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高等学校における<語り>に着目した授業のあり方

第 2 章 <語り>に着目した文学の授業

第 3 節 高等学校における<語り>に着目した授業のあり方

前節までは「羅生門」と「舞姫」というこつの具体的な教材について論じることを通し て、く語り>に着目して読むということの内実を明らかにしてきた。そして、それぞれの 先行授業実践の分析を通して改めて「羅生内」と「舞姫」の教材価値を明らかにし、学習 者をく語り>に着目させるような手立てを提案してきた日本節では、これらのことを踏ま

えて、高等学校におけるく語り〉に着目した授業のあり方について論じることとするD

第1項 「これしかなしリ<読み>を促す授業

第1章において特に述べてきたように、学習者のく読み>を相対化し、「<読み>の豊 かさ」を育むためには、まず、学習者が「これしかない」く読み>を生成する必要があ る。そして、そのためには、学習者のストーリーの段階のく読み>を揺さぶり、プロット の段階までく読み>を深めさせる必要がある。しかし、第2章の質問紙調査の結果から、

学習者の実態左して、語られている物語内容に注目し、その先を読むという発想自体がな いということが考えられる。そのため、授業者はストーリーの段階で読もうとする学習者 に対して、プロットの段階で読むことを促さなければならない。その具体的な手立てとし て、<語り>に着目した授業者の働きかけが考えられる。これまでも述べてきたように、

プロットの段階で読むときにはストーリー上の出来事をつなぐ因果関係を読むことに重点 が置かれる口そして、読者がそのような因果関係を結ぶことができるのは、く語り手>が そのように語っているからである。つまり、学習者がプロットの段階で読むためには、少 なくともく語り手>やく語り〉の仕組みに気づく必要があるということである。もちろ ん、ストーリーからどのようなプロットを見出すかということについては様々な方法があ るD しかし、教室という場において学習者自らにプロットの段階で読むことを促そうとす る際には、特別な知識を必要としないく語り>に着目したく読み>の方法が望ましいと考 えられる。これまでも述べてきたように、学習者の主体的で多様なく読み>を促し、学習 者の読む力を育むためには、学習者に「知識がないと読めなしリと思わせることは避ける べきだからである。教師が一方向的に自らのく読み〉を教授するような典型的な授業で は、学習者の読む力を育むことは難しい。文学の授業において、授業者がどのようなく読 み>を基に授業を行ったかということよりも、学習者自身がどのように読んだのかという

ことの方を重視すべきである。つまり、学習者がどのようにプロットを見出し、「これし かない」く読み>を生成したのかということが重要なのである。

そこで、く語り>に着目させる手立てとして、く語り手>やく語り>の仕組みに学習者 が気づくことができるような働きかけが必要となってくる。先述したように、学習者のほ とんどはストーリーの段階で読む傾向にあり、またこれも第2章の質問紙調査によって明

らかとなったように、学習者にはく語り>を読むという発想もない。そのような学習者を 想定するならば、<語り>に着目して読むとはどういうことなのかということを一方的に 教えていくよりも、く語り手>の存在自体やく語り>の仕組みに学習者が気づくことが重 要であると考えられる。また、く読み>の方法を与えることを優先させてしまうと、その 方法によってもたらされた教師のく読み>を押し付けることになってしまう危険性もあ

る。

第2項 く読み>の方法を先行させない授業

高等学校におけるく語り>に着目した授業のあり方として、前項で述べたような、く語 り手>の存在やく語り>の仕組みに学習者が自然と気づくことができるような授業者の働 きかけが考えられる。このような働きかけによって、学習者のストーリーの段階のく読み

>を揺さぶり、プロットの段階で読むことを促す。これに加えて、後からく読み>の方法 を位置づけていくような教員の働きかけが挙げられるだろう。前項でも述べたように、く 読み>の方法を与えることを優先させてしまうと、く語り>に着目したもので、あってもそ の方法によってもたらされた教師のく読み>の押し付けになってしまう。特に前節の「舞 姫jの先行授業実践の分析からは、授業でく語り>を扱おうとしながらも、教師の持つく 読み>の内容と方法が学習者に与えられていくとしづ授業のモデルからの脱却が図られて いないという現状を見出すことができる。このような場合において、教師の教材研究がそ のまま授業の内容となっており、教師が教えたいことを学習者に伝えようとしているとい う点で、従来の主題探求型(教師が見出した主題を教える授業)の授業とほとんど変わら ないと言えるだろう。もちろん、く読み>の方法を学習者に与えていくことは重要である が、方法をく読み〉に当てはめさせるような授業では、学習者の主体的で多様なく読み>

が保障されているとは言い難い。ここでの学習者の主体的なく読み〉とは、単なる授業の 問題として、学習者の意欲や関心を引き出すということではなく、く読み>の問題とし て、テクストからどのような関係を見出すかということが学習者に委ねられているという ことである。「読むこと」の授業において、そのように読むことの必然性を学習者が見出 せるかということはきわめて重要である。そして、そのような関係を見出すようなく読み

〉を促す方法としてく語り>に着目することは有効なのである口このことは第1章におけ る橋本の五つの図からも示唆されている。<語り>に着目することで作品を構造的に捉え ることとなり、構造的に捉えるということは、そのような構造を成している要素と要素を 関係付けていくということだからである。そしてこのようなく読み>は、前項で述べたよ うなく語り手>の存在自体やく語り>の仕組みに気づくとしづ段階を踏んでいるからこそ 生じるものである。

第3項 メタ認知能力を重視し、育てる授業

これまで述べてきたように、く語り>に着目して読むことには汎用性がある。く語り>

に着目して読むということは、語る人自体やそれが語られること自体の意味を読む、また は聴くことに繋がり、他者と関わりながら社会で生きていく上で重要な力であると考えら れるからである。そして、このようなく語り>に着目した授業のもう一つの可能d|主とし て、学習者のメタ認知能力を育てる授業のあり方を挙げることができる。メタ認知は岡本 真彦(2001)によると、次のように定義されている。

メタ認知知識とよばれる人の認知活動に関する知識とメタ認知制御と呼ばれる 認知活動を統制する過程というこつの下位過程から成っており、このメタ認知 知識とメタ認知制御が相互に関連しあいながら認知活動を統制する過程である

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認知活動はモニタリングされ、コントロールされる対象であるのに対して、メタ認知は 認知活動をモニタリングし、コントロールする主体で、あると言い表すことができる。メタ 認知自体も認知活動であることに違いはないが、あくまでも相対的な関係として認知過程

をモニタリングし、コントロールする過程をメタ認知と呼ぶということになる。

つまり、メタ認知とは自らの認知特性自体を認知していくような営みであり、このよう な力を育てることはく語り>に着目して文学作品を読む際にも重要であると言えよう。作 品を構造的に捉え、く語り>の効果を考えるということは、それを読んだ「わたし(学習 者自身)」がどのように受け止めたかという認知活動であるからである。<語り>に着目

して読み、く語り手〉と相対する「わたし」を読むということはメタ認知が働いていない とできないということである。このことからも、<語り>に着目した授業のあり方とし て、メタ認知能力を重視し、育てていくような授業のあり方を考えていく必要があると言 えよう。これは逆を言うならば、く語り>に着目して授業を行うことで学習者のメタ認知 を促すことができるということでもある。このような点においても、く語り>に着目して 読むことは教育的意義を持つ。

また、このようなメタ認知は近年教育の分野でも注目されている。例えば、三宮真智子 (2008)は学習研究におけるメタ認知研究の実用的意義について次の三点を挙げている

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①学習法、教授法の改善に向けての指針を提供

85岡本真彦(2001)「メタ認知一思考を制御・修正する心の働き」,森敏昭編/21世紀の認知心理学を創 る会著『認知心理学を語る 3巻おもしろ思考のラボラトリー』,北大路書房,P.144

86三宮真智子(2008)「第1 メタ認知研究の背景と意義」,三宮真智子編『メタ認知 学習力を支え る高次認知機能』,北大路書房,P.13o

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