿 院地区では東西楼周辺 に限って出土 している。東楼 出上のも のには背稜がないのに対 し、西楼 出上の ものには背稜がつ くなど、使用 される場所が限定 され ているに もかかわ らず型式差がみ られ、形状や製作技法 にもい くつかのヴアリエーシ ョンがみ
とめ られる。
なお、薬師寺か らは
Al型
式が出土 しているが、文様 ・技法 ともに第一次大極殿 院の もの と 類似 しているため、両者 はほぼ同 じ年代 に属す るもの と判断で きる。 ただ し、薬師寺 出土品に 関 しては、 どの建物 に使用 されていたか明 らかではない。画戸瓦
面戸瓦 (図版106)は、一部 に鰹面戸か と思われる破片 もあるが (面戸瓦5)、 ほぼすべ てが蟹面戸である。 また、蟹面戸 も被せ面戸の
I類
と逆台形の Ⅱ類が存在 している。I類
・Ⅱ 類 ともに技法的にはほ とん ど差異がないため、基本的には同時期 の もの とみな して差 し支えな く、いずれ も第一次大極殿 院創建期の もの と考 え られる。ただ し、I類
とⅡ類では高 さが大 き く異 なるため、両者が 同 じ建物 に用い られていた とは考 えに くい。興斗瓦
切憂半瓦 (図版107)は、おそ ら くは平瓦1〜 4を焼成前 に加工す るこ とに よって成 形 していた と考 え られ る。幅が
10cm程
度の もの もあれば、18cm程
度 の幅広 の もの もあるが、15cm程
度の ものが一般 的である。 また既述の ように、成形技法 の違 いか らI類
とⅡ類 に区分 され、概 ねI類
が主体 をなす。ただ し、用 いている平瓦 に さほ ど型式差が認め られないため、基本的には
I類
・ Ⅱ類 ともに同時期の もので、第一次大極殿 院創建期 に用い られた ものと考え られる。1)小
澤毅2003「 平城宮 中央 区大極殿地域の建 築平面」(『日本古代宮都構造の研究』青木書 店)。
京都府教 育委員会1984「恭仁宮跡発掘調査報 告
瓦編』。
前掲注l。
,′び
5土 器
A「 茶褐色木屑層・炭層」出土の土器群
佐紀池南辺では、第一次大極殿 院西辺整地土
(I‑2期 )の
直下 に上位か ら「戊層」、「茶褐色 木屑層」 とい う土層が堆積 している。第177次調査 では、炭層か ら養老6年
(722)、 茶褐色木 屑層か ら和銅4年
(711)〜養老5年
(721)の紀年銘木簡が出土 してお り、2つの土層間に大 き な時間的隔た りはない。 したがって、 これ らとともに出土 した土器 には、木簡 に記 された年紀 か らお よそ養老年間 (717〜722)の年代が与 えられ よう。ところで 『昭和62年度概報』では、土器群 について「養老
6年
を下限 とす る第1次
整地土最 下層の暗茶褐粘質上、木屑 ・炭層か ら、平城宮土器 Ⅱの多種多様 な土器が まとまって出上 した。」と記 してお り、以来 この土器群 は平城宮土器 Ⅱの基準資料 と目されている。 なお、『平城報告
』 に掲載の編年表 (P375)における「溝状土坑SD12965」 は今 回報告の「茶掲色木屑層・炭 層」 と同一で、F平城報告X41』 で「整地土 (木屑炭層)」 と訂正 を受けている (P122)。 したが って、
本書で記載 した東西溝SD12965は、F平城報告 』における「溝状土坑SD12965」 とは同一の遺構・
土層ではない。
茶褐色木屑層 と炭層 とで土師器 ・須恵器の構成比 をとると、前者では土師器が35個体 (443%) に姑 し須恵器44個体 (557%)、 同様 に後者では57個体 (648%)・ 31個体
(352%)と
な り、茶褐 色木屑層で須恵器の比率が高い。ただ し、茶褐色木屑層出土の土師器 は須恵器 に比 して細片化 してお り、 このため土師器の個体数 を茶褐色木屑層で小 さ く見積 もった可能性がある。 ともあ れ、 ここで土師器の構成 を層別 にみると、茶褐色木屑層 と炭層 とで供膳具 と煮炊具、貯蔵具 と の比 はほ とん ど同 じであるが、杯Cや皿類 は茶褐色木屑層で欠落す る。 また須恵器 は、茶褐色 木屑層では供膳具が72,70/Oを占めるのに対 し、炭層では613%と
やや低 く、代 わ りに甕 な ど貯 蔵具の割合が高い (387%)。この ように、茶褐色木屑層 と炭層では土師器 と須恵器の比率が異 なってお り、 また須恵器の 器種構成 に も若千の違いがある。茶褐色木屑層 ・茶掲色粘質土 と炭層 との間には、層相 の違い か ら考 えて も、堆積 の間隙が あった可能性がある。 この場合、それぞれの土層か ら出土 した 土器群が、廃棄の タイ ミングを異 に していることが一応推定で きよう。 しか しなが ら、茶褐色 木屑層 と炭層 との間で土器片の接合 関係 (須恵器杯B蓋など)、 同一個体 の共有関係 (土師器壺A) が認め られ るとい う事実 は、2つの土層間である程度資料 の混治があった ことを示 している。
茶褐色木屑層お よび炭層出土の土器 を記載す るにあた り、両者の区別 を避けたのは、木簡の年 紀か らは両層の堆積 間隙がかな り短い と一応推測で きることと、両層間でこうした接合関係 を 認めたか らであるが、 ここでは両者の細分可能性 を探 ることに したい。以下、土師器食器類 を 中心 に、茶褐色木屑層お よび庚層の上器 を概観 してみ よう。
土師器杯
Aは
、茶褐色木屑層 ・茶褐色粘質土で11個体 を数 える。暗文構成が明 らかな10個体 の うち、深い タイプ (器高43〜4 6cm)には2段
斜放射暗文 を (3個 体)、 浅い タイプ (器高34〜4 1cm)に は
1段
斜放射暗文 十連弧暗文 十螺旋暗文 を施 している (6個 体)。 1段斜放射暗文 十螺土 師 器・
須 恵 器 の 構