以上は全学レベルの課外活動であるが、各学部も当該学部学生の課外活動を認定し、指 導する仕組みになっていた。
自治会活動
金沢大学発足後の10年間、つまり1949(昭和24)年から50年代末にかけては、戦後復 興期から高度成長期の入り口に差しかかろうとする時代にあたる。これまで本節で述べて きたように、この草創期の学生たちは経済的な困難を抱えながらも、勉学への意欲に燃え、
課外活動も積極的に繰り広げた。しかし、彼らは同時に、激動する国際社会・日本社会・
地域社会に生起する様々な諸問題や諸矛盾を真正面からとらえ、また、大学コミュニティ の一員であることの自覚と責務に駆られ、その結果、学生間の主体的な交流を盛んに行う とともに、政治的な意識と行動を先鋭化させていった。新制大学発足以降の学生の民主化 運動については、第6章で詳しく述べられる。ここでは、初期の自治会活動の一部につい て簡単に触れておく。
1949年12月に、参加人員420名をもって学生大会が開かれ、金沢大学一般教養部学生 自治会が組織された。その後、数年のうちに、各学部にも自治会が結成されていった。
教養部と各学部の自治会は文化的行事や様々な体育の催しを繰り広げた。教育学部では サマースクールの開設・運動会、医学部では運動会や4年ごとの医学展の開催、薬学部・
理学部・法文学部系の教養部等も年に1回は運動会・球技大会等の行事を催し、学生の交 流に資した。このうち、サマースクールとは、夏休み中の児童生徒の学習指導と教育学部 学生の教育実習をかねた教育学部自治会主催の塾であった。53年のサマースクールは教育 学部と同附属小学校の2会場が設けられ、参加の児童生徒は小中学校1,300名に及び、講 師は教育学部学生80人が担当した。2週間にわたる授業は30学級に分かれ、1学級を2
〜3人が担当した(『北国新聞』1953年7月26日)。
「薬学部部局史」には、自治会による新聞や雑誌の発行が詳しく紹介されている。ガリ 版の新聞『やくがく』に続いて、1954年からは『金沢大学薬学生新聞』が年数回発行さ れた。さらに、56年からは、薬学生新聞の別刷り特集号という形で、学生自治会機関誌
『どくにんじん』が出されるようになった。毎号、各クラスの学生委員が中心となって多彩 な内容の特集が組まれ、広く愛読された。
設け、学生アルバイトの紹介に力を入れた。
しかし、勉学とアルバイトの両立は、経済の思わしくなかった当時の社会ではかなり困 難であった。1950(昭和25)年3月の新聞報道によると、自治会の話として、本学学生 でアルバイトに従事する者は2割余りの180名、勉学しながら仕事ができる家庭教師・軽 労働・事務的仕事(週3〜4回勤務で、月1,000〜1,500円)という最高条件のアルバイ トを得ている者はそのうちの2割にも達していなかった(『北国新聞』1950年3月12日)。
一方、金沢大学厚生部の調べによると、求職学生は760名で、そのうち職を得た者は478 名となっている(同7月8日)。いずれにしろ、アルバイトに就けない者、就くことができ ても労働条件のよくない者が相当数いたことは間違いなかった。
当初、学生職業斡旋部は「無料職業紹介事業届書」を労働大臣に提出し、各方面と提携 しながら、希望学生を斡旋していたが、1951年に職業安定法に基づく就職斡旋機関とし て法的に認定されるにいたった。それ以後、学校教育の一環として、卒業生の就職斡旋と 並行して、アルバイトの斡旋に力を注ぎ、かなりの好成績を上げるようになった。たとえ ば、夏季休業中に県税務課で多数の学生アルバイトを採用してもらうなどの工夫もなされた。
1952年ごろのアルバイトの日給はだいたい200円から250円程度であったが(表4−12
参照)、1957年ごろには平均で250円、最高で600円程度と増大した(『金沢大学事務通報』
第8巻第2号、1957年2月)。
表4−12 アルバイト紹介状況(1951年1月〜52年10月)
家 庭 教 師
外 交 物 品 販 売 等 事務補助(筆耕等)
調査員(世論調査等)
ポ ス タ ー 貼 工 場 雑 役 運 搬 軽 労 働 ( 土 工 ) 新 聞 そ の 他 配 達
店 員
整 理 員 、 看 視 員 技術(医療、測量、製図)
1
2 3
24
29
1951年度紹介の分
合 計 常 用 日 雇
2
1
40
41 3
3
5 5
3 38 42
20 2 3 115
4 4
12 54 1 13 9 21
1 4 111
5 3
3 1
9 22
21
3 56
6
5
4 4
20
21 26
80 7
8
30 6 3 12
25 32
2 1 17 6 41 101
8 2
17 22 15 3 13
12 2 4 82
9 1
3 1
42
14
1 2 60
10 2
6 3 2 22
20
4 10 2 67
11 1
8 7 12 2
21
32 1 82
12 5
13 5
8 12
17
8
5 63
計 29
76 7 70 101 29 131 25 75 240 2 1 82 2 78 65 887
1 5
60
4
5 64
2 4
35
10
1 1
32 15 68
3 3
30 170 26
5 36 7 37 66
8 15 373
4 3 30
13 85 18
1
32
4 178
5 4
21 8
8 7
40 12
4 96
6 3
46
8 2
1
10 4 66
7 9
39 87 48
6 62 1 10
3 24 43 7 40 107 272
8
28 3
20
6 6
63 9
1
46
9
10 46
10 4
6 6
30
48 4 90
計 36
120 87 395 75 41 24 222 8 65 2 67 4 94 93 7 144 168 1,316
平均収入
(月収)
1,500円
(日給)
150●
( 〃 ) 200●
( 〃 ) 220●
( 〃 ) 200●
( 〃 ) 230●
( 〃 ) 250●
月収 2,500●
(日給)
180●
( 〃 ) 200●
( 〃 ) 250●
(月収)
2,000●
(日給)
200●
1952年紹介の分 職種
区分 月
注1)出所:『金沢大学事務通報』第3巻第12号
2)太字は1ヵ月以上の従事者を示し、細字は日雇で延人数を示す。
初期の女子学生 鶴羽伸子(法文学部第2回卒業生)
金沢大学の開学は1949(昭和24)年。1期の法文学部の女子学生は、定員300名中わ ずか4名であった。
それまで日本には日本女子大や東京女子大と呼ばれる学校はあったが、いずれも正式に は専門学校で、国立の大学教育は、東北帝大を除けば、女子に門を開いていなかった。女が 男と同様に大学教育を受けられるようになったのは、新制大学がスタートしてからである。
開学の時、法文学部に4名の女子が合格したことは珍らしいニュースとして扱われ、「北 国新聞」は4名の顔写真をのせてその入学を報じた。その時高校3年生だった私は、女子 が男子と並んで受験に成功するにはどうしたらよいかを、その一人の勉強方法と共に教え られたのを覚えている。とにかく、半世紀前の日本の大学は男の城で、そこへ女が入りこ むのは容易なことではなかったのだ。中等教育のカリキュラムは男子校と女子校ではちが っていた。女子校では、英、数、国の時間数が少なく、代りに料理、裁縫等の家庭科の時 間数が多かった。だから受験には極めて不利であったのである。
1950年に入学した私たち女子学生の数は1期生の倍にふえて8名であった。それでも 6クラスに分けられると、50名中2〜3名であった。学校側は女子1名というクラスを作 らないように、2〜3名かためてくれたらしく、従って女子のいないクラスもあった。基 礎学力に乏しい私たちは高2で新制高校に編入して以来、大学でも、英、数の学力不足に は悩み続けた。
金沢大学は金沢城跡で開校した。金沢城が明治の版籍奉還で国のものになり、九師団が 置かれ、それが1945年の終戦で、進駐軍の手に移り、1949年には金沢大学のキャンパス になったのである。外から見ると石川門のあたりは確かに城に見えた。しかし中は木造の 兵舎で、教室はそれを改装したもの。にわか造りの女子用トイレは巨大な穴の上に板をの せた代物で、下をのぞくとこわかった。重営倉(軍の監獄)がどこそこにあるとか、三十 三間長屋(当時は図書館付属の書庫)へ行く時に渡る橋の下のから堀には、直径10センチ の大蛇が住みついているとか、噂はいろいろあったがこわがりの私はどちらにも近づかな かった。だから見ていない。
大学側は初めて受け入れた女子学生にいろいろ気をつかってくれて、女子学生控室とい う部屋を教養部にもうけてくれた。鏡をつけてくれたが、誰かがそこでお化粧をしていた 姿を見たことはなかった。今とちがって全くノーメイクの人が多かったし、口紅一本で用 は足りていたのだ。花びんに花を活けてくれたのも職員のほうで、女子学生ではなかった。
旧制の男子学生ばかりを見なれていた教師の側にもとまどいがあり、女子学生を指名して 答えさせる時、教壇で顔を赤らめる若い先生もいた。女子は集団で移動することが多かっ
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❖❖❖❖❖❖❖❖ 想い出の記 ❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖
た。そういう時廊下ですれちがう男子学生のほうが身を引く場合が多かった。
その頃「北国文華」という地方には珍しい一種の総合雑誌があり、独文の小松伸六教授 が編集をしておられた。その方の依頼で平井和子さん(2期生)が代表のような形で「女 子学生の記」という文章を書いた。それが出版されると評判になり、私は中身もよく覚え ていないのだが、その記述に男子学生を侮辱した箇所があると言って怒った学生が文句を 言いに来たこともあった。
試験が近づくと、範囲をまけてもらう交渉によく女子学生が使われた。3分の2とか半 分にまけさせるのである。今思うとよくもまあそんなバカなことをしたものだとあきれる が、先生方はいく分かは範囲を縮めて下さった。法文にはレクリェーション用のピンポン 室があり、昼休みには老教授が相手を捜しに女子学生控室に来られた。30分ほどのピンポ ンは私たちにとってもたのしい運動であった。冬にはお若い先生方と白山麓へスキーに出 かけた。
シニヤーコースへ入ると8名は殆どバラバラになった。1期の4名は1名が独文に進ん だ外はみな法科へ行ったが、2期生は法科が2名、あと6名は文科へ進んだ。私はあまり 勉強はしなかったが本はよく読んだ。服装は自由だったが、男子はつめ衿の学生服に半分 ほどは角帽をかぶっていただろうか。女子は、スカートにブラウス、冬にはカーディガン かセーターで、衿に校章をつけていたと思う。真冬は寒いのでオーバーを着たまま授業を うけた。
あっと言う間に4年が過ぎた。就職難の時代で女子のほとんどは教員採用試験を受けて 教職についた。当時も大学院へ進む、あるいは助手になる道はあったのだが、ある先生は
「私大は別として日本の国立大学では外国での学位と女子のファカルティメンバーは認めま せんから、むだです。早く出て外で就職しなさい」と言った。今なら大変な差別発言だが、
その頃はそんなものかなあと思っていた。今の金沢大学には多くの女性教授がおられると 聞くが。
軍隊の酒保のあとが学生食堂になっていた。すうどん5円、定食15円、特食25円だっ た。牛乳とパンですます人も多かった。雪の降る中、戸外の洗濯場で洗っている寮生の、
赤くかじかんだ手が今もなぜか脳裏に焼きついている。下宿代は2食付で3千円ぐらいだ ったのではなかろうか。女子は殆どが間借りで自炊していた。
1954年に卒業すると私はすぐ上京した。その資金にと広坂の古本屋へ和独大辞典を売 りに行った。本屋のオジサンは眼鏡の奥からじろりと私を見て、「書生さん、辞書は売るも んじゃない。1カ月は置いとくから、いつでもとりにおいで」と言ってくれた。手許にな いところを見ると私は行かなかったのだろう。オジサンの期待を裏切って悪いことをした。