• 検索結果がありません。

(2)地域交流

ドキュメント内 新制金沢大学の発足新制金沢大学の発足 (ページ 83-88)

北陸地域

北陸経済調査会の活動 金沢大学が金沢市および石川県の経済に果たす役割に対する期待 と現実の影響力は決して軽微なものではない。

1963(昭和38)年、石川県に北陸経済調査会が設立されたが、当該調査会は金沢経済 同友会代表八田恒平、石川県知事中西陽一、金沢大学法文学部助教授宮本憲一らが、経済 諸団体・自治体・大学の産官学三者協力の下に「健全な地域経済社会の発展」を目指し、

そのための「基礎的調査研究と科学的・総合的解明」を推進しようとしたものだった。こ のような事情から、金沢大学からは法文学部とりわけ後の経済学部の教官が積極的に参加 したが、結果としては現在に至るまで地域政策のシンクタンク的な役割を果たしてきてい るとも言える。

ちなみに、当該調査会の刊行物を見ると、『石川県における若年労働力動態分析』

(1964年)、『都市交通問題解決の為に―金沢60万都市構想―』(1968年)、『北陸の主要企 業における今後の企業動向調査』(1977年)、『高齢者の雇用に関する調査報告書』(1985 年)、『先端技術と地域経済の活性化に関する調査報告書』(1995年)などがある。

市民向け教育 1963年7月、東海北陸地区社会教育主事講習会が金沢大学教育学部を会 場に開講した。同講習会は文部省が社会教育主事となるべき人に必要な専門知識技能を修 得させ、社会教育主事となれる資格を与えようというものであり、同講習会主任には教育 学部大平勝馬教授があたり、教育学部教官らが講義を行った。

また、1968年5〜6月には、石川県社会教育センターが5回にわたり、国際理解のた めの文化講座を無料で開いたが、このうち、金沢大学からは、法文学部の大沢衛学部長

(「英米紀行」)、藤田久一講師(「フランス人の生活と社会」)、橋本芳契助教授(「東南アジ ア、インド、ネパールをめぐって」)の3名が講義を行った。なお、同年8〜9月の1カ月 間、金沢大学で文部省との共催で一般社会人を対象とした開放講座を無料で開いた。講師 は、法文学部の教官があたり、経済学や法学の基礎的な教養を中心に講義が行われた。

大学教育開放センターの発足 国立学校設置法施行細則第20条の3に基づき、1976(昭 和51)年に全学的な学内施設として大学教育開放センターが設立された。同センターの目 的は、大学の教育機能を広く市民に開放することにあるが、これは、単に文部省などから の要請によって突然登場したというよりも、前記のような活動の延長線上にあったと言え る。ちなみに、1976年は、公開講座14・特別講演会2・市町村との共催による講座19が設

けられ、受講者数は合計で3,301人にも及び、市民の関心の高さが窺い知ることができる。

環日本海地域

日本海域総合研究所の発足 1966(昭和41)年4月、未開拓の日本海域一帯の自然・社 会・人文のあらゆる分野を総合的に研究することを目指して日本海域総合研究所を設置す ること、そして、そのための日本海域総合研究所設置委員が金沢大学評議委員会で決めら れ、まず研究機関としての組織づくりから着手することになった。当該研究所の委員は、

法文学部・理学部・薬学部・教育学部・工学部・医学部・教養部からそれぞれ1〜3人の 教授・助教授の計18人が選出され、委員会長には石橋学長があたることになった。すでに 理学部では、日本海側にある大学の研究者も加わって「日本海域放射性物質の循環と蓄積 に関する調査と研究」「日本海域の地理的特質に関する総合研究」が文部省の指定を受けて 同年から始まっており(3年計画)、法文学部でも、機関研究として日本海周辺の歴史的・

社会的・経済的調査を進めることになった。こうした構想に対して、地元の石川県や産業 界の期待は大きく、中西県知事からも県の立場から積極的に協力したい旨の表明があった。

なお、日本海域総合研究所の設置へ向けた動きは、ソ連のシベリア開発の進展に伴い、

ソ連との交流が盛んになる一方、韓国との国交正常化(1965年の日韓基本条約締結)に よる経済交流や中国(中華人民共和国)との経済交流も上昇の傾向にあるという状況判断 も背景もあったと思われる。

こうして、1967年7月、学内の研究組織として、日本海とその周縁地域に関する基礎 的・総合的な学術研究を進めるために日本海域研究所が発足した。しかし、資金的基礎が 弱く、多難なスタートとなった。

6 昭和天皇の来学

1958(昭和33)年10月22日午後、昭和天皇・皇后は特別列車で富山県側より石川県に 入られ、26日までの5日間紅葉の始まった能登路から金沢を旅行された。皇太子妃の選考 の報道が漏れ始めて、いわゆる「ミッチーブーム」直前の時期であったが、一方前日の21 日には兼六公園に3,000人を集めた社会党・共産党共催の警職法改正反対県民集会が開催 されるなど、安保直前の緊張した雰囲気が漂い始めた時でもあった。新聞では戦前期とは 異なった「人間天皇」の行動が報道され、それは「おふろのお好きな陛下」「加賀米に食事 もすすまれる」等という見出しとなってあらわれた。

金沢大学の訪問行事は分刻みの日程作成で、受入側は気苦労の多い緊張した対応を求め られた。後に大学が整理した『行幸啓記録』という分厚い資料が残されているが、それを ひもといてゆくと、一部には「戦前並」の受け入れ準備ぶりがうかがえる。

資料は8月21日石川県秘書課と大学事務局との協議から始まっている。金沢大学評議会 では、これより早く8月13日に急遽会議が召集され、「天皇陛下の行幸」の説明が事務局 長よりなされ、「天覧に供するものがあれば各学部で検討の上、題目」を翌14日までに事 務局宛提出することなどが確認されている。その後戸田学長を委員長とする「行幸啓奉迎 委員会」が設置され、9月中旬には「金沢大学行幸啓次第書」(いわゆる日程計画)なるも のが確定している。これには、大きなマル秘の印が押してある。

この「次第書」によると「行幸啓先」は金沢大学医学部で、先導者は戸田学長、医学部 玄関への昭和天皇の到着時間は10月24日15時45分。以下時間をおってみると、同46分奏 上室入室、2分間戸田学長の金沢大学説明、1分後天覧室に移動、15時49分から16時14 分までの25分間にわたって研究・標本の説明、16時14分に車に乗車、同15分に医学部玄 関を発車という計画である。

次に研究・標本説明者であるが、これは当日には変更されたようだが、ここでは当初の 計画を掲げておこう。

1.梅毒スピロヘータの凝集反応 教  授 谷 友次

2.泉 熱 名誉教授 泉 仙助   教  授 本陣良平 

教  授 石川太刀雄丸

3.神経系の構造と動き 教  授 本陣良平   教  授 石川太刀雄丸 教  授 卜部美代志  教  授 高瀬武平 教  授 川村太郎   教  授 岡本 肇 4.金沢大学医学部薬理学教室 教  授 岡本 肇   教  授 柿下政道 教  授 伊藤 亮   教  授 越村三郎

5.アツオトメトリー 名誉教授 岩崎 憲

6.理学部動物学教室標本 教  授 熊野正雄 7.理学部植物学教室標本 教  授 正宗巌敬 8.理学部地質学教室標本 教  授 市川 渡

以上は、評議会の求めに応じて学部側から提出された「天覧題目」であったのだろう。

これらは昭和天皇の関心と一致したところのいずれも自然科学分野の研究で、しかも当時 の金沢大学の研究水準を示す代表的研究者が顔を並べている。

その後、金沢大学としての対応計画にいくつか追加変更がなされた。10月11日付の石 川県知事田谷充実の戸田学長宛書状によると、10月25日10時40分より昭和天皇宿泊先の 湯涌温泉白雲楼において、熊野正雄理学部教授・市川渡同教授の2名各10分間「御進講を お許しになる」ので準備願いたい等と書かれている。

ところで、その後の準備過程では実に細かい部分にまで注意が伝達され、また大学から 様々な質問が主として石川県宛に出された。そうした個所に「戦前並」を感じさせる部分

があるので、一部を紹介しておくことにしよう。

石川県知事名で「御視察箇所心得事項」なる文書が保存されているので、そのいくつか をピックアップする。「御先導者の服装は平服で結構だが、出来ればモーニングを着用する こと」「御先導は天皇陛下の前方1.5〜2米のところを御先導すること」「奏上室に入る場 合には必ず侍従から呼ばれてから入ること」「御着、御発のときに『君が代』の放送を行う と特によい」等々。大学からは石川県宛に照会した事項も残されていて、例えば「『天覧』

写真4−3 昭和天皇・皇后と戸田学長

写真4−4 昭和天皇と顕微鏡

の文字又は言葉を使うの可否」「答 使用しても差支えない」「接待係員の健康診断につい て」「答 両陛下に接待せぬ場合は必要ない」等。

9月15日、宮内庁の下検分が実施され次のような指示も出されている。「各所の補修に ついて 特に行幸啓のために補修はせずありのままの姿を御覧に入れて頂きたい、全般的 に清掃して頂ければ結構です」「便所について 特に改修等せず、清麗に清掃すればよい」

「時間厳守について 計画された時間を厳守されたい」といった具合である。

「金沢大学医学部 顕微鏡もおのぞきに」。写真とともに、新聞は昭和天皇の金沢大学訪 問を大きく報道した。24日朝、宿泊先の和倉温泉加賀屋を出発、七尾農業高校を視察し列 車で金沢へ、県庁・倉庫精練西金沢工場・兼六園などを経て医学部への実際の到着時間は 16時5分、予定より20分延着であった。おそらく、こうした遅延の事態は戦前ではあり えなかったであろう。

前掲の『行幸啓記録』には24日当日の「行幸啓記録」メモが綴られているが、それによ って再現すると、

16時5分 金沢大学医学部到着。戸田学長先導し、奏上室へ。

7分 戸田学長、金沢大学概況を奏上。

10分 戸田学長先導し、大講堂へ。研究・標本説明。

(1)梅毒巣スピロヘータ凝集反応 金沢大学医学部教授谷友次

(2)泉 熱 金沢大学名誉教授泉仙助

(3)神経系の構造と動き 金沢大学医学部教授石川太刀雄丸、卜部 美代志、本陣良平、高瀬武平、川村太郎。

42分 医学部出発

奉送迎 医学部附属病院正門より医学部玄関まで道路両側に教職員682名・学 生865名・生徒児童710名・外郭団体職員71名、計2,328名。

さらに「御進講次第書」も付録されていて、それは翌25日湯涌白雲楼における進講概要が 書き込まれている。それも再現すると、

11時50分 金沢大学理学部教授熊野正雄

A 特別天然記念物「トキ」の標本示説並びに研究状況について B 河北潟地区の特殊動物、八田ミミズ・サクラゴカイ・イカリモン

ハンミョウ・マシコヒドラ・ヤエノユキツバキの各標本示説と研究 状況について

金沢大学理学部教授市川渡

七尾市和倉産珪藻土の標本示説と研究状況について 12時48分 進講を終了

ドキュメント内 新制金沢大学の発足新制金沢大学の発足 (ページ 83-88)

関連したドキュメント