1.1920 年代の廃娼運動全盛期における「廓清会」の理念
(1)廓清会の拡大と人道主義の論理構造
近代公娼制度の下、植民地や委任統治領を含め日本各地で繰り返されていた買売春 に対し、日本人男性はどのような眼差しで見ていたのだろうか。本節で明らかにしよ うとする課題はここにある。本節?では、国際連盟が発足するなど、世界的に国際平 和・国際協調の機運が高まり、日本でも人権に対する意識が高まり社会運動が活発化 する 1920 年代に時代を移し、廃娼運動団体「廓清会」の活動とその理念から、買売春 をめぐる男性の視点を考察する。
1921年、婦女売買禁止の国際条約が制定され、それは日本の廃娼運動にきわめて大 きな後ろ盾を与えた。この条約は、21 歳未満の女性を売春に勧誘することを禁止し、
21歳以上の女性に対しては本人の意思に反し、詐欺、暴行、脅迫など強制的な手段を 用いて売春を強要することを禁じるものであった。すなわち、娼妓取締規則(1900 年)で 18 歳以上の女性が娼妓になることを公認している日本の公娼制度は、国際条 約に明らかに違反していることになったのである。
こうした国際社会の動向は、日本国内にも強い衝撃を与えた。とくに一等国として の対外的面子を何よりも重んじる外務省に対して、日本の公娼制度を廃止するか、娼 妓になることを許可する年齢を、条約の基準である 21 歳まで引き上げるべきだとい う判断を迫ることになった。しかし、国内事情に鑑みて公娼制度を廃止することは時 機尚早だとする内務省の強い意向により、1925年における条約の批准にあたって、日 本は条約の年齢規定を保留し、さらに植民地である朝鮮、台湾、関東租借地、樺太、
南洋の委任統治領を条約の対象地域から省かざるをえなかった。これに対し廓清会や 婦人矯風会は、政府の決定に対する反対運動を繰り広げることになる314。
こうした状況下、1924 年 7 月、初代廓清会会長・島田三郎の逝去を受けて安部磯 雄が廓清会の理事長に就任すると、組織の大幅な改革が断行された。専門部局として、
編集部、調査部、宣伝部、庶務部、社会部、さらに教育部が設置され、より多様で効 果的な廃娼運動を展開する強力な組織体となったのである。とりわけ、教育部の設置 により、廓清会の活動理念に基づく「知識思想ノ開拓、演説、公演」といった活動が 重視された315。また、1926 年に日本キリスト教婦人矯風会(以後、矯風会)との連合 組織である廓清会婦人矯風会廃娼連盟(以後、廃娼連盟)が結成されると、廃娼が唯 一成功していた群馬県にならい、地方議会に公娼制度の廃止を働きかけるための支部 設置運動を活発化させた。その結果、1930 年には埼玉県が廃娼に成功し、1931 年まで
には秋田、福島、福井、新潟、長野、神奈川、沖縄の7県が廃娼決議を宣言するに至 る。さらには、国家に対しても、公娼制度の完全な撤廃を働きかけはじめる。安部は 1926 年 12 月に社会民衆党を結成し、代議士として無産階層の立場から公娼制度の廃 止を主張したのである。1929 年 3 月 19 日には、安部に加え、星島二郎、三宅磐の 3 名により「公娼制度廃止ニ関スル法律案」が第 56 回帝国議会衆議院に提出された316。 1900 年に公布された内務省令「娼妓取締規則」の廃止を求めたのである。さらに、1931 年の第 59 帝国議会にも再び「公娼制度廃止ニ関スル法律案」が提出され、再び廃案と なったものの、浜口内閣をして公娼制度を一種の奴隷制度と認識させるまでに至って いる317。このように、まさに 1920 年代は廃娼運動がこれまでになく効果をあげた時期 であるといえよう。
なお、第 56 帝国議会における公娼廃止法案をめぐり交わされた議論は、当時の日 本国内における廃娼派と存娼派との間の論争の縮図であったと考えられる。安部らは そこで、人道、風紀、衛生の 3 方面から廃娼の正当性を訴えたが、それは廓清会の廃 娼理論とまったく同じ内容であったといってよい。人道の面から見れば、公娼は前借 金と抱主制度によって自由を奪われていることが問題となる。次に、風紀の面から見 れば、性の売買という不道徳行為が公認されていること、そして遊廓や売春婦が町の 一角に見えるままに存在していることは、国民の道徳性に悪影響を与えるということ が問題となる。そして、衛生の面から見れば、梅毒検査の内容はあまりにも大雑把で あり、性病蔓延の防波堤としては十分に機能しないことが問題となる。
ただし、これらを主張する前提として、議会において多数を占める存娼派を説得す るため、彼らは存娼論の最大の根拠ともいえる点を強く意識した姿勢を打ち出してい る。すなわち、当法案はあくまでも公娼制度の廃止を目的としているものであり、私 娼までも完全に排除しようとするものではないことを強調したのである。男性の性欲 をコントロールすることは完全には不可能であるという「性欲自然主義」認識に支え られていた存娼派の論理を受け入れた上で、制度的欠陥という方向から廃娼を訴えか ける戦術を採用した。しかしそれでもなお、「最モ性ノ欲求ノ旺盛ナル者、殊ニ労働者 階級ニ対シテ之ヲ合法的ニ、経済的ニ、簡単ニ調節スベキモノハ公娼制度ノ外ナイト 信ズル」318という意見や、男性の性欲を適切に調整し、日本固有の家族制度を維持す ることに貢献してきた公娼制度を廃止するには、よほどの理由が必要となるという反 対意見が出ている。結局当法案は廃案となったことからもわかるように、こうした男 性の性欲に関する特有の認識が廃娼の大きな障壁になっていたのである。
存娼論が根強く支持されていた当時の日本において、廓清会は先の 3 つの論拠の中 でもとくに人道主義を筆頭に掲げ、人々の同情心に訴える廃娼論を展開していく。で は、彼らが繰り返し取り上げて糾弾する公娼制度の反人道的な側面とはどのようなも のであったのか。たとえば、安部磯雄は 1930 年 2 月の『廓清』誌上で、「抱主から見
ると娼妓は前金を払つて買入れた商品にすぎない」という「人身売買」による娼妓の 商品化に起因する娼妓「虐待」の典型例を 4 点紹介する。第 1 は、貸座敷業者や仲介 業者が、娼妓の前借金や稼ぎの大部分を搾取してしまうという例である。第 2 は、梅 毒などの病気に罹ったとしても、入院や休業をすることが許されないという例である。
第 3 は、売春の結果妊娠したとしても、養育費をすべて娼妓自身が負担しなくてはな らないという例である。第 4 は、十分な食べ物を与えられないまま営業を強要される という例である319。
娼妓が自らの判断で売春業を止める、いわゆる「自由廃業」の権利は、1900 年の「娼 妓取締規則」により認められていた。しかし、「警察の手心で自由廃業を取扱ふことと なり、廃業を願ふ娼妓がある時には、楼主を呼び出して『示談』させ、或はその親を 呼び出して之と『協議』させ、警察官又之に、所謂『説諭』を加へて廃業の意志を翻 へさしめ、之を遊廓に送り戻す」ようなことが頻繁に生じていた320。実際は娼妓が自 分の意志で売春から足を洗うことはかなりの困難を伴うものであったのである。こう した事実からも、安部は公娼制度を「奴隷制度」と性格づけ321、同様の事例をたびた び『廓清』で取り上げ、公娼制度とともに、それを擁護する反人道的な存在として警 察を激しく批判することになる。
このように、廓清会は「人身売買」ないし「奴隷制度」を公娼制度における反人道 の最たるものとして位置づけ、その当時の娼妓たちが置かれていた境遇の過酷さを明 らかにすることで、廃娼運動の正当性を訴えたのである。安部自身もまた、廓清会の 廃娼運動は「梅毒とか性欲の問題でなく、奴隷解放運動である」と表明している322。 ただし、この「奴隷」とは男性からの性的暴力に苦しむ女性を総て含んだものではな かった。彼らは人道に反する公娼は廃止しなくてはならないと激しく主張する一方で、
前借金や抱主から解放され、自由意志により売春行為をしているように見える私娼は 人道問題から除外する。「公娼は人道問題である。これに反して私娼は道徳問題」と区 別するのである。彼らの人道問題とは、公娼制度における“抱主―娼妓”という雇用 関係の不平等であり、男性による女性の性的搾取そのものではない。したがって、雇 用関係が改善されれば、ある程度は公娼制度の継続にも反対はしないという論理が展 開される。すなわち、安部は「醜業を営むのは苦痛であるが、それは始めに承知して 居るのであるから、せめて食物その他の取扱が女中位」であり、「貸座敷があゝした堂々 たる建物でなく、普通の店のやうな建物で、そして本人も楼主も相当の利益を得ると 云ふのならば」目を瞑るというのである323。このように、廓清会の人道主義は、買売 春それ自体が孕む反人権的側面にまでは踏み込めなかった。これは女性に対する人権 思想に希薄であった時代的な制約を一部に受けたものであったと見ることができよう。