• 検索結果がありません。

(4)厚生施設等の整備

ドキュメント内 新制金沢大学の発足新制金沢大学の発足 (ページ 62-65)

等に寄与することを目的とする」とうたわれている。日本育英会は国費をもって運用され、

給与制ではなく、貸与制を原則とする。

新制大学が創立された1949年度の日本育英会の一人あたり貸与額は月1,800円であっ た。ちなみに、旧制大学と医学実地修練生は2,100円であった。

本学発足後10年間の日本育英会事業の実績を表4−9に掲げる。医学部をのぞく完成年 度である1952度以降は、年度によって若干の変動はあるものの、出願者数・採用者数と もにおおむね安定的に推移した。10年間の年平均では、毎年度在籍者の約36%が出願し、

その約52%が採用された。各学部に専攻科、医学部に大学院博士課程が設置されると、専 攻生・大学院生も育英会奨学事業の対象者に加えられた。

日本育英会の他にも、地方自治体、公共団体、民間団体が本学学生に対する奨学援助を 提供している。『金沢大学十年史』によると、1959年12月にその数は18にのぼった(金 沢市・石川県・石川県内灘村・石川県山中町・石川県新家・富山県・富山県母子福祉会・

富山県上市町・富山相互銀行・福井県勝山市・岐阜県・三重県・大阪府・堺市・山口県・

北海道赤平市・郵政弘済会・鉄道弘済会)。以上の団体による奨学生の累計は271名である。

1956年、育英会友の会が創立された。これは日本育英会の奨学生であった者たちのい わば同窓会的な組織であり、会員相互の親睦・後輩援助・育英事業への協力等を目的とす る団体である。57年には、本学・金沢美術大学・金沢女子短期大学・北陸学院保育短期大 学、それに県下各高等学校出身の旧奨学生からなる育英友の会石川支部が結成された。

大学が1946年に譲り受け、2年後に泉学寮と命名し金沢大学に引き継いだ。新築がなっ たのは65年である。以上はいずれも男子寮である。

唯一の女子寮である白梅寮は、もとは石川師範学校女子寄宿舎であった。1927年に命名 され、大学発足と同時に移管された。金沢市広坂にあったが、64年に金沢市泉野町に移った。

『金沢大学十年史』の「寄宿舎概況」によると、食費(2食)・寄宿寮・その他を合わ せた寮費は月額で、寮平均2,090円であった(表4−10)。ちなみに、1955年ごろの下 宿代は1カ月およそ4,500円から5,000円であった。

尾山会館、ホール

本学創設と同時に、学生教職員の福利増進のために学内に尾山会館が設けられた。会館 には食堂と理髪部があり、ほかにも学用品や日用品の販売修理、たばこ・郵便切手類・帽 子・徽章等の販売も行われた。

尾山会館を運営したのは金沢大学共済会であった。1950(昭和25)年春に共済会が新 入生向けに出したチラシには、「取り扱い品は一般の市価より、少なくとも3割乃至4割は 低廉になっております」と書かれている。共済会はそれまで食堂を営んでいた業者が撤退 することとなり、54年1月に解散した。同年2月からは学生部の直轄として、別の業者に 新たに委託経営させることとなった。56年、尾山食堂2階に学生団体部室が設けられ、文 化系の10団体がそこに入った(放送研究会・新聞会・学生学力指導会・中国語研究会・児 童文化部・管弦楽団・合唱団・映画研究会・歌う会)。

1953年、旧歩兵第七連隊の建物が改装され、大ホールと小ホールが造られた。大ホー ルは学生の休憩・集会・講演会等に利用され、小ホールは小集会や懇談会等に利用された。

同年2月の金沢大学補導協議会の議事録には、学生ホールの管理と運営にからんで「学内

寮 生 定 員 ( 名 ) 寮 職 員 数 ( 名 )

表4−10 寄宿舎概況 北溟寮

金沢市 弥生町ネ2

240 11 2,700 1,374.5

80 600 116 71.5 14 1,800 100 300 2,200

注)出所:『金沢大学十年史』

敷  地(坪)

延 建 坪(坪)

寮生居室(数)

寮生居室(坪)

食堂、調理場(坪)

娯楽室、集会室(坪)

管理室(坪)

食費(2食)月額 寄宿料 〃 その他 〃

北斗寮

金沢市 野田町チ180

50 4 390 358 28 160 67.5

7.5 11 1,650 100 200 1,950

泉学寮

金沢市 泉本町ヌ51

60 4 1,787 404 23 164 25 6 16.5 2,100

100 140 2,340

白梅寮

金沢市 広坂通88

80 5 800 613 18 243 123 24 23 1,500 100 270 1,870

430 24 5,677 2,749.5

149 1,167 331.5 109

64.5

におけるダンス・パーテーは従来通り許可しない方針をとることに決定」という一文が見 られ、当時の世相を感じさせる。54年には学生小ホールに喫茶部が設けられた。尾山会 館・ホールともに厚生課が運営した。

なお、1953年3月の「医学部学生食堂案内」が金沢大学入試関係資料のなかにファイ ルされており、当時の食糧事情を物語るものとして興味深い。主食を3食とも食堂で利用 し、「配給通帳」を食堂に置く者は1日37円であった(夕食にはみそ汁が付く)。主食の随 意利用者は米を持参し、相当分の食券と交換する仕組みであった。副食は各自適当に購入 とあり、メニューとしてはトンカツ25円・刺身20円・煮肉20円・焼魚15円・おつゆ5円 などがあった。

保健施設

1949(昭和24)年8月の第1回金沢大学補導協議会では、「一般教養部に所属の医務室 を設置し、校医を置くこと。附属病院内に中央健康相談所を設けること」が申し合わされ た。また、50年6月の臨時協議会では、附属病院長が学生に対して、診察料を無料、入院 料(三等)を半額、手術代および治療代を半額とする便宜をはかると報告した。これらがど の程度まで措置されたか不明であるが、51年に学生教職員の保健衛生と健康管理を目的とす る保健診療所が開設されたことが、本学における本格的な保健施設運営の第一歩となった。

保健診療所は定期的な健康診断と日常的な健康相談・救急治療・診療を業務とする施設 であった。1952年までに、内科・歯科・眼科・耳鼻科・外科・泌尿器科の校医がそれぞれ 依嘱された。53年には、レントゲン機械が設置され、附属病院から派遣された技術員が撮 影を実施することとなった。さらに、54年、内科医1名が専属となり、職員家族の利用も 認定された。55年には、国家公務員共済組合員証に基づく診療が可能となった。

また、1952年の『事務通報』第3巻第11号には、学生診察券制度についての記述があ る。これは学生の厚生・保健・福祉のために、学生診療券を学生部厚生課保健係で発行し、

医学部附属病院と結核研究所診療部においてのみそれを適用するという制度である。診療 券の有効期限は3カ月で、診療料金の割引率は半額である。52年5〜10月の半年間で、

この診療券を利用して行われた診療は758件にものぼった。

このように、保健制度は多面的に充実していったのだが、その後、転機が訪れた。すな わち、1958年に新国家公務員共済法が公布され、診療報酬手続きが改正されたことから、

診療業務を継続することが困難となった。また、経理上に多くの「疑点」も見つかり、同 年10月に診療業務が停止された(『金沢大学十年史』)。その後、保健診療所は、健康診 断・健康相談・救急処置の業務のみに従事することとなった。

なお、1958年4月、長年の懸案であった学生健康保険組合が多くの要望を受けて発足、

学生の共助共済が開始された。これは学生の健康管理に重要な役割を発揮することとなっ た。保険料は年間800円で、原則として入学時に3,600円を一括納入する規程であった。

1958年度の学生健康保険組合加入率は92%にのぼる。

ドキュメント内 新制金沢大学の発足新制金沢大学の発足 (ページ 62-65)

関連したドキュメント