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順治時代のモンゴルの法と裁判

ドキュメント内 清代初期のモンゴル法とその適用 (ページ 34-53)

1節 先行研究と問題の所在

順治年代のモンゴル法について従来の研究では、主に『清実録』を利用して、順治8(1651) 年に官位の世襲に関する法規を制定したこと、順治9(1652)年に婚姻に関する法規を制定 したこと、順治15(1658)年にいわゆる「理藩院大辟条例」1を制定したこと、そして清朝 の官纂史料である各「会典」に順治年代の法規が多数含まれていることが紹介されている2。 また、第1章で紹介したように、順治14(1657)年当時の現行法とも考えられる崇徳8年 に制定された『蒙古律書』に修正を行ったことも紹介されている。順治年代のモンゴル法 の内容は太宗年代よりさらに整っていると見て間違いない。一方「会典」と言っても、現 在知られている清朝が編纂した最初の「会典」は『康煕会典』であり、山根(1993)によ れば、この会典の原稿が皇帝に上奏されたのは康煕 29 年であり、刊行されたのは康煕 34 年か康煕 35 年であったらしい。そのため、『康煕会典』に含まれる順治年代の規定がいか なる形で存在していたのかは不明であり、さらにいかに適用されていたのかも不明のまま である。そのため本章においては、2003 年に出版された『清内秘书院蒙古文档案汇编』お よび2010年3月に出版された『清朝前期理藩院満蒙文題本』に含まれた裁判事例を参考に 順治年代のモンゴル法とその適用の実態をまとめる。

2節 文書史料に見られる順治年代のモンゴル法

2.1. 『清内秘书院蒙古文档案汇编』に見られる順治年代のモンゴル法

順治14(1657)年に清朝が崇徳 8年に制定したモンゴル法典を修正して、再発行したこ とはすでに述べた通りである。実はこれとは別にいくつかの法律をモンゴルに公布してい たことも『清内秘书院蒙古文档案汇编』に記されている。まず、順治4年10月20日(1647.11.16) を日付とする文書には以下のように記されている。

モンゴル語テキスト

DegedU jarliG. ~adaGadu MongGol-un vang-ud, noyad tayiji-nar-tur bicig baGulGaba. edUge sonosbasu, qulaGai asuru oladaji genem. qosiGun-u ejen, meyiren-U janggin, jalan-u janggin, sumun-u janggin, arban ger-tUr kUrtele bUgUde ejen bui. ta bUgUde Ober-Un Ober-Un tus tus-taGan kinaju jakirabasu, qulaGai yakin oladaqu. ijaGur qulaGai selegUn boluGsan caG-tur, olan amitan-i

1 その内容は、乾隆朝『清実録』順治15916日(庚戌)(1658.10.12)の条に「平人與外藩蒙古王、

貝勒福金通奸,福金處斬,奸夫淩遲處死,其兄弟處絞。凡發外藩蒙古貝子等塚者、截殺來降人衆爲首者、

劫奪死罪人犯爲首者、公行搶奪人財物者、與逃人通謀給馬遣行者、挾仇行害燒死人畜者、臨陣敗走者、故 殺人者,以上八項死罪犯人,俱處斬。夫私殺其妻者、盜人口及駝馬牛羊者、誤傷人命、擇本旗人令其發誓,

如不發誓,應坐故殺償命者。此三項死罪犯人,俱處絞。又鬥毆傷重,五十日内死者,行毆之人處絞。議上,

得旨,著永著爲例」と記されている。

2 島田(1982, pp. 124-126)、赵1989, p.149)、刘1993, pp. 4-5)、乌力吉陶格套(2007, p. 23)、杨2010, p.

41)を参照。

29

OrOsiyejU olan qulaGaicid-aca nigen-i inU alaju, nigen kUmUn Gurban Uy-e qulaGai kibesU alan bUlUge. edUge olan kUmUn qulaGai kibesU qoyar-i inu songGoju alaqu, GaGcaGar qulaGai kibesU saGar Ugei alaqu bui.3

和訳

外藩モンゴルの王ら、ノヤン、タイジらに命令書を下した。現在聞くところによれば、

盗人が増えたようだ。固山額真、梅倫章京、扎蘭章京、佐領、十戸まで責任者がいるだろ う。汝らが各々の受け持った所を厳しく取り調べるなら、窃盗はなぜ増えるのか。以前の 窃盗事件が少なかった時期に、衆生に恩恵を与えるがゆえに、共犯の場合は、そのうち一 人を死刑にし、一人が 3 回にわたって窃盗を行った場合は、そのものを処刑していた。今 後は、共犯の場合は、そのうちの 2 人を選んで処刑する。一人で窃盗を行った場合は、直 ちに処刑する。

これは窃盗罪に関する法律で、窃盗罪の処罰は、共犯と単独犯により異なっており、順 治4 年以前は、共犯罪の場合は、犯人のうちの一人を処刑していた。しかし、順治 4年か ら 2 人を選んで処刑することに変更した。しかし、共犯罪において、首犯と従犯の区別が 言及されていない。他方、単独犯の場合は、順治4 年以前は、窃盗を行った回数が 3回に なると処刑されていたが、順治 4 年以降では、窃盗を行った回数が考慮されなくなり、一 人で窃盗を行った場合は直ちに処刑するように決められた。窃盗の多発は法規変更の理由 として説明されている。一方、順治 4 年以前の決まりが集成法に定められていた内容かど うかは不明である。『康煕会典』「賊盗」には、順治年代の窃盗に関する規定は存在せず、「国 初定」の規定には「ラグダ、馬、牛、羊といったいわゆる4種家畜を一人で盗んだ場合は、

主人と奴隷を区別せず処刑する。2人が盗んだら、一人を斬首する。3人が盗んだら、その うちの 2人を斬首する。大勢の人が共謀して盗んだら、そのうちの首犯なる 2 人を斬首す る。従犯を鞭で100回打って、家畜3罰9頭にする」と定められている。もし、この「国 初定」の規定が確かに順治年代以前に制定された内容なら、順治 4 年までの間に少なくと も一度は変更されたと判断される。そして順治 4 年の変更は、まったく新しく導入された 規定ではなく、順治年代以前の法規に立ち戻ったことになる。この禁令を順治 5 年に遊牧 チャハル八旗、スルグチン4(SUrUg-Ud-cin)に公布した5。また、順治9年、12年15年、17 年に実施された会盟で「命令書」(ciGulGan-du baGulGaGsan jarliG-un bicig)でも多数の法律を 公布した。会盟に公布した命令書については第2部で詳細に検討する。

一方、第1章で紹介したように、順治14年に清朝は崇徳8年に制定した『蒙古律書』の 一部内容を改定した。改提案を提出したのは理藩院であり、改定の過程において、ほかの 部が参加したかどうかは当史料には記述がなく、改定後の新法典を内閣が作成し、理藩院 に交付したことが記されている。法改定において、理藩院が中心的な役割を果たしていた ことが分かる。繰り返しになるが改定後の新しい規定は以下のようである。

3 「モンゴル語内秘書院檔」第2巻、p. 361

4 スルグチン(SUrUg-Ud-cin)漢語で「養息牧場」といい、清朝皇室および八旗の祭事などに利用する牛、

羊を有能なモンゴル人を選んで管理させ、一社会的な組織を形成していた。その詳細については关(2008)

を参照せよ。

5 「モンゴル語内秘書院檔」第3巻、pp. 8-9

30 モンゴル語テキスト

aliba kUmUn kUmUn kiged dOrben qosiGu mal-i nigen kUmUn qulaGai kibesU alaqu.

和訳

誰であれ1人で、人をかどわかしたり、4種の家畜を盗んだりしたら、死刑にする。

この規定において、4種の家畜を盗んだ場合は、処刑すると定められているが、処刑の種 類は書かれてない。しかし、康煕6年に編纂された『蒙古律書』第80条では以下のように 定められている。

『蒙古律書』第80条のモンゴル語テキスト

aliba kUmUn, kUmUn kiged. dOrben qusiGu mal-i nigen kUmUn qulGabasu kObcidejU alamU, qoyar kUmUn bolbasu. nigen-i-inU kObcideju alamu, Gurban kUmUn bolbasu qoyar-i-inu kObcidejU alamu, olan kUmUn bUlUglejU qulGabasu qoyar kUmUn-i songGoju kObcidejU alaGad, basa kedUn kUmUn bolbasu jaGuGad tasiGur janciju GurbaGad yisUn boda abumu, ene jerge-yin qulaGaicid-i-inu ejen boGol-i UlU ilGamu.

和訳

誰であれ1人で、人をかどわかしたり、4種の家畜を盗んだりしたら、絞殺に処す。2人 なら、その内の1人を絞殺に処す。3人ならその内の2人を絞殺に処す。何人かが共謀して 窃盗を行ったら、2人を選んで絞殺に処す。また残りの犯人は何人であれ、罰100鞭、家畜 3罰9頭に処す。このような窃盗者に対して、主人と奴隷を区別しない。

この規定の下線部分は順治14年の新しい規定とほぼ一致しているが、処刑のみであった のが絞殺に変更されている。周知のように、伝統モンゴル法やアイシン国年代に制定され たモンゴル法において、処刑の種類は書かれてない。絞殺、斬首、凌遅と言った中国伝統 法における処刑方法は清朝によってモンゴル地域に導入された。しかし、これらの処刑方 法が正確にいつモンゴルに導入されたのかは不明のままに残されている。『康煕会典』「賊 盗」の「国初定」の規定には、『蒙古律書』の規定とまったく同様の規定がある。それは以 下の通りである。

漢語テキスト

凡駝馬牛羊一人盜者,不分主仆絞。二人盜,斬一人。三人盜,斬二人。衆人夥盜者,為 首二人斬,余俱為從,鞭一百,罰三九。家奴偷盜,鞭一百,追取所有。無可追者,于其主 名下加倍追取。籍沒為首人妻子家産牲畜,並為從人所罰牲畜,俱給失主。

和訳

だれであれ1人で、4種の家畜を盗んだら、主人と奴隷を区別せず絞殺に処す。2人なら、

その内の1人を絞殺に処す。3人ならその内の2人を絞殺に処す。何人かが共謀して窃盗を 行ったら、2人を選んで絞殺に処す。また残りの者を従犯とし、罰100鞭、家畜3罰9頭に する。奴隷が窃盗を行ったら、罰鞭 100 回に処し、所有物を没収する。所有物がなかった

31

場合は、主人から 2 倍の賠償を徴す。首犯の妻子や財産を没収する。並びに従犯から徴し た家畜を被害者に給す。

少し表現が異なるが、この規定の下線部分は『蒙古律書』80 条の規定とまったく同様の 趣旨からなる規定である。「国初定」と表記していることから、太宗年代の規定だと判断さ れうる。しかし、上記モンゴル語で書かれた史料から太宗年代にこのような規定が存在し なかったことは明らかであり、4種家畜を盗んだ窃盗罪の処刑である絞殺が順治 14年以降 に導入されたことは明らかであるため、康煕 20~30 年代に編纂された『康煕会典』を利用 して「蒙古例」の制定された時期を確認するのでは不十分であり、さらに「国初定」の規 定をもって太宗年代のモンゴル法をまとめることはできない。

一方、順治12年に牛1頭や馬1頭を盗んだ犯人が、死刑を免れるため理藩院に自首した 2つの事例6が「理藩院題本」に収録されており、順治14年以前に馬や牛を一人で盗んだ場 合は死刑であったことがわかる。従って、順治14年に『蒙古律書』に編入された「4種家 畜を一人で盗んだら、死刑にする」という規定は、順治14年に制定した規定ではなく、そ れ以前に制定していた規定を集成法に編入しただけである。

2.2.「理藩院題本」に見られる順治年代のモンゴル法

2010 年に出版された『清朝前期理藩院満蒙文題本』には、訴訟事件に関する内容が多く 含まれており、一種の裁判文書集でもある。すでに述べたようにこの資料集について池尻

(2010)による詳細な説明があり、「理藩院題本」の書式は概ね以下の8つの部分からなる と指摘されている。

① 批紅「gisurehe songkoi oso」(議したとおりになせ)「inu(是)」などの文言

② 理藩院の印影

③ 印影の上に「wesimburengge(上奏すること)」という文言

④ 筆頭上奏者名と上奏目的

⑤ 具体的な内容

⑥ 「erei jalin gingguleme wesimbuhe. Hese be baimbi」(このため謹み奏した。旨を請う)

「amban meni cisui gamara ba waka ofi wesimbuhe. hese be baimbi(臣たる我らが勝手に 処理することは非であるので奏した。旨を請う)」などの文言

⑦ 日付、その上に印影

⑧ 上奏者が多数の場合は名前を列記

「理藩院題本」は上記の 8 つの部分から構成されており、その内容は、政治、外交、宗 教など多岐にわたっており、訴訟事件を記録した「題本」の④と⑤の部分は、さらに、訴 訟概略、理藩院の尋問、理藩院の判決案と言った3 つの内容から構成され、かつこの 3 つ の部分にはかなり確定された用語が使用されている。それを具体的に述べると以下になる。

(1)訴訟概略とは、原告人の訴えた内容が短く書かれたものであり、原告人の出身や訴

6 順治1210月に発生したジャロードの牛窃盗事件(「理藩院題本」第1巻、pp. 128-129.)、ジャライ ドの馬窃盗事件(「理藩院題本」第1巻、pp. 136-137.)を参照。

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