1.廃娼運動から純潔教育運動への転換
(1)廃娼運動の隆盛
第 3 章で明らかにしたように、1920 年代は社会運動や婦人運動が勃興し、さらに 国際的にも「廃娼主義は強調され、我が廃娼運動史上に最高潮の時代」を迎えた時期 であった。しかし、日本における廃娼運動は、弱者としての女性の立場においてなさ れたものではなく、むしろ女性を弱者の位置に留めさせるものであった。そして社会 構造の変化の中で多様化する「女性性」に対し、「男性性」の優位性を何とかして維持 させようとした、いわば男性のための廃娼運動であったといえる。では、1930年代に 入ると、その内実にはどのような変化が見られたのであろうか。本節ではこの時代に おける廃娼運動を分析し、男性セクシュアリティの新たな動向を描き出す。
1930年代は、廃娼運動の歴史においては、教育運動として「転換」した時期と位置 づけられている。具体的には純潔教育運動への「転換」を意味する。分析対象である 廓清会は、1924年に安部磯雄が廓清会の理事長に就任してからは、さらにその運動は 組織化されたものとなり、大規模化していく。1926年に矯風会との連合組織である廃 娼連盟を結成すると、廃娼が名目的には達成されていた群馬県にならい、地方議会に 公娼制度の廃止を働きかけるための支部設置運動に力を入れた。そして県レベルでの 廃娼を着実に勝ち取っていくという戦略を大々的に展開することになる。一方で、個々 の地方レベルにおいてだけではなく、国家に対しても、公娼制度の完全な撤廃を国策 として選択するよう、議会を通じて働きかけはじめる。1928年2月20日に普通選挙 制の実施によって安部磯雄が社会民衆党(1926年結党)党首の立場として議員に任命 されるやいなや、無産階層を擁護する立場から公娼制度廃止を主張したのである。そ して彼らの廃娼運動は、1930年代に入ると日本国内における経済不安をきっかけに著 しく発展することになる。
1929年 10 月 24 日、ニューヨーク証券取引所で株価が大暴落したことを端緒とし て世界的な規模で各国の経済に波及した世界恐慌が、翌年の 30 年には日本にも波及 した。さらに東北地方では未曽有の大凶作に襲われるという、二重の危機に陥ること になる。こうした影響を真っ先に受けることになるのは、いずれの時代においても貧 しい人々である。931 年 10 月 30 日、『東京朝日新聞』は「生きる悲哀煉獄の山村」
と題して以下のような報告を行い、世間の関心を引いた460。
東北殊に山形県は昔から美しい娼妓を各地に送りだす地方として有名だが全国的
に廃娼運動が高唱され婦女子の向上が叫ばれる近頃特に一、二年間向県下では娼 妓に売られ行く可憐な年頃の娘が急激に増加し、僅に九万四千の人口をもつ同県 最上郡だけで現在二千余人の娼妓を各地に送りだすといふ驚くべき現象を呈して ゐる、ある村の如きはこれがため嫁いり盛りの娘さんが村からその姿を消してゐ るといふ有様で由々しい社会問題として各方面から憂慮されてゐる
廃娼連盟は、松宮一也、橋本成 之の2名を東北の各地域に派遣し て、身売りの実態や原因を調査さ せた。この調査に基づいて両名は、
『農村疲弊と子女売買問題』とい う報告書を出版し、山形県最上郡 西小国村における少女の身売りの 実態を世の中に告発したのである
(表 4-1)461。売りに出された多 くの女性は、公娼である「娼妓」、
そして時には私娼とも同一視され ることもあった「芸妓」、「酌婦」、
飲食店や宿屋の女性、さらにはカ
フェーやバーの「女給」として生計を立てていたのである。男性に何らかのサービス を行う職業婦人(「接客婦」と呼ばれていた)の中には、非合法的に売春を行わされた か、そこまでいかないにしても女性としての「性」を一種の商品として提供する業務 に従事させられた女性が多く含まれていたと見られている。
なかでも西小国村の一角にある野頭地区は、戸数 53 戸でありながら、その当時、
娼妓9名、芸妓 9名、酌婦 8名、合計22 名もの女性を出稼ぎに出していたとされて いる。1935年9月から 10月にかけて野頭地区で開かれた凶作対策協議会で決議され た内容は以下の通りである462。
村当局よりの指示に基き客月中旬及び本月三日の二回に亘り野頭部落村議□□、
区長◇◇等主催の下に部落民一同集合、凶作対策協議会を経済振興委員たる○○
(○○妹△△当二十八年は新潟県新発田町にて娼妓稼中)宅に開催し、別紙申合 事項補充対策を決定申合せを為したるも、尚明年収穫期迄では不足米五十俵あり、
是が補給につき村当局の匡救事業は勿論、各自精一杯の労働に従事し、尚不足を 来す場合は最後に生きる手段として
表 4-1 西小国村出稼職種(1930 年)
(イ)現在他に稼業中の娘達の年期を延長するも止む得ず一名二三十円づゝの 追借金を為すこと
(ロ)最後々には娘を売ること
右二項申合せを為したる事実にして、生きる為には致方なしと敢て反対を唱ふ る者もなかりし状況なり(注:人名は総て伏字にした)
野頭地域では、1930年代初頭の大凶作による緊急時に限らず、習慣的に娘の売春業 者への身売りが行われていたことがうかがえる。それも本人や家族の意思としてでは なく、共同体の総意としてであった。このように、娘の身売りが頻繁に行われていた 貧しい農村においては、女性の性は、男性を中心とした家族の財産、もしくは共同体 の共有財産に属し、男性の自由にされていたのである。
こうした逼迫した農村の状況に対し、1933 年 6 月、廃娼連盟は村上雄策(廓清会 では主事を担当)を米沢市および山形市に派遣して山形県廃娼同盟会の設立運動を起 こし、9 月には山形県東置場郡出身の牧師平伊之助463を理事長として同会を設立した
464。
こうした身売りの実態とそれに対する世論の沸騰を受け、民間団体だけではなく警 察もその対策に乗り出すことになる。具体的には、各地に「身売防止矯正会」を設置 し、社会教育や職業教育によって身売り防止を図ろうとした465。しかも、警察はこの 問題に対し、積極的に廃娼連盟、矯風会、救世軍、そして廓清会などと連携しようと した。そしてついには警察を統括する内務省は国家予算を身売り防止費用に充てるこ とを決定し、1933年11月には内務省警保局長は東北 6県の長官にあてて「婦女身売 防止ニ関スル件」を通牒した466。こうして、公娼制度や貸座敷業者467を管理すなわち 保護し続けてきた警察や内務省が、身売り問題をきっかけに廃娼運動団体と連携し、
私娼はもちろん公娼の過剰な供給を制限することとなった。これは廃娼運動史のなか でもきわめて重要な出来事である。
廓清会の常任理事である伊藤秀吉は、こうした社会や警察・内務省の方針転換に対 し、「世間も新聞も我々が何十年間の叫喚を馬耳東風に聞き流し、政府も議会も日本に は人身売買はないなどと空嘯いて居つた」が、東北大凶作に対する取り組みの結果、
「我々人道主義者純潔運動者にとりては、多年の宿願が始めて問題となり、解決に歩 武を進める事となつたのを、衷心より満足し感謝すべきである」と述べて歓迎する468。 こうして、廓清会は自らの運動の勝利を実感しはじめることになった。
(2)保護の対象から除外される女性
しかし、こうした国家と民間団体の協力体制によって敷かれた身売り防止対策の網 をかいくぐり、大量の女性が都市部に出稼ぎ労働者として流出していく。都市社会で
は「エログロナンセンス」の言葉で象徴的な、男性の性的趣向の多様化、すなわちナ ンセンスな女遊びとエロ・グロに耽溺する享楽生活を好むようになっていた。当時の 女性の中にはカフェーやバーといった新しい性産業に従事したり、玉ノ井などの私娼 街で売春を行う者も少なくなかった。
安部はこうした事実に対し、公娼制から私娼制への過渡期として「評価」をする。
そして、「簡単に云ふと今までの貸座敷がカフェーと云ふものに変つて来るが、カフェ ーの女給は一定の給金で働くやうにする。婦人がお客を接待計りでなく、娼妓の働き をすることになればカフェーの持主と娼妓の行為をするものとの間に契約を結んで、
幾分を持主が取り、幾分を女給が取るやうにしたらよい。これなら前借がないから、
本人がそんな事を止めやうと思へば、何日でも止めることが出切る」と述べ469、「自 由意志」による売春を積極的に許容する。そして、そうした「自発的」な売春こそが
「文明人」に相応しいとして、私娼化の流れは廃娼理論が受け入れられてきた証拠と 見なす。こうした、公娼から私娼への移行は、実際のところ看板の挿げ替えでしかな いが、「今日は貧富の懸隔があるから、売淫行為でもやらなければ、食ひない人がある。
さう云ふ人には売淫制度がなくなると困るであらう」と説明し、当時の社会状況のも とでは黙認した470。彼らの廃娼論の特質は、広く女性の権利擁護というよりむしろ社 会や家庭の秩序維持・回復に重点が置かれていたのであり、売買春そのものを否定す ることは時期尚早として公娼における売春の「強制」性を批判した点にあり、私娼に よる「自由意志」による売春は本人の意思ないし道徳の問題として許容するという戦 略になっていた471。
カフェー等の進出により、公娼制度の没落は目に見えてきた。廃娼運動の圧力に屈 するわけでもなく、「エログロナンセンス」という男性セクシュアリティの多様化によ り、貸座敷業者の中にもカフェーやバーなどへ転業する者が続出する。東京府の州崎 遊廓では、1935年に「貸座敷営業更生研究会」を組織し、「貸座敷を旅館兼娯楽場に 娼妓をそこに雇はれた女中」として転業しようという運動をはじめたところ、300余 りの楼主の中から150名を超える会員を得て、機関紙『警鐘』まで発行することにな った。そして、内務省警保局ならびに警視庁保安部に、①貸座敷を旅館兼娯楽場へと 変えること、②娼妓は女中とすること、③新営業での女中の数および家屋の形には制 限を付さないこと、などといった要望を陳情した472。
こうした貸座敷側の動きに対し、1933 年 3 月から翌年 3 月にかけて廃娼派議員で ある星島二郎や三宅磐、廃娼連盟の松宮一也らと、新吉原、洲崎、新宿、品川、千住 の各遊廓との間で転業に関する協議が継続され、売春業の実態はそのままで外見のみ を旅館などに変更するという内容の同意がなされた473。こうして、廃娼運動は、社会 の動向に柔軟に対応し、遊廓側と妥協することによって、自らの運動を勝利へと導い ていったのである。