―バーリン旗の事例を手がかりに― 第1節 先行研究と問題の所在
第 1 章でのべたように、現在までの清朝モンゴル法に関する研究においては、清朝の制 定した法規あるいは旗レベルで作成された裁判文書への分析が中心に行われ、法規の意味 解釈とそれの実効性、法と実際の社会状況との関係、裁判の実態などが検討されてきてい る1。しかし、成立・拡大の過程にあった太宗、順治時代のモンゴル法についての研究は史 料の不足や閲覧情況が困難であるなどの理由によりかなり遅れている。従って、この時代 において、いかなる法規があり、いかに適用されていたかという根本的な問題さえ十分に 解明されてない。
そこで、本章では、主に順治時代のバーリン旗に発生し、当旗のザサグであったマンジ ュシリにかかわった「バーランの奴隷返還要求事件」や「エセン・ソムのアルバ過徴収事 件」を記録した史料を利用して、成立・拡大の過程における清代のモンゴル法の在り方、
法規の適用、裁判の流れなどを分析する。
この2つの事例に関する文書はいずれも2010年に出版された『清朝前期理藩院満蒙文題 本』に収録されており、事例1は、順治10年7月25日に上奏された題本に書かれた「バ ーランの奴隷返還要求事件」2で、事例2は、順治10年7月25日に上奏された題本に書か れた「エセン・ソムの反アルバ過徴収事件」3である。清代初期において、清朝が直接事件 に関係する王族に対する態度を分析するため、第1節では、2つの事件の被告であるマンジ ュシリ・ベイセを紹介する。第2 節、第 3 節で各事例を具体的に取り上げて分析し、当時 の事件捜査方法、裁判の流れ、事件に適用された法規などを明らかにし、最後に清代初期 のモンゴル法の在り方、その適用をまとめる。
第2節 バーリン旗初代ザサグ・マンジュシリ
2.1. マンジュシリとその人物
バーリンは元々ダヤン・ハーンの第5子Alcu bolodの子孫が支配していた内ハルハ5部の 一つである。当旗は清朝に服従した後、2旗に編成された。マンジュシリが支配したバーリ ン旗は後のジョー・オダ盟のバーリン左翼旗になる。しかし、この時は右翼・左翼と呼ば れていなかった。バーリンの清朝への服従過程、服従後の旗・ソム編成については楠木(2009,
pp. 21-70)、岡(2006, pp. 46-49)の詳細な研究がある。それによれば、マンジュシリを含む
バーリンは「天命11年にマンジュ国側の攻撃を受け、続いてリンダン=ハーンのチャハル
1 清朝モンゴル法の研究については萩原(2006, pp. 39-45)に詳しい。そのほか、李保文(2006)、乌力吉陶 格套(2007)、萩原(2011)、額定其労(2011a, 2011b(1, 2, 3), 2012)などがある。
2「理藩院題本」第1巻、pp. 29-30。
3 前掲、第1巻、pp. 32-34。
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部に襲撃され、敗走し、嫩江流域のホルチン部に身を寄せていた。しかし、ホルチン部の 搾取が厳しいため……属民を率いて天聡2年4月マンジュ国に来帰した」(楠木、2009, p. 45)。
そして、マンジュシリが崇徳元年(1636)にモンゴル貴族の一代表としてホンタイジを清 朝の皇帝として推戴した。この年に清朝によって外藩モンゴルにソム編成が行われた。そ の内訳は、マンジュシリが支配したバーリンは17ソムに編成され、マンジュシリの属民が 15ソム、マンジュシリといとこ関係にあるセレン・エフの属民が2ソムである4。
続いて、崇徳 3 年(1639)に、フフホトを攻撃したとされたハルハのザサグト・ハンと 戦うため、清朝がマンジュシリなどのモンゴル貴族たちを集め、戦いの準備をすることに した。そこで、マンジュシリは乗馬が痩せていたことを理由に自分の軍隊を撤退させるよ うに理藩院の高官に申し入れた。それに対して、理藩院の高官は「汝より遠いところから 来たノン・ホルチンは乗馬が痩せたと言っていないのに汝が急いて帰るのはなぜなのか」
と言い、彼の申し入れを拒否した。それにも関らずマンジュシリは勝手に自分が率いる軍 隊を率いて、集まった場所からバーリンへ撤退した5。この過ちがなぜか崇徳4年(1638) になってようやく審理されることになり、審理に参加したモンゴルの王公や理藩院の大臣 がマンジュシリをザサグから罷免し、属民を剥奪するように協議した。しかし、清朝皇帝 の恩赦によって属民から10戸を取ることにし、別のモンゴル貴族に引き渡した6。
そして、順治 3 年にハルハのダンジン・ラマ属下がバーリンを略奪するという事件が発 生した。この略奪に対して、マンジュシリが自分の軍隊を率いてハルハ軍を国境まで追撃 したが何も取り戻すことが出来ず、そのままバーリンに戻った。だか、国境までしか追撃 しなかったのは不十分だとされ、清朝はマンジュシリのベイセ爵位を剥奪した。しかし、2 年後の順治5年にベイセ爵位を回復し7、康煕11年(1672)に生涯を終えた。
2.2.マンジュシリに対するザサグおよびベイセ任命
清朝のザサグ旗が成立した時期について研究者の間で意見が分かれており、达力扎布
(2003a, pp. 260-272)は崇徳元年をザサグ旗が成立した時期として捉えている。それに対し
て、岡(2006, pp. 31-32)は『王公表伝』の中のザサグ任命の記録をまとめ、『王公表伝』
中のザサグ任命の時期はかなり異なっていると指摘し、さらに『旧満州檔』『満文老檔』
『太宗実録』にはザサグ任命に関する記載が一切ないと指摘した。
一方、楠木(2009, pp. 47-48)は『旧満州檔』『満文老檔』の「マンジュシリの旗は880 家、17ニルである」(楠木(2009, p. 47)との記載を用いて『王公表伝』の順治5年(1648) にマンジュシリがザサグに任命されたとの記載が不正確と指摘した。しかし、マンジュシ リがいつザサグに任命されたかについては明言していない。一方、爵位任命に関しては『王 公表伝』の順治 5 年にマンジュシリが固山貝子を授けられたとの記載を参考に「ホルチン
4 崇徳元年のこのようなソム編成について岡(2007, p. 60)は「崇徳元年にニル編成は、ノヤン達の属下 を50戸ずつニルに編成したもので、王族分枝集団の構成に新たな編成を加えたものであるが、その編成方 法は、原則として分枝集団ごとに行われており、分枝集団自体を破壊するものではなかった」とソム編成 の性質を指摘している。
5 『十七世紀蒙古文文书档案』、p. 252。
6 しかし、「王公表伝」28巻BaGarin ayimaG-un Sastir-un quriyangGuiには、今回のマンジュシリに対するザ サグ罷免についてまったく言及されていない。
7 「蒙古堂檔」第2巻、pp. 400-401。
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部8に比べるとかなり遅れるのであるが、爵位が与えられ、外藩の王公に列せられている」
と述べ、マンジュシリは順治5年に初めて爵位を授けられたと考えた。
本章においては、モンゴル語で書かれたいくつの史料を用いてマンジュシリのザサグに 任命された時期と爵位が冊封された時期を明らかにしたい。まず、『十七世紀蒙古文文书 档案』第2部・第15番文書(崇徳4年8月20日)には、崇徳3年のマンジュシリが出兵 から勝手に自分の軍隊を撤退させた件に関して、理藩院の役人が外藩モンゴルの王公と協 議して以下のように罰することにした内容が書かれている。
モンゴル語テキスト
ded tUsimel Šereng, Niqan, GadaGadu MongGol-un olan vang-ud, noyad bUgUdeger sigUjU ulus-aca GarGaju jasaG-i inu bayilGaqu gejU torGaGsan.9
和訳
参政のSereng, Niqan、外藩モンゴルの王ら、ノヤンらの全員が審理し、(マンジュシリを)
属民から離脱させ、ザサグを罷免すると協議した。
この史料から崇徳 4 年にマンジュシリはすでにザサグであったことが証明され、『王公 表伝』の順治 5 年の記事はマンジュシリがザサグに任命された年代をあらわす内容ではな いことがわかる。次に、「モンゴル語内秘書院檔」の順治5年3月5日の条に、マンジュ シリに与えた冊文10に次のように書かれている。
モンゴル語テキスト
baGarin-i Manjusiri ci caqar-un qaGan-aca dutaGaju, qorcin-dur ecigsen bile. Qorcin-aca Ober-Un qariy-a-tu aqa degU ba, ulus-iyan abun, oroju iregsen-U qoyin-a, qosiGun-u tayiji11 bolGaGsan bUlUge. qalq-a-yin qoyar cUkUr-Un cerig, tan-u qoyar baGarin-i dobtolju, kUmUn mal abcu odoGsan dur nekejU odoGad dayisun-u qaraGul-i Ujeged, qariju iregsen-dUr qosiGun-u tayiji cola-yi baGuraGuluGsan bUlUge. qayiralaju mOn qosiGun-u tayiji bolGaba12.
和訳
バーリンのマンジュシリ汝はチャハルのハーンから逃げて、ホルチンのところに身を寄
8 ホルチンの王族は崇徳元年に爵位を授けられた。
9『十七世紀蒙古文文书档案』、p. 252。なお、この記載は康煕朝『清実録』崇徳4年8月乙巳(20)条に
「議奪所屬人員革札薩克銜」と書かれている。島田(1992, p. 211)によれば、順治初纂本太宗実録巻三一・
8月20条に「應撥出人丁革札撒滾之名」と書かれている。やはり、マンジュシリが崇徳4年にすでにザサ グであったことが確定できる。
10 冊文,モンゴル語でse bicigという。また、漢語で誥命、マンジュ語でejeheb bitheあるいはg΄aoming、モ ンゴル語でjiGuqu bicigともいう。官吏の任命や封爵の冊封に関する内容が書かれた皇帝の命令である。実 際に作成されたものは冊文とされ、冊封された人物に与えられる。冊封された人物の死亡(犯罪や高齢化 によって子孫に爵位を継承させる場合がある)などにより子孫が冊文を持参して理藩院に行き、継承の手 続きをする。崇徳元年のモンゴル貴族に対する冊封が有名で楠木(2009, pp. 167-190)による詳細な研究が ある。
11 清朝前期の史料にモンゴル貴族に授けたベイセ(beise)爵位はモンゴル語ではqosiGun-u tayiji漢語では 固山貝子と書かれていた。
12 「モンゴル語内秘書院」第2巻、pp. 400-401。日本語訳は楠木(2009, pp. 167-190)を参照。なお、こ の内容は康煕朝『清実録』順治5年3月庚子条に「複巴林部落貝子滿珠西里爵」とかかれてある。